小早川理恵様のご生活
小早川愛莉45歳は台所でぶり大根を煮込んでいた。
そこへ呼び鈴が鳴った。
ピンポーン
「あら。姫様かしら。今日はお帰りが遅かったわね」
愛莉は髪を整え、鏡を見て失礼がないことを確認すると、玄関へ迎えに出た。
ペットのたぬきのポン太も一緒に迎えに走って来た。
カチャリと鍵を開け、扉を開くと理恵が姿勢よく立っている。
「愛莉様、ただいま学校より戻りました」
そう言って制服のスカートを広げて挨拶した。
「お帰りなさいませ、姫様」
愛莉も礼儀正しく日本風お辞儀を返す。
「いつも言いますが、こんなことをされなくても、勝手に鍵を開けて入ってらっしゃってよろしいんですのよ」
「ありがとう。ですが、わたくしはこの家の娘のつもりではおりますけど、正しくは間借りをしております身。礼儀は守りませんと。それに……」
理恵は恥ずかしそうに笑った。
「この鍵……。未だにどちら向きに刺せばよいのか、わかりませんの」
理恵の後ろで自転車を引きながら渡辺くんがぺこりとお辞儀をする。
「それじゃ、僕はこれで」
「あっ。渡辺くん。いつもありがとうね!」
愛莉はそう言葉を投げながら手を振った。
「また明日の朝、迎えに来ます」
「あっ、ワタナベ。ちょっとお待ちになって!」
理恵は渡辺くんを呼び止めるとその手を握った。手を開かせ、そこにたんぽぽを一本、握らせる。
「ワタナベにもこの可愛らしいお花をひとつ、差し上げましょう。大事にするのですよ?」
「ありがとうございます、理恵様!」
渡辺くんは心から嬉しそうな笑顔になると、たんぽぽを大事そうに口にくわえ、ルンルンと自転車を漕いで帰って行った。
「まあ! たんぽぽですのね」
愛莉はまるでその花を見るのが初めてのように、大袈裟に驚いて見せながら言った。
「よくご存じですのね。そう、これはたんぽぽという花だそうですわ」
理恵は得意そうにそれを高く掲げながら、言った。
「ワタナベに教えてもらいましたの。川べりに咲いていましたのよ。こんな可愛らしい、綿のようなお花があるなんて、ニッポンという国はよいところですのね」
理恵がたんぽぽを高く掲げると、ぶわっと種が飛び散り、清掃の行き届いた玄関のそこら中に着地した。
愛莉はそれを見ても顔をしかめることもなく、にこにこしながら理恵を見つめる。
「さ、どうぞ姫様。今夜はぶり大根をご馳走いたします。それまでにお着替えとお風呂をお世話いたしますわ」
愛莉は理恵を浴室に案内すると、甲斐甲斐しく制服を脱がせはじめる。
「姫様。娘の体はどうですか? 居心地の悪いところとか、ございませんか?」
「とても居心地よろしくってよ。愛嬌のあるお顔をされてるし、何より胸がとても小さくなったから、軽くて動きやすいの」
姫は心からの言葉を言った。
嘘を見抜く妹を持っているためか、彼女はお世辞や嘘を口にする習慣がなかった。
「それでは失礼いたします」
愛莉はシャワーの温度を自分の手で確かめると、水着姿で理恵にそれをかけはじめる。
「ふふっ。気持ちいい」
理恵は姿勢よく座ってシャワーを受けながら、言った。
「何度見てもこのシャワーというのは魔法ですわ。何もしなくてもあったかい水が出て、肌への当たり方もとても優しいんですもの。アーストントンテンプルへ持って帰りたいわ」
そしてうふふという軽やかな笑い声を浴室にまた響かせる。
愛莉は去年の冬の温泉旅行以来に見るようになった娘の裸を触りながら、少し泣きそうになった。
「あの子……。向こうで元気にしているかな……」
「理恵さんなら大丈夫。何度も言ってる通り!」
姫は愛莉のほうを振り向き、励ますように笑う。
「レオがついていますもの。ロウも、シュカも。リーザだっているわ。きっとリーザが仲良くしてくれています」
「私、姫様のこと、本当に、本当に好きになってしまいましたのよ。本当に、うちの子になってもらいたいぐらい……」
そう言って愛莉は笑い、すぐに顔を伏せた。
「……でも、本当の娘はやっぱり、どれだけダメな子でも、うんこ人間でも特別で……」
「愛莉様」
姫は母の手をぎゅっと握った。
「言いましたでしょ? フウガという大賢者がいますの。彼がきっと、きっと何とかしてくれますわ! 理恵様はきっと、帰っていらっしゃいます!」
ぽたりと母の顔から涙が一滴、浴室の床に落ちた。
「大丈夫です、愛莉ちゃま」
元気づけようとして姫はおどけた口調になる。
「わたくしの言うことを信じてね。わたくし、嘘はつきませんからっ」
「ありがとう……。姫様……」
「それにしてもあなたの『母力』は凄いものですね。初めてお会いした日、わたくしを一目見ただけで娘の中身が別人と入れ替わっていると気づいたんですもの。外見は変わらないのに」
「わかりますよ」
愛莉は涙を拭き、再び理恵の体を洗いはじめる。
「我が子ですもの」
「わたくしの母はきっと気づきませんわ。きっと今頃『リィエが何かの呪いにかかってしまった!』とか騒いでおりますわ」
「いえいえ。母というものは外見がどうであれ、我が子を見分けるものです」
「そうだといいのだけれど。ふふっ」
「姫様もお母様にお会いしたいでしょうね?」
「そうね……。みんなに会いたい」
姫は遠い目をして、微笑んだ。
「みんな、とてもいい人たちですのよ」
「姫様は国のみんなから愛されているんでしょうねぇ」
「どうかしら」
姫は首をかしげ、おどけて見せた。
「少なくともわたくしはみんなを愛していますわ」
「姫様は不思議な力をお持ちです」
愛莉は理恵の真っ黒な髪をシャンプーしてあげながら、言った。
「姫様を見ていると、なんだかとても守ってあげたくなります。なんでもしてあげたくなるんです。きっと学校の友達も、アーストントンテンプルの国民たちも、みんながそう。まさしく未来の女王となるお方の資質だと思いますよ」
「妹のリーザにもそういうことを言われたことがありますわ」
姫はシャンプーが目に入らないよう、頑張って目を閉じながら言った。
「わたくしは弱いから、守ってあげたくなるそうよ。失礼よね、弱いだなんて! リーザが強いだけなのに」
少し力を入れてそう言ったせいで目にシャンプーがちょっと入ってしまった。
「あいたたた!」
くすっと笑って愛莉は優しくシャワーのお湯を手にとって理恵の目を拭ってやる。
「さ、姫様、できました。お体をお拭きいたしましょう」
お風呂を終えると愛莉は理恵にうさ耳のついたピンク色のルームウェアを着せてやった。
「かわいい! 姫様にうさ耳かわいい! ギャップ萌えですわ!」
そう言って愛莉が飛び跳ねる。
「理恵さん、あなた本当におかわいいわ」
姫は姿見に自分を映し、愛莉の娘を誉めた。
「うんこ人間だなんて、この世には1人もおりませんのよ。あなた、おかわいいわ。わたくし、お世辞は申しませんのよ」
たぬきのポン太が足にまとわりついて来るその頭を撫でて、
「あなたもおかわいくってよ」
愛莉がコップの水に刺したたんぽぽを撫でて、
「あなたもおかわいいわ」
食卓に置かれたぶり大根を見て、
「まぁ、なんておかわいいぶり大根」
リィエ・アーストントンテンプル姫がいると世界はかわいいものでいっぱいになった。