娘、誕生
6年前。
収穫祭が終わり10日ほど経ち、賑やかだった町が落ち着きを取り戻しつつあったある日の夕暮れ。
人影もまばらな大通りを俺は走っていた。
右手は俺よりも一回り小さい別の手を握っている。
その手の持ち主は、俺の最愛の人ーーーの出産の手伝いをしてくれる、つまり助産師さんだ。
そう、妻は産気づいていた。
「んぐぅ!」
声にならない呻きを発し、額に汗を光らせる妻。
俺は妻が横たわるベッドの側に置いた椅子に座り、まだ見ぬ我が子が宿る大きなお腹に向かって声をかける。
「赤ちゃん、頑張れ!パパもママも待ってるぞ!」
こういう時、妻に直接「がんばれ!」と声をかけるのはいけないらしい。
近所に住むジョンが妻であるリンダの出産の時にそうやって声をかけ続けていたら
「こっちはとっくに頑張ってんだよ!うるせえ!」
と本気で怒られたらしい。
それを一緒に聞いていたポールは、ジョンの言葉がトラウマになり妻の出産時に何も声をかけられず
「突っ立ってるだけでなんの役にも立たなかった」
と嫌味を言われ、今でも頭が上がらない。
そんな先人たちの尊い犠牲を糧に、俺はお腹の子供に声をかけながら、妻アンジェリカの手を握ったり、額の汗を拭ったりしている。
正直、今から子供が生まれるという実感はない。
情けない話だが、10ヶ月の間、そのお腹で小さな命を育んできた妻のようには親としての自覚も持っていないだろう。
ただ、アンジェリカの夫としての責任感で何かをしようとは思っている。
「ほら、もう少しだ!頑張りな!」
助産師のばあさんの顔に一段と気合が入る。
妻の呻き声も大きさと苦しさが増してくる。
俺の手を握るアンジェリカの指に力が入る。
妻の手から力が抜け、柔らかさを取り戻す。
唸るような声は無くなり、大きく息を吐いたり吸ったりしている。
助産師のばあさんは忙しそうに動きながら微笑んでいる。
「よくやったよ!元気な女の子だ!」
ばあさんがそう言った瞬間に赤ん坊が泣き声を上げる。
助産師は赤ん坊の体を手慣れた感じでさっと洗い、真っ白なタオルに包んでアンジェリカの胸に近づける。
アンジェリカは優しげな表情で助産師のばあさんから赤ん坊を受け取る。
「赤ちゃん、はじめまして。ママですよー。」
初めて赤ん坊を抱くのに、すごく様になってる。
教会で見た聖母のようだ。
なんて、さすがにそれは言い過ぎだろうか。
でも、なんだかとても尊いものを見ているような気がする。
「ほら、あなたも抱っこしてあげて」
ボーッとしていたら妻が赤ん坊をこちらに差し出していた。
恐る恐る妻の手から赤ん坊を受け取る。
「うわ、軽い!」
想像よりも重さがなく、思わず腕が上がりそうになってしまう。
なんだか儚くて、砂で作った人形のように簡単に崩れてしまいそうだ。
おっかなびっくりしながら手の上の赤ん坊を胸の前まで近づける。
腕の中の赤ん坊をじっくり観察する。
髪の毛が金色だ。
これは俺に似たようだ。
目は瞑っていてよく分からないが、鼻と口元はアンジェリカに似てる。
ママに似た美人になるといいな。
でも、変な男どもが寄ってくると困るし、そこそこの美人がいいかな。
などとよく分からないことを考えているとアンジェリカに苦笑いしながら声をかけてくる。
「ねえ、あなた。初めて娘にかけた言葉が『うわ、軽い!』でいいの?」
「よくない。よし、さっきのはノーカンだ。今からパパの初めての言葉を授けるぞ」
「とびっきり、素敵なのをお願いね」
ハードルを上げてくれる。
「……娘よ、生まれてきてくれてありがとう」
そして、アンジェリカの顔を見る。
「アンジェリカ、俺の子を生んでくれてありがとう」
そう言って妻の額に口づけをする。
素敵な言葉は……出なかったな。
今はまだ、父親としての自覚はない。
生まれてきた赤ん坊を見ても父親になったという実感もない。
それでも、妻と娘のために頑張ろうという気持ちは湧いてくる。
今はそれだけでいい。
助産師のばあさんを家まで送り届けた帰り道。
迎えに行った時は夕暮れだったが、今はもうさすがに夜だ。
見上げれば満月。
娘の髪のように金色に輝く月を見ていると不思議と少しずつ父親になったという実感も湧いてくる気がする。
「娘のことは俺が必ず守る。どんなことがあってもだ!」
そう月に誓った。
でも、運命の神様。あんまり大きな試練とかはいらないからね。
初めての小説です。
お手柔らかにお願いします。