猫とアユの善意
それから数か月後、外で大根を洗っている祖母の元へ連絡係となったミナがやってきた。
「なんかね。アユがおばあちゃんの郵便局の口座で最後が5のヤツ記帳してって」
「あ? なんだいそれ……」
そこではたと気づいたらしく、祖母は濡れた手もそのままに自室へ駆け込み、箪笥の奥にしまっていた風呂敷を解いて通帳の束を畳にばらまいた。
「ご……。最後が、ご」
それは、ほとんど金の入っていない休眠口座だった。しかし一緒に保管していたはずのカードがない。
「ミナ、ついてきな!」
ミナを軽トラの助手席に押し込んで町まで飛ばした。そして機械で印字された金額を見た祖母は叫んだ。
「あの、あほんだらが!」
それは十八歳が簡単に稼げる額ではなかった。
祖母はミナに詰め寄った。
「正直にいいな。アユはいま何してる」
いきなり下から顎を掴み強い視線で覗き込むと、相手はひるむことなくされるがままで瞬きを何回かした後へらりと笑った。
「ええと。キャバ嬢って、ばあちゃんわかる?」
一瞬の間をおいて、祖母は深々とため息をついた。
「……そうかい。まあ、それしかないか」
骨と皮ばかりだが頑丈な手がゆっくり離れる。
畳んだ通帳を身体に斜めがけした安物のポシェットの中へ丁寧に仕舞う。
それは昔、敬老の日に子どもたちでおこずかいを出し合って祖母に贈ったもので、渡した時のことを思い出した。
隣町の雑貨屋でさんざん迷って買ったそれはとても丈夫でしっかりしたものに見えたけれど。
今はすっかり形も崩れ、色も変わっている。
ミナは、祖母がずいぶんと小さくなったことに気付いた。
「アユにありがとうって言っといて。有り難く使わせてもらうとも」
「うん。わかったよ、おばあちゃん」
とりあえず郵便局の隣の商店でメロンの形をした小さなアイスを買い、二人はベンチに並んで座ってもくもくと食べた。
それからもちょくちょくその口座にはかなりの金額が入金された。
「無理するなって言っときな」
「わかった」
祖母とミナの間でそんな会話だけがまるで定型文のように続く。
大人たちが気をもみ続けるまま年を越し、武蔵の三歳の誕生日が目前に迫ったある日、さっそうとアユが現れた。
「ねえねえ、この子、虎徹って名前つけようと思うの」
彼女の腕の中では、どう見ても生まれて間もない赤ん坊がぐっすりと眠っていた。
「アユ! お前ときたら!」
日曜の昼下がり。
祖母の落とした雷に、縁側でくつろいでいた猫が驚いてぴょんと飛び上がった。
「畑仕事に向いてそうだなって思ったんだ。ねえ、絶対この子大きくなるよ」
なんと出産して十日も経っていないにもかかわらず母子とも至って健康だった。
「今度は誰だい」
ミナと泰明夫妻まで同席している中、祖母が代表質問する。
「うん、アメフトやってる人?」
「なぜ、そこで疑問形……」
ミナに頼まれて駅まで車を出し、アユ達をここまで運んだ泰明が力なく呟く。
両親が慌ててて押し入れから出してきた赤ん坊用の籠の中に納まった虎徹は、すやすやと眠り続けている。ちなみにこの騒ぎのさなか武蔵も電池切れして別室にてお昼寝中だ。
「結婚は」
「しないよ。別れたし」
「それはなんで」
「武蔵に弟がいたら寂しくないかなって。一緒に野良仕事出来るような子がいたら、楽しいじゃない?」
「ようは、子種だけ欲しかったって事かい」
「うん。若い子、うちには必要じゃん」
全く悪びれることなくこくんと頷いたアユは、リュックの底から紙袋を掴みだすと、どすっと重い音を立てて台の上に置いた。
「はい。もうじかに持ってきた方が簡単だしさ」
「ちょっ……。あんたこれ」
大人たちはひっと息をのんだ。
「犯罪じゃないよ。私って今一番売れ時だからさ。馬鹿みたいにお金が入ってくるの」
「アユ。私らはあんたにこんなこと望んでないんだよ。お前が一番幸せでしたいことを何でもして欲しいのになんで」
「これが、私の幸せ」
うふっと軽く首をかしげてアユは笑う。
「たくさん稼いで、たくさん子供作って、ここに運ぶのがしたいことなの」
「アユ……」
大人たちは、言葉を失った。
これはあれだ。
彼らから少し離れた場所に座り、一部始終を見ていた尚は思う。
今、人間たちの話を聞きながら一心不乱に毛づくろいしているそこのキジ猫と同じだ。
この猫は、頼んでないのにせっせせっせと玄関のたたきに己が夜中に狩ってきた獲物を並べ、ほらこれをお食べと人間に勧める。
母が毎度毎度半泣きで「ミーコ、もういい。もういらない」と説得するが黄緑色の瞳でじっと見返すばかりだ。『養う口はたくさんあるのに何言ってるんだ」と思っているのだろう、まったく聞く耳を持たない。
獲物を並べて見せる時のミーコの顔はいつも得意気で、善行をやり遂げたという充実感に満ちている。
アユもこれからずっと、この家にお金と子供を並べ続ける気だろう。
しかし猫とアユの斜め上なやる気とやや暑苦しい愛情を穏便に辞めさせる手立てを、柚木家の誰も思いつかなかった。