第二話 知らない世界
「それで、目が覚めたら、ここに……」
結局俺は――私は、あの森で目が覚めてからのことを全部、包み隠さず話した。
これが私の中にある記憶のすべて。夢か現かもわからないまま一日中森を歩き、海に落ちたという、たったそれだけのことだ。もしかしたら、あれは本当に単なる夢だったのかもしれない。けれどもう、ここまできたらどっちだっていい。気を失う前のことが夢でも現実でも、今のこの状況が変わることはないのだから。
「ふむ……なるほど」
静かに耳を傾けていたアドレさんは、軽く瞼を閉じて腕を組んでいる。彼は少し考えこんだ後、一つひとつ確認するような口調で言った。
「となると、お前は自分のことが何もわからないんだな?」
「はい……」
「それで、その理由もわからないと」
「……はい」
「んー、そうか。とりあえず、ありがとう。話してくれて」
二度の質問に頷いて見せると、彼はフェニさんと顔を合わせ、二人で何事か話し合いを始めた。
「はぁ、困ったな。身元がわかれば、すぐにでも親のところに帰してやれたんたが、覚えてないんじゃなあ……」
「そうね。きっと親御さんが心配してるわ。それにしても、自分のことが何も思い出せない、ねぇ。記憶喪失、ってことかしら。自分のことを忘れてしまうなんて、可哀想に……」
「記憶、喪失……?」
ふと耳に入った初めて聞く言葉。その意味をフェニさんに問うまでもなく、答えは勝手に浮かんできた。
記憶喪失。それはつまり、自分の過去が思い出せなくなってしまうこと。
……そう、か。今の私は、この人の言う記憶喪失の状態、なのか。自分の過去を思い出せないということも、そういうことならあり得るのかもしれない。
「だろうな。それ以外に説明が付かん。だが、その原因となると色々あるな。うーん、頭を強く打ったとか、誰かに記憶を消された、とか。思い付くのはこれくらいか」
「でも、私が見た時は頭に怪我なんてしてなかったわ。この子もそう言ってたし」
「そうなると、やっぱり誰かに消されたって線が濃厚だな。もしくは、精神的に相当辛いことがあったのかも。どちらにしろ、何らかの事件に巻き込まれたか。崖から落とされたっていうのも、そいつの仕業なのかもしれん」
頭を打った。記憶を消された。二人の間で交わされる物騒な言葉に、やめてくれと反論したくなる。けれど、今話したこと以外の記憶を持ちえない私には、彼らの言葉が単なる想像であって欲しいと、ただ願うことしかできなかった。
……というか、人の記憶を消すことって、そもそも可能なのか?
「えーと、何度も聞いてすまないが、思い出せない原因とかは、わからないのか?」
既に自分の中で幾度となく繰り返した問いを、アドレさんはもう一度尋ねてくる。
「あ……はい。私が覚えているのは、本当にこれだけ、なんです。……すみません、私……ごめんなさい」
……この人達は私のために色々と考えてくれているのに、肝心の本人が、何もわからないなんて。
当事者のくせに力になれない自分が嫌になり、伏し目がちに謝る。そんな私に何を思ったのか、アドレさんの強い言葉が頭の上に降りかかった。
「おい、何でそこで謝るんだ」
「え、そ、それは、その……自分でも、まだ信じられないんです。やっぱり夢だったんじゃないかって。そんな不確かなことしか話せないことが、申し訳なくて……」
訳がわからなかった。どうして彼がこんなにも強く、謝ったことを怒るのか。
「なんだよ、そんなこと。謝ったって意味ないじゃないか。だって、お前は何も悪くないし、嘘を吐いてるわけじゃないんだろ? 気にするな、わからないことは誰にだってあるさ」
言い訳じみた私の言葉に、彼はなんでもないことのようにそう言い放つ。でも、違う。私が言いたいのはそういうことじゃない。
「それは、そう、かもしれませんけど……でも、私、自分のことが何もわからなくて。名前とか、家族とか、誰もが知っていて当たり前のことも、全部。そんなの、あ、あり得ない。普通じゃない。私は、わたしは……」
知らず知らずのうちに声が震え、昨日の不安が蘇ってくる。喉の奥からこみ上げてくる嗚咽に、私はそこから先の言葉を続けることができなかった。
――自分のことも信用できない私は、この先どうやって生きていけばいいの?
感情が一気に押し寄せ、いつの間にか溢れていた涙が頬を濡らす。改めて自覚した寂しさと、赤の他人である彼らに迷惑を掛けている申し訳なさで、私の心はいっぱいになる。名前もない。身寄りもない。常識すらもない。世界に取り残された独りぼっちの私に、未来なんてあるのだろうか……?
でも、今の私は一人じゃなかった。孤独に苛まれた私のことを、優しく抱き留めてくれる人がいた。
「……大丈夫、もう大丈夫よ。あなたの気持ち、痛いほどわかるわ。ずっと一人で、怖かったんでしょう? 何もわからなくて、辛かったんでしょう? でも、もう大丈夫。あたなはもう一人じゃないわ。わからないことがあったら、何でも聞いてちょうだい。私にわかることなら、全部答えてあげるから」
「あ、う、フェニ、さ……フェニさん、うぅ、わああぁん!!」
初めて触れた人の温もりが、冷え切っていた私の心と体を包み込む。まるで、母親の腕の中にいるような感覚。自分でも気付かなかったストレスが、堪え切れずに溢れ出す。一度決壊した感情はもう抑えられない。
……そうだ。私はずっと、こうして誰かに不安を打ち明けたかったんだ。
フェニさんの大きな胸に顔を押し付けて、心の中で何度も謝りながら、私は幼い子供のように泣いた。
「う、ぐすっ……」
「落ち着いた?」
「は、い……ごめん、なさい」
……なんだか、不思議な気分だ。心の中に溜まっていた感情を全部曝け出してみると、なぜだか心が軽くなったような気がする。エプロンを汚してしまったことを謝るが、彼女はニッコリと笑って、
「いいのよ、これくらい。娘が一人増えたようなものだわ」
その笑顔が、また私の心を温かくしてくれた。つられてこちらも頬が緩む。
しばらくして平静を取り戻してくると、私は、自分の顔が少し熱くなっていることに気付いた。涙のせいだけじゃない。人前で大泣きしたことが恥ずかしいからだ。鏡を見なくても、耳まで真っ赤になっていることがわかる。今更手遅れのような気もするが、目尻に残った涙を拭く振りをして火照った顔を隠す。
フェニさんはそんな私のことをしばらく眺めた後、アドレさんに向き直った。
「……それで、こんな可哀想な女の子を泣かせたあなたは、いったいどんな神経しているのかしら?」
私を抱き締めていた時とは打って変わった声色に、アドレさんの表情が強張る。
「う、それは……すまなかった、としか言いようがない。ここまで気にしているとは思わなかったんだ。悪かった」
「い、いえ。こちらも、少し気にしすぎていたのかもしれません……」
アドレさんは悪くない。でも、かといって私が全部悪いわけでもない。彼は私に、そのことを教えてくれただけだ。
「あー……そう言ってくれると、ありがたい」
私の言葉に頭を上げて、彼は笑った。第一印象はちょっと怖かったけど、笑顔は柔らかい。どうやら私は、とても善い心を持った人達に助けてもらったみたいだ。
私達の間から伝染するように笑顔が広がり、和やかな雰囲気が部屋を包む。そんな中、窓から吹き込んで来る冷たい潮風が、私の素肌を撫でた。
「……くっしゅんっ」
口元を押さえる暇もなく、突然くしゃみが出た。鳥肌の立った腕をさする。
「おっと、大丈夫か?」
「ちょっと寒かったかしら。ごめんね、今窓を閉めるわ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
起きた時から肌寒く感じていたのに、ずっとこのままだったことを思い出す。これではくしゃみが出るのも当然だ。話すことに集中していて、寒さを忘れていたらしい。これ以上体温を逃がさないように体を丸めて、冷えた肩まで毛布に包まる。
そんな中、一人黙ってことの成り行きを見ていたカイさんが、そっとこの場から立ち去ろうとした。
「あ、なんだお前。もう行くのか?」
「……聞くべきことは聞いた」
それだけ言って、彼はそそくさと部屋を出ていく。最初から最後まで、よくわからない人だった。あんな態度を取られるなんて、そんなに私のことが嫌いなのだろうか。表情もほとんど変えなかったし……あの人、何を考えているのかよくわからない。
「……行っちまった。今日はどうしたんだろうな、あいつ。すまんな。いつもはこんなんじゃないんだが、なんか色々あるらしい。まあ、それでも失礼なことに変わりはないから、別に罵ってくれても構わんぞ」
「あ、えと、それは……」
愚痴の混ざったアドレさんの言葉に、私はどう反応するべきか困ってしまった。
会ったばかりの人のことを悪く言うなんて、そんな失礼なことはできない。例え向こうに礼儀がなくても、私にそんな度胸はない。今のままでも怖いのに、わざわざ怒らせるような真似をしてもっと怖いことになったら嫌だ。
「このままだと面倒だし、後で理由を聞いてみる。てことで、俺もそろそろ行きますか」
よし、と一声上げたアドレさんが、膝に手を付いてベッドから立ち上がる。
「え……どこに、行くんですか?」
ようやく出会えた人と離れ離れになる寂しさからか、私はつい、そんな言葉を掛けてしまっていた。
「ああ、ちょっと聞き込みにな。お前のことを調べてくるんだ。身元はわからなかったが、それ以外の情報でも、知り合いくらいはなんとか捕まえられるだろう。大丈夫、お前が寝るまでには必ず戻ってくるから、そんな残念そうな顔するな。じゃ、こいつのことは頼んだぞ」
アドレさんはそれだけ言い残して、カイさんの後を追って部屋を出た。扉一枚隔てた向こうで、二人分の足音が段々と遠ざかっていく。
「はいはい、言われなくとも」
残されたのは、私とフェニさんの二人。そう呟いた彼女は布団に包まった私を見ると、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? まだ寒いかしら。あ、そうだ。何か温かい物持ってきてあげる。もうお昼も過ぎてるし、さっきの話だと、昨日から何も食べてないんでしょう? ちょうど、さっきまでお客さんに出してたスープが残ってるの」
「え? い、いいんですか?」
「もちろん。そんなに遠慮しないで。じゃあ持ってくるから、ちょっと待っててね」
そうして、私は今度こそ一人になってしまった。フェニさんが出て行った扉を寂しく見つめる。
「あ……」
引き留めるように伸ばしかけた手を、毛布の中に引っ込める。いったいどうしてしまったのだろう、私は。出会ったばかりの人をこんなに恋しく思うなんて。もしかして、私は一人になるのを極端に怖がっているのだろうか。昨日あんな事があったから。いやいや、そんなまさか。親離れできない子供でもないのに……。
悶々とする気分を切り替えようと頭を振る。昨日からいろんなことがありすぎて、きっとまだ頭が混乱しているのだ。ちょうどいい。折角一人になったのだから、少し情報を整理しよう。そうしていれば寂しさも紛れる。
そうは言っても、気を失っているうちに起こったことはこの二つだけだ。海に落ちて、浜辺に打ち上げられていたところをアドレさんとカイさんに助けられた。その後、フェニさんのいるここに運ばれて、ついさっき目が覚めた。
助けてもらった時の状況は詳しく教えてもらったが、やはりわからないことが多い。あまりにも多すぎる。どうして俺――私が、こんな目に……。
「……はぁ」
まあでも、ようやく人に会えたのだ。今はそれを喜ぼう。後は、この現実をどう受け止めるかの心持ち次第。その辺りのことも踏まえて、これから、どうしよう……。
そうして自分の今後について考えを巡らせていた時、思っていたよりも早く、部屋の扉が開いた。
あれ、フェニさん、何か忘れ物をしてしまったのだろうか。そう思ってそちらを向く。けれど違った。こちらをひょっこり覗き込んでいたのは、彼女によく似た別の女性の顔。
「えっと、ここにいるのかな? って、うわ……」
「え……」
顔を合わせるや否や、その女性は目を見開いて顔を歪めた。い、いきなりなんで。私、何も変なことはしてないのに。
「あ、やだ、ごめんなさい。私ったら、つい口が滑っちゃった」
女性は申し訳なさそうに謝りながら部屋に入ってくると、さっきまでアドレさんが座っていたベッドの上に乗った。
「気を悪くしちゃったのならごめんね? あなたが、あの旅人さん達が助けたっていう子?」
「え? あ、えと、はい……多分」
フェニさんと似ているけれど、彼女よりはだいぶ若く見える。もしかして、この人が彼女の言っていた娘さんなのだろうか。
「やっぱり。目を覚ましてくれてよかった。みんな心配してたんだよ? 私はフィキ。あなたの名前は?」
「あ、それは、その……」
フィキと名乗った彼女は、無邪気な笑顔でそう聞いてきた。けれど、私は答えられない。
母親に似た群青色の瞳から視線を外す。自分が記憶喪失であることは、あまり話したくないと思った。きっと迷惑がられる。でも、話さないとこちらの事情を知ってもらえないし……どうすれば、いいんだろう。
迷いに迷って、私は結局素直に話した。名前や家族、自分がどこから来たのかも、何も思い出せないのだと。
「えぇ!? 覚えてないの? 自分の名前を?」
「う、はい……」
先ほどの三人とは違って、凄い驚きようだ。……いや、ある意味これが正しい反応なのかもしれない。自分でもそれくらい驚いて、またそれ以上に信じられなかったのだから。
「そっか、思い出せないんだ……じゃあ、その目のことは、聞いてもわからないのかな」
「目? あ……」
フィキさんが指差した私の目。鏡などを見ていないので半分忘れていたが、右と左で色が違うというのは、こんな場所でも滅多にないことのようだ。
物珍しげに見つめられるのに慣れなくて、隠すように手で覆う。
「そう、ですね……自分でも、不思議なんです。これのことは」
「そうなんだ。大変、なんだね。……ねえ、ちょっとよく見せてよ」
「え?」
彼女は私のベッドに押しかけると、目を隠していた手を払いのけて、私の前髪を掻き上げた。驚いて後ろに下がろうとするが、彼女の手に後頭部を優しく包まれてしまい、もう前にも後ろにも動けない。
「……うわあ、凄い。両方ともとっても綺麗な色。吸い込まれちゃいそう」
「ふ、フィキさん……は、恥ずかしい、んですけど……」
「もう、目逸らさないで。もうちょっとよく見せてよ。ね?」
そう言って、フィキさんは半ば強引に顔を近付けてくる。
顔が、目が、口が近い。フィキさんの吐息を間近に感じ、彼女の瞳が迫ってくる。このままだと、色々と危ないような気がする。間違って唇とか、触れちゃったり……。
「ふうん、へぇ……オッドアイなんてただの都市伝説だと思ってたけど、本当にあったんだ……」
そんな際どい体勢のまま、フィキさんが気になる言葉を囁く。
「え、それって、どういう……」
その意味を問おうとしたところで、また部屋の扉が開いた。今度こそ、フェニさんが戻ってきたのだ。
「待たせちゃったかしら。スープが思ったより残ってなくて……って、何やってるのよ、フィキ」
呆れた言葉と共に扉を閉めたフェニさん。その手には小さなお盆と、綺麗に畳まれた洋服があった。
「あ、お母さん。入るときはノックくらいしてよー。びっくりしたじゃん」
母親の登場に気付いたフィキさんは、素早く私から離れると、そのまま隣のベッドにだらしなく倒れ込んだ。
「あら、ここは私達の部屋じゃない。そんなことする必要ないでしょう? それよりあなた、いったい何をしてたの? その子の相手をしてくれるのはいいけど、失礼なことしてないでしょうね」
「してないしてない。ちょっと目を見せてもらってただけ」
腰に手を当てたフェニさんの言葉に、フィキさんは唇を尖らせる。
そんな親子同士の他愛ないやり取りを見て、私はホッと息を吐いた。危なかった。このままだと、本当に唇まで触れてしまいそうだった。まだ心臓がドキドキしている。
中々に衝撃的な出会いになったけど……別に悪い人では、ない、んだよね。
「目って、あなたねぇ。それこそ、あんまりじろじろ見るのはよくないわ。嫌そうな顔してるから謝っておきなさい。あなたはいつも遠慮がなくて、相手のことを考えないんだから」
「む、はぁい。えっと、ごめんね? 会ったばかりなのに、ちょっと強引、だったかな」
「あ、えと、その、はぃ……」
ちょっとどころではない、至近距離で見た彼女の顔。思い出すだけで気恥ずかしくなり、段々と声が小さくなってしまう。
「あなたも、嫌なことは嫌ってちゃんと言いなさいよ? この子はきつく言い聞かせないとわからないんだから。それに、世の中そんな優しい人ばっかりじゃないし」
「う、ご、ごめんなさい……」
彼女の言うことはもっともだ。謝って、そのまま少し目線を逸らす。さっきのことが頭に残っていて、フィキさんの顔をまともに見られなかった。
「あーあ。そんなに恥ずかしがらなくたっていいのに。その目、すっごく綺麗だったよ。私、つい見惚れちゃった」
「それは、でも……」
……でも、初対面の人にあんな顔をされるのなら、こんな瞳はなかったほうがいい。そう思って顔を伏せる。この目がある限り、私はこれからも無邪気な好奇心の標的にされてしまうのだろう。それは、嫌だ。
フィキさんの言葉は素直に嬉しかったけど、これに慣れるのには随分時間がかかりそうだった。
「ほら、またそうやって誤魔化す。まあ、いいわ。そんなことより、フィキ、あなたは店番しててくれるかしら。今お客さんが来たらどうするの?」
フェニさんがそう言うと、フィキさんは少し残念そうな顔をしながらも頷いた。
「んー、わかった。じゃあ、またね。えっと、オッドアイの子」
「あ……はい」
私に軽く手を振って、彼女は部屋を出ていった。つられてこちらも手を振り返す。でも、名前がないから仕方ないとはいえ、ちゃんとした名前を呼んでもらえないことが、少し悲しかった。
……オッドアイの子、か。オッドアイ。オッドアイ……なんだか、不思議な響きだ。私の目に、そんな名前が……。
しばらくの間、頭の中でその言葉がグルグルと回り続ける。
「まったく。いくつになっても困った子ね、あの子は」
フェニさんはそう呟きながら、手に持っていたお盆を私の前に差し出してきた。
「あの子のことは放っておいて、はい。さっき言ってたスープ、持ってきたわ」
「え? あ、はい……」
渡されるままお盆を受け取る。そうだった。フィキさんが現れたせいで忘れていたが、フェニさんがスープを温めてくれると言っていたんだ。
それを思い出すと、待ちわびていたかのようにお腹が鳴る。少し、恥ずかしくなる。
「あらら、遅くなってごめんなさいね。ついでにあなたの服も持ってきたから、食べ終わったら着替えてね」
そう言って、彼女は洋服を隣のベッドの上に置いた。それは確かに、昨日私が身に着けていたものだ。海に落ちたから、全部水浸しになっていたはずなのに。わざわざ洗濯してくれたのか……。
「ありがとう、ございます。本当に、なんてお礼を言ったらいいのか……」
「いいのいいの、これくらい当然よ。さ、温かいうちに召し上がれ」
「はい……頂きます」
お盆を膝の上に乗せ、スプーンとお皿を持つ。手に取った深皿は温かく、中からは白い湯気と共に、食欲をそそる香りが立ち上っている。主な材料は野菜や貝類などで、海で採れた物を多く使っているようだ。どんな味がするのか気になる物も入っている。それらをまとめてスプーンにすくい、まずはひと口。
「あ……美味しい、です」
体も心もほっこりするような味わいが、口の中に広がった。食べ物って、こんなに美味しかったんだ。久しぶりに口に物を入れたような気がして、こんなことまで忘れていたのかと、自身の現状に改めて驚愕した。
「口に合ったみたいで何よりよ。さ、どんどん食べて」
「はい……!」
フェニさんに促されて、スプーンを動かす手を早める。自分の想像以上にお腹が空いていたようで、お皿が空になったのはすぐだった。
「……ふぅ。ごちそうさま、でした。あの、凄く、美味しかったです」
「それはよかったわ。でも、ごめんね。今日はもうこれだけしか残ってなかったの。欲張りな娘がほとんど食べちゃってたみたいで」
「あ、いえ、そんな。全然大丈夫です、全然。お腹も膨れましたし」
もっと食べたいという気持ちはあるが、無理を言って迷惑をかけるわけにはいかない。温かい食事にありつけただけで満足だ。そう思っての言葉だったが、フェニさんはなぜか微笑んで、
「あら、ふふ。スープを飲んだら、少し表情が明るくなったわね」
「え……そう、ですか?」
思わず頬に手をやる。言われてみれば、さっきよりも口がよく動いているような……?
「ええ。やっぱりご飯はみんなを幸せにするのよ」
感慨深く頷いた彼女は、納得したようにそう呟いた。
「さてと、食事もして落ち着いたことだし、次は着替えね。あ、そのお皿はちょうだい。片付けてくるわ。今着てるのは、ベッドの上にでも置いといてくれればいいから。じゃ、私は一旦外すわね。慌てなくていいから」
「あ、はい。わかりました」
フェニさんが部屋の扉を閉めるのを見届けて、私はベッドから出た。素足のままで板張りの床を踏むと、足裏にひんやりとした感覚が伝わってくる。
「……えっと」
言われた通りに着替えようと、服に手をかける。するとなぜか、これからすることが途端に恥ずかしくなった。裸になることはもちろん恥ずかしいが、自分の裸を見ることにも羞恥を感じている。なんでだろう。自分の体、なのに……。
戸惑いつつも、あまり下を見ないようにしながら服を脱ぎ、腕で胸元を隠す。本当はあまり気にしたくないが、腕に当たる柔らかい感触で、この膨らみのことを意識してしまった。
女としての魅力はあまりないかもしれないけれど、それなりの大きさはある胸部。女なのだから当然だ。当たり前なのだ。そう自分に言い聞かせながら、フェニさんが洗ってくれた下着を手に取る。黒色だった。
「うぅ……」
……凄く、恥ずかしい。早く服を着よう。でも、着方とかよくわからないな……。
とりあえず勢いに任せて、下着を身に着ける。しかし、恥ずかしさはまだ消えない。続けてシャツを身につけ、スカートを腰まで上げる。
……こんな感じで、大丈夫かな。
そこでようやく羞恥心が薄れた。ひと呼吸置いてから襟の中に短いネクタイを巻き、結ぶ。あまり意識せずに手を動かしているが、鏡を見ることもなく上手にできたと思う。長靴下は普通に履こうとすると大変だったので、一度爪先までまくり上げてから足を入れると、簡単にできた。さらにその上からブーツを履く。最後に、私の体格より少し大きめの上着を羽織って、これで終わりだ。
「……ふぅ」
少しおかしな感覚を味わったけど、なんとか着替えることができた。ささやかながらも確かな達成感を味わいつつ、ついさっきまで自分が寝ていたベッドに腰を下ろす。
改めて、これからどうしようか。
食事に着替え。フェニさんに言われたことは全部やってしまった。他に私にできることといえば、出かけて行ったアドレさん達の帰りを待つことくらい。でも、彼らにすべてを任せっきりにしているのも、なんだか悪い気がする。何より、それでは私がつまらない。やれることがなくても、退屈なのはなんだか嫌だ。
そんなことを考えていた時、ふと、窓の外から聞こえてくる町の喧騒に注意が向いた。温かな光と爽やかな空気。その向こうに広がっている、私の知らない世界。
……そうだ。外に出てみよう。この部屋にいても、やれることは何もない。ならば世界を広げて、自分に何ができるのかを見つけに行こう。ここが本当に知らない場所なのかも確かめたいし、何より興味があった。ここがどんな場所で、どんな人がいて、どんなことをしているのか。わからないことだらけの私だけど、だからこそ、色々なことを知りたかった。
芽生えた好奇心に突き動かされて部屋から出ると、そこは廊下だった。人の姿はない。左右の突き当たりと正面に扉がある。どれを開こうか迷って、なんとなく左にある扉を選んでみる。ドアノブを握る前に気配を探ってみると……何かの物音が聞こえた。フェニさんだろうか。そうだといいなと思いながら、私は恐る恐るノブを回して扉を引いた。
そこは、大きな食堂のような場所だった。消えている照明の下には机と椅子が沢山あり、今は誰も座っていないが、かなりの人数が入れそうな部屋だ。壁に開いた窓の外には、数え切れないほど多くの人が、お店の前の道を歩いているのが見える。
私が入ってきた扉はカウンターの中にあり、すくそこの台所で、フェニさんが大きな鍋を回していた。宿で出す食事の準備だろうか。とても沢山作っている。
「あ、さっきの子。着替えてきたんだ」
「あ、ど、どうも……」
突然呼ばれて振り返ると、そこには階段を登ろうとしていたフィキさんの姿。彼女は私にニッコリ笑いかけると、そのまま階段を登って上の階に消えていく。
フィキさんの声に気付いたフェニさんは、一度料理の手を止めて振り返った。
「あら、着替えは終わった?」
「は、はい……」
邪魔をしてしまっただろうか。そんな思いが一瞬頭をよぎったけれど、勇気を出して尋ねてみる。
「えっと、フェニさん。私、外に出てみたいんですけど……」
「外?」
私の言葉を聞いた彼女は、なぜか一瞬首を捻った。そのちょっとした仕草に、何か理由を付けて断られるのではないか、という不安が胸に浮かぶ。
「はい……その、駄目、ですか?」
「まさか、もちろんいいわよ。暗くなる前に帰ってきてくれるなら、何も言わないわ」
私の不安に反して、フェニさんは案外簡単に許可してくれた。とりあえず、怒られなかったことにホッとする。
「ありがとう、ございます。じゃあその、行ってきます」
「ええ、気を付けてね」
「はい」
フェニさんの注意に軽く頷きながら、なんとなく上着のフードを被り、私はお店の扉に手をかける。扉に取り付けられた小さな鈴の楽しげな音色に励まされて、私は、新たな世界への一歩を踏み出した。