第四話 女の子の常識
「ふぅ。ようやく一歩前進、って感じかしら。名前が決まって、本当によかったわ。ないと色々不便だもの」
「そう、ですね。はい」
どこかホッとしたようなフェニさんの言葉に、私も同じ気持ちで答えた。どうやら、名前がなくて困っていたのは私だけではなかったようだ。
名前というのは、本当に大切なものだ。名前がないと、ちゃんとした名で呼んでもらえないというのもそうだし、自分がいったい誰なのかを証明することができない。他の誰かに対してはもちろん、当事者である自分に対しても。
ないと不便、なんてものじゃない。生きていく上で必要不可欠なもの。それが名前だ。レイラという名前を得た今になって、私はようやく『私』という存在を証明できるようになったのだ。
「さてと、じゃあレイラちゃん」
「は、はい」
唐突に名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。まだ決まったばかりで呼ばれ慣れないせいか、なんだか急に改まった感じがする。
「ふふ、呼んでみただけよ。この名前はちゃんと覚えておきなさいね。折角決まった自分の名前なんだもの」
「は、はい。わかり、ました」
フェニさんはそんな子供のようなことを言って、柔らかく笑う。その微笑ましいおふざけに、つい先ほどまで名前を使う使わないで悩んでいたことがとても小さく感じてしまう。温かい安心感が胸に広がる。
やはり、この人は凄い。私の不安に思っていることを、全部何とかしてしまう。こういう優しい人に助けてもらった私はきっと、とても運が良かったのだろう。
「あ、それもちゃんとしまっておきなさい。あなたのなんだから」
「あ……そう、ですね。わかりました」
フェニさんにそう言われたので、私はまだ手に持っていた謎の棒を、ベルトの右側に引っかかっていた革の袋に入れた。多分、最初はここに入っていたのだろう。ポケットみたいなものだと思って気にしていなかったけれど、これを入れるための物だったみたいだ。左側にも同じような袋があったが、こちらは何も入っていなかった。
うーむ、これが何なのかは気になるけど……日常生活で使えそうな物ではないし、ちゃんとした使い方がわかるまで、大切にしまっておこう。なんだかよくわからない物は、あまり触らないほうがいいような気がする。
顔を上げると、フェニさんが私のことを見つめていた。その視線が気になって、思わず尋ねる。
「えっと、どうか、しましたか?」
「……ああ。いや、ちょっとね。昨日、フィキが言ってたじゃない。オッドアイって言葉。あなたみたいな――レイラちゃんみたいな目のことを言うらしくて」
「あ……そういえば、そう、でしたね」
フェニさんから目のことを持ち出され、複雑な気持ちで目元を触る。
昨日はこの目のせいで、フィキさんに詰め寄られたんだっけ。それに、最初は嫌な顔、されたし……。
「やっぱり、珍しい、んですよね。このオッドアイって」
「そうね。私も実際に見たのはあなたが始めてだわ。あ、でもそういえば……猫、猫がそういう目をしているのなら見たことがあるわ。もう大分昔のことだけど」
「猫の……?」
猫と言えば……そうだ。一つ、思い浮かぶことがあった。
私が崖から落ちたあの夜、何者かに落とされる前、背後に感じた何者かの気配。あの時に聞いた声は、猫の鳴き声に似ていた気がする。落ちるのが怖かったせいでよく覚えていないけれど、もしかしたら、私は猫に落とされたのかもしれない。背中に当たった時の感触も、それくらいの大きさだった。
そんな考えをフェニさんに伝えると、彼女はきょとんとした顔をして、
「猫に落とされた、ですって? まさか、普通の猫が何の理由もなく人を襲うなんてあり得ないわ。それに、今時森に野生の猫なんているわけないし」
容赦なく頭ごなしに否定されてしまった。私の思い付きは、より知識のあるフェニさんには馬鹿げた話だったみたいだ。
そう、だよな。普通に考えれば、そんなことはあり得ないよな……。
「……でも、そうね。そういう考え方もあるのかしら」
落ち込んだ私を見て、フェニさんは励ますようにそう付け足した。
「え……そういう考え方って、どういう考え方ですか?」
「人じゃなくて、動物に落とされたのかもってこと。猫でなくとも、小さくて危ない生き物はどこにでもいるわ。向こうがどんな理由でそんなことをしたのかはわからないけど、それが本当なら、あなたが落ちたのは、あなた自身の不注意ってことになるわね」
「う……不注意、ですか」
そう言われてしまうと、もう何も反論できない。彼女の言葉通り、こちらに非があったことは確かだ。早い話、私があんな崖っぷちに近付かなければ、海に落ちるなんてことにはならなかったのだ。
「まあ、そこら辺の難しいことは、あの二人が解明してくれるでしょう。今日ちょうど、その現場に行ってるわけだし。だから、あなたは安心していいのよ。もうそんな怖いことにはならないから」
フェニさんはそう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。子供のような扱いが少し恥ずかしくて、照れてしまう。
「うあ、えと、その……」
恥ずかしくなった私は、顔を真っ赤にしながら話題を逸らした。
「あ、あの、名前のこともそうですけど……服、ありがとうございました。他にも、寝る場所とか、食事とか、色々」
「ああ、いいのよ。あの子もいらないって言ってたし、あなたが使ってくれるのなら、その方が役に立つわ。それに、よく似合っていたわよ」
「えっ、あ、ありがとう、ございます……」
真正面からの褒め言葉に、私は少し、照れてしまった。可愛いとか、似合っているとか。そういった他愛のない言葉でも、なぜだか凄く嬉しい。
「折角だから、いくつかあなたにあげる。名前がわかったお祝い、ってほどじゃないけど、まだまだ昔のが余ってるの」
「え、いい、んですか?」
「もちろん。むしろもらってくれるとありがたいわ。じゃあ、早速選びましょう。えっと、確かあそこに入れてたはずだから……」
そう言ってフェニさんは、私を昨日の部屋に連れていった。
ベッドに私を座らせたフェニさんは、いくつかある棚の前に屈み込んだ。私はその後ろから、フェニさんがああでもないこうでもないと呟きながら、フィキさんの昔の服を引っ張り出すのを眺める。
「これは二年前に着なくなったものだから、まだ大丈夫。こっちは……ちょっと古すぎるかしら。あ、ねぇ、これなんかどう?」
「えっ、あ、えっと……」
フェニさんが最初に広げて見せたのは、薄いクリーム色のワンピース。スカートや袖の部分にフリルがあしらわれていて、可愛さに重点を置いた形になっている。なんだか、女の子が着る服の代表、といった感じだ。
あれを私が着る、のだろうか。あまり自分が着ているところを想像できない。
「どう、なんでしょう。よく、わかりません」
「そうよねぇ。着てみないことには、似合うも何もわからないわよね」
私の返答を聞くと、彼女はワンピースをベッドの上に投げ出して、次の服を手に取った。
ズボン。スカート。下着に上着。長い靴下もあれば短い靴下もある。それでも服はまだまだ出てくる。ワンピースは十着ほど。白のネグリジェだけも五、六着。スカートやシャツに至っては、何十着も同じような物が入っていた。娘さんは相当おしゃれに凝っていたようだ。
「た、沢山ありますね……本当に、これを全部もらっちゃっていいんですか?」
「ええ。何しろ、娘が一番おしゃれしてた時の物だから。今はもう、そこまででもないんだけど。女の子にはみんな、そういう年頃があるものよ」
どこか昔を懐かしむような言葉。フェニさん自身にも、服装にこだわっていた時期があったのだろうか。
色々聞いてみたいことはあったけど、まずは服の選定が先だ。他にも出てきた服を色々見せてもらった結果。とりあえず、まだ使えそうな下着と寝間着、それからシャツの洗い替えを何着か頂くことにした。
……下着を手に取る時に、少しだけ恥ずかしいなと思ったのは、上手く隠せていただろうか。
「それだけでいいの? もうちょっと持っていくかと思ったのに」
「いえ。今のところは、これで十分です。ありがとうございました」
まだまだ沢山残っていたけれど、私はここに住んでいるわけではないので、あまり沢山もらっても収納する場所に困ってしまう。なので、今ここでもらう服は最小限に留めておいた。
その後、選んだ服を綺麗に畳んでいると、フェニさんが突然、
「あ、そういえばあなた、今日髪の手入れはした?」
と聞いてきた。髪なんて、どうしてそんなことを聞くんだろう。
「髪、ですか? いえ、特には、何もしてませんけど……」
質問の意図がわからないが、正直に本当のことを言う。そもそも、髪のことなんて何も考えていなかった。確かに昨日よりは少しボサボサしているかもしれないけれど、それだけだ。けれど彼女は、そんな考えでは駄目だと首を振った。
「ああ、やっぱり。駄目よ? 髪は女の命なんだから、毎日ちゃんとお手入れしないと」
「えっ、そう、なんですか。私にはちょっと、よくわからないんですけど……」
髪の毛がそんなに重要だなんて知らなかった。でも、いきなりそんなことを言われても……手入れって、具体的に何をすればいいんだろう。
「あら、そう。こんなことまで忘れちゃってるなんて、本当に……ああ、いや。何でもないわ。とにかく、今すぐにでもお手入れしないといけないわね」
そう言うと彼女は、別の引き出しから赤色の櫛を取り出して、私の髪を梳かしてくれると言った。
「これだけでも結構変わるんだから」
「え、でも、わざわざしてもらわなくても……」
「そんなに遠慮しないでいいわ。あなたは髪が長いんだし、手入れするのも大変でしょう?」
彼女にはあまり迷惑をかけたくなかったが、私は髪の毛の梳かし方なんて知らない。結局断り切れずに、椅子に座って背中を向ける。
「その、何から何まですみません」
「いいのよ。私がこうしてあげたいんだから、あなたはじっとしてて」
その言葉に従って、私はフェニさんの慣れた手つきに身を任せた。やっぱり、やってもらったほうが圧倒的に楽だ。次はちゃんと自分でできるように、このやり方を覚えておこう。
自分の髪が櫛をすり抜けていく音を聞きながら、いい機会だからと、今までずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「……あの、フェニさん。一つ聞いてもいいですか」
「なあに?」
「変な質問かもしれませんけど、その……この耳って、どうしてこんなに長いんですか?」
「え?」
私の素朴な疑問に、フェニさんは驚いたように手を止めた。
「レイラちゃん、あなた……自分の種族のことまで、忘れてしまったの?」
「へ……種、族?」
それは、えっと……なんのこと? もしかして、結構当たり前なことを聞いてしまったのだろうか。そんな不安が頭をかすめる。
戸惑う私の様子に、フェニさんはハッとして、
「あ、ごめんね。まずは質問に答えるわ。この耳はね、あなたが『森の妖精』という種族であることの証なの」
「える、エルフ……?」
それは、初めて聞く言葉だった。先ほど見付けた私の名前のように、意味のない文字の羅列としか思えない。
「それが私の種族、なんですか」
「ええ、そうよ。私もそう。私の子供は夫が人間だから半分だけなんだけど、一応エルフ。まあ、見た目でわかる特徴だけなら、耳が長い人のことをエルフっていうの。他の特徴といえば、魔法が比較的得意だったり、森に好かれやすかったり……」
どんどん進むフェニさんの話。その中に、また知らない単語が出てきた。
「ちょ、ちょっと待ってください。魔法ってなんですか?」
「え? あー、魔法っていうのはあれよ。物を動かしたり、明かりを点けたりする時に使う。ええと、なんて言ったかしら……忘れちゃったわね。とにかく、魔法を使えばわざわざ体を動かさなくても、色々なことができるのよ」
「は、はぁ……?」
「魔法が得意なのは、私達エルフと、竜人と、地の妖精辺りね。獣人はどの種も苦手らしいけど、一部の子はそうでもないわね。翼人はまるっきり駄目らしいし……」
「え、あ、えっと……?」
魔法なんていう理解不能な単語に続いて、竜がどうとか、童話がどうとか。私には、彼女が何を言っているのかまるでわからない。
知らない言葉の連続に、私はついに頭を抱えた。難しい専門用語を並べ立てられて頭が混乱する。この人にとっては常識なのかもしれないけど……ああ、もう駄目だ。理解できない。
「ええっと……難しかった、かしら?」
「う……はい」
嘘をついても仕方ないので、正直に頷く。すると、フェニさんは少し考えてから、
「そう……じゃあ、そうね。一つひとつ説明していきましょう」
「すみません。こんなことまで、教えてもらって」
「そんなに自分を卑下することはないわ。わからないことは誰にだってあるもの。えっとじゃあ、まずは自分の種族のことからね。さっきも言ったけど、私達エルフは耳が長くて、魔法が得意。森で生まれたと言われているからか、草木や動物なんかの自然の物が好きだったり、逆に好かれたりするの。人間と比べると結構長生きで、健康な人だと、二、三百年くらい生きるわ。その他は、人間と大体一緒かしら」
「森で、生まれた?」
その話はまるで、二日前の私のようだと思った。それに、長くて三百年も生きるなんて……もしかすると、幼く見える私の体も、自覚がないだけで、もう何十と歳を取っていたりするのだろうか。
「ええ。お伽話とか神話とか、そういう大昔のお話によくあるのよ。人間に恋をした森の妖精が、神様にお願いして結婚させてもらう。そして、その二人の間に生まれた子供が、世界で一番最初のエルフだと言われているの。本当かどうかは、誰にもわからないんだけどね。エルフのことを『森の妖精』なんていうこともあるけど、それはきっと、そのお話からきている解釈だと思うわ」
「そうなんですか……」
妖精、神様……本当に、まるっきり物語の世界だ。いや、どちらかというと、神話だろうか。でも、エルフについては、少しだけわかったような気がする。自然が好き、か。あの森にいる時に感じた懐かしさは、きっと私の種族がエルフだったからなのだろう。一つ、納得。
「どうかな。自分がエルフだっていう自覚、出てきたかしら。もし気になるのなら、どこかからそういう本を借りてきてあげましょうか? うちのはもう、その手の本は片付けちゃって」
「あ、いえ。そこまでは、いいです。お話だけでも、十分わかりましたので。じゃあ次の、魔法のことを、教えてください」
「魔法ねぇ。これはちょっと、言葉で説明するのは難しいわね」
そう言って、彼女は少し考え込んだ。さっきもなんだか言いにくそうにしていたし、魔法というのはそんなに複雑な、あるいは、当たり前のものなのだろうか。
「うーん……まあ、見てもらえば早いでしょう」
「見る?」
首を傾げる私の前に、髪を梳かす手を止めたフェニさんがやってきた。魔法がいったいどんなものなのか気になって、静かに彼女の動向を見守る。
「じゃあ、やるわね」
「あ、はい」
彼女は両手の平を上にして広げ、軽く息を吹きかけた。するとどうだろう。広げた手の平から透明な球体が現れ、空中にふわふわと浮かび上がったではないか。それも一つではない。彼女の手の平から次々と、沢山の球体が生まれ、部屋の中を自由に浮かび始める。
「わ、な、何ですか、これっ……」
驚いて、思わず身を引く。シャボン玉のようではあるけれど、少し違う。玉の輪郭は不自然に歪んでいて、なんだか、そう。中に透明な液体が詰まっている、みたいな感じ。
「簡単な水の玉よ。単純に浮かせてるだけ」
「水……さ、触っても、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
両手を差し出して、浮かぶ玉の一つを手の平に受け止める。
……冷たい。そして、脆いようでいて柔らかい。このまま食べる――いや、飲むこともできそうだ。少しの間手の上に乗った水玉は軽く跳ねて、また空中に戻っていく。ちょっと、面白い。
「これが、魔法、なんですか」
水がこんな風に浮かぶなんて、普通はあり得ない。それを可能にしているのが、魔法という技術なのか。
「そう。使い方によっては、もっと凄いこともできちゃうのよ」
彼女が軽く手を振ると、今度は空中にいくつかのコップが現れた。浮かんでいた水玉はそのコップに吸い込まれ、一つを私の手に、もう一つをフェニさんの手元に残し、他は机の上に収まった。
「こんな感じ。どう、わかってもらえたかしら」
彼女は私にそう聞いて、手元に残した水で喉を潤した。凄い、あれ全部本物の水だったんだ。こちらもひと口水を飲んでみてから、彼女の質問に答える。本当にただの水だった。
「ええと……凄いこと、普通じゃできないことができる、ってことは、何となく」
「んー、そう。普通じゃないこと、か……。まあ、あなたの中の普通がどんなものなのかはわからないけど、大体そんな感じで合ってるわね。自然現象を操る力、って言われたりもするし」
私の中の、普通……?
フェニさんの発したその言葉が、深く心に響く。それは、まだ自分でもよくわかっていない、大きな疑問の一つだった。
私にとってどれが普通で、どれが普通じゃないのか。その判断基準がどこにあるのか。それは私にもわからない。感覚的に、ただなんとなく、で勝手に判断しているだけだ。
この魔法のこともそう。私は魔法のことなんて知らなかったし、こんな風に、水玉を浮かせることができるなんてあり得ないと思った。だから、普通じゃないと言った。でも、彼女にとってそれは普通のことで、きっと他にもできる人はいる。さっきのエルフの話だって同じだ。
私が当たり前じゃないと思っていることが、他の人にとっては当たり前。なんだかあまり、気持ちのいい感覚じゃない。
記憶喪失だから仕方がない、と言えばそれまでだけど……。時折、私にわからないことが多いのは、単に『思い出せない』からではなくて、本当に『知らない』のではないか、と思うことがある。今回の話も、そんな感じがする。
そんな疑念を抱いていると、彼女は重ねて、信じられないことを言った。
「で、どうかしら。あなたもエルフなんだから、これくらいのことは普通にできるはずなんだけど」
「え!? わ、私にも、ですか? でもその、やり方とか、何もわからないんですけど……」
魔法が現実に存在することは、今見たばかりなので理解できる。けれど、魔法というものがいったいどういうものなのか、魔法を使うには何をどうすればいいのかが、何もわからなかった。自分がエルフなのだと説明されても、それは変わらない。
困り顔の私に、フェニさんは少し考えてから、
「魔法っていうのは、一応学校で勉強するようなことでもあるんだけど、半分は感覚的な話なのよ。特に元々魔法が得意な種族にもなると、生まれて数ヶ月の頃から使える人もいるくらい。でも、そういう才能がなくても、エルフならだいたい五歳までには、何かしらできるようになるわ。言葉と同じ。周りが使っていれば、自然とできるようになるのよ」
「そ、そう、なんですか……」
ということは、私の周りには魔法を使っている人がいなかった、ということになるのだろうか。けれど、この世界では魔法を使うのが当たり前みたいだし……どういうことなのだろう。
「一応、全部言葉で説明することもできるわよ。さっきのでいうと、まず水が丸くなって浮くっていうこと、つまり結果を想像するの。その後……ここちょっと説明が難しいところなんだけど、魔力――体の中にある魔法の力を、その想像した結果と結び付けるの。そうすれば、想像した通りに水が出てくれる。でも、それだけじゃ上手くできない人が多くて、特定の言葉、呪文を発することで魔法を使う人もいるわ。結果を描いた陣を使えば、わざわざ頭の中で考えなくともいいし、呪文もいらない。決めの手段はなんでもいいけど、とにかく、結果を想像することと、それに力を与えることが重要なの」
「はぁ……」
彼女の説明は抽象的な部分が多くて、少々、わかりにくい。私の想像力が乏しいからなのか、始まりと終わりの間の道筋がよくわからず、魔法というものの全体像がはっきりしない。なんとなくのイメージすら、私にはできていなかった。
「とにかく、やってみましょう。言葉で変に説明するより、やってみたほうが絶対にわかりやすいから」
「それは、そう、ですね……」
でも、本当にできるかどうか、不安だ。
そういうわけで、私はフェニさんの言っていた通りに、魔法を使おうと頑張ってみた。けれど案の定というか、どれだけやっても上手くいかない。
手の平を出して、その上に水の玉ができるイメージ。そしてそれを、体の中にある魔法の力?を使って……。と、ここでどうしても詰まる。そもそも『体内にある魔法の力』とは、いったい何のことなのだろう。そこが理解できなければ、私は一生魔法が使えないような気がする。
「……やっぱり、駄目、です。いくらやっても、わかりません」
水ではなく汗が出てきた手の平を投げ出して、私は深く溜息を吐いた。
「ふむ、おかしいわねぇ。こういう感覚的なことは、頭より体で覚えていることのほうが多いから、記憶がなくなってもできることはできると思うのだけれど……」
「そう、なんですか。……すみません」
「謝るようなことじゃないわ。普通に生活していれば、魔法が使えないくらいで困ることはそう多くないし」
使えないものはしょうがない。フェニさんの慰めるような言葉に甘えた私は、魔法について、また違うことを聞いてみることにした。
「……じゃあその、話は少し変わるんですけど、魔法って、どんなところで使われてるんですか? 昨日も今日も、あんまり魔法っていうものを使っている様子がなかったので……」
「あら、そうなの? 知らなかったらわからないのかしら。魔法は本当に、色々なところに使われているわよ。例えば……そうね。あそこを見てみて」
フェニさんが示したのは、部屋の扉の横、私のちょうど胸の高さ辺りにある、小さなボタン。そんな所にボタンがあることに、今初めて気が付いた。
「あれを押せば部屋の明かりが点くんだけど、その仕組みには魔法が使われているの。詳しいことを言い出したらきりがないから、説明は省くけど、全部の部屋がそんな感じ。後、この建物が簡単に壊れないよう魔法で補強してあるし、他にも、洗濯とか料理とか、お掃除も全部、魔法でちゃちゃっとやってるわ」
「え、お料理も、ですか?」
じゃあ、昨日フェニさんが鍋を回していたのはどういうことなのだろうか。そのことを聞いてみると、彼女は、
「ああ、あの時は最後の確認だったのよ。やっぱり味は自分で確認したいじゃない。それに、料理をするのは好きなほうだし。でも、お店が忙しい時は、野菜を切るのからぐつぐつ煮込むまで、全部魔法よ。今も台所でお昼の準備をしているの。側から見れば、お玉が勝手に鍋を回しているように見えるかもしれないわね」
「えっ、ていうことは、掃除も洗濯も、勝手に道具が動くんですか?」
「そうよ。当たり前じゃない」
驚く私に、彼女は不思議な顔を向けてくる。
そう、か。ここではそれが、当たり前なのか。やっぱり私、どこかズレてるな……。
「知らなかった……みなさんそんなに、普通に使っているんですね」
「そうね。魔法がない生活なんて考えたこともないわ。でも、さっきも言った通り、今の時代なら、魔法が使えなくたってそんなに困らないわよ。あのスイッチは押す人が魔法を使えなくても普通に明かりが点くし、別に魔法でなくても、料理や洗濯はできるし。翼人の人達はそういう生活をしてるって、この間お客さんから聞いたばかりなの。凄いわねぇ、いったいどんな方法で明かりを付けているのかしら……」
そんなことを言いながら彼女は立ち上がり、実際に扉横のスイッチをカチッと押した。すると、天井に付いていた白い玉が淡い光を放ち始め、もう一度フェニさんがボタンを触ると、消える。本当にそれだけの動作で、光を点けたり消したりすることができるようだ。魔法ってやっぱり凄い。
「魔法についてはこのくらいよ。他に聞きたいことはない?」
「あ……じゃあ、さっきも話してくれた種族のこと、いいですか? 翼人とか、なんとかって」
「もちろん。私達エルフのことはもういいわよね。じゃ、その他の種族のことなんだけど――」
そうして彼女が話してくれた内容は、大まかに言うとこうだ。
まずは竜人。彼らは、人間と竜がかけ合わさって生まれた種族。ドラゴンというのは、よくお伽話なんかに出てくる巨大なトカゲの怪物らしい。大きな翼があって、火を吹いて、気まぐれに人を襲う。そんな生き物が人の形をしていると言えば想像しやすい。
彼らの特徴は人それぞれで、体に鱗が生えていたり、尻尾があったり。人によっては翼もある。肉体の見た目はほとんど人間だけど、瞳孔の形が違ったり、見た目に反した力持ちだったりと、見えにくい部分で大きく異なっていることもあるそうだ。
次にドワーフ。これはエルフと似ている種族で、大地の妖精と人間との間に生まれた間の子。洞窟などの地面の中を好み、そのせいか、ドワーフの人達はみんな背が低い。手先が器用で物を作る仕事が得意。武具や家具などの製作を彼らに任せれば、他の種族が作るよりも良い物が出来上がるという。
三番目に獣人。獣の人と書く通り、犬や猫、牛や兎などと人間との間に生まれた種族。基本的には、混ざり合ったその獣が得意なこと――爪が鋭いだとか目や鼻が良いとか――が普通の人間より秀でている。その見た目は様々で、人間に耳と尻尾が付いただけだったり、人によっては、それこそ人の形をした獣という容姿だったりする。獣の種類ごとに、派閥や縄張りなんかがあるらしい。
そして、最後に翼人。背中に翼が生えていて、空を飛ぶことができる人達だ。鳥系の生き物と人間との間に生まれた種で、彼らの歴史は他の種族と比べると浅いらしい。とはいえ、それでも何千年も前からいる種族だ。基本的には海の向こうの国に住んでいて、高い山の上に町を築いて生活しているらしい。フェニさんが先ほど言っていた通り、魔法が全然使えないのだそうだ。
フェニさんが教えてくれたのは、主にその四つの種族についてだった。私もそれらしき人達を町で見かけているので、なんとなく理解することはできる。けれど、その人達に関連する知識が何もないことが、本当に不思議だった。
「とまあ、大体こんな感じ。他にもいくつかいたような気がするけど、最近はあんまり見なくなったし、今のところはこれでいいでしょう。人魚なんてもう伝説になっちゃったし……。今の説明で、何かわからないこととか、気になったこととかはあった?」
「あ、じゃあその、いくつか。最後の翼人の話なんですけど、この海の向こうに、また別の国があるんですか?」
「ええ、そうよ。名前は確か……『デラント共和国』だったかしら。でも、さっき話した翼人の住んでる国は、もっと向こうの方にあるって聞いたわ。あ、そうそう。ちなみにここは『エインノーム連合王国』っていうのよ。この大陸全部をまとめてる、大きな国」
「あ、はあ……」
共和、連合、王……うーん、なんだか難しい言葉が出てきた。それに、徐々に話のスケールが大きくなっている気がする。大陸などと言われても、正直あまりピンとこない。
首を傾げた私に、フェニさんは、
「あら、難しかった? まあ、普通に生活している限りじゃ名前を聞くことも少ないし、国のことは、無理して覚えなくてもいいわよ。ここは王都からも遠いしね。政治的な話も、滅多に聞こえないし」
この人がそう言うのなら、今のところは適当に受け流しておこう。そういうものもあると知っただけでも、私にとっては大きな進歩だ。
「他には?」
「あ、ええと……なんでみんな、他の種族と人間を比べてるんでしょうか。それに、どの種族も人間と何かが一緒になって、っていうのばかりでしたし」
「ああ、それはなんていうか、全部の基準みたいなものだから、かしら。私もなんとなくで話してたけど、よくわかってないの。きっと誰もわかっていないわ。なんでかみんな、人間のことを平均的な種族だと思っているのよ。歴史的には一番古くて、しかも、努力次第で色んなことができるから」
そう言う彼女の眼差しは、ここではないどこかを見ているかのように遠い。私には見えない特別なものに、想いを馳せているのだろうか。彼女がいったい何を思い出しているのか気になったけれど、それと同時に、あまり深入りはするべきではないとも思った。
「じゃあ……その人間についても、詳しく教えてもらってもいいですか」
「ええ、わかったわ。……人間は、そうね。彼らはあまり種族意識が強くないから、どの種族とも仲良くできるの。特別な特徴がないのが特徴、とまでは言わないけど、逆に頑張れば大抵のことができるようになる。もちろん、翼で空を飛ぶとか、そういう体の構造的なことは除いてね」
そこは確かに大きな違いだ。人間には翼人のような翼はないし、ドワーフほど手先が器用な人もそうそういない。そう考えると、人間は他の種族に比べて劣っているように思える。でも、そうじゃない。
「でも、そういうところを道具や魔法でなんとかしてしまうのが、人間という種族なの。武器もそう、乗り物もそう。そうやって世の中をどんどん便利にしていって、そこに色々な種族を巻き込んで。そうしてできたのが、この国、この時代なのよ」
「世の中を、便利に……」
それはなんとなく、わかるような気がする。道具を使うことが一番人間らしいといえばそうだけど、そうやって自分にないものを他で補おうとする性質は、人間として当たり前に持っているもののはずだ。
ただ、そこで一つの疑問が芽生えた。自分の種族であるエルフのことは何もわからなかったのに、どうして人間のことは、こんなに簡単に理解できるのだろう?
「とりあえず、これくらいでいいかしら。私も全部知ってるわけじゃないから、ちょっとわかりにくい部分もあっただろうけど」
とても沢山のことを話したからか、フェニさんは少し疲れた様子だった。色々と教えてくれた彼女に、改めてお礼を言う。
「いえ、そんな。その……凄く、わかりやすかったです」
「それなら、よかった。こっちもちゃんと説明できているか不安だったの」
みんなが知っている常識を改めて説明するのは、誰にだって難しいはず。それをこんなにわかりやすく話してくれるなんて、フェニさんは本当に凄い。
「さてと、随分長い話になっちゃったわね。ちょっと早いけど、そろそろお昼にしましょう」
そう言って、彼女はベッドから立ち上がった。まったく意識してなかったけれど、相当長い間、話に熱中していたようだ。
「え、あ、はい。もう、そんな時間だったんですか」
そうして私は、フェニさんに連れられるまま食堂に戻った。食堂では既に食事をしている人が数人いたが、まだそれほど多くない。お客さん達に食事を運んでいるフィキさんも、あんまり忙しくなさそうだ。きっと、混み出すのはこれからなのだろう。
「あ、昨日の子。おはよう、って言っても、もうお昼か。今からご飯?」
「あ、はい……お願い、します。あ、あと、その……私、名前、レイラって、いうんです。その、よろしく、お願いします……」
さっき決まったばかりの名前を自分から紹介するのは、なんだかとても気恥ずかしい。視線を彷徨わせながらも名前を伝えると、彼女は一瞬きょとんとして、それから、
「あ、名前、わかったんだね! うん、わかった。レイラ、ちゃん。用意するから、待っててね」
これでフィキさんにも、ちゃんとした名前で呼んでもらえる。それがとても嬉しくて、ついつい笑顔になる。
……帰ってきたら、あの二人にも教えよう。きっと、あの人も喜んでくれるはずだ。
忘れてしまわないようにしっかり記憶しながら、フェニさんに促されるままカウンターの対面席に座った。
フィキさんが用意してくれたお昼ご飯を食べて、お腹を膨らませる。今日は朝起きたのも遅かったから、少し軽めのメニューをお願いした。今回のご飯は魔法で作ったと言っていたけれど、料理の味は特に変わったところもなく、普通に美味しかった。
「それで、この後はどうするつもりなの? レイラちゃん」
食べ終わってひと息ついた私に、フェニさんはそう切り出した。
この後のこと、か……。
「あ……えと、そうですね。じゃあまた、出掛けてもいいですか? 今日はその、もっと早く戻ってくるので」
特にやりたいことはないけれど、強いて言えば、また海を見に行きたかった。何もせずただぼーっとしているのは、あまり良い行為とは言えないかもしれない。けれど、海を見るということは嫌いではなかったし、あの場所でじっとしているのは、とても楽なことだった。
穏やかな波の音に耳を傾け、涼しげな潮の香りを感じながら、輝く水面とその果てに想いを馳せる。何の生産性もない行動だけど、この辛い現実を一瞬でも誤魔化すには十分だ。
「そう、わかったわ。じゃあ、気を付けて行ってくるのよ」
「はい……じゃあ、行ってきます」
軽く彼女に頭を下げて、私は今日も町へ出た。
そしてその日から、それが私の日課になった。