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記憶と妖精~偽りの瞳~  作者: 夜寧歌羽
第一章 港町の宿屋
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第三話 さざめく海

「わあ……」


 外に出て最初に感じたのは、未知の世界への興味と興奮だった。どこを見ても、目に映るのは初めての物ばかり。それが少し悲しいような、嬉しいような。複雑な新鮮さが心に広がる。

 通りに面した所にはいくつものお店があり、色々な人が働いていた。洋服屋さんに薬屋さん、小さな動物を売る動物屋?さん、食事処もあれば食材屋さんもある。どうやら、ここは結構大きな町のようだ。でも……それにしては不自然なほど、道行く人々の姿は、多種多様だった。


「ん、あれ……え?」


 い、今の、人。尻尾、ある?

 犬や狐など、動物の耳や尻尾がある人。肌の色が異なる人。顔は大人なのに私よりも背丈が小さい人。腕や顔に鱗や不思議な模様がある人。背中に一対の翼が生えている人。頭の上に角がある人。そして、私やフェニさんのように、耳の長い人。

 もちろん、特にそういった特徴がない普通の人達もいたが、人間とはかけ離れた見た目をしている人達のインパクトが強すぎる。なんだか、非現実的で不思議な光景。でも周りの人は、特にそれを気にしている様子はなかった。逆に、そんな人達のことをコソコソと窺っている私のほうが浮いているくらいだ。

 そんな奇怪な容姿の人達と何度もすれ違っているうちに、私は一つ気付いた。

 ……もしかして、ここではこれが、普通のことなのだろうか。そういえばフェニさん達も、私の耳のことについては何も言っていなかったし、フィキさんに驚かれたのは目のことだけだし……。おかしいと思っている私のほうが、常識からズレているのだろうか。

 そう思って、できるだけ普通を装って歩いてみる。するとやはり、誰も私を好奇の目で見ることはなかった。周りに同化できたことで、スムーズに町を歩くことができるようになった。


 ――ふと立ち止まると、私の周りには誰もいなかった。その代わりに、目の前には一面の青。耳に入ってくる波のさざめき。


「あ……」


 すぐ側には大きな灯台があり、見上げると、雲一つない空の四分の一ほどは白い物体に覆われていた。昨日見た景色の大半を占めていた、あの巨大なお月様だ。

 どうやら、知らないうちに道を外れてしまったらしい。さっきまでの道に戻ったほうがいいだろうか。……でも、もっと近くであの海を見てみたい、という気持ちもある。

 他にやることがない以上、その誘惑を振り切るのは難しい。私は興味を引かれるまま、さらに道を外れて海の方へと歩を進めていった。

 波飛沫が足元にかかるほどの距離まで近付いたところで、私は止まった。ここは町の中のはずだというのに、この場所にはごつごつした大きな岩がいくつも。そのうちの手ごろな一つに腰を下ろす。辺りに満ちる心地の良い波音。これを聞いているだけで、なんだか心まで洗われていくような気がする。

 まだ水溜りの残る岩場にザァーッと波が押し寄せ、小さな蟹や虫がその勢いに負けて転がされている。遠くに見えるのは漁船だろうか。木でできた小さな船の上で、いくつかの人影が作業しているのが辛うじてわかる。そんな船がいくつも浮かび、近くの波止場にも数隻停泊していた。ここは港町なんだ、というのは、ついさっき聞いたばかりの言葉だったか。


「港、町……」


 海を通じた物のやり取りや、漁などで発展した町のこと……でいいのだろうか。漁といえば、魚が真っ先に思い浮かぶ。

 魚、か……。この海の中には、いったいどんな魚がいるんだろう。どれだけの種類の魚が、どれだけの数、どれだけの年月を生きてきたのだろう。ふと抱いた疑問は、その答えを知る前にカモメの鳴き声がどこかへ運んで行ってしまい、二度と戻ってくることはなかった。

 こうやって、ただひたすら果てしない海を眺め続けていると、自分という存在がとても矮小で、つまらなくて、悩んでいることがとてもくだらないと思えてしまう。

 だが、いくら自分を卑下しても、現実から逃れようとしても、頭の中を埋め尽くすこの疑問の答えが、突然降って湧くようなことはない。そんなことはもう、嫌というほどわかっている。


「……はぁ」


 もう何度目かもわからない溜息が漏れる。


「俺は、誰、なんだろう……」


 誰に問うでもない呟き。当然、答えてくれる人はいない。この場所には俺……いや、私一人しかいないのだから当たり前だ。そのことを再認識して、どうしようもなく寂しい気持ちになる。

 普通の人ならきっと「俺は俺だ」とか「私は私だ」とか言うのだろう。でも、私には、そう言えるだけの自信がない。自分の存在を裏付けるすべての記憶が、なくなってしまったから。


「どうして、こんなことに……」


 足元の潮溜まりに移るのは、記憶にはない自分の姿。色の違う目、尖った耳、長い髪に細い体。女の子になった自分。

 これがそこまでおかしくないとわかっても、そんなすぐには受け入れられない。女性らしい、しかしまだ幼さの残るその顔には、何かを諦めたような、どこか悲しげな表情が浮かんでいる。そのわずかに開かれた小さな口からまた、小さく空気が漏れる。


「はぁ……」


 ……この体のことも、どうしてそんなに違和感があるんだろう……。

 視線を戻すと、漁船は見えなくなっていた。その代わり目に付いたのは、何か荷物を運んでいるのであろう大きな帆船。穏やかな海の上を、滑るようにゆっくりと移動している。

 大きさも役割も違う船が行き交う海。人々の生活に欠かせない海。その遥か向こうからは、これでもかと言うほど巨大な月が顔を覗かせている。

 大空という背景の一部に溶け込んだそれは、視界に入るたびに見間違いではないのかと目を疑ってしまう。見るのはこれで二度目になるが、未だに信じられない。あれは本当に、あの・・月なのだろうか。もしかしてここは、以前の私ですら知らない世界なのではないか――。

 そんな取り留めのない空想を断ち切るように、遠くで魚が跳ねた。いや、それは果たして魚だったのか。この不思議な海には、首があんなにも長く、巨大な魚が息づいているのだろうか。

 気が付くと、あの大きな船もまた、見えなくなっていた。


「……はぁ」


 時刻は多分お昼過ぎ。それから私は、夕日が空をオレンジに染めるまで、ずっと海を眺め続けていた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「……探したぞ。こんな所にいたのか、お前」


 不意に近付く足音。聞き覚えのある声。

 振り返ると、そこには今朝知り合ったばかりの男性――アドレさんが立っていた。相変わらず大きな剣を背負って、物騒な人だ。でも、町には他にも、剣や盾、槍などを担いでいる人がいた。だからもしかしたら、この場所では武器を持ち歩くのが普通なのかもしれない。正直、ちょっと怖い。


「あ……アドレ、さん」

「何、してたんだ。こんな所で」


 こちらに近付きながら、アドレさんはそう優しく語りかけてくる。何かを迷っているような表情と、私の様子を探るような言葉。そんなアドレさんのどこかはっきりしない態度に、私は少し、悲しくなった。

 ……気を遣わせてしまっている。それがとても申し訳なくて、でも、その微妙な距離感がありがたくて。しばらく逡巡した後、結局そのことについては何も言わず、私はまた、広大な海に視線を投げた。


「……海を、見ていました」

「ああ、なるほど。ここの海、綺麗だもんな」


 私の隣まで来たアドレさんは、私が見ている景色を隅から隅まで見渡して、率直な感想を口にした。同意の意味を込めて小さく頷く。


「他にも凄い絶景はいくつも見てきたが、ここの海も中々だ」

「そう、なんですか」


 その言葉で、彼が自分のことを旅人だと言っていたことを思い出す。

 ……この人はここに至るまでどんな町に行って、そして、どんな素晴らしい景色を見てきたのだろう。世界を巡る旅。なんだか、格好いい響きがする。

 そのことについて聞いてみようかと思った時、先にアドレさんが口を開いた。


「でー、なんだ。やっぱりまだ、自分のことは思い出せない、か?」

「あ……はい」


 歯切れの悪い問いかけに、私はもう一度頷いた。そして、目を伏せる。

 私の反応を見て、彼は軽く溜息を漏らした。まるで、先ほどまでの私のように。


「そう、か。まあ、その……なんだ。無理に、思い出そうとしなくていいんだぞ。記憶なんてものはな、いつの間にか増えて、いつの間にか減ってるもんだ。いちいち気にしたってしょうがない。それに、頭では覚えてなくても、体のほうが色々覚えていたりもする。なあに、そんなに焦らなくても、本当に必要な時に思い出すさ。だから、な。肩の力を抜いて、気を楽にしようぜ」


 途中で言葉を選ぶのを諦めたのか、アドレさんは急に饒舌になった。数時間前にも聞いた、楽観的な言葉。無責任なようにも聞こえるけれど、言いたいことをそのまま全部言ってくれるのは、ありがたい。

 気を楽に、か。それは確かに、今の私に必要なことなのだろう。でも……やっぱり、そんな簡単には納得できない。

 だから私は、ただ黙ってフードを被り直した。


「……とりあえず、今日のところは帰ろう。もうすぐ日が暮れる」

「……はい」


 私の気持ちを察したのか、アドレさんはそう言って来た道を戻り始めた。その後に続こうとして、もう一度だけ振り返る。水平線の彼方に沈みかけた太陽。静かに波打つ紅の海原。淡く光り始めた、遥か遠くの大きな月。

 青、赤、黒、と色を変えていく海に、もう船は一隻も見えなかった。


 アドレさんとはそれ以上言葉を交わさず、フェニさんの宿屋まで戻ってきた。一階の食堂には、私がここを出た時のような静けさはなく、いったいどこから来たのかと思うほど、大量の人でごった返していた。

 ……凄い。なんだか、昼間とは全然違う場所みたいだ。


「ん? どうした、入らないのか?」

「あ、いえ……」


 その変わりように思わず足を止めた私に、扉を開けたアドレさんが振り返る。促されるまま中に入ると、独特なにおいを感じた。

 これは……お酒、だろうか。なんか、変な感じがする。


「いらっしゃい。あら、あなただったの。じゃあ、お帰りなさいね。遅かったじゃない」


 扉の呼び鈴に顔を向けたフェニさん。彼女は入ってきたのが私達だと気付くと、そう言ってこちらに向かってきた。その手に持ったお盆には、料理の盛られたお皿と、泡立つ黄色っぽい液体の入ったグラス。ああ、やっぱりお酒だ。


「あ……すみません。遅くなってしまって」

「いいわよ、ちゃんと帰ってきてくれたんだから。あ、晩御飯食べるでしょ? ええと、確か席が……あそこね。カイが先に座ってるわ。すぐに持ってきてあげるから、あなたも座って待ってなさい」

「はい……」


 強く咎められたわけではないが、気にされるほど時間が遅くなってしまった。気を付けないと。今度は、もう少し早く帰ってこよう。


「まあまあ、そうしょげんなって」

「……はい」


 わかっていても、気にせずにはいられない。

 フェニさんに言われた通り、先に戻っていたカイさんのところに向かう。カウンターに近い四人掛けの席だ。私が近付いても、カイさんは相変わらずこちらに目を向けようとしない。やはり、この人は私のことが嫌いなのだろう。必然的に、彼の隣にはアドレさんが座った。少し気まずい思いをしながら、私もアドレさんの正面の椅子に腰を下ろす。


「……」

「う……」


 カイさんとの雰囲気があまりに悪かったので、私は座ったばかりだったが、逃げるように席を立った。


「あ、あの、ちょっと、お手洗い、行ってきます……」

「ん? あ、そうか。わかった」


 気を紛らわすためでもあったが、実際に尿意を感じていた。

 ちょうど手の空いていたフェニさんに場所を教えてもらって、中に入る。そして、個室に入って下着を下ろすと、ここでもまた、着替えをした時と同じ恥ずかしさを感じた。なんだか、こう、生理的に色々恥ずかしい。考えただけでも顔が熱くなってしまうような、そんな感覚がする。他にも、色々と違和感があって……。

 ……うぅ、早く済ませて、戻ろう。

 トイレに入ったのは逆効果だったかもしれない。そう思いながら私が席に戻ると、カイさんは一ミリたりとも動いていなかった。彼の様子を伺いながらまた同じ場所に座るけれど、反応なし。やはり、気まずい。

 フェニさんが料理を運んで来たのは、そんな時だった。


「はい、お待ちどうさま」

「お、来たな。いやー、待ちくたびれたぜ」

「はいはい、好きなだけ食べてお金落としていきなさい」


 そんな憎まれ口を叩きながら、彼女は私達の前にそれぞれお盆を置いていく。夜ご飯は、魚の煮付けと、ご飯と、野菜と、お味噌汁だった。


「どうぞ、あなたの分よ」

「あ……ありがとう、ございます」


 お昼のスープとはまた違った、美味しそうな香り。これらは全部、フェニさんの手作りなのだろうか。これだけ沢山の人のために作るなんて、きっと毎日大変なのだろう。


「召し上がれ。今回はちゃんとお代わりもあるからね。どんどん食べちゃって」

「は、はい。いただきます」


 もう食べ始めていた正面の二人に合わせるように、私も手を合わせて食事を始める。その頃にはフェニさんも次のお客さんの対応に行ってしまったが、私はつい、料理の感想を呟いていた。


「……美味しい」

「そうだなぁ。確かに美味い。他にも評判のいい店は結構あるが、ここも中々だな」

「はい……」


 アドレさんの評価に同意しながら、箸を進めていく。おかずも野菜もそれなりの量があり、お皿の上が綺麗になっていくのに比例して、お腹はちゃんと膨れていった。お代わりをしてもいいと言われたが、その必要はないだろう。


「……なあ。お前、今日は何してたんだ? 昼食べた後に出てったって聞いたが」


 私がお店を出たことが気になっていたのか、食事の合間にアドレさんが聞いてくる。


「あ、はい。あの後はずっと、あそこで海を見ていました」

「ずっとって……ずっとか?」

「はい。そう、ですけど」

「半日中?」

「はい」


 私の言葉が信じられなかったのか、彼はそう何度も確認してくる。別に嘘なんか吐いていない。私はずっと、あの場所にいた。そして考えていた。自分はいったい何者なのか。なぜ記憶をなくしてしまったのかを。

 ……結局、何も思い出せないままだったけど。


「はぁ、そうなのか。……なんか、他にやることなかったのか?」

「う……はい」

「そうか……」


 私だって他にやりたいことがあれば、そちらを優先していた。でも、なかった。だからずっと、あそこで海を見ていたんだ。

 彼との会話はそこで途絶えた。また、気まずい空気が濃くなったような気がした。

 私が食事を終える頃、先に食べ終わっていたアドレさんが、カウンターの方に呼びかけた。


「はぁ、今日は久々に酒でも飲むか。おーい、フェニ。酒を頼むー!」


 既に酔っているのではないかと思える大声にびっくりする。さっき話していた時は我慢していたのだろうか。そんな彼の小脇にカイさんの肘が入った。


「いてっ、何すんだよ。いいじゃねえか酒くらい」

「……うるさい」


 周りにはまだまだ人がいて、お酒や料理を次々と注文している。そんな中、先ほどの注文を聞いたフェニさんが、アドレさんへのお酒を持ってきた。


「ほら、麦酒よ。これでいいでしょ?」

「おう、ありがとよ」


 アドレさんは出されたグラスを一気に呷って、実に満足そうだ。そうしてフェニさんが私達の食器を片付けている間に、今回の食事のお礼をしておく。


「あ、フェニさん。ごちそうさま、でした。その、凄く美味しかった、です」

「あら、よかった。そう言ってもらえると、私も嬉しいわ。あなたも、今日は大変だったわね」

「あ……はい」


 言葉を適当に濁す。大変と言えば大変だったが、私自身は何もしていない。何もできなかった、と言うほうが正しいだろう。


「まあ、しばらくの間は泊めてあげるから、ゆっくりしていきなさいな。その間に、自分に何ができるのかを確かめていきましょう。私も手伝ってあげる」

「はい……すみません、本当に」


 こんな私のために、ここまでしてくれるなんて……なんて優しい人なんだろう。この人にも仕事があって、やるべきことが沢山あるはずなのに。彼女の好意を申し訳なく思いながらも、ありがたく受け取っておく。今はただ受け取ることしかできないことが、歯痒かった。


「それで、あなたの部屋なんだけど、この二人と同じ部屋でもいい? もう他に空きがなくって」

「あ、いえ。別に、構いません」


 寝る場所があるだけでありがたい。そう思って、私は快く承諾する。まったく知らない人と一緒、という訳でないなら問題ない。

 ……カイさんのことは、少し不安ではあるけれど。まあでも、別に私に変なことをしてくるわけじゃないから、大丈夫、だよね。


「ああ、そういえば、まだ部屋取ってなかったな。俺達、三人部屋なのか?」


 お酒のグラスを机の上に置いて、思い出したようにアドレさんが聞く。


「そうよ。さっきも言ったでしょ、他に空きがないの。本当は私達家族の部屋を使えればよかったんだけど、夜は夫が帰ってくるから。ごめんね、こんな奴と一緒で。何か嫌なことされたら、すぐに大声出すのよ?」

「え、は、はぁ……わかり、ました」


 どういった反応を返していいかわからず、適当な返事をしてしまう。すると間を置かずに、アドレさんが声を上げた。


「おいおい、お前、俺がこいつにそんなことすると思うのかよ」

「何度言わせるの? あんたのことなんか、信用できるわけないじゃない。あの時自分が何をしたのか、忘れたとは言わせないわよ」

「だからあれは誤解だって言ってるだろ。それに、もう何年も前のことじゃないか」

「ふん、信用できないって言ってるでしょ。……まあでも、あの時のことは差し置いても、この子を泣かせたことは、まだ記憶に新しいわよね?」


 彼女は多分、今朝私がフェニさんに泣きついてしまったことを言っているのだろう。その時のことを思い出して、また少し頬が赤くなる。


「む……はぁ、わかった。発言には気を付けるつもりだ」

「結構。じゃ、また明日ね。寝間着は部屋に置いてあるから、それを使って。娘が昔使っていたものだけれど、朝のもちゃんと着れてたし、多分大丈夫でしょう」

「あ、はい。わかりました。……その、ありがとうございます。色々と、何から何まで」


 今日一日だけで、もう感謝してもし切れないほどの恩を受けてしまった。もうどうやって返せばいいのかわからないくらいだ。


「いいのよ。困っている人がいれば、助けるのが当たり前でしょ?」


 けれど彼女はそう言って、また今朝のようにニッコリ笑った。この人の笑顔は、本当に美しい。月の輝きにも負けていない。フェニさんは本当に、笑顔が似合う優しい人だ。


「よーし。腹も膨れて、話もひと段落したみたいだし、俺達は部屋に行くとするか。お前も来るか?」


 グラスいっぱいのお酒を飲み干したアドレさんが、そう言って席を立つ。

 じゃあ、アドレさんが行くのなら、私も……。


「そう、ですね。じゃあその、おやすみなさい、です。フェニさん」

「ええ、おやすみ。部屋は三階の突き当たりね。あ、ちゃんと体を綺麗にしてから寝るのよ?」

「は、はい」


 フェニさんの言葉に頷いて、鍵を受け取ったアドレさんに続いて階段を登っていく。三階まで上がって廊下をまっすぐ進むと、そこが私達の使う部屋だ。

 部屋の形は今朝いた場所とほとんど一緒だが、三人部屋ということで、綺麗に整えられたベッドが三つ置かれている。一番窓際のベッドの上には、彼女の言っていた私の寝間着。アドレさんにどこで寝るか先に選んでいいと言われたので、私はとりあえず、服が置いてあった場所を選んだ。

 それで、その服のことなのだけど……。


「え、ええっと……」


 置いてあった服を持って、さりげなく二人に視線を送る。


「ん? あ、着替えが必要か。じゃあ、俺達は外で待ってるからな」

「は、はい……ありがとう、ございます」


 こちらの言わんとしていることを察してくれた二人は、荷物だけ置いて部屋を出た。着替えるから出て行け、なんて言い出すのにも抵抗があったので、とてもありがたい。

 まだ今朝のような恥ずかしさもあったが、あまり長く待たせては申し訳ないと思い、急いで服を脱いで、用意されていた濡れタオルで手早く体を拭いた。そして寝間着を頭から被り、二人を呼びに行く。着ていた服は適当に畳んで棚の上だ。


「あの……終わり、ました」

「おう。じゃ、俺達は荷物の整理でもするかな」

「あの、私も出ていったほうが……」


 二人だって着替えがあるだろう。そう思っての言葉だったが、部屋に入ったアドレさんは、椅子に腰掛けて首を振った。


「ああいや、その必要はない。いちいち着替えるのは面倒だし、そもそも寝間着なんて持ってないからな。そんなもんを持ち歩いてると、荷物が多くなっちまう」

「え、そう、なんですか……」


 驚いた。旅をしていると、服のたった一枚でも節約しないといけないのか。大変な生活だ。でも、やっぱりちょっと憧れる。毎日色んな発見があって、楽しそう。


「とにかく、俺達はやることやってから寝る。お前は先に寝てろ。外はもう真っ暗だし、時間も遅い」

「あ……はい。わかりました。じゃあ、おやすみなさい、です」

「ああ。また明日な」


 アドレさんに促されてベッドに入る。目を閉じると、すぐに眠たくなってきた。今日はずっと海を眺めていただけだが、体は相当疲れていたらしい。そしてそれ以上に、心のほうは疲れているのだろう。

 昨日も今日も、本当に色々なことがあった。どれもこれもまるで夢みたいな体験ばかりで、まだ信じられない部分も多い。体のことや耳のこと。町の人々のこと。あの森で起こったこと。もちろん、思い出せない記憶のことも。けれど、よかった。アドレさん、カイさん、フェニさん。彼らに助けられて、本当に良かった。

 そんなことを考えているうちに眠気は強くなり、二人が隣で荷物の整理をする物音もあったが、私はそのまま、ぼんやりと眠りに落ちて行った。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「う、ん……」


 次の日。目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。不思議な木目の描かれた天井と、風に揺れるレースのカーテン。窓から入り込んで来る爽やかな空気は、かすかに潮の香りがして――あれ、でも、この感じは……?


「あっ……」


 そこでようやく思い出した。ここはフェニさんの宿屋で、アドレさんとカイさんの部屋だ。

 ……ああ、そうだ。――じゃない。私、昨日、あの人達に助けられて、ここに……。

 体を起こして部屋の中を見回すと、隣のベッドに二人の姿はなかった。窓の外は既に明るい。少し、眠りすぎたのだろうか。けれどそのおかげか、頭は昨日よりすっきりしている。

 ……あの人達は、どこに行ったのだろう。

 一人でいることに不安を覚えたので、寝ぼけ眼を擦りながらも服を着替え、用を足し、下の階に向かった。トイレにはやはり、恥じらいというか、違和感のようなものを覚えた。

 階段を降りていくと、その先から人の声が聞こえた。なんとなく邪魔してはいけないと思ったので、足を止めて階段から顔を覗かせてみる。食堂はちょうど朝の賑わいが収まった頃らしく、お茶の入ったコップを持ったフェニさんが、向かいのカウンター席に座ったアドレさんと話をしていた。


「――昨日はほんとに、何の収穫もなかったからな。今日は一度外に出て、あいつが話していた崖まで足を伸ばしてみようと思う」


 漏れ聞こえてきた会話に、私は思わず、覗き込んでいた顔を引っ込めた。今のって、もしかして……。


「その前に、役場に行って行方不明者の確認をしたほうが早くないの? あの子のこと、絶対に誰かが探してるはずよ」

「いや、それは最初にやった。この町のも、他の町のもな。でも、何もなかったんだよ。あいつのことも、あいつによく似た奴の情報も。まだ全部見たわけじゃないが。近場の行方不明者名簿には、一応目を通したはずなんだがなぁ」

「そう……」


 溜息の混じったアドレさんの言葉に、押し黙るフェニさん。……私の話、をしているのだろう。あまり聞きたくない言葉が耳に入ってしまった。

 ――何の情報もなかった、か。やっぱり私は、この世界に独りぼっちなんだな……。


「ま、そう深刻に考えなくても、まだ手はある。これから一つひとつ試していくさ」

「わかったわ。こっちも色々と話をしてみるわね。もしかしたら、何か思い出すかもしれないし。記憶喪失なんて、本当に可哀想。あの子、本当に何も知らないんだわ。少なくとも、十五歳くらいではある思うのだけれど、まるで、六歳くらいの子供を相手にしているみたい」

「そうなのか……。まあ、面倒をかけるが、頼む」

「別にいいわよ。私だって助けてあげたいんだし。……ただ、勘違いしてもらったら困るわよ」

「はいはい、わかってますよ。……まったく、もう何年も前のことじゃないか。めんどくさい奴め」

「聞こえてるけど」


 徐々に悪くなっていく場の空気。その微妙に険悪な雰囲気に耐えられなくて、私は姿を出そうと一歩踏み出す。その時、カイさんが急に席を立ったので、私は驚いて、出したばかりの足を引っ込めてしまった。


「……先に行く」

「あ、おい。……ちぇ、どいつもこいつも。変わらないなぁ、あいつ」


 アドレさんの愚痴を耳に、扉に向かうカイさんを影から見送る。悪い人じゃないとは思うけれど、何を考えているのかまったくわからないせいで、やっぱり怖い。感情を押し隠しているような、馴れ合うのを嫌っているような。……どちらにしても、私と接してくれないことに変わりはない。

 カイさんがお店の扉を開けた時、一瞬彼がこちらに視線を向けたような気がして、ビクッとする。もしかして、気付かれてた?


「とにかく、俺はもう行くからな。思い出話はまた」

「わかったわよ。あんたの持ってくる情報には期待しといてやるわ」


 二人がお店を出ていって、窓からも姿が見えなくなるのを確かめる。そこで私はようやく姿を現して、フェニさんに声をかけた。


「あ、あのぉ……」

「あら、おはよう。よく眠れたかしら?」


 恐る恐る挨拶すると、昨日と同じ朗らかな笑みを向けられる。盗み聞きをしていたことは、彼女にはバレていないみたいだ。


「おはようございます。おかげさまで、本当によく眠れました」


 あのベッドの寝心地は最高だった。本当のことを言うと、朝起きた時、もうずっとこのまま眠っていたいと思っていた。でも、部屋にあの二人がいなかったから、こうして起きてきた。それほど安心して眠ることができたのも、この人のおかげだ。


「それはよかったわ。じゃあ、朝ご飯にしましょう。一日の始まりはきちんと食べないと」

「あ、はい」


 既に用意してあったようで、彼女はすぐお皿に料理を盛り付けてくれた。湯気の立つ温かい食事。今回は、トースト、サラダ、目玉焼きと少し軽めのメニューだ。朝は忙しい人も多いので、時間がなくてもすぐに食べられるような献立を考えているらしい。その思惑通り、私が食べ終わるまでにそう時間はかからなかった。


「……ごちそうさまでした。今日も、美味しかったです」


 食器を返しながら、感謝の言葉を伝える。何かしてもらうたびにこう言っているが、こんな言葉だけでは何度言っても、受けた恩と釣り合うことはないのだろう。


「あなたは本当に、毎回美味しそうに食べてくれるわね。ありがとう。こっちも作り甲斐があるわ」


 それでも彼女が嬉しく思ってくれるのなら、私は何度でも言おう。褒められて嫌な顔をする人はいないし、悪いことにだってならないはずだ。

 渡した食器を流し台に置いて、ふぅ、とひと息つくフェニさん。そこでふと、彼女は思い出したように話題を変えた。


「あ、そうそう。あなたに返さなくちゃいけない物があったのよ。昨日、目が覚めたらすぐに渡そうと思ってたんだけど、バタバタしてたから忘れちゃってたわ。ごめんなさいね」

「え? 返すって……私の物を、ですか?」


 彼女が何のこと言っているのかわからなくて首を傾げる。いったい何の話をしているのだろう。


「そうよ。あなたが持ってたんだもの。当然でしょ。……あら、もしかしてわからない? そっか。自分が持っていた物も覚えてないのね……とにかく、持ってくるわね。見たら思い出すかもしれないし」


 そう言い残して、彼女は後ろの扉に入っていった。私が知らない私の持ち物とは、いったいどんな物なのだろう。仄かな期待が高まる。

 森で目が覚めた時は何も気付かなかったけれど、もしかして、服のポケットに何か入っていたのだろうか。

 それから一分も待たずに、フェニさんは戻ってきた。


「お待たせ。これなんだけど」


 そう言って彼女が差し出してきたのは、長い棒のような物だった。渡されるまま手に持ってみる。片手で握ると、ちょうど収まる大きさだ。黒のような青のような色合いで、皮と金属でできているのか少し冷たく、全体的に四角い。まるで、何かの持ち手のようだ。人差し指の当たるところには、埋め込むような形で引き金が付いており、試しにカチカチ引いてみるけれど、何も起こらない。


「私にはそれが何なのか、まったくわからなくて。どう、あなたにはわかる?」

「ええと……いえ、わかりません」


 少し時間をかけて考えてみるが、駄目だった。私にはこれが何なのか、さっぱり見当もつかない。


「んー、そう。じゃあもうしょうがないわね。あなたの記憶の頼りになればと思ったのだけれど」

「すみません、自分の物なのに……あっ」

「どうしたの?」


 話しながら手の中で適当に弄んでいると、一つの違和感に気付いた。無意識のうちに声が出る。

 引き金の付いている面とは反対側の、下の方。指で触るとわかる。刻印だろうか。文字のようなものが三つ、綺麗な字体で彫られている。


「これは……れ、いら?」

「え? なんですって?」


 フェニさんに期待の眼差しを向けられて、少し緊張する。これが何かの手がかりになるのだろうか。疑いの気持ちもあるが、私も期待したい。もう一度、確かめるようにゆっくり指でなぞる。

 ……うん、わかる。読める。この文字には、なんだか馴染みがある。でも、この言葉の意味はわからない。


「れいら、レイラ……そう、書いてあります」

「え、そうなの? 私は気付かなかったけど……」


 手元を覗き込んでくるフェニさんに、文字が彫られていた場所を教える。首を傾げる彼女に、私は質問した。


「なんでしょう、この言葉。何か意味があるんですか?」

「んー……ごめんなさい。私も、そんな言葉は聞いたことがないわ」

「そう、ですか……」


 折角の手がかりだと思ったのに……。

 期待が外れてしまい、がっくりと肩を落とす。心なしか、フェニさんも少し残念そうだ。けれど彼女は私を元気付けようとしたのか、前向きな発想で、


「言葉の意味はわからないけど、ある程度の想像ならできるわ。これはきっと、名前じゃないかしら。あなたの」

「名前……私の?」

「そう。あなたの名前。あなたの持ち物に書かれていたんだもの。きっとそうに違いないわ」

「私の、名前……」


 説得力のあるフェニさんの言葉に、もう一度刻印をなぞる。レイラ。確かにこれは、人の名前であってもおかしくはないような気がする。フェニさんにだって意味がわからなかったのだから、むしろそのほうがしっくりくるような気さえする。

 まさか本当に、これが私の……。

 私の名前。そう思うと、心に安心感が広がった。目が覚めて三日。ようやく記憶の手掛かりを見つけることができた。でも……でも。

 私は無意識のうちに、この棒から身を引いていた。


「ん? どうしたの? 」

「いえ、その……」


 首を傾げたフェニさんにそう尋ねられたが、私は咄嗟に答えられない。時間をかけて言葉を探し、なんとか今の気持ちを表現する。


「わからない、んです。これが本当に、自分の名前、なのかどうか」


 俯き加減で呟いた言葉に、フェニさんは驚いた。


「え? どういうこと?」

「私……その、何も、覚えてなくて。自分の名前も、思い出せなくて。だから、その。これが自分の名前なのかどうか、自信が、ないんです。おかしな話、かもしれませんけど、私……」


 もし、これが自分の名前でなかったとしたら? 誰か別の人の名前だったら? そもそも、この謎の棒が自分のものであるという確証だってないのだ。もし間違っていたらという不安が、あと一歩というところで私を踏み留まらせていた。

 そのことをフェニさんに伝えると、彼女は少し悲しそうな顔をして、


「そこまで警戒しなくても……。いいんじゃないかしら、別に間違っていても」

「でも! もしまったく違う人の名前だったら……」


 なおも引き下がる私に向かって、フェニさんは軽く溜息を漏らしながら、静かに言った。


「それでもよ。変に小難しいことを考えちゃ駄目。名前なんて、後からどうとでもなるんだから。親からもらった名前が気に入らなくて、自分で愛称を付ける人だっているのよ? それに、これはちょっと違うけど、私みたいに昔のことを覚えている人でも、性格や好みは変わるわ。だから、そんなに思い詰めなくて大丈夫よ」


 そして彼女は、また柔らかく笑った。それはおそらく、彼女自身の経験からきている言葉なのだろう。半分気楽に捉えているような、それでいて、こちらの状態を正しく把握してくれている言葉。


「まあでも、最終的に決めるのはあなたよ。考えるのは、その名前で呼ばれたいか、呼ばれたくないかだけでいいの。それがもし間違っていたとして、後から本当の名前がわかった時にも、また同じように考えなさい。さ、あなたはどんな名前で呼ばれたいの?」

「私は……」


 海のような青い瞳に見つめられて、考える。自分がどんな名前で呼ばれたいのか。

 そんなことは考えるまでもない。私は、ちゃんとした名前で呼ばれたい。生みの親がつけてくれたであろう、私だけの名前で、フェニさんに、フィキさんに、そしてアドレさんに呼んでもらいたい。でも……今はまだ、それを叶えることはない。

 それならせめて、少しでも可能性のある物を使うのが、今できる一番の選択ではないだろうか。記憶の手がかりかもしれないこの名前なら、その条件に一番当てはまるのではないだろうか。でも、でも、私は……。

 終わらない思考の堂々巡り。もう名前を決めたいのか決めたくないのか、それすらもわからなくなってくる。このままじゃ駄目だ。いつまで経っても、何も決まらない。

 負の連鎖を断ち切ろうと、一度心の中で『レイラ』と呼ばれるところを想像してみる。


 ――ああ。悪くない、かも。


 その感覚こそが、答えのような気がした。

 私は顔を上げて、フェニさんの目をまっすぐ見つめた。


「私は……呼ばれたい、です。この、名前で」

「そう。わかったわ。じゃあ、あなたは今日から、レイラちゃんね」

「は、はい」


 レイラ。それが私の名前。初めて呼んでもらったその名は、なんだか少し、こそばゆい感じがした。


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