第六話 身体記憶
「――ッ!!」
予期せぬ新手の登場に、私は即座に振り向いた。
私の楽しみを邪魔するなんて、許せない。いったい誰だ。まさかさっき倒した奴が――。
だが、私の手を掴んでいた相手の顔を見て、頭の中を駆け巡っていた思考が止まった。
「っ、あ、な……」
「もういい。やめるんだ、レイラ」
頭の上に降りかかる、強い、しかし優しい言葉。
「あ……どれ、さん……?」
そこにいたのは、私の命を救ってくれた恩人、アドレさんだった。その困惑と慈愛の籠もった、複雑な表情が目に入った瞬間、体から力が抜け、手からナイフが零れ落ちる。
あ、れ。私、今、何を……。
混乱する意識。カラン、という地面とナイフのぶつかる音が聞こえた途端、私は、たった今自分がしてしまったことを、初めて現実に認識した。
「……ぁ、アドレ、さん。わ、わたしっ、私は、なん、て、ことを。私、こんな。こんなつもりじゃ……」
掴まれた腕に付いた、真っ赤な血のり。そのベタベタとした感触と嫌な臭いに動揺し、さっきまでとは別の意味で息が苦しくなる。自分がしてしまった行為に対する嫌悪感が、一気に頭と胸を覆う。目の前がグルグル回り、足元がフラフラする。もう立っていられない。
気が動転して倒れそうになる私のことを、アドレさんはグイッと引き寄せ、そのまま強く抱きしめた。何が何だかわからないまま、彼の大きな胸の中に収まる。
「大丈夫、もう大丈夫だぞ、レイラ」
「う、あ……」
「お前は悪くない。俺が見てたから、わかってる。こいつらに乱暴されそうだったんだろ? 大丈夫。俺にはわかってるから」
「あ、アドレさん、でも、私、わたしっ……この人達、刺して、こ、殺し……」
彼はそう言って私をなだめようとするけれど、こんなことをした私が、悪くないわけがない。私は彼らを、殺そうと、したのだ。それも、無意識のうちに。ついさっきまで、私は自分で自分を制御できなかった。それが凄く、恐ろしい。
「心配するな、こいつらはまだ死んでない。それに、こうなったのはどう考えても、お前を襲おうとした向こうが悪い」
「でも、でもぉ……!」
例え向こうが悪くても、私がしたことは、決して許されることじゃない。溢れる涙がアドレさんの服を濡らして、しがみついた手が服をさらに汚してしまう。
「うぁ、う……アドレ、さん。私、怖くて。凄く、怖くて、それで、それでっ……!」
「ああ……怖かったな。辛かったな。すまなかった。すぐに助けてやれなくて」
小さな子供をなだめるように、背中を優しく叩かれる。頭を掻き乱す感情の渦。心を侵していたものを我慢せずに吐き出すと、段々息苦しさが薄れて、彼の温かさが顔に伝わってきた。
フェニさんとは違う意味で大きく、たくましい胸。男の人の優しさを感じる。
「ふぅ、ふぅ……」
「もう、大丈夫か?」
「……は、い……」
そうしてなんとか呼吸を落ち着けた私の後ろを、いつの間にか現れたカイさんが通り過ぎた。
「……立て」
「ひっ、な、なんだよ。俺を助けてくれるんじゃないのかよ!」
「チッ……黙れ。いいから立て」
カイさんは地面に倒れていた男の胸倉を掴み、強引に立たせる。顔を上げた私がそちらに目を向けると、男は途端にたじろき、大人しくなった。その顔は、強い恐怖に歪んでいる。
――この、化け物め!
「……っ」
怯えた男の表情に、その言葉が脳裏にフラッシュバックする。化け物。怪物。つい数分前までの私のこと。思い出しただけで足が震えてきて、また顔をアドレさんの胸に埋める。
「レイラ……。カイ、後は頼む」
「……ああ」
そんな私のことを、アドレさんは再び抱き留めてくれた。彼の言葉に頷いたカイさんは、男の人を引きずって路地を出て行く。
それと入れ替わるように、何人かの鎧を着た人がやってきて、倒れていた他の人も外に連れ出した。そして最後に残された私は、アドレさんに連れられて、彼らの後についていった。
それから、どうやってその場所に行ったのか、よく覚えていない。気が付くと私は、見慣れない大きな建物の中にいた。そこはなんだかお役所のような所で、窓口があったり、長椅子が並んでいたり。先ほど見たのと同じ鎧を着た人が何人かいて、忙しなく働いている。
体の震えが収まらなくて、ずっとアドレさんの腕に掴まっていたことは、なんとなく覚えている。ここはどこなのだろうと不思議に思ったけれど、私はそのまま顔を伏せて、ただ歩くことだけに集中した。そうしていないと、自分を保っていることができなかったから。
足元を見つめながらアドレさんにくっついて、さらに建物の奥まで進んでいくこと少し。
「この子を頼む。まだ少し、動揺してるんだ」
アドレさんがそう話しかけたのは、制服らしき服を着た若い女性だった。彼女は突然話しかけられたにもかかわらず、私のことを見ると、アドレさんの言葉にしっかり頷いて、
「わかりました。じゃあ、ええと……お名前、教えてくれるかな?」
急に話しかけられてビクッとしたが……怖い人ではなさそうなので、一応答える。
「ぁ……レ、イラ、です……」
「レイラ、ちゃんね。じゃあ、レイラちゃん。ちょっとお姉さんに付いてきてくれる? 大丈夫、怖いことは何もしないから。一回体を綺麗にしましょう」
「う、あ……は、い」
アドレさんから離れるのが嫌だったけれど、流石にシャワーまで一緒に、とは言い出せない。寂しさよりも恥ずかしさが勝って、私は女性に付いていくことを選んだ。
「大丈夫だ。俺はすぐそこにいる」
「は、はい……」
女性に連れられて、シャワー室まで移動する。脱衣所の前まで来ると、彼女はそこで一旦止まって、
「ゆっくりでいいからね。お洋服はこっちで洗っちゃうから、そこは心配しないで。それから、不安なことやわからないことがあったら、すぐに呼んでね。私は外にいるから」
「あ……はい」
にこやかな笑みを向けて、女性はそう言った。きっとこの女の人は、私を落ち着かせるためにそうしているのだろう。自分がどう扱われているのかを垣間見ながら、私は血が染み込んだ服を全部脱いで、シャワー室に入った。
蛇口を捻り、頭の上から落ちてくるお湯をそのまま被る。初めて浴びた温かいシャワー。本当なら気持ちいいはずなのに、手や顔に付いている血を落とすのに精一杯だった私には、そんなことを感じる余裕はない。
石鹸の泡で体を擦ると血はすぐに流れたが、いくら洗っても体が汚れてような気がして、二度、三度と何度も洗い直す。頭の中には、あの時やったことが延々と繰り返されていた。
「……どう、して」
どうして私は、あんなことを……。
わからない。自分が怖い。頭を振っても、唇を噛んでも、連想は止まらない。
あの時はただ、いやらしいことをしてくる男達のことが怖かった。男の人に乱暴されることが、嫌で嫌でたまらなかった。それしか感じていなかったのに、私は……まるっきり別人みたいに、あの人達を刺した。殺そうと、した。どうしてそんなことができるのかもわからないし、どうしてあんなことをしようと思ったのかもわからない。それが、非常に恐ろしい。
それから、もう一つ。あの時感じた心地よさは、いったいどういうことなのだろう? 私は、人を傷付けることを、楽しんでいた?
認めたくない。でも、それは紛れもない事実。ほんの少し前に起こったこと。
もう訳がわからなくなって頭を振る。普通じゃない。普通の人は、そんなことを楽しまない。ということは、私は、普通の人じゃ、ない?
鏡に映った自分の顔が一瞬、真っ赤な血を被って、楽しそうに、残忍な笑みを浮かべているように見えた。
――化け物め!
「うぅ……」
脳裏に蘇るその言葉に、私は、あの時ナイフを持っていた右の手をきつく握った。やはりまだ、粘つく血の感触が残っているような気がする。
あの時、あの男の人が言ったことは、本当だ。きっと、私は化け物なのだ。もしくは、化け物だった。記憶を失って、今の私になったその時まで、きっと……。
それから、長すぎる入浴を不審に思った女性が様子を見に来るまで、その妄想は止まらなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「なるほど……じゃあ、もう一回だけ確認させてね。あなたは今朝から海を眺めていて、お昼過ぎに、宿泊している宿屋、シーリング亭に戻ろうとした。で、その途中道を歩いていると、急に男に口を押さえられて、裏道に連れ込まれてしまった」
「はい……」
体を綺麗にした私は、また別の個室に移動して、騎士さん達から事情聴取を受けていた。
目の前に座っているのは、先ほどの女性ともう一人、話のメモを取っている別の女性。そして、私の隣にはアドレさんが座っている。私のことを安心させようとしているのか、彼との距離感はいつもより近かった。
隣の人が作ったメモを横目に見ながら、女性は一つひとつ、私の話したことを確認していく。
「その後、脅されて嫌なことをされたから、なんとか抵抗して、その時に、四人を刺してしまった、と」
「はい……そう、です」
正確に言えば、いつの間にか刺してしまっていた。自分でも意識しないままに。そこが一番の問題なのだけれど、私が上手に説明できなかったせいで、暴れていたら刺してしまっていた、というように解釈されてしまったようだ。何度伝えても理解されなかったので、もう訂正する気はない。
「わかったわ。協力してくれてありがとう。わざわざ思い出させるようなことをして、辛かったわよね? でも安心して。これくらいなら、あなたには何も非はないから」
「え……で、でも、私、あんな大怪我をさせて……」
彼女の言葉に、私は驚かされた。あれだけのことをしたというのに、私は何も悪くないなんて。そんな馬鹿な。
「あなたがやったことは、誰がどう見ても正当防衛よ。怪我をしたのは、あなたを襲ったあの男達が悪いの。あなたが抵抗するのは当然だし、何より、あなたに乱暴しようとした時点で罪が重いわ。その時にどんな怪我をしようと、悪いのは向こう。もちろん、死んでしまっていたら問題になるけれど」
「そ、そう、なんですか……」
困惑する私に、そういう風に決まっているんだ、とアドレさんが耳打ちしてくれる。それでもやはり、私は納得できなかった。
最初に手を出したほうが悪いというのは、まだ理解できる。でも、怪我の度合いでいうと、無傷の私よりもお腹を切られた彼らのほうが圧倒的に重傷だ。そういうところを加味すれば、怪我を負わせた私に何のお咎めもないというのは、絶対におかしい。
けれどこれまでの経験から、そう考えている自分のほうがおかしいのではないかという思いもあって、結局何も言えないまま事情聴取は終わった。
その後は特に何事もなく解放されたが、建物を出た時には、既に空はオレンジ色だった。あの事件が起こったのがお昼くらいだったから、それから六時間くらい経った計算になる。思ったよりも長い時間、この場所にいたようだ。
この町で目が覚めた日を思い出す、アドレさんとの帰り道。初めての道を俯き加減でトボトボ歩く。
彼は結局、あの時私を止めてくれてから、ずっと一緒にいてくれた。そのことが申し訳なくて、謝ろうと口を開く。けれど、顔を上げるとなぜか声が出なくなってしまい、諦める。
そんなことを何回か繰り返しているうちに、太陽は完全に沈んでしまった。夜空に星と月が輝き始め、人の気配が薄くなる。そんな時間になったようやく、私は声を掛けることができた。
「あ……あの」
そこかしこに夜の賑わいが迫る中、先を行く彼は振り返る。
「ん? なんだ。……やっぱり、まだ不安か?」
「い、いえ。そういう訳では……」
首を横に振ると、彼は私の言わんとしていることを察したのか、こちらが声を出す前に軽く手を上げて、
「別に謝らなくていいぞ。俺は当然のことをしたまでだ」
「え、あ……」
でも、と言いかけた私に、彼は言葉を被せてくる。
「俺のことなんか気にするな。お前が無事でいてくれたことが、一番の対価だよ。それに、ずっと言ってるだろ? お前は悪くないんだから、何も気にしなくていい。むしろ、謝らなくちゃならないのは俺のほうだ。遠目にお前が連れてかれるのを見た時、すぐに助けに行くべきだった。でも、な……。駆けつけた時、お前があんな風に戦っていたから、一瞬反応が遅れちまった」
苦い表情に現れる、大きな後悔と罪悪感。でも、それも仕方のないことだ。自分でも自分のことが怖いと思ったのだから、彼の反応は当然と言える。
「意外すぎて、圧倒されていたんだと思う。俺もそれなりに修羅場を経験してはいるが、まさかお前があんな……。とにかく、お前は悪くないんだよ。だから謝る必要もないし、気に病む必要もない」
彼は私に近付くと、肩を軽く叩いて言った。
「ほら、もっと気楽に。笑顔でいてくれ。笑ってるお前が一番可愛いんだから」
「か、可愛いって、そんな……」
急にそんなことを言われると、その、照れるんですけど……。
話を逸らされていることはわかっていたが、彼なりの配慮だと思って私は何も言わず、私達は、そのままフェニさんのいる宿屋に戻って行った。
「ああ、レイラちゃん! よかった、やっと帰ってきた……」
お店の扉を潜るなり、私の姿を認めたフェニさんが飛び出してきた。彼女の背後では、放り出されたお盆が宙に浮いている。
「あ、フェニ、さん……」
彼女の慌てように驚くと同時に、今更だが、戻るのがいつもより何時間も遅くなってしまったことに気付く。
……この人にも、また大きな迷惑をかけてしまった。
「……はい。私は、大丈夫、です……」
「本当に大丈夫? 暴漢に襲われたってカイから聞いたけど、変なことされてない?」
「え、と、それは……」
心配するフェニさんの言葉に、あの時のことが脳裏にチラつく。ああ、駄目。また、体が震えて……。
「あーっと、フェニ。その話は、中で」
呼吸が早くなった私に気付いて、すかさずアドレさんが口を出す。フェニさんは一瞬訝しげな顔をしたが、すぐに頷いた。こんな場所で話せる内容ではないと気付いてくれたのだろう。私も、こんなに人目の多い所には、あまり長居したくなかった。
そうして私は、あの奥の部屋に連れていかれた。扉が閉まると、外の雑音がほとんど聞こえなくなり、世界が静かになる。
「……ごめん、なさい。私、また……」
椅子に座って、深呼吸を繰り返す。落ち着きを取り戻すには、まだ少しかかりそうだ。
「いいのよ、謝らなくて。無理もないわ。怖かったでしょう? まったく、嫌な世の中ね。こんな可哀想な子を襲うなんて……ただでさえ記憶喪失で、ずっと不安なのに」
……フェニさんの言う通りだ。私はずっと――今も、不安を抱えている。
私がこの人達に助けられて、まだ数日。いつまで経っても記憶は戻らず、周囲との違いに困惑してばかり。
それでもなんとか頑張って、最近ようやく、今の生活にも慣れてきたところだった。なのに、その矢先にこんな事件が……。私は、相当に運がないのかもしれない。
「それで、アドレ。レイラちゃんを襲った奴らのことはわかったの?」
「少しだけな。こいつを襲った男の一人は、最近見かけるようになったこいつのことが気になっていた、と話していたらしい」
仲間を集めての計画的な犯行かもしれん、とアドレさんは続けた。前にも似たようなことをしていた常習犯らしい。
いつの間に、そんな情報を仕入れていたのだろう。ずっと私と一緒にいたのに。もしかして、事情聴取の際にそういう話があったのだろうか。私は何も覚えていなかったけれど……。
「そう……とりあえず、しばらくは外に出ないほうがいいわね。私も油断してたわ。まさかレイラちゃんがこんな事件に巻き込まれるなんて……昔はもっと平和な町だったはずなのに、いつの間にこんな危なくなってしまったのかしら」
フェニさんはそう小さく呟いて、軽く外に目を向ける。悲しんでいるような、残念がっているような。彼女がいったい何を考えているのかは、私にもアドレさんにもわからなかった。
重たくなってしまった雰囲気をなんとかしようとしたのか、フェニさんは急に声を明るくして、
「でも、見事に返り討ちにしたんでしょ? 凄いじゃない。強いのね、レイラちゃんは」
「あー、そのことなんだが……」
私を褒めた彼女に、アドレさんは言いにくそうに言葉を濁し、遠慮がちにこちらを見た。
「本人も、よくわかっていないそうだ」
「え? ……どういうことよ、それ」
困惑した表情を浮かべ、フェニさんまでもがこちらを見る。二人の視線を浴びて、私は恐る恐る口を開いた。
「ええと、その……自分が何をしたのかは、はっきり覚えているんです。でも、その……どうしてそんなことができたのかが、まったく、わからなくて。無意識のうちに、体が勝手に動いた、というか……」
あれから多少時間が経ったものの、やはり、あの感覚を上手く言葉にすることができない。あの、自分の意識が体から離れていくような感じは、思い出すだけでも不思議で恐ろしい。それでも私は、なんとか理解してもらおうと無理に話を続ける。
「私、自分が怖い、んです。あんな、危ないこと、人を傷付けることを、私……私、あの時、笑って、楽しんで……っ!」
ここで私が泣けば、彼らに迷惑がかかる。そう思ってなんとか堪えようとするが、駄目だった。目の端から大粒の涙が溢れてしまい、また、二人を困らせてしまう。
駄目、駄目。泣いてばかりじゃ、駄目、なのに……。
「レイラちゃん……」
フェニさんが小さく呟いて、私をなだめようと手を伸ばしてくる。けれど私は、その手を咄嗟に払いのけた。
「いやっ!」
「っ……!」
「や、やめて、ください……私、もう、迷惑かけたくない……!」
彼女は私にとって、かけがえのない存在だった。いつも私のことを助けてくれて、家族になってくれるとまで言ってくれた、とても優しい人。でも、フェニさんもアドレさんも、結局は赤の他人だ。どれだけ助けられても、私は未だに何も返せていないし、それどころか、何かあるたびに迷惑ばかりかけている。
私は、そんな自分が嫌だった。自分では何もせずに、ただ与えられるばかりなのが耐えられなかった。そして、それを甘んじて受け入れていることが、何よりも苦痛だった。
……しばらくして興奮が収まってくると、私は、フェニさんがとても悲しそうな表情をしていることに気付いた。
「あっ、ご、ごめん、なさい、私……」
「いえ……こっちも、悪かったわ。ごめんなさい。あなたがそこまで考えてるなんて、思ってなくて……」
彼女はそう言ったが、目線が少し泳いでいる。その態度でわかった。私は彼女を、傷付けてしまったのだ。
「私はそんな、嫌な、わけじゃ……」
「いいのよ。気にしないで。嫌なことはちゃんと言いなさい、って言ったのは私よ?」
首を振るフェニさんに軽く頭を撫でられて、彼女の顔が目の前に来る。いつもと同じ、柔らかな笑顔。今度こそ私は、彼女の手に身を任せることができた。
「ごめんね。ちょっと子供扱いしすぎみたい。あなただって、色々考えてくれているのに……。そこまで考えていなかったこっちが悪いの。だから、ごめんなさい。ああ、レイラちゃんは謝らないで。それじゃあ意味がないわ。これでおあいこなんだから」
そんな、そんなこと、言われたら、私……。
再びこみ上げてきた涙を堪えるために、私はただ口を閉じて、彼女の言葉を聞いていた。
「さ、嫌な話はこれでお終い。ご飯にしましょ。もうすっかり遅くなっちゃった」
「え、あ、でも、私、まだ……」
まだ、今日あったことを全部話していない。けれどフェニさんは席を立って、一人扉に向かう。
「いいのいいの。こんな暗い話より、先にご飯。早くしないとあなたの分がなくなっちゃうわ」
「え、えっと……はい」
そう言って、かなり強引に私を連れて行こうとするフェニさん。私はしばらく迷っていたが、結局押し負けて、食事に向かった。
食堂ではいつもと同じようにカイさんが席を取っていて、フェニさんが作ってくれたご飯もまた、いつも通り美味しい。そして最後にアドレさんがお酒を飲んで、その日もやっぱり、いつも通りの終わり方をした。けれど、私は気付いていた。彼らが率先していつも通りに動いて、私を安心させようとしていることに。
変わらない日々。平和な生活。少しのトラブルがあっても、すぐに元通りになる日常。それはとても良いことのはずなのに……なぜだろう。この平穏な日々のことを、少しだけ、味気ないもののように感じている自分がいた。
そして、夜。いつもならとっくに眠っている時間だったが、今日は帰りが遅くなってしまったので、私はまだ起きていた。でも、まだ寝ていない理由はそれだけではない。
「……あの、アドレ、さん」
「なんだ、レイラ。もしかして、眠れないのか?」
「……はい。私、やっぱり、自分のことが怖いんです。あの時感じたことが、どうしても、忘れられなくて……」
他にやることがない以上、どうしても考えてしまうのだ。あの、これまでにない悦楽のことを。
「最初に男の人をナイフで刺した時、私……凄い、楽しさを感じたんです。なんていうか、子供みたいにはしゃいでいる、みたいな……。アドレさんは、その、見てた、んですよね。あの時の、私のこと。アドレさんから見て、私は、どういう風に映ったんですか。やっぱり、私のことを異常な奴だって、恐ろしく思って……」
俯きながら、心に溜まっていた不安を打ち明ける。
私は、異常だ。あの男の言った通り、争いを、人を傷つけることを愉しむ化け物だ。なのに、それを知っても、この人達は今まで通りに接してくれる。その理由が、ずっと気になっていた。
そんな私の問いに、アドレさんは少し考えてから、話し始めた。
「ふむ……そう、だな。路地で戦っているお前を見た時、俺は最初、驚いた。普段のお前は、暴力的というか、力でものを言うような性格じゃないだろ? 逆に、優しくて、凄く謙虚だ。見ていて心配になるくらいな。でもあの時は……ああ、そうだな。確かにお前は笑っていたよ。凄く、いい笑顔だった。子供みたいに明るくて、普段のお前とは全然違った。一瞬、記憶が戻ったのかと思ったくらいに」
「そう、ですか……」
ああ、やっぱり、私は怪物なんだな……。
想定していた回答とはいえ、私は悲しくなった。でも、それを否定することは、できない。
「ああ。本当に、驚いた。だって、なぁ。こんなお淑やかな、年端もいかない女の子が、俺達と同じだなんて、思ってもみなかったから」
「え……?」
落ち込む私の耳に、意外な言葉が入ってくる。同じ。彼は今、確かにそう言った。それは……いったい、どういう意味なのだろう。
「だろ? カイ。お前にだってあるよな、ああいうところ」
脱いだ上着を荷物の上に置いたカイさんが、アドレさんの問いかけに無言で頷く。
「俺達はな、戦いが好きなんだよ。ほら、お前と同じだ。周りにはいつも『戦闘狂』なんて罵られてる。まあ、それも立派な褒め言葉だがな。だから、お前の気持ちも理解できる」
そう言ってアドレさんは、自分の大剣に軽く触れた。錆や汚れがまったくないピカピカのそれは、彼が毎日きちんと手入れをして、長い間ずっと使い続けていることがわかった。
「自分のことが恐ろしいのか、ってお前は言ったな。まさか。俺がお前のことを怖いなんて、思うわけないじゃないか。だって、今までお前は、急に暴れたりなんてしなかっただろ? 今日、たまたま襲われたから、自分を守るために戦った。それは全然悪いことじゃない。それを楽しむのもな。人の好き嫌いはそれぞれあるから、いちいち否定してたらキリがない。だから別に、そんな怖がらなくていい。誰もお前のことを怖いなんて思わないさ。そう思う奴は中身が子供なだけだ。お前は堂々と、これまで通りの生活を続けていればいい」
その言葉を聞いて、私は、心の中に安心感が広がるのを感じた。私をもやもやさせていた思い込みから、解き放たれていくような感じ。
「私……本当に、いい、んですか? これまで通りを続けても」
「もちろんだ。誰もお前を怖がらないし、そもそも、今日のことを知らない奴のほうが多い」
すべての人があの場にいたわけではないのだから、それは当たり前だ。だけど、アドレさんの口から言われると、不思議とその通りに思えてきた。
「……ありがとう、ございいます。おかげで少し、気が楽になった、かも、しれません……」
「なんだよ、曖昧だな。でも、気がするだけでも結構変わる。お前の力になれたのなら、よかったよ」
そう言って、彼はまた笑顔を見せる。そんなことはない。アドレさんはいつも、私の力になってくれている。でも……それに対して私は、まだ何もできない。
……いや、違う。まだ何もしていないだけだ。私にも、できることはあるはずだ。
「あ……うん、そうだ」
また明日から今まで通りを続けても、結局はあの岩場で海を見続けるだけだ。それではなんだか寂しいし、何も生まれない。時間を無駄に使うだけ。それに、また今日のようなことが起こるかもしれない。それは、嫌だ。
……そんな意味のないことは、もうやめよう。このままじゃ、いつまで経っても恩返しなんてできやしない。だから……だから私も、変わらなくちゃいけない。
一つの決意を胸に、アドレさんに顔を向ける。
「私、フェニさんにお話があるので、ちょっと行ってきてもいいですか?」
「ん? ……そうか、わかった。行ってこい」
「はい……!」
アドレさんに送り出された私は、軽い足取りで階段を降りていった。
一階の食堂にはもう客の姿はなく、椅子が机の上に乗せられていた。そんな普段とは違う雰囲気の室内を、箒と塵取りが独りでに掃除している。フェニさんの魔法だ。
「あ、あの。フェニ、さん」
いつものカウンター内で一人本を読んでいた彼女は、私の声に顔を上げて、
「……あら? どうしたのレイラちゃん。こんな時間に。夜更かしはあんまりよくないわよ?」
「あ、はい。すみません、こんな、遅い時間に。でも、その……どうしても、お話ししたいことがあって……」
「話? なあに、急に改まっちゃって。さっきのことなら、別に気にしてないけど……」
私が話しかけると、フェニさんは本を閉じて、正面の椅子に座るよう促してくる。けれど私は首を振って、そのまま彼女の前に立った。
「あの、フェニさん。昨日の話、なんですけど」
「昨日の? ……あ、もしかして、決めてくれたの?」
彼女は一瞬首を傾げたが、すぐ何かに気付いた様子で表情を明るくした。期待の眼差し。でも、本当に申し訳ないのだけれど、私の要件はきっと、彼女の期待に沿えるものではない。
そのことがわかったせいで余計言い出しにくくなったが、勇気を振り絞って、息を大きく吸い込む。
「その……フェニさん、お願いです。私をここで、雇ってください!」
そして一気に声を出すと、私は勢いに任せて頭を下げた。