自己啓発した!
「波多野のやつ、朝礼中に寝てたらしいよ」
「えー、マジで。あいつやべーな」
「自覚が足りないよな!」
私は先輩達のひそひそ話を黙って聞いていた。
朝礼のときは狭い室内に大勢の人がいたせいで
酸欠になってしまい目を閉じていたのだ。
それに貧血気味なのに『鉄・マルチビタミン』の
サプリメントを飲み忘れていたり、
頭痛薬を服用していたりで体調が優れなかったのだ。
パワハラ上司の森杉にはそれをとがめられ、
胸ぐらをつかまれたあげく罵詈雑言を浴びせられた。
それがウワサになっているのだ。
「ああ、もう、死にたい」
私は森杉の影に怯えていた。
なにをするにも人の目が気になった。
全員が森杉に見えることだってあった。
いろんなことへの興味も失せてしまった。
それをうつの兆候だと指摘する友人もいたけど、
たぶんそうじゃないと思う。
小説家をやめたら世界から色が消えたのだ。
だけど、悪いことだけじゃなかった。
小説を書かなくなったおかげで、
時間に余裕が生まれたのだ。
私は小説に使っていたエネルギーを
学問やスポーツに転化した。
そうしたらおそろしいほどの成果が得られたのだ。
漢字検定の準一級も、
過去問ならば9割はとれるようになった。
趣味で始めたランニングも、
フルマラソンに出場できるレベルに達していた。
私はそれをしてみて、
小説が持っている莫大なエネルギーに驚かされた。
これ以外にもたくさんのことを試したが、
小説を週間連載するほうが大変だったのだ。
(毎日連載は意外と楽だった!)
私は小説のことを忘れるために
心身とも疲弊するつもりだった。
だけど私を満たすことができるのは
小説を書くことしかなかったのだ。
その事実に吐き気がして、
なんとなく森口に電話をかけてみた。
「いやー、小説は順調ですよ!」
森口の明るく楽しそうな口調が
なぜか頼もしくて、うらやましかった。
私はむくむくと成長する夢の芽を、
靴の裏で踏みつけた。二度と生えてこないように。
私はもう小説を書かないと決めたのだ。