カウンセリング(3)
「転職の意思はありますか?」
「すぐにできるなら、したいです」
「割合で示すとどれくらいですか?」
「6:4で辞めたいが上回ります」
「だいぶ僅差ですね」
「ええ、できれば辞めたくありませんから」
アカウントが消されるだけだったら、
ここまではしなかったと思う。
お気に入りユーザーの方には
それを事前に伝えておけばいいからだ。
だが、このままでは小説が書けなくなるおそれがあった。
心理状態は文章にまで直結する。
不安定な精神でのぞむと、それが文章にあらわれる。
これでも私は10年間執筆を続けてきたのだ。
ようやく自分のスタイルが確立できそうなのに
崩れたマインドに引っ張られて、文体まで崩したくなかった。
なによりも、ここまで支えてくれた読者の方々や、
肩を並べて、ときに励まし合ってきた作家陣、
厳しい批評の裏にも私への期待をのぞかせてくれたライバル。
そういった人々を裏切りたくはなかった。
だから、仕事を辞めるときは小説を書くためだけだ。他の理由はすべて棄却する。
「そうですか。では、あなたの上司に連絡をしましょう」
「は?」
思わず素で反応してしまった。
「臨床心理士をなめないでちょうだい。
私はいろんな会社にパイプを持っているわ。
もちろんあなたの企業の重役さんにもね」
「な、ちょっと、待ってくださいよ」
「もちろん、波多野くんの許可なしに
独断専行的なことはしないわよ。いいかしら?」
「いいもなにも、そんなことをしたら相手に迷惑ですよ」
すると、白根心理士は苦笑して見せた。
「波多野くんは、川島くんの紹介で私を知ったんでしょう。
じゃあ、川島くんはどうやって私を知ったんでしょうか?」
「ネットじゃないですか?」
「違います。紹介されてきたのよ、神田さんにね」
「え?」
「きっとそうだと思うな。
そうじゃないと私のところには来れないから」
この人は何者なんだ。
「そんな川島くんから紹介されたのなら、
あなたの上司は神田さんかな?」
こじつけにもほどがあるじゃないか。
なのに、当たっている。
「ええ、その通りです」
「神田さんの印象はどう?」
「はっきり言って怖いです」
「そうかしら。ああ見えて、面倒見がいいのよ」
「きっと私のことを嫌っていますよ」
「どうしてそう思うのかしら?」
「職場にはだれひとりとして
味方がいないような気がするんです。
常にだれかに見張られているような感じで、
常に悪口を言われているような錯覚をおぼえます」
「あらまあ。それなら尚更、味方が必要よ」
「どうしてですか?」
「いざというときに、あなたを守れる人がいないと」
「私には必要ありませんよ」
「ううん、違う。本心ではそんなこと思ってない」
図星だった。
ひとりでは限界がある。
だから臨床心理士を巻き込んだのだ。
「私を信じてちょうだい」
「でも、神田さんは……」
「約束は守らせます!
いざとなったら私が波多野くんを守ります!」
「え?」
「信じて。私はあなたの味方なのよ」
味方……。
でも、私は普通じゃないから。
みんなに嫌われてるはずで。
「波多野くんを嫌ってるってだれが言ったの?」
「え?」
「それは波多野くんの被害妄想だと思うよ。
言葉にしなきゃ伝わらないことだってあるんだよ?」
えーと。
なんて言えばいいんだろ。
ダメだ。口が、頭が、回らない。
「神田さんにSOSを出さなかったとして、
じゃあこの件をどう片付けるつもりなの?」
「移動の権限を持つ、人事班に相談します」
「人事班にどうしてほしいの?」
「転勤させてもらいます。それしかありません」
「そう簡単にさせてもらえるかしら」
「ですが、パワハラの事実を伝えれば……」
「まずは被害を受けていることを周知してもらう必要があるんじゃない? あなたが苦しんでいることを、他の人はだれも知らないでしょ?」
「弱味を見せたくないので」
「それだと改善はのぞめないわよ」
ぐぬう。私は二の句を継げなかった。
「まあ、ここで話して、それで満足なら構わないけど
それだとなんの解決にもならないわよ」
私としても森杉のことでいちいち悩みたくはない。
そのためにも勇気を出すべきだ。
「わかりました」私は言った。
「電話で話すんですか?」
「ええ、そのつもりよ」
「もしかしたら迷惑かもしれませんよ。
私のためなんかに時間を割きたくないでしょうし」
「その確認は最初にとるわ。
他に聞いてほしいことはある?」
「いいえ」
「じゃあ、神田さんにはどこまで話していいの?
プライベートなことはもちろん秘密にするけど……」
「会社で受けてる被害をすべて話してください」
白根心理士が代弁してくれることになって本当に良かった。
この人はすごく心強い人だ!
私は彼女が電話をしているのを黙って聞いていた。
しばらくしてから固定電話を受話口に戻して、ソファーに戻ってきた。
「うん。神田さんはすごく心配してたよ。
これから上層部に掛け合って待遇改善をさせるって」
「でも、私が病んでいることは悟られたくないんです!」
「大丈夫よ、安心して! 彼ならうまくやってくれるわ」
よくわからないが、
臨床心理士の神田さんに対する信頼は絶大だった。
「最後にひとつだけ聞いてもいいですか?」
私は去り際に、
「今回の件は、パワハラが成立しますか?」
そう告発状を手渡す。
そこには森杉から受けた被害が列挙されていた。
白根心理士は眉根を寄せて、
「あなたが個人で苦しんでいて、会社はそれを把握していなかったわけだから難しいわね。これからもしも待遇改善が見込めないようなら、またいっしょに考えましょうか?」
「わかりました。失礼します」
私はちょっと落ち着いた心で事務所をあとにした。
これで第一部は完結です!