出逢い
夕食はホブゴブリンだった。
ひじき豆みたいな味でおいしかった。
自室に籠もって一人で食べた。
魔物を丸ごと生で食う姫の姿を誰も見たがらなかった。
お腹がいっぱいになるとリィエはまた理性を取り戻し、消えた本物のリィエ姫のことを考えはじめた。
自分の両親や友達、ペットのたぬきのポン太のことなんかも思い出してしまって、ベッドの上にいられなくなった。
散歩
してこよう
誰にも言わず、一人で中庭に出た。
綺麗な満月が夜空にあった。
この月は自分が元いた世界の月と同じものなのかな。それならどこかで本物のリィエ姫もこの月を今、見てるのかな。
そんなことを考えながら、庭の薔薇を指で突っつきながら歩いていると、シルクみたいな闇の向こうに誰かが立っていた。
「今晩は、リィエ姫」
男の人の、美しい声だった。優しいけれど柔らかさのない、不思議な声だった。
氷で作られた天使の彫像がもしも喋ったら、こんな声を出しそうだった。
だれ
ですか?
こんなに月が明るいのによく見えない
リィエが言うと、相手はくすっと笑い、
「では月の真下へ参りましょう」
そう言って、林檎の木の下から出て、明るいところに姿を現した。
襟を立てた白い衣服に身を包み、黒と赤のマントを羽織った、それは少年だった。自分と同じ17歳ぐらいに見えた。
短い黒髪は美しくウェーブがかかり、薄い唇に微笑を湛えていた。
リィエはその少年の姿を見ると3回驚いた。
少年は月の下で体が透き通っていた。
それより驚いたことに少年はどう見ても日本人だった。
それより何より驚いたのはーー
どうして
泣いているんですか?
少年は涙を流さず、しかし優しい笑顔を浮かべて泣いていた。
自分に悲しいことがあったからではなく、死に行く地球を憂うように、すべてを包み込む神様のような顔で泣いていた。
少年はリィエの言葉には答えずに、言った。
「あなたがどんな人なのか、見ておきたかった」
そして今にも涙を流しそうな優しい笑顔で、
「よかった。僕の想像と違って、あなたは愚かではなさそうな人だ」
だれ
なの?
「そのうちご挨拶に出向きますよ。その時に自己紹介しましょう。ここにいる僕は幻です。遠くから魔法で投影した姿を見せているのです」
幽霊
ってこと?
ボケたことを言っている、と自分でも思ったが、その言葉がしっくり来るような儚さがあった。
少年はくすくすと笑うと、馬鹿にするようにではなく、かわいいものを愛でるような言い方で、
「幽霊ならもっと怖がらせますよ。それとも幽霊の真似をして怖がらせたほうが、貴女の気を引けたのかな」
少年はふいに庭の薔薇の花を一本手折ると、リィエのほうへ差し出した。
「あなたの美しさに」
リィエは催眠術にかけられたように薔薇の花を受け取ると、香りを嗅いだ。高級いちごアイスみたいな香りがした。
「僕が泣いているように見えると言いましたね?」
少年は言った。やはり泣いているようにしか見えない笑顔で。
「その通り、僕は悲しいんだ。なぜならば僕はーー」
少年の顔が近づいて来た。綺麗な顔だと思った。
「貴女を殺さなければいけない」
えっ?
薔薇の花を手折ったように、
少年の透き通った手が、リィエの首に伸びると、それをーー
「サイラス!」
叫びながらフウガがどこからともなくそこへ現れた。
「おっと」
魔王サイラス・カルルスは折りかけていた姫の首から手を引くと、
「さすがはフウガ。抜け目がないね」
透けていた体がさらに透け、消え去る前にその口がリィエに言った。
「どうせ今夜は挨拶だけのつもりでした。リィエ姫、またお会いしましょう」
フウガは無詠唱で光の弾を作り、魔王めがけて放ったが、薔薇の花を散らしただけだった。
「くそっ。まさか城へ進入して来るとは!」
悔しそうにそう言うと、フウガは姫に向き直った。
「リィエ姫! お怪我はありませんか?」
今のは
だれ?
「あれが我ら人類の憎むべき敵、魔族を統べる闇の魔王、サイラス・カルルスです。卑劣なやつだ。闇夜に紛れてこっそりと姫の命を狙いに来るとは……」
魔王?
でも……
「さ、姫。ここは危ない。城内へ入りましょう」
フウガに手を引かれ、城の中へ戻されながら、リィエは思った。
おいしそうな匂い
しなかったよ?
魔物の匂い
しなかった
それより
とにかく悲しそうで……
リィエはもう一度その姿を見たがるように中庭を振り返った。
薔薇の花が咲き乱れているのを月が照らしているだけで、そこに彼の姿はもうなかった。
しかしその姿は氷柱のようにリィエの心に突き刺さり、感動にも似た震えをそこに残していた。
リィエは最も強く感じた彼の印象を頭の中で呟いた。
綺麗だった……