奴隷の少年
奇跡だった。
荒れ狂う海に投げ出された少年は死ぬのが当然だった。しかし船のかけらに服が絡まり、一緒に砂浜に打ち上げられた。
愛の神ニムスの加護があったのかもしれない。命はあった。
何より意識を取り戻し、自分を見つけてくれた漁師にここはどこかと聞くと、彼はこう答えたのだった。
「ここはアーストントンテンプル王国だよ」
ぼろぼろになりながらもシュカは喜んだ。
愛の神がここへ運んでくれたのだとしか思えなかった。
「僕はお城の大賢者のフーガ様のお嫁さんの弟です」
シュカがそう言うと、漁師は笑った。
「大賢者様は独身だ。奥方様なんていねーよ」
「新しく結婚するんです。それが僕の姉さんなんです」
説明しても漁師は頭のおかしい子を見るように笑うだけだった。
「お城はどっちです?」
「あっちのほうだけど、歩いて6日はかかるよ? 子供の足じゃもっとだ。それに着いてもどうせ入れちゃくれねーよ」
構わず歩いた。
町を通るたび物乞いをしてパンをもらいながら、へこたれず歩き続けた。
「姉さん……!」
心が折れそうになるたび、口にした。
「姉さん……! 僕、生きてるから……! 今、会いに行く!」
街道を一人でぼろぼろになりながら歩いている異国人の少年を見る人々の目は冷ややかだった。
「あの子、何だろ?」
「どう見てもこの国の人間じゃないわよ」
「もしかして……魔物?」
「おい」
屈強そうな体つきの黒いひげの男がシュカの肩を掴まえた。
「お前……、逃げ出して来た奴隷だな?」
抵抗する体力は残っていなかった。
シュカは馬車に詰め込まれ、どこかへと運ばれて行った。
「おい! 起きろ!」
馬車の中で眠ってしまった。
乱暴な男の声に目を覚ますと、暗いところに馬車は止まっていた。
石の高い壁がぼんやりと見えた。
高いところに窓があり、灯りがともっている。
「ここは……?」
「お城だよ。アーストントンテンプル城だ」
シュカは思わず飛び起きた。
「僕の姉が、ここの大賢者フーガ様のお嫁さんになったんです! 僕、その弟です!」
「ふざけたこと言ってんじゃねえ」
黒いひげの男はムチを手に持つと、振り上げた。
「奴隷役人のチョモス様のところへ行くぞ! ついて来い! 早く歩け! ぶっ叩くぞ!」
奴隷役人のチョモスは小さな男だった。
シュカを見ると、ひげの男に言った。
「こんな子は知らん。うちの奴隷ではないな」
「僕、南の島国ユーダネシアから来ました!」
シュカはこの人なら話が通じるかもと期待し、元気な声を出した。
「僕の姉が大賢者フーガ様のお嫁さんになったんです! 会わせてください!」
「元気な子だな」
チョモスは言った。
「よし、買おう。なかなか使えそうな子だ」
「へへへ。ありがとうございやす」
黒いひげの男はチョモスからお金を受け取ると、帰って行った。
「アクエリアです! 姉の名前はアクエリアっていうんです! 知りませんか!? 大賢者フーガ様のお嫁さんなんです! 会わせてください!」
「しつこいな。入れ!」
チョモスはシュカを奴隷用の独房に押し込むと、言った。
「そんな名前は知らん。だがフーガ様のお名前は誰でも知っている。ガキのくせに下手な嘘をつくな」
「では……! フーガ様は無事ですか? このお城にいらっしゃいますか?」
「俺らがフーガ様の姿を見ることすら出来るわけがないだろ。朝になったら仕事を教える。それまでここに入っとれ」
ガチャリと独房の鍵が閉められた。
疲れ果てて独房で熟睡した。
扉の開く音で目が覚めた。
弱い朝日が暗い独房に差し込んだ。
「起きろ。仕事を教える」
片目の男がそう言って睨んだ。
別室に連れて行かれると、綺麗な白い麻の服を渡された。
「そのぼろぼろの服を脱いでこれに着替えろ」
シュカは仕方なく服を脱いだ。
「その腕輪はなんだ。外せ」
片目の男に言われ、シュカは説明した。
「これは……外せないんです。外そうと思っても、外れないもので……」
「では俺が外してやる」
男はシュカを押さえつけると腕輪に手をかけ、無理矢理外しにかかった。
腕に食い込んでいるトゲが肉をえぐり、血が噴き出した。
「痛い……! やめて……やめてください……!」
「こんな洒落たものを奴隷がしていてはいかん! 何が何でも外す! えい! 取れんな! なんだこれ!」
「痛い! 痛い!」
泣き叫ぶシュカと取れない腕輪、噴き出し続ける血に、片目の男は遂に諦めたが、その頃には床は血だらけになっていた。
「汚れたじゃねーか! 掃除しとけ!」
仕事は給仕役だった。
料理室で作られたものを貴族の部屋へ運ぶ。
他にも何かの用で呼びつけられたら飛んで行かなければならなかった。
王族の部屋へは行くことがなかった。
料理室も王族用のものは別で、もっと上のほうの階にあった。
シュカは3階より上に行くことは禁じられていた。
王族は皆、4階より上にいて、顔を見ることも出来なかった。
貴族の部屋に料理を運ぶたび、シュカは聞いた。
「僕は大賢者フーガ様がお嫁さんにしたアクエリアの弟です。フーガ様にお会いするにはどうしたらいいですか?」
誰もが馬鹿にするように笑い、やがてシュカは『嘘つき坊主』とみんなから呼ばれるようになった。
シュカはだんだんと、生きる気力を失いそうになった。
そしてシュカはある夜、禁を破った。
衛兵の目を盗み、城の4階より上に忍び込んだ。
フーガ様の部屋がどこなのかなんて知らなかったが、王族に近い誰かに会えれば、少なくともフーガ様の無事は確認できると思った。
フーガ様が無事ならアクエリアも無事なはずだ。
見つかれば死罪だった。
いつも片目の男に言われていた。禁を犯せば有無を言わせずその場で斬り捨てられるのだと。
それでもシュカは姉に会えることを願い、泥棒のように王族の住む階へと忍び込んだ。
すぐに見つかった。
シュカを見つけたのは衛兵ではなく、小さな女の子だった。
シュカが物陰に身を隠していると、後ろから声をかけられた。
「何? あなた」
ぎくりとして振り返った。
綺麗なドレスを着た、金色の短い髪の女の子が、不思議なものを見るような大きな目で、赤い絨毯の敷かれた廊下の上に立ち、こちらを見ていた。
「新しい奴隷の子? こんなところで何をしているの?」
貴族の娘ならここへ来て何人も見ていた。
しかしその女の子は明らかに彼女らなど比べものにならないほどに上品で、高貴なオーラを身に纏っていた。
王族の娘に違いないと判断し、シュカはその前に手をついてかしこまり、いつもの話を切り出した。
「僕……! シュカ・ルゥレンって言います! このお城の大賢者フーガ様がお嫁さんに迎えたアクエリア・ルゥレンの弟です! どうか……どうかフーガ様に会わせてください!」
『嘘つき』と笑われることに慣れていた。
それでもどうしても姉に会いたかった。
また笑われるのだろうか。蔑むような目で見られるのだろうか。あるいは見つかったから即刻衛兵を呼ばれ、死罪になるのだろうか。
小さな女の子はシュカの話を聞くと、言った。
「フウガのお嫁さん? あのフウガが? けっこんしたの? 聞いてなーい!」
面白がるように話に食いついて来た女の子にシュカは呆気にとられた。
女の子は目の前までたたっと駆け寄り、目を覗き込んで来た。そして言った。
「わたし、リーザっていうの。あなた、きれいな目をしてるのね!」




