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猫の浄瑠璃、ホットチョコレート



「なあ、ナオ。猫の浄瑠璃って話知ってるか」


 実習の農作業の最中に、突然同級生が隣にしゃがんで声をかけたきた。

 広い畑では教師も生徒も思い思いの場所にいて、どこかのんびりとした午後だ。


「いや、知らないな。漫画か何かか」

「うーん。昔話、かな。むかし図書館でたまたま読んだんだよ。題名もうろ覚えなんだけどさ」


 前に『山椒』を教えてくれたこの井上平太は寮暮らしで実家とは少し離れている。

 時々話すうちに、家族とあまり仲が良くないようだと尚は感じていた。


「家にいたくなくてさ。夏休みの自由研究やっつけてくるって言って一日中いた時にさ。宿題飽きて大人向けの本の所ぶらぶらしていたら見つけたんだよ。猫ばっかり出てくる昔話の…雑誌だったのかな。冊子って言うのかな。なんか大きくて薄かった」


 窓から入る日差しが傾きはじめた夕方の、ひとけのないその書棚で、誰かがきちんと戻さなかったのだろうか。

 ちょっと飛び出ていた本を引っ張り出すと目つきの鋭い黄色の猫の顔が大きく描かれていて、妙に赤い口元とともに、少し気味悪く感じた。

 しかし猫が好きだった平太は内容が気になってぱらぱらとめくる。

 児童向けの本しか読んだことのない平太にとって、大人向けの体裁のそれはとっつきにくいものだったが、ふと目に留まったものがあった。


 それは、猫が浄瑠璃を演じて見せる話。

 しかし童話のようにかわいらしいものではなく、いわゆるバッドエンドだった。


「農家の嫁だったと思うんだけどさ。主人公は日常的に嫁ぎ先の連中から暴力を受けながらこき使われる可哀想な若い女なんだよ」


 手をもくもくと動かしながら平太は続けた。


「ある日、集落に浄瑠璃の一座が来たってんで、姑と小姑と旦那が大はしゃぎで観に行こうとしてさ、勇気を出して自分も連れて行ってくれと頼んだ嫁をボコボコに殴って、お前は仕事しろって出ていくんだよ」


 散々痛めつけられた末に取り残されて嫁は独り泣いた。

 そんな彼女の元へ猫がすり寄り、いきなり人間の言葉を話し始める。

 どうして泣いているのかと。

 猫がしゃべりかけてきたことに驚きつつも嫁はいきさつを話し、浄瑠璃と言うものを見たことも聞いたこともないから自分も行きたかったと泣いた。

 すると猫はそれなら自分ができるから聞かせてやろうかと言い出した。

 ぜひと喜ぶ嫁に、猫は一つ条件があると言った。

 それは、猫が浄瑠璃を唄ったことは誰にも言ってはならない。

 約束を破ると死ぬことになると。

 孤立無援の嫁の話など、誰も聞きやしない。

 嫁はもちろんと頷くと、猫は唄いだした。

 それはとてもとても美しく、嫁は聞き惚れた。

 大喜びで拍手した。

 ところが運悪くそこへ姑と小姑が帰宅してしまった。

 今、お前は何をしてた。

 浄瑠璃らしきものが聞こえたぞ。

 留守をいいことに誰か呼んで唄わせていたのか、それとも。

 お前は浄瑠璃を知らないと言ったではないか。

 どういうことか。

 猫が唄っていたとは思わない二人は詰め寄り、嘘つきめと嫁を折檻した。

 何を言っても殴られ、激しい暴力に耐えかねた嫁は苦しい息の下ついに白状してしまう。

『ね、ねこが…』

 途端、そばにいた猫が嫁の喉笛を掻き切って風のように走り去る。

 そして、彼女は息絶えた。



「そりゃ…。すごい話だな」


 思わず尚は手を止め、語り手をしげしげと見た。


「うん、すごいだろう。もうさ日が暮れかけて、ちょうどカラスがカーって鳴いて、本当にとんだホラーな夏休みだよ」


 ふうと、息をついて平太は両手を膝に置く。


「まんま、うちの母ちゃんだなと思ってさ。とはいえ殺される前に逃げてったけどな」

「ああ、そういう…」


 平太の父親も嫁の来てがなかったため、ブローカーに金を積んで花嫁を大陸の山奥から取り寄せた。

 しかし、大枚をはたいたからにはそれ相応の働きをしろとさんざんこき使ったところ、平太が小学校に上がる前の冬に国外逃亡したという。


「ちょうどさ、福引か何かで親父たちが温泉旅行当てたんだ。そんで親父とババアとオバの三人がウキウキ行っちまって、俺と母ちゃんは留守番。金をちょっと出せばよかったのにさ。ケチって馬鹿だよな」


 たった一泊。


 母と平太に言いがかりをつけてはうっぷんを晴らす三人がいない家はとても静かで、平和で。

 平太はこんな日がずっと続けばよいのにと思った。

 嬉しくてまとわりつく平太の頭をなでて、母はカタコトの日本語で笑った。


「オイシイ オヤツ イッパイ アルヨ ヘイチャン」


 いつも眉間にしわを寄せて硬い表情ばかりの母が歯を見せて笑っている。

 それはずっと心の中で密かに願ってた幸せであったが。

 なのに平太はなぜか菓子の家へ子どもたちを誘う魔女の物語をちらりと思い出した。


 そして。

 次の記憶は怒鳴り合いながら家中走り回る父と祖母と叔母だった。

 平太はいつの間にか布団に寝かされていて、なんと翌日の夕方になっていた。


 恐ろしいことに母は平太に一服盛って眠らせ、出奔していた。


 三人が互いに隠していたへそくりをそれぞれ突き止めていたようでそれらをごっそり持ち出し、叔母のとっておき服を着て出ていったらしい。

 畑の空き地の不用品を燃やす場所で、居間の梁に掲げてあった先祖たちの写真と父の大人向けのお宝が一緒に焼かれたらしく、祖母と父はへたり込んだ。

 さらに母は長い時間をかけて入念に準備をしてたらしく、捕まらなかった。

 父がなんとか伝手をたどって探し出した祖国の実家ももぬけの殻だったそうだ。


 平太に残されたのは、最後の晩餐ならぬ最後の茶話会の記憶だけ。


 普段、平太と母には食べさせてもらえなかった袋菓子を母は祖母たちのストック棚から次々と出して開封し、炬燵いっぱいに広げた。

 彼らの機嫌のよい時ですら野良犬に恵んでやるように数枚しかもらえないポテトチップスをわしづかみにして、二人で次々と口に詰め込んだ。


 おいしいね。

 おいしいね、かあちゃん。


 ウン。

 オイシイネ、ヘイチャン。


 腹の中が落ち着いたところで母が突然台所へ向かったので慌てて追うと、彼女は鼻歌交じりに火にかけた小鍋へ牛乳を注いだ。


 ミテ、オイシイ ツクルヨ。


 温まって独特の香りを放ち始めた牛乳に叔母秘蔵のチョコレートを砕いて入れる。

 白い液体の中に落とされた茶色の塊がゆっくりゆっくり溶けて台所はチョコレートの匂いでいっぱいになった。


 オイシクナル、マホウ。


 笑いながら少しの砂糖と、父が居間の棚に飾っていた茶色の液体が入った瓶を開け、それをちょろりと加えた。


 デキアガリ。


 マグカップ二つにそれを注いで、もう一度炬燵に戻った。


 それは時々幼稚園のオヤツに出るミロに似ていたけれど、全然違う。

 とてもとても甘くてちょっと苦くて。

 大人の飲み物を飲ませてもらった気分になった。


 かあちゃん、すごくおいしいよ。

 かあちゃんすごい、まほうつかいだ。

 かあちゃん、だいすき。


 うれしくて、たくさんしゃべった。


 湯気の向こうの母がどんな表情を浮かべていたのか。

 それだけが思い出せない。

 ただ、口の中に甘いチョコレートの味がいっぱいに広がって、とてもしあわせで楽しかった。




「今にして思うとさ。母ちゃんは俺を殺しにかかっていたのかもしれないな」

「いや…それはどうだろうな」

「ババアがため込んでた睡眠薬を親父の秘蔵のブランデーと混ぜて幼児に飲ませるって鬼だろ」

「ブランデーだったのか」


 普段はにこにこと懐っこい笑い顔でクラスのムードメーカー的な存在の平太の暗部に、かける言葉が見つからない。

 尚は思わずどうでもいいことを口にした。


「うん。アンモナイトみたいな形の瓶だったからすぐにわかった」

「そうか…」

「まあ、今となってはどうでもいいけどな。俺もあの家嫌いだし」


 一瞬口元をゆがめた後、にぱっと歯を見せて笑った。


「あのホットチョコレート。めちゃくちゃ美味かった。だからもういいや」


 その後平太は学校で一番の成績を修めてたくさん表彰され、実家から一番遠い農業大学へ進んだ。

 そして時々、思い出したように絵葉書が尚の元へ届く。

「いま、すっげーたのしい」

 近況報告の最後はいつも同じ言葉だ。

 尚は、返事がわりに収穫物を彼の過ごす寮へ送った。






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