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舌ピアスの切情

作者: 鹿谷おず


 日々繰り返す黄昏に、気が狂いそうになる──



 それはいつかの夕暮れのこと。そんな意味合いの言葉を聞いた。切情ばかりに満ちた声が、この耳から神経を侵し、喉を、舌を、唇を、麻痺させてしまったようで。


 真意を問う手段を失った僕には、その横顔を見つめることしか、できなかった。







【舌ピアスの切情】







 オレンジ色の陽射しから徐々に明度を落としていく室内。

 夕食の皿から顔を上げれば、この食卓の向こうの、背を見せたソファーが視界に入る。



「何喰ったって、うまくねぇな」



 ソファーにだらしなく転がった彼は、愚痴るように言った。生憎と此処からでは、肘掛けに預けた彼の頭部しか見えないのだが、それだけでも、行儀の悪い彼の姿は十分に想像できる。

 どれもこれも、いつものことだった。

 天井を仰いだままに呻いたその様は、まるで死にかけた犬。薄い唇から淡色の舌をだらりと垂らせば、それには銀色のピアスが光った。



「辛いは痛い。甘いはだるい。酸いは苛つくし、苦いには腹がたつ」



 軽薄に笑いながら一言一言を吐き捨てると、彼は背もたれをぐいと掴み、気だるそうに頭を持ち上げた。



「なのに、よくもまぁそう、うまそうに飯が喰えるもんだねぇ?」



 食卓につき、夕食をついばむままの僕に、味なんてただの刺激だろうと、彼はからかい半分の口調で問いかける。



「別に…人間の三大欲求の一つを、怠惰に愉快に満たしているだけだよ」



 箸の進みを緩めるでもなく、僕は小難しい台詞を返した。いい加減、これが僕の不機嫌の証だと気づいてもいいはずだ。……いや、もし気がついていたとしても、彼にとっては他人の感情の機微など、どうでも良いのだろう。

 彼は背もたれに顎を乗せ、からからとまた、軽薄に笑う。



「食欲なんて寝りゃ治んだよ。そんな喰ってると太んぞ」


「健全に三食済ませてるだけだけど?」


「めんどくせぇよ。一日三回も。噛むのも飲むのも、だりぃしな。それに俺は満腹感なんてもんの充足じゃ────腹の足しにもならねぇ」



 もはや軽薄という形容詞そのもののような彼の表情に、何故か僕は苛立った。それは不安と焦燥に似た、心乱される…何か。意識したわけでもないのに口調は鋭くなり、無意識のうちに僕は箸を置いた。



「勘違いしてない?君の感性が僕にも当てはまるわけじゃないよ。それに…君に合わせていたら、まるで断食僧じゃないか」



 僕は口を尖らせて、「骸骨」と一言、にやつく彼に蔑称を与えた。

 依然ソファーに寛ぐ彼の、容姿。それを骨と皮ばかりと形容すればそれ以外の何物でもなく、痩駆と言うにしても不健康に痩せすぎている。しかし、ほっそりとした顔の輪郭には元々肉が少ないのが似合うのだろう、やはり痩せてはいたが不思議と病的ではなかった。

 そうやって改めて彼を観察した瞬時、咀嚼を忌避する細い顎が、ふいに緩む。それに次ぐ、僕の神経を逆撫でるような笑い声。



「あはっはははっ!おまっあははっ!」


「…………なに」


「ガイコツなんて捻りもねぇあだ名つけてくれちゃってさぁ!頭いーくせして、やること小学生だな?」



 ついさっき僕の口をついて出たくだらない蔑称が、どうやら彼のお気に召したようだ。さんざん笑って愉快な呼吸困難に腹を抱えると、彼はさらに僕を挑発した。いいや、きっと挑発だと感じたことでさえ僕の被害妄想だろうが、彼の反応に、僕の眉間には自然と皺がよる。



「………………」


「何?そう睨むなよ。喧嘩する?この俺と?」


「そんな無駄なこと、頼まれたって嫌だね」


「確かにな」



 僕の嫌味たっぷりの言葉も、飄々とした彼の前にはさらりと受け流される。その簡潔な同意と共に軽々しい笑みさえ見せ、開けた大口から覗いた舌先にはまた、ピアスがきらり。



 初対面での彼の印象は、よく笑う奴、だった。

 その時の先入観は今でも変わりないが、今のそれの、意味合いは真逆。初めましての笑顔には好意的な印象を抱きがちだ。けれど、彼の笑みは、どこまでいっても“軽薄”だった。

 親しくならなければそれに気がつくこともなかっただろうが、どれほど親しくなったところで、その軽薄さは変化しない。ただ、時間を共有するほどに理解できたのは、彼は何かに、誰かに、本気になどなれないのだろう、ということ。


 彼はいつも口癖のように、好ましいものへ「好き」と言う。けれど決して、「愛してる」ことは無いと言う。彼の「好き」には、好意的かそうでないかという区別しかなく、彼の前に人を並べようが物を並べようが、食べ物の好き嫌いを選り分けるように、彼はそれを分別するだろう。

 それは、愛情や憎悪といったような激情とは縁遠い、ただの“認識上のラベル”にすぎない。そのラベルを貼り替えていくだけの彼は、何かに至上の楽しみを見い出すこともないし、何かに懸命になることもない。



 彼は、まるで空っぽだった。



 終始絶やさない笑顔は、ノリの良い話術と相まって彼自身が感情豊かだと錯覚させる。しかし、一度でさえ彼に内包された軽薄さに気づいてしまえば、それは、何に対しても夢中になれない彼の…開き直りとさえ言えそうな、安い愛想だった。


 心の慢性的な空虚さ故に、彼は何に心を揺るがされることもない。心酔うような喜びも、心奪われるような怒りも、心壊れるような哀しみも、心歌うような楽しみも。何一つだって、彼の心を満たすことは叶わないのだ。


 だから当然なのか、彼と僕は、喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。感情を高ぶらせた彼なんて想像もできない。もちろん、僕が一方的に、彼の不真面目さに対して腹を立てることはあった。だが、いつも彼の軽薄な笑みと、飄々とした態度でうやむやにされてしまうのだ。


 そして、僕が不機嫌を拗らせるたび、「激情家だねぇ」と、彼は小馬鹿にするように僕を評した。


 内面を欠き、外面が達者な彼。対して僕は、昔から感情の波ばかりは荒々しく情緒豊かだというのに、それを口にしたり表情にするのが欠陥的に苦手だった。だから、類は友を呼ぶと言うのか、対称的ながらも欠落を抱えた僕と彼は、友人になったのだろう。

 一見して優等生な僕は、感情表現の下手さのせいで、他人からクールで無口で無表情、大人しい模範的生徒と評価される。この意志疎通の不得手で、誤解されたことも少なくない。

 そして彼はと言えば、性格の軽薄さに相応しく白に近い金に髪を染め、舌だけではなくあちこちピアスまみれ。何事にも適当な印象どおりに服を着崩し、けれどそれがこの上なく似合う。


 欠如部分が対称のように、容姿さえも対称な僕と彼を繋ぐのは、その欠如そのものだった。


 欠如の証と言えば、彼が笑うたびに、ちらつく舌ピアス。何故そんなに穴ばかり開けるのかと、以前聞いたことがある。



「空っぽだとな、埋めたくなるときがあるんだよ」



 薄っぺらな笑みに、ささやかな哀しみか虚しさを混ぜ、どこか遠くを見るように言った。


「空っぽな心を埋める代わりに、体を金属で埋めるんだよ。そんな単純なもんで、俺の中身も俺の言葉も、空っぽじゃあなくなればいーのにな」


 言葉の象徴、舌につけたピアスを見せびらかして、何気なしに告げた祈り。

 彼の存在は虚しすぎて、希薄な現実感ばかりが募るようだ。痛みや異物感が彼の意識を刺激して、せめてものリアリティがそこに生まれると言うなら、僕からすれば不可解だった行為にも少し納得できる。

 そう思考しながら黙りこんだ僕へ、相変わらずの彼はまた、軽く笑った。



「お前の表情筋も、お変わりなく硬直してんねぇ。笑ったことあんのか?」


「さあ。少なくとも僕は、君みたいに安っぽく笑うつもりはないよ」


「言ってくれんなぁ。ま、お前の天然ポーカーフェイスも、そこまでいけばスゲェもんだって。自慢しろよ」


「ごめんだね」



 唯一の意思表示、眉間の皺をまた浮かべて、僕は中断していた夕食を再開する。いつの間にか室内には、沈むような夜が迫っていた。僕はすっかり冷めてしまった夕食を温め直そうと心に決めながら、部屋の明かりをつけ、カーテンを閉ざす。




 今日も、黄昏は終わっていった。


 彼を狂わすことはなく───




 終わりのない連鎖的な日々が過ぎ、それがまた訪れることを予告するのは、夕暮れ。彼の空虚な日々は、空だからこそ重圧となり、虚ろ故に軋むのだろう。

 僕の眉間の皺が無表情な僕にとっての唯一の表情だとするなら、その狂惜しいほどの空虚は、無感情な彼にとって、ただ一つの鮮烈な感情に違いない。

 鮮烈と言うには、あまりにも苦痛を伴う諦観、だろうが。



 正直で不器用な僕と、嘘つきで器用な彼の、不格好な友人関係。友人は友人に、友人以上友人以下のものを求めない。以下でも以上でもない停滞安定関係。


 それはどうしようもなく歪つで、その分どうしようもなく居心地がいい。






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