第1話
「アナスタシア・ギルドべート! この場で貴様に婚約破棄を言い渡す!」
「イヴァン様……!!嫌、嫌嫌嫌!!何故っ!!!」
屈辱、不安、恐れ、哀しみ、怒り。女の頭を駆け巡る数多の感情。この世界で一番愛していた男に裏切られる絶望感。何故、愛した男の隣に居るのは自分では無いのか。彼女は全てを男に捧げてきた。
気の遠くなる程の感情が腹の底から湧き上がっては消えていくのを繰り返す。
徐々に薄れていく意識。暗くなっていく視界。締め付けるのは最後に残ったこの感情だけだ。それももう時期に消えるだろう。
「イヴァン様……愛しておりました……」
「アナスタシア・ギルドべート! 貴様の罪は存在そのものだ!」
勝ち誇った笑みを浮かべ、声高々に宣言する男の名はイヴァン。この国の王子であり、アナスタシアの婚約者だった男。その男に寄り添うのは、かつては平民だったはずの男爵令嬢。まるで相応しくない爵位の女が当たり前の顔をして、アナスタシアが居るべきだった場所に居る。
「な、ぜ……」
必死で絞り出した声は震えていた。体を支える気力も薄れ、硬い大理石の床に膝をつく。後ろを囲むのは、アナスタシアをよく思わない貴族達。ハメられた、そう気付いた時にはもう遅い。
「アナスタシア様……。ごめんなさい!イヴァン様の事は諦めて欲しいの!だって……私、私達は愛しあってしまったのだから!」
イヴァンの横に立ち、アナスタシアを見下ろす女の名前はリリカ。態とらしく黒い瞳には涙を溜め、大根芝居を披露する。
「諦めろ、ですって!?そういう問題では無いのです!私達の婚約は!」
公爵令嬢と王子との婚約は、二人が腹の中にいる時から、現在の陛下が決めたもの。言わば、国が決めた婚約だ。だから、アナスタシアは生まれた時から、死ぬ物狂いで皇妃になるための教育を受けてきた。同じ年代の女性達が恋よ花よと現を抜かしている間も、血のにじむ様な努力をしてきた。
「みっともないな。貴様は」
イヴァンは吐き捨てる様に漏らす。
「そうまでして、我が欲しいか?地位が欲しいか?」
「そうではな……ッッ!?」
力の入らない膝に鞭を打ち、必死に立ち上がろうとした時、突然背後から頭を抑えられる。
「王子と婚約者殿の御前だ!無礼だぞ」
「ヴィクトル宰相……!?」
「アナスタシア様が可哀想ですぅ」
「良いのだ、愛い私の婚約者よ。奴には身の程を教えてやるべきだ。それが我からの最後の恩情というやつよ」
ヴィクトル宰相。以前からアナスタシアとは反りが合わないでいた。
「ヴィクトル宰相!貴方が仕組んだことなのね……!」
「何を言っているのか。王子!アナスタシア様は失恋のショックで頭がおかしくなってしまったらしい」
「クク。そうか、そうか」
掴まれた頭は床に擦りつけられる。アナスタシアはこれ程の屈辱を味わったことはなかった。高みの見物をしている貴族からはクスクスと嘲笑が聞こえる。
ヴィクトルは額を擦りつけているアナスタシアに顔を近付け、囁く。
「アナスタシア様、貴女はやり過ぎたのですよ。皇后でもないのに政治に口を挟み、私を顎で遣い、挙句の果てには王としては何かをイヴァン様に説いたそうではないですか。ククク、貴方、イヴァン様に何と呼ばれていたか知っていますか?」
「っ……」
「氷の女。ニコリとも笑わず愛嬌もない。上から目線の可愛くない女、だそうですよ。そんなんだからあんな元平民に王子を奪われるのですよ!」
「な、んで……だって私は……必死に……!この国を想って!!」
泣き叫びたい。何もかも捨てて、逃げ出したい。全てを捧げたというのに、何という仕打ちか。
「アナスタシア。貴様の顔などもう見たくもない!我はここにいるリリカと結婚するのだ!この城から今すぐ出ていき、もう二度と顔を見せるな!!」
「イヴァン様……!!嫌、嫌嫌嫌!!何で……っ!!!」
「来い!」
アナスタシアは引きづられるようにヴィクトルに連れていかれる。イヴァンの瞳にはもう自分は映っていない。新しく見つけた愛しい女性と肩を抱き合い微笑み合っている姿が目に焼き付く。
「それでは御機嫌ようアナスタシア様。この国の事は私にお任せ下さい。」
閉ざされる扉。アナスタシアは扉が閉まりきる最後までイヴァンを見つめる。もしかしたら、もしかしたら最後に此方を見てくれるかもしれないと。それだけで救われると。
だが、それも叶わぬ夢だ。アナスタシアの前には黒く分厚い扉しかない。
終わったのだ、そう理解できた。
「イヴァン様……愛しておりました……」
アナスタシアはただイヴァンを愛しただけだった。