すきなひと
好きな人がいた
かっこよくて、優しくて、身分も高くて、私のことを愛してくれていた
私とは釣り合わない人
無理矢理に引き離され
来世は必ず一緒になろうと誓って別れた
辛くて辛くて早く死んでしまいたかった
………なのに、何で彼はあそこであんな幸せそうに微笑っているのかしら……
「そりゃあ、お前。いいとこの坊ちゃんがたかがメイドに本気になるわけないだろう。結婚前の火遊びだったんだよ」
分かりきったことを言うこの男が憎らしくてつい睨め付けてしまう。
「おお、こわ。殺気が篭ってるね。視線で人が殺せそうだ」
「……殺したいと思ったもの」
「幼馴染に言う言葉じゃないね」
「あんたに弱音なんて吐くんじゃなかった」
「そんなこと言うなよ。今にも死にそうな顔してるからこっちは心配してるのに」
「…………頼んでない」
やれやれと肩を竦めて頭を振るこの男……幼馴染のハンスは彼が結婚してから一年もの間私の下へ通い続けている。
私が死なないように見張っているのだ。
正直、邪魔だ。消えて欲しい。でも、ハンスは私に消えて欲しくはないらしい。
そもそも、もうあれから一年だ。死にたいと思っていたのも最初の半年くらいで、今はそんな気は更々ない。
彼は私が勤める伯爵家の令息、お坊っちゃまだった。最初はちゃんと主従として接していた。
ある日いつも通り彼に紅茶を淹れ下がろうとした時に
「あれ?今日はいつもと違うリボンなんだね。似合うよ」
と微笑まれた。ここで淡々と「お褒めいただきありがとうございます」と返せていたら違う結果だったのだろうか。
初心な小娘だった私は巷で麗しいと噂の伯爵子息ににっこりとそう微笑まれただけで、赤面し「ぁ、ありがとうございます……」と蚊の鳴くような声でしか返せなかった。
それからは、顔を見る度に声をかけられるようになった。
君の淹れてくれる紅茶が一番美味しいな。
口紅をつけたんだね。かわいいよ。
ホッとする笑顔だ。ずっと見ていたい。
小さい手だね。守ってあげたくなる。
嬉しくなかったわけではない。彼の前に出る時は必要以上に身嗜みに気をつけていたし、正直、舞い上がっていた。でも、揶揄われているんだろうとも思っていた。所詮、一介のメイドでしかない私が彼に目を掛けられるはずもないだろうとそう思っていた。けど、
「君の事が好きになってしまったんだ。身分の違いは分かっているけど、君のことを離したくない」
と抱きしめられてしまえば、もう抗うことはできなかった。
それから隠れて付き合うようになり、あれよあれよと言う間に肉体関係まで持ってしまった。私は伯爵夫人になりたいわけでも、愛人になるつもりもなかった。ただ、何も考えず、彼と一緒にいたかっただけ。今が幸せだからそれが続けばいいと馬鹿な夢を見ていた。
でも、それは無理な話だ。彼には婚約者がいた。侯爵家のご令嬢で一人娘の彼女のところに婿入りする予定だったのだ。
私達の関係を知った伯爵家当主、彼の父親は烈火の如く怒った。そりゃそうだ。格上の家へ婿入りが決まっているのに恋人がいるなど、相手の家に知られればどうなることか。社交界では生きていけなくなるし、貴族としても終わりかもしれない。
私は彼の父親に始末されそうになったが、彼が私を救ける引き換えに侯爵家への婿入りの時期が早まった。当然、私はお屋敷を追い出されることになった。その時に、
「今世では一緒になれなかったけれど、来世では必ず一緒になろう」
と誓い合って別れたのだ。
その時は本当に愛し合っていると涙ながらに別れたというのに…………
彼らが結婚したと聞いた3ヶ月後には次期侯爵夫人はおめでただと噂を聞いた。
まぁ、結婚したばかりなのに早いわね、新婚で本当に仲睦まじくて微笑ましいのよ……
……そう噂話をする声を聞いて信じられなかった。が、同時に世継ぎを残すのが貴族の義務だと入り婿した彼も家の為に辛い思いをしているのだろうとそう思った。そう信じていれば、辛くとも少しは救われた。
それが変わったのはその噂から3ヶ月経った頃、たまたま街に出た時に彼の姿を見かけた。街で流行りのドレスを仕立てるお店。お腹が目立ち始めた奥様を労わるように支え、愛おしそうに見つめる彼の姿に呆然とその場に立ち尽くした。
そこには世間で噂されていた通りの仲睦まじい夫婦の姿があった。愛おしそうに妻を見つめる瞳は私を見つめていたものと何ら変わりはない。いや、それ以上に甘く蕩けているように見える。
愛されているだろう奥様も温かな瞳で彼を愛しげに見つめ返して手を取られ店の中へと消えていった。
お腹が目立ってきた奥様の為に新しいドレスを仕立てるのだろう。
それからどうやって家まで帰ったのか……灯も点けず暗い部屋にボンヤリ座り込む私を見つけたハンスは大層心配してくれて、いつもは憎まれ口ばかり叩く私もこの時ばかりは、ただ静かに泣くだけでハンスを困らせた。
終いには、彼を忘れたいから抱いてくれと懇願し、ハンスは私の願いを聞き入れてくれた。
ハンスは何度も愛していると囁きながら優しく抱いてくれたけども私はどこかうわの空だった。
それから数日、1週間ほど経った頃だろうか。彼から手紙が届いた。会いたいと。何を今更、そう思った。
彼を街で見かけなければ、あるいはハンスに抱かれなければ、誘いにのったのかもしれない。でも今は彼の妻を見るあの瞳を、大事そうに抱える腕を、優しく握る手を、私は見てしまった。あんなものを見せられては私に気持ちなどないことは明白だった。
それに、私も彼以外の男と肌を重ねてしまった。もう、彼の前には立てなかった。
彼の手紙を無視したが、暫くするとまた届く。また無視すると、また届く。定期的に手紙は届いた。会いたい、会いたいと。
苦しかった。何故こんなに私を苦しめるのか、憎らしくも思った。しかし、近所の奥さんが妊娠中は旦那が浮気をするという話をしていて、それが、心にストンと落ちてきた。
ああ、何だ。奥様が身重だから、浮気相手が欲しかったのか。私は結局は愛人に過ぎない、ただの都合の良い女だったのだと理解した。
それから、何通手紙が届こうとも心が動くことは無くなった。そうやって無視し続けていると、いつしか彼からの手紙も少なくなっていき、やがて届くことはなくなった。彼が結婚してから11ヶ月経った頃だった。
あれほど燃え上がった彼との恋は完全に終わった。
ハンスはあの日以降も毎日私の様子を見にくる。
でもあれ以来、私に指一本触れることはなかった。不思議だった。一度関係を持ってしまえばそういった仲になってしまうだろうと思っていた。ハンスにも一度尋ねたことがあるが、
「あの時はほっといたら本当に死にそうだったから抱いたけど、心が通じてないのにそういうことはしたくない。あのお坊ちゃんとは一緒にしないでくれ」
と言われた。
強がってるな。とは思ったけど、助かるという気持ちもある。
ハンスは私たちが街の人に何と噂されているのか知っているのだろうか。
伯爵家の令息を誑かした女。
口説けば簡単に身体を開くふしだらな女、身持の悪い女。
貴族の息子がダメだったから今度はハンスを狙ってるらしい。
ハンスも幼馴染だからって、あんな女に引っかかって可哀想に。
まあ、殆ど事実だ。お陰で私はもう貴族のお屋敷で働く事は出来ないし、街でも雇ってくれるところは娼館くらいだろうか。
女は夫や恋人をとられると思って、男は相手をしてくれると思っている。とんだ毒婦だ。
勿論、そんなところで働くつもりはないから、家にある小さな畑を耕して細々と暮らしている。
そこにハンスは毎日通い続ける。
身体の調子はどうだ
何か足りないものはないか
旨いものを持ってきたから食べて栄養をつけろ
最近顔色が良くなってきたな
お前が元気だと俺が嬉しい
好きだ
愛している
結婚しよう……
毎日、毎日、私の心を掻き乱す。
憎くすら思う時もある。ハンスがいなければ私の心の平穏は保たれる。そう自分勝手に思う己に嫌悪すらする。
ハンスと一緒になってしまえば、迷惑をかけることは分かりきっている。これ以上、好きな人が傷つけられるのはごめんだ。
ハンスには早く気付いて欲しい。私なんかじゃ貴方を幸せにできないのだと。
だから私は毎日、毎日、憎しげに睨んではやく私の目の前から消えてと毒を吐く。