第三十九話 事後報告
「ん、ふあぁあ……っ」
椅子の背もたれに体重を預け、手足を伸ばす。体にはまだ疲れが残っているが、戦闘後の興奮は既に落ち着いていて、気分は絶好調だ。
遺跡の探索を終えた午後。私達七人は無事に町へと戻ってきて、少し遅いお昼ご飯を食べるところだった。
「ふぅ。ありがとうございます。ご馳走してもらっちゃって」
注文した料理が来るまでの間に、コバリィ先生へ感謝を述べる。遺跡の探索に協力してくれたお礼として、今日のお昼ご飯は先生がご馳走してくれることになっていた。いつもなら遠慮する私だが、今回は仕事の報酬としてありがたく頂く。先生が選んでくれたこのお店も、いつもは近付くことのないちょっとお高い店だ。滅多にしない贅沢を許された私は、少しはしゃいでいた。
「よい。無事に帰ってこられたのもお主のおかげじゃからな。遠慮はせず、好きなだけ食べてくれ」
「はいっ」
そうこうしているうちに、順々に料理が運ばれてくる。それぞれの料理から漂ってくる、食欲をそそる彩り豊かな香り。それだけでお腹が鳴ってしまう。最後、ゴブリン達が大群で攻めてきたせいで調査が長引いたため、森を出たところからずっとお腹がペコペコだった。
全員分揃ったところで、早速食べ始める。私が普段よりも欲望に正直になったせいか、私だけ他の人よりお皿が二、三枚多いようだ。コーンスープとかステーキとか甘い温野菜とかが次々に運ばれてきて、ちょっとしたコース料理っぽい。
「……はぁ。よく食べるわね。あんた」
スプーンを持ったフィネットちゃんが、隣のテーブルから少し引き気味にそう言った。折角の美味しい料理だというのに、彼女のお皿はあまり減っていない。他の学生達も同じだ。
私は口の中に入っているものを飲み込んでから、軽く口元を拭いて答えた。
「いつもはそんなに食べないんだけどね。今日はなんか、お腹が空いちゃって」
いつにも増して激しく動いたせいだろう。こんなに楽しかったのはアケルでの戦い以来だ。もちろん、あの時と今回では戦の規模は小さい。それに、あの戦いでは多くの悲劇を生んだが、今回は無事、ただ一人の犠牲もなく生還することができた。
「そっちこそ、どうしたの。食べないの?」
「いや、私は、ちょっと……」
歯切れ悪くそう答えて、自分の料理に手を付けるフィネットちゃん。だが、スプーンの進み具合はやはり遅い。私に言われて嫌々動かしているような感じだ。まさか、自分の嫌いなものを頼んだという訳ではないだろう。何か嫌な気分になるようなことがあったのだろうか。
「ほんとに大丈夫? 他のみんなも……」
隣のテーブルに座っている学生四人の顔を見比べる。顔色が悪いとまではいかないが、どこか浮かない顔だ。
そうして彼らを心配する私のことを、またクリームパスタを食べていたコバリィ先生が止める。
「まあまあ。ここはそっとしておくのじゃ、レイラ」
「でも、先生……」
「いいから。お主は楽しんでおったから気にも留めなかったかもしれんが、皆にとって、あれだけの戦いは初めてのこと。この子らはな、初めて体験した本物の戦に、少々戸惑っておるのじゃ」
「はあ……」
戸惑っている。いや、それは先生が言葉を選んだだけだろう。正しく言うなら、怯えている、怖がっている、といったところだ。問題は、彼らがいったい何を怖がっているのかというところ。それがいったい何なのかは、私にも予想が付いた。
……まあ、あれを見るのが初めてだっていうのなら、仕方ないのかな。
食事の楽しさを一旦脇に置いて、遺跡であったことを思い出す。あの戦いが終わってからまだ、一時間と経っていなかった。
遺跡で行われたゴブリン達との戦いは、結果から言えば大勝利だった。
結界を解除するとすぐ、私は打ち合わせした通りに前方のお守り持ちを倒した。そうして魔術が通るようになったところで、魔術師達の一斉攻撃が敵を薙ぎ払う。先生の実力と六人全員の連携により、次々と倒れていく哀れなゴブリン。私はそんなゴブリン達の合間を縫って、後方の魔法使いゴブリンや強敵ゴブリン達と楽しく斬り合い、そして全員の首を取った。
迷いのない行動が功を奏してか、私達は無傷だった。だが、戦闘後そこに広がっていた光景を見てしまった初心な学生達の心は、無傷ではいられなかった。
それまでみんなは、ゴブリンのことを所詮魔物と見下していたのかもしれない。けれど、ゴブリンだって私達と同じ生き物だ。傷つけば悲鳴を上げて、体から血を出し、苦しむ。血の色は同じ。血の臭いも同じ。死んでしまうのだって同じ。
みんなは今日、自分達が築き上げた死体の山を見て、それに気付いた。私に言わせれば遅すぎる気付きだが、それが今でも尾を引いて、食欲に影響している。ただ言うまでもなく、大半のゴブリンは彼らではなく、私によって殺されたのだが。
「……気にしなくていい」
「こら、レイラ。やめなさいと言うたであろう」
困った顔の先生から目を外して、四人を見る。
「……何よ」
私の視線に気付いたフィネットちゃんが、暗い顔でこちらに顔を向ける。彼女の分の料理はやはり、先ほどからほとんど減っていない。料理がもったいない。だから私は、みんなを励ます。
「別に何も気にしなくていいよ。生きていれば、これくらい普通だから」
その言葉を聞いた彼らはあまりいい表情をしなかったが、私は構わず話し続けた。
「悪いことをしたとか、他人の命を奪ったとか。そういうことは考えなくていい。自分が生きるために戦った。誰かを守るために戦った。そう思っていれば、それでいい」
言いたいことを言い終えた私は、視線を前に戻して食事に戻った。
自分のために誰かを殺す。目の前のご馳走もそうやってできている。だから深く考えず、受け入れるしかない。それが、この世界の仕組みなのだから。
……さて、暗い話はここでおしまいだ。
「そんなことより、みんな、ご飯食べよう? 早く食べないと冷めちゃうよ?」
「……そうだな。みんなで沢山食べて、先生の財布を空っぽにしてやろうぜ」
ラルク君のそのひと声で、それまで黙っていたみんなもご飯を食べ始めた。美味しい食事の効果なのか、彼らの顔に気力が戻ってきて、色々な会話が生まれてくる。
うんうん。やっぱりこっちのほうが賑やかでいい。折角学生の身分では手が出せないお店に来てるんだし、ありがたく受け取って、美味しくお腹に納めなければ損だ。
それから私達は、今日の調査を頑張った報酬を堪能した。……本当にコバリィ先生の財布が空っぽになっていたら、申し訳ないと思いつつ。
満腹になった後、学生達は学校に戻って軽く反省会をするというので、私もついて行くことにした。
西の町並みを見ながら学校を目指す道すがら、学生達と軽く会話をする。私が適当に、さっきのご飯美味しかったねと振った話題は、いつの間にか嫌いな食べ物の話になり、嫌いな学食の話になり、その他紆余曲折を経てどういう流れか、四人の一つ上の先輩の話になっていた。
「うちの先輩凄いのよ。女の子なんだけど男子にも全然負けてなくて、近接戦も魔術も凄く強いの。元騎士の先生にも勝ったことがあるくらいね」
四人がいつもお世話になっているという先輩のことを、少し興奮気味に話すフィネットちゃん。彼女の目はとてもキラキラして、少し早口気味だ。
「へぇ、凄いね。そんなに強い人が学校にいるんだ」
「うん。しかも優しくて、凄くカッコいいの。だけどなぜか、先週からずっと学園に来てないみないなのよ。今日の護衛も、本当はその先輩にお願いしたかったんだけど……」
「あ、そうなんだ……何か、あったのかな。怪我したとか」
「それが何もわからなくて……心配なのよ」
それまで生き生きと話していたフィネットちゃんの表情が、一転して暗くなる。
急な不登校か。それは確かに心配だ。でも、どうして突然学校に来なくなったのだろう。何かショックなことがあったのだろうか。もしくは、実は影でいじめられていたとか……。
私の脳内で色々と想像が膨らみ始めたが、そこにカインド君が耳寄りな情報を追加する。
「なんだ、フィネット。お前もしかして聞いてないのか? あの噂」
「え? 何? 噂? 聞いてない、と思うけど……」
噂、というワードにラルク君が反応する。
「あ、それ俺も聞いた」
「ああ、あの噂かな。あれだよね。先輩が先週、他所から来た誰かと模擬戦してボロボロに負けて逃げたっていう」
横から口を出してきたメモエウス君が噂の内容を語る。それを聞いたフィネットちゃんの顔が驚愕に染まった。
「そんな! あの先輩が剣術で負けるはずないわ。だってこの間、現役の騎士と勝負して勝ったって、得意げに言ってたもの。この学校で一番強いのは、間違いなくルラ先輩なんだから!」
それは、今日で一番表情筋を使ったのではないだろうかと思うほどの驚きようだった。その先輩というのは、彼女の憧れの人なのだろう。フィネットちゃんの声には今までにないほど熱が入っている。
というか、ルラ先輩って、まさか……。
「まあ、うん。俺もその話を聞いた時、そういう風に思ったよ。でも……」
「でも?」
男子三人の目が私に向けられる。その意味ありげな視線に、私は確信した。
「えっと、その……それきっと、私のこと、です……」
歯切れ悪く答える。話題になっていた彼らの先輩は、二週間ほど前に戦ったルラちゃんのこと。つまり、ルラちゃんが学校に来なくなった原因は、私だ。
「あ……そう」
少し驚きつつも、現実を受け止めるフィネットちゃん。やっぱりな、という表情をする男子達。それから、納得したように頷く人が一人。
「そうか。あの子を負かしたのは、君だったのか……」
みんなを教えているカーネル先生だ。この口ぶりからして、ルラちゃんのことも教えていたのだろう。そう言えば、あの子も四人と同じ属性魔術科と言っていたような気がする。そうだとすると、先生が一緒なのも当然か。
ていうか、ルラちゃんあれから学校に来てなかったのか。……やっぱり私、やりすぎちゃったのかな。私、本当にあの子の将来を潰して……。
私がそうやってルラちゃんのことを心配する中、
「やっぱりな。納得したよ。こんなのに勝てるわけない」
カインド君にはこんなのと言われ、
「ってことは、魔法を使わずに勝ったってのも本当なんだな。使えないって言ってたし。そりゃあ先輩も悔しいはずだよ……」
ラルク君はルラちゃんに同情する。
「……そうよね。こんな恐ろしいものと戦ったら、誰もがそうなっちゃうわ」
そしてフィネットちゃんには、恐ろしいもの扱いされた。
「い、一応、私、寮まで謝りに行ったんだよ。でもその、聞いてくれなくて……」
「先輩の気持ちわかる。あんな笑顔で迫られたらね……」
私がルラちゃんを一方的に傷付けたと言われているような気がして、釈明する。けれど、メモエウス君はフォローしてくれなかった。心なしか、四人の立ち位置が私から少し遠ざかっているような気がする。
「な、そんな。みんなして私が悪いみたいに……」
「お前が悪いっていうか、先輩の運が悪かったっていうか……」
「おまけに時期も悪いわ。もうすぐ騎士の適正試験があるのに……」
「復帰、してくれるかな。先輩」
「信じよう。俺達の先輩だ。きっと乗り越えてくれる」
四人は一致団結して、自分達の憧れる先輩を応援し始める。
私が適当に、さっきのご飯美味しかったねと振った話題は、どうしてこうなったのか、最終的にルラちゃんへの激励で幕を下ろした。
◇ ◇ ◇ ◇
カーネル先生の教室で行われた反省会を終えて、私が宿に戻った頃には、もう空が赤く染まっていた。
……ああ、綺麗な夕日。それにしても、今日は楽しかったなぁ。天気も良かったし、沢山殺したし。勉強はしなかったけど、みんなと良い思い出ができた。こういうの、憧れの学校生活って感じがする。
今日の出来事を反芻しながら、自分達の部屋の扉を開ける。
「ただいま戻りましたー」
「……レイラか。おかえり」
部屋には師匠がいた。椅子に座っていた彼は気だるそうな表情で、何かの資料に目を通していた。
「あ、師匠。ただいまです。あれ、カイはいないんですか?」
「ああ。今日はあいつとは別行動だったんでな」
私の質問に答えながら、紙を一枚めくる師匠。何度か目を左右に動かして、溜息を吐く。
……師匠が溜息なんて、珍しいな。
「師匠、今日はなんだか疲れてますね。何かあったんですか?」
「……ん? いや、別に。大したことじゃない。少し、気を張りすぎてな。慣れない場所に行くもんだから、中々緊張が抜けてくれん」
「そう、なんですか」
師匠がいったい何をしてきたのか気になったけれど、向こうは忙しそうなのでこの話はここでやめる。
「私、先にシャワー浴びてきますね。今日は結構動いたので」
「わかった。……ああ、そういえば今日、森の遺跡に行ってきたんだったか。どうだった、学生達との共同作業は」
「まあ、それなりです。でも、結構楽しかったですよ。ゴブリンと戦う機会が多くて。それに学生達とも、少しは仲良くなれましたし」
反省会ではこれでもかというほど駄目出しと口論をしてきたので、流石に少しくらいは友好関係が深まっただろう。彼らの今後に期待だ。
「そうか。ならよかった」
そんな会話をしてから、私はシャワーを浴びた。温かい水流で体を洗いながら、いろんなことを考える。
ふぅ。シャワーはやっぱり気持ちがいいな。服は勝手に綺麗になってくれるけど、体は綺麗にならないし。それに返り血を浴びた後は、体を洗わないと落ち着かない。
……それにしてもさっきの師匠、なんか、子供を心配する親みたいだったな。変な感じ。師匠は私のこと、自分の子供みたいに思ってるのかな。前から私のことをやたら子ども扱いしてくる時があったけど、師匠だって子供がいてもおかしくない年だし……。
そう言えば私は、師匠のことも何も知らない。学校の先生が知っているくらい有名らしいけど、付いて回っている私自身、彼の出身とか、家族とか、何も知らない。カイのことも同じ。二人とも、私に何も教えてくれない。私が聞いていないからかもしれないけれど、それはなんだか、寂しい感じがした。
「家族……」
家族、か。まあ、どんな関係であれ、師匠が私のことを家族だと思ってくれているのなら、嬉しいな。今のところは、それでいいや。
あまり深く考えるのはやめて、私は身なりを整えてシャワー室から出た。
髪の毛を拭きながら出てくると、窓の外は暗くなっていた。師匠は明かりを付けて、さっきと同じように資料を読んでいる。カイはまだ戻っていないようだ。
「ああ、そうだ、レイラ。お前に伝えておかなきゃならんことがあったんだ。ここを出る日を決めたぞ。三日後だ」
「えっ、三日後? そんな。急すぎますよ」
あまりに急な話に、私は驚いて髪を拭く手を止めた。
後三日で出発だなんて。まだ勉強が終わってないのに。
そんな私の心配を先回りして、師匠が話を続ける。
「心配するな。コバリィには伝えてあるし、ちゃんとお前の勉強の進み具合も確認した上で決めてる」
心配するなと言われても、こんな直前に教えてられても困る。もっと早く知りたかったし、先生に話すくらいなら、私にも話を通してほしかった。
「……先に相談してほしかったです」
そんな不満をぶつけると、彼は、
「相談はしたさ。カイとな」
「私にですって!」
もう、師匠ってば。大事な話をしている時に、変にふざけないでほしい。
笑う師匠が気に食わなくて頬を膨らませる。それを見て彼はまた笑ったが、少し顔を真面目にして続けた。
「まあ、あと三日あるんだ。まだ知りたいことがあるんなら、早めにあいつに聞いておけ」
「む……わかりました」
まあ、出発の当日に教えられたわけでもないし、ここは許そう。先生に話を通してあるっていうなら、勉強のほうは大丈夫なんだろうし。冷静に考えてみると、そろそろここに来て一ヶ月になる。町を出る日が近いということも、考えておくべきだった。でも、後三日しかないのかぁ。折角あの四人と少し仲良くなれたと思ったのに、すぐお別れか。残念だなぁ。
唐突に判明した別れを惜しむ。けれど、ずっとここにいられないのも事実。旅を続けるためには、受け入れるしかない。
出発の予定を受け入れた私に、師匠はひと息ついて、
「さて、それよりレイラ。少し手伝ってくれないか」
「え? あ、いいですよ。何すればいいんですか?」
「これに目を通してほしいんだ」
そう言って師匠は、机の上に置いてあった紙の束を指差した。今師匠が持っている資料と同じくらいの分厚さがある。
「これは?」
一部手に取り、軽くペラペラとめくってみる。……やたらと数字が多い。お金絡みの何かだろうか。
視線を師匠に戻すと、彼は持っていた紙束の表紙を見せて言った。
「この町の財政報告書と、騎士団の治安報告書だ。いや、役場に行って色々聞きに行ったら、喜んで資料を渡してきてな。こんな大量にくるとは思ってなかったから、少し苦戦してるんだ」
「へぇ、財政……」
って、財政? それって結構重要なことじゃ……。よく役所が資料をくれたな。ああ、だからこそ、内容に間違いがないかどうか確認しなくちゃいけないのか。なんだか、とても重大な任務を任されてしまった。何かを見逃してしまったときの責任が重い。
「わ、わかりました。頑張ります。あ、でも、先ご飯にしませんか? そろそろいい時間ですし、師匠もちょっと休憩したほうが……」
「ん、そうだな。よっし。じゃあ、先に飯食いに行くか」
「はい。あ、でもカイはどうしよう……」
「あいつのことは心配いらん。ほら、行くぞ。早く髪拭けって」
師匠のお手伝いは晩ご飯の後にして、私達は二人で、夜の町に出かけて行った。
そしてカイが帰ってきたのは、夕食を終えた後、私が四部目の資料を読んでいた時だった。
◇ ◇ ◇ ◇
町の北東部。食事処の立ち並ぶ一角。日の暮れたこの時間、ここは毎日のように混雑する。だが、そんな賑わいとは離れた路地にある店で、二人は向かい合っていた。
髪も髭もすっかり白くなった老人と、目つきの厳しい黒髪の青年だ。
「珍しいの。お主のほうからわしに会いに来るとは」
水をひと口含み、私服姿の老教授は口を開いた。
「変わったな、若いの」
「……そうでもない」
料理表に視線を落とした青年、カイは、コバリィの言葉を否定した。
「ほほ、そう強がるでない。いい成長じゃと、わしは思うぞ」
「……そうか」
カイは一瞬反抗的な目をしたが、素直に老教授の言葉を認めた。それを見たコバリィは小さく呟く。
「ああ。やはり、お主は変わったよ」
店員を呼び止め、料理を注文する二人。注文を取った店員が厨房へ消えると、老人はまた水をひと口含み、本題に入った。
「さて。そろそろお主の要件を聞くとしようか。まさかお主に限って、ただわしと食事がしたいというだけで呼び出したりはせんだろう」
尋ねられたカイは、視線を窓の外、わずかに見える賑わいに向けた。そして少し迷いながらも、口を開いた。
「……わからないんだ。あいつのことが」
「あいつ、とは? アドレのことか?」
「いや……」
そのまま言葉を続けようとして、しかしカイは口を閉じる。何を言えばいいのか迷っているような。口に出すのを恥じ入っているような。そんな素振りが見え隠れする。
「では、レイラのことか」
青年が言いかけた言葉を難なく当てた老教授。その言葉を聞いたカイの視線が一瞬下を向き、そして意を決したように息を吸って、彼は目の前のコバリィを見た。
「……そうだ。あいつのことが、わからない」
カイの瞳はまっすぐコバリィのことを見ていた。こんな視線を向けられたのは、コバリィが彼を教えていた頃にはなかったことだった。
「……ふむ。なるほどな。お主はレイラのことがわからんのか」
髭を触りながら、カイの疑問を繰り返すコバリィ。老人のその癖が何を意味するのか知っているカイは、ただ黙って待っていた。
「……なあ、カイよ。お主はいったい、レイラの何がわからんのじゃ? あの子の抱えている事情や人となりは、お主のほうがよく知っているじゃろう。しかし、わざわざわしに尋ねてきた理由はなんじゃ?」
「それは……」
尋ねられて、カイは言い淀んだ。今度はコバリィが答えを待つ。
そんな二人の間に流れる沈黙を破り、料理が運ばれてくる。テーブルの上には、湯気の立つ醤油ラーメンが二杯。老人が早速ラーメンに手を付けようとした時、カイがようやく口を開いた。
「あいつと、どう関わったらいいのか、わからない」
「ほう! どう関わったらよいのかときたか」
コバリィは、割り箸を割るのに失敗した。
「おっと。お主はやはり変わったな。人との関わりについて悩むようになるとは」
「……」
老人は教え子の変化に三度感心する。それに対してカイは何も言わず、ただラーメンをすすった。
老人は滅多に食べなくなったラーメンのひと口目をしっかり味わってから、次の質問をした。
「色恋沙汰、男女の仲の問題か?」
「……そういうのではない。どう接したらいいのか、わからないだけだ」
「そうなのか。じゃが、それはそれで難しいな」
コバリィはまた少し考えてから、言葉を発した。
「レイラとの関係、上手くいっておらんのか?」
「それは……。それも、わからない」
「ふむ。そうなのか」
漠然としたカイの悩みに、コバリィは再び頭を悩ませる。
コバリィとしては、折角教え子が悩みを相談してくれたのだから、力になりたいと思っていた。しかし、こうも具体性に欠ける言葉ばかり並べられては、助言も何もできない。それほどまでにカイは、これまで人との付き合いを避けてきたのだ。
「わしが見る限り、主らの仲は決して悪いわけではない。お主の悩みは恐らく、彼女との距離感を測りかねているという感じか」
「……距離感、とは」
箸を止め、カイは尋ねた。彼の丼には、もう麺はなかった。
「心の距離。人との関係をどこまで深めるか、といったことの比喩じゃよ。相手とどこまで仲良くなりたいのかということじゃ」
「……仲良く、か」
店員を呼び止め、カイは替え玉を注文する。それに対して、老人の丼は減りが遅い。その差に気付いたコバリィは、青年の若さを羨ましく思った。
「お主はまだまだ食べ盛りじゃな。それで、どうなんじゃ。お主はレイラと仲良くなりたいのか?」
「……仲が悪いと、仕事に支障が出る」
「ほほ、そうじゃな。お主らは共に行動しているのじゃからな。仲が良いに越したことはないか」
追加された麺をすすりながら、カイは老人の話を聞いている。
「では、どこまで仲良くなりたいのじゃ。それもわからんか?」
「……ああ。上手く、言葉にできない」
どうやらカイは、自分の内面を誰かに伝えることも苦手なようだ。
こうなってしまうと、人生経験が豊富なコバリィもあまり的確なことは言えない。結局老人は、当たり障りのない言葉をかけることしかできなかった。
「んー、まあ一つの答えとしては、現状を維持することじゃな。今の関係で困ったことはないのじゃろう。ならば、しばらくはこのまま様子を見るというのも、悪い選択ではない」
「……そうか」
誰にでも当てはまる言葉にも、純粋に納得するカイ。彼の中で、今後の方針が現状維持に決まる。
けれどそこに、他者との関係を気にし始めた若者の未来を思った老人は、一つ付け足した。
「じゃが、もしもっと関係を深めたいと。相手のことを知りたい、こちらのことを知ってほしいと思ったのであれば、その時は、その気持ちを素直に話すことじゃ。思っているだけでは、何も伝わらん。それくらいはわかるじゃろう」
「……ああ」
カイは、静かに頷いた。ちょうどその時、二人の丼が揃って空になった。
ラーメンを平らげた二人が店の外に出ると、夜の寒さが一気に襲ってきた。町の喧騒から離れた路地に、冷たい風が吹き抜ける。
「ほぉ、流石にこの時間は寒いな」
寒さに耐えかねた老人が魔術で体を温めるのを見ながら、カイは口を開く。
「……なあ、コバリィ」
「なんじゃ、カイよ」
「……お前は、あいつのことをどう思っているんだ」
「わしがレイラのことをどう思っとるのか、ということか。ふむ、そうじゃな……」
尋ねられ、コバリィは考え込んだ。老人の頭の中で回るのは、今日の遺跡調査で見た、ゴブリンと戯れるレイラの姿。普段の笑顔と戦闘中の笑顔。その二つは同じ顔、同じ感情だが、どこか異なる。
その違いはいったいどこから来るのか。コバリィは自分の意見を語り始める。
「……あの子は、少々危うい。あの子の戦いを見ればわかる。痛々しい姿じゃった。自分の身をさほど大切に思っていないのじゃ。日々の生活もそうじゃろう。傷つくことを恐れてはいるが、どこかでそれを当然だと受け入れている。半分達観しているのじゃ。だからこそ、戦いという生死のかかった場面に楽しさを感じるのじゃ。まともに生きようと思いつつも、人生に絶望している。記憶を失ったというのも、そういった彼女の危うさが招いた悲劇なのかもしれん」
話を終えたコバリィは、大きな溜息を漏らした。彼にはレイラが、率先して命を投げ出しているようにしか見えなかった。危険な綱渡りに快感を覚え、自らの意思で危険へ突っ込んでいく。それが彼女の性。本質と言ってもいい。だが、そんな危険な賭けはいつまでも続けられない。
どうにか彼女の考えを改めさせなければならない。今日の戦いを見た老人は、教育者としてそんな思いを抱いた。しかし、もう自分にはどうにもできないほど、その性は彼女の深いところに刻み付いている。彼はそれがわかってしまった。
「危うい……そうか。お前には、そう見えるのか」
そう言ってカイは、口を閉じて静かになる。彼の中にも、似たような意見があったのかもしれない。
コバリィは、レイラのことを案ずるカイに一つ、自分の願いを告げた。
「だからな、カイよ。決してあの子を一人にしてはいかんぞ。彼女には、支えが必要なのじゃ。傍で彼女を見守り、助け、共に歩んでいく誰かが。よいな、カイ。それはお主じゃ。お主が、あの子のことを導いていくのじゃ」
「……ああ。わかっている」
言われるまでもないと言うように、カイは力強く頷いた。それを見たコバリィは、自分の心配が杞憂だったことを知った。
「いい顔をするようになったな、若いの」
その後、二人はしばらく並んで道を歩いていたが、ついに分かれ道が来た。
「それではな。ここを去る前に、挨拶くらいするんじゃぞ。アドレによろしくな」
「……ああ。じゃあな」
互いに背を向けた二人の距離は徐々に遠くなり、すぐに見えなくなった。そうして、二人の食事会は終わった。
人の姿がまばらになってきた頃、コバリィは先ほどのやり取りを反芻して、小さく息を吐いた。
「……ふぅ。たまにはラーメンでも食べんとやってられんな。それにしても、いい年して教え子の色恋に手助けをするとはの。まったく。あの子らの成長が楽しみじゃ……」
老教授の静かな独り言は宵闇に消え、誰の耳にも入らなかった。




