小早川理恵様のお冒険
音楽室でグランドピアノを弾く小早川理恵の周りにたくさんの生徒たちが集まった。
理恵のクラスのみならず他のクラスからも、上級生たちも聴きに来ていた。
「なんてお優しい音色なんだ……!」
「聞いたこともない曲なのに、とても懐かしく、親しみやすい!」
「クラシックに興味ないのに理恵様のピアノだけは聴きに来てしまうわ」
制服の袖とスカートを揺らし、時に優雅に、時に軽やかに可愛く鍵盤を叩く姫の姿にみんなは見とれた。
平凡な黒髪ののっぺりとした顔の少女が姫のオーラを纏い、みんなの視線の中央でキラキラと輝いていた。
1曲が終わるたびに割れんばかりの拍手と大歓声が音楽室を満たす。
「アンコール! アンコール!」
「理恵様、今のは何て曲?」
理恵は答えた。
「アーストントンテンプルの大作曲家カズノコ・キュウリーのピアノ協奏曲第四番『ピコピコ』ですわ」
「かわいい曲だった!」
「とてもかわいい曲だった!」
「次、聴かせて! もっともっと!」
「ありがとうございます」
理恵は立ち上がり、丁寧にお辞儀をすると、再びピアノに向かう。
「……では、アーストントンテンプルの誇る歴史的楽聖、ゴボータルト・ヘンデス作曲、歌曲『ケロ月光』を……」
「歌!?」
「歌ってくれるの?」
「おおおー!!!」
聴衆たちは理恵様の歌が聴けると知り、大喜びした。
理恵は流れる水が田んぼにきらめくような伴奏を弾きはじめると、あどけなさの残るうどん焼けした声で、優美に歌った。
♪ かえる なんで鳴く
ケロッ ケロッ ケロッ
月があるから鳴くの 月を見るたび鳴くの
ケロッ ケロッ ケロッ ケロッ ケロ月光 ♪
「なんて美しい歌なんだ……!」
みんなが泣いた。
「かえるの存在を優しく包み込む月の光が見えるようだ」
「ちっぽけなものの生命にも意味があるんだよと教えているんだね」
「手のひらを月光に透かしてみたくなるな」
「ありがとうございます」
理恵は歌い終えると、またぺこりと優雅にお辞儀をする。
「次はニッポンの曲を演奏いたしますね。わたくし、勉強しましたのよ。では、ベートーヴェンのピアノソナタ第14楽章『月光』の第一楽章を……」
ベートーヴェンは日本のひとじゃないけどなあ、と思いながらみんな黙ってニコニコしていた。
下校の時間がやって来た。
「ごきげんよう」
理恵は校門を出て行くみんなに手を振った。
「ごきげんよう。また明日」
そして自分も校門を出た。
今日はいつものワタナベがそこに待っていなかった。
みんな先に帰ってしまっていたので、理恵が1人で歩き出したことに誰も気がつかなかった。
「ワタナベはいつも、ここを出て左に行っていましたわね」
姫はスマホでグーグルマップを見ながら、見方がよくわからないのですぐにバッグの中にしまった。自宅の設定もしていないので、画面の中には赤いピンも立っていなかった。
「さあ、冒険の始まりですわ。うふふ」
しばらく行くと、見覚えのある店が見えて来た。
小さなプラスチックの、ファストフードの店だ。
いつもは自転車に乗って通り過ぎていたその店の前に立ち止まり、メニューを眺めていると、中からおじさんが話しかけて来た。
「よっ、嬢ちゃん。久しぶりだねぇ。最近寄ってってくれなかったじゃないか。今日は何か買って行ってくれるのかい?」
姫はドキドキした。お小遣いは愛莉から貰っていたが、まだ一円も使ったことがなかった。この世界で買い物をするのに慣れていないどころか、アーストントンテンプルにいた頃も欲しいものはすべて家臣が買って来てくれていたのだ。
「では……、これをおひとつ、頂きましょう」
姫は緊張した声でそう言って、メニューの一つを指した。
「おっ。いつものだね? あいよっ!」
おじさんはそう言うと調理にとりかかり、すぐに大きくて立派なクレープを差し出した。
「はいよっ。超メガ盛り生クリームてんこ盛りのパイナップル焼きそばクレープ、お待ちっ!」
姫は歩きながら、それを眺めた。
天高く聳えるようなクレープを。
「こんなに食べてしまったら……帰ってから愛莉様のおいしいお料理が食べられませんわ……」
クレープに呆気にとられながらも、道を間違えないように、見覚えのあるような方向へ歩いて行く。
農道を歩きながら、トラクターを運転するおじさんとすれ違った。おじさんはなぜだか驚いたような顔をして理恵をまじまじと見ながら通り過ぎて行った。
「でもこれ……、おいしそう……」
姫は試しに一口、食べてみた。
「おいしい……いっ!」
生クリームとソース焼きそばのハーモニーが絶妙で、この世にこんなおいしいものが存在したのかと感動してしまった。
それは体の主、小早川理恵の大好物だったので当然のことだった。体が覚えていたのだ。体が欲していたものだったのだ。
「でも、こんなに……」
姫は狼狽えながらも、食べ進んだ。
「こんなに食べられるわけが……」
焼きそばをずぞぞぞと啜り、生クリームを飲むように食べ進む。
「楽勝ですわ! どういうこと!?」
姫は改めて底なしのポテンシャルを秘めた食欲怪人のボディーに驚愕した。
あっという間に完食すると世界が明るく、ちょっと気だるく輝いているように見えた。
黄色と白の蝶々が並んですれ違って行った。
「こんにちは、蝶々さん。あなた方、おかわいいわ」
電柱についたシミや壁に貼られた古いアースレッドのポスター、取り壊された古い木造住宅など、いろいろなものをかわいくしながら歩いていると、橋が見えて来た。
幅の広い川があった。ワタナベはいつもこの川の土手を走っていた。
「間違いない! 間違いないわ! これをまっすぐ進めばお家に帰れるのよ。さすがはわたくしですわ!」
姫はルンルンと『ケロ月光』を口ずさみながら、土手を歩いた。
歩いていると、何やら背後に気配を感じる。
振り向いて見ると、遠くのほうから土手をジョギングする男性の姿がこちらへ近づいて来ていた。
ねずみ色のフードをかぶり、そのため顔の見えない男が、ハァハァと荒い息を吐きながら、自分を追いかけて来ている。姫にはそんな風に見えた。
レオに聞いたことがあった。
『姫様。我が国は平和ですが、国を乗っ取ろうとしている反乱分子は存在します。お1人で外を歩くのはお控えください。どこで暗殺者が姫様のことを狙っているか、わかりませぬゆえ』
姫の息が荒くなった。
慌てて周囲を見回す。助けてくれる者は誰もおらず、左右は高い土手で逃げ場はなかった。
もう一度振り向いてみると、ジョギングの男性はさっきよりも近づいて来ている。
フードで見えない顔が、自分を狙って殺意にギラついているように想像してしまった。
「ああっ……!」
姫は慌てて駆け出した。
「レオ……! レオ、レオっ! た、助けて!!!」
口の中で叫び、助けを求めたが、その声はアーストントンテンプルにいるレオメレオンには当然のように届かなかった。
「ロウっ! シュカっ! リーザっ!!」
姫は全速力で駆けた。
さっき食べたクレープで脇腹が痛んだ。
ジョギング男性は余裕で距離を詰めて来る。
「たっ……! 助けてぇ……っ!!!」




