第三十五話 友情は一日にしてならず
その日の授業は、コバリィ先生に用事があるとかで自習になった。ちなみに今朝は師匠とカイの二人に挑み、師匠とカイの二人に負けた。そのおかげで、今日はいつにも増して気分が悪かった。
いつもの広い教室で一人、先生が用意してくれたお手本の紙を見ながら、これまで習った複式文字の練習をする。文字の勉強を一週間以上、休日も返上してまで頑張ったおかげで、私もそれなりの数の文字を書けるようにはなったが、まだまだ字を書くことへの難しさを感じていた。
「……はぁ」
あーあ。今日も先生の面白い話が聞きたかったんだけどなぁ……。
しかし、いないものは仕方がない。むしろ、今まで一度もこういうことがなかったことが不思議だ。いつも私は先生を丸一日拘束していたというのに、先生は毎日付き合ってくれていた。わざわざ時間を作ってくれていたコバリィ先生に感謝しつつ、今度はこちらが先生の都合に付き合わなくてはと、私は自習を受け入れたのだった。
まあ、お昼前には戻ってくるって言ってたし、それまでは大人しく勉強していよう。終わらなかったら、宿に持ち帰らないといけないし……。
やっておきなさいと言われた紙は二十枚。一枚につき十文字書いてあるので、文字数にすると合計二百文字だ。でも、私はまだ、ようやく二枚目に取り掛かったところだった。
◇ ◇ ◇ ◇
窓の外で鳥が飛んでいた。群れになった小さな鳥。名前は知らない。その鳥は、白と黒の混じった翼を持っていた。それを見て私は、まるで今自分が持っている、鉛筆の芯のような色だな、と思った。
「……はぁ」
何考えてるんだろ、私。疲れたな。手も痛いし……。
鉛筆を放って、机の上に体を投げ出す。既にノルマの半分が終わったが、これまでにかかった苦労を考えると、これから待ち受ける半分に手を付けるのは中々気が進まなかった。
「ちょっと、休憩しよ……」
この『ちょっと』を、今まで何度挟んだだろう。勉強を始めて二時間近く経ったが、五回くらい休憩しているような気がする。あれ、途中でトイレにも行ったから、六回だったっけ。まあ、どっちでもいいや。もうしばらく手を動かしたくない。でも、まだ課題は残ってるし……。
「はぁ。ふぅー」
気を抜いた私は、目を閉じて深く息を吐いた。肩の力が抜けて、首の後ろが少し楽になる。
あぁ……はぁ。つかれたな……。
そんな時、教室の外から声が聞こえた。
「あれ、ここ、人がいる……?」
コバリィ先生ではない。女の子の声だ。
あれ、誰だろう。初めて聞く声だけど……ここの生徒かな?
気になって顔を上げた時、ガラガラと教室の引き戸が開き、人の顔がひょっこりと現れた。
「あっ……」
鮮やかな緋色の髪をショートカットにした、人間の女の子だ。多分、何歳か年上だろう。深い紺色のローブを身に纏っていて、頭には大きな三角帽子。この学校の生徒のようだ。
「あっ、どうも……」
目が合ったので、軽く会釈して挨拶。女の子の腕には、沢山の紙が抱えられていた。
「どうも……あの、あなた、誰? ここで何してるの?」
彼女は私を見て驚いたような顔をしながら、色々と尋ねてきた。
……少し、引かれてる? 眼帯のせいかな……。
「えっと、私、レイラ。私は、その、ここで勉強してて……」
初対面の人との会話に緊張しつつ、聞かれたことに答える。すると質問してきた彼女は、教室の中を見回して、
「コバリィ先生はいないの?」
「いないよ。用事があるって言って、朝からどっか行っちゃった」
「そう」
私の話を聞いた彼女は、そう言って姿を消した。扉を開けたまま。続けて別の扉を開ける音がしたので、恐らく隣の書斎に入ったのだろう。
……行っちゃった。何だったんだろう、あの子。もしかして、先生に何か質問しに来たのかな。
先生が戻ってきたら伝えておこうと思いながら、視線を机の上の紙に戻す。ノルマは残り十枚。これまで勉強した百文字が、私の前に立ちはだかっている。
……はぁ。やるか。やらないと終わらないし。
放り投げた鉛筆を再び握って、勉強を再開しようとした時、さっきの彼女が再び現れた。
「ねぇ、あなた、何を勉強しているの?」
開けっ放しの扉から顔を覗かせた彼女は、今度は当然のように教室に入ってきて、私の隣までやってきた。いきなりのことだったので少し驚いたが、私はとりあえず質問に答えた。
「えっ? あ、えと、文字の勉強だけど……」
「ふぅん。なんで?」
「その、私、字読めないから……」
素直に理由を答えると、彼女は私の前にある机の上を見て、意外そうに頷いた。
「そうなんだ……」
そして、鉛筆を持った私のことを、上から下までジロジロ見てくる。物珍しげな視線が気になって、少し不愉快だ。
うわ、この視線。私、こういうのが一番嫌なんだけどな……。
そんな不快な気持ちを隠して、話題を変えようと、今度はこちらから質問する。
「あの」
「……何?」
「君、名前は?」
こちらはもう名前を教えたが、私はまだ向こうの名前を知らない。私はそのことが少し気になって、女の子に名前を尋ねた。
「ああ、ごめん。あたし、まだ名乗ってなかったっけ。ルラリエンス・モービエルサ。属性魔術科の二年生よ。ルラって呼んでね」
ぞ、そくせいまじゅつか? 何のことだろう……。
よくわからない言葉があったけれど、とりあえずスルーする。
「う、うん、わかった。じゃあその、ルラ、ちゃんはさ、コバリィ先生に何か用事があったの?」
「そうよ。ランドクール先生に、コバリィ先生に資料を届けて欲しいって言われて来たんだけど、いないから部屋に置いてきた」
「そうなんだ」
ルラちゃんは隣の机の椅子を引いて腰を下ろした。そして、私の手元を覗き込んでくる。
「何を書いているの?」
「えっと、今まで勉強した複式文字を復習してるの。先生がいない間にやっておけって言われて」
「へぇ、そうなの」
そう言っている間も、ルラちゃんは無遠慮に手を伸ばしてきて、私が今まで書いた紙をペラペラめくった。
「うわ、本当に最初からなのね……。ねぇ、こんな初歩的なことをやってるなんて。つまらないんじゃない?」
「まあ、うん。でも、私が自分でやりたいって言ったことだし。それにルラちゃんだって、昔はこうやって勉強したんじゃないの? みんな通る道だと思うよ」
「それは……そうかもしれないね。そう言えばあたしもやったなぁ。でも、そんなに大変じゃなかったような気がする。こんなの簡単だって」
「そうなんだ……」
もう既に字の読み書きが身に付いている人にとっては、こんな勉強は取るに足らないことなのだろう。でも、今現在頑張っている私の前で、初歩的とか簡単とか言うのはやめてほしい。やる気がなくなる。
彼女はさらに質問を重ねた。
「ね、レイラちゃんは、この学園の生徒なの?」
「あー、一応、そうなってたと思う。そんなに長くはいないと思うけど」
詳しい事情は抜いて、簡潔に答える。先生は確か、一時的に学生扱いされていると言っていたはず。
「そう。じゃあ、特別生ってことか」
「うーんと、そうなるのかな。多分」
特別生、か。便利な言葉だ。でも、普通と違うという点では正しい。
立ち上がって隣に立った彼女は、私の肩を叩いて言った。
「ねぇ。そんなつまんない勉強するよりさ、あたしとどっか行こうよ。まだここに来てそんなに経ってないんでしょ? この学園を案内してあげる」
「え? それって、でも……」
まだ課題が終わってない。そう言いたかったが、彼女は既に私の手を取っていた。
「大丈夫だって。少しこの建物を見て回るだけだし、そんなに時間かからないよ」
「そ、そうかな……」
「大丈夫、大丈夫。ほら、行こ?」
結局、彼女の強引な言葉に押し負けた私は、手を引っ張られるまま、引きずられるように教室を出た。
◇ ◇ ◇ ◇
「ここは高等部の教室があるの。あ、高等部ってわかるかな。基本を終えた人が、専門的な魔術を自分で選んで勉強する学年ね。で、あっちが高等魔術科で、その隣が魔法薬学科の教室。奥にあるのが、先生の研究室」
「そ、そうなんだ……」
ああ……やってしまった。ついに授業をサボってしまった。いくら優しいコバリィ先生でも、流石にこれは怒られるかな……。
私の胸の中は不安と罪悪感でいっぱいだったが、今更引き返すわけにもいかないので、私は大人しくルラちゃんの後に続いて、校舎の中を探検していた。今は普通に授業時間中のようで、各階の教室からは先生の話す声が漏れ聞こえている。授業の内容までは理解できないが、多分魔術関連の話だ。きっとそうに違いない。
広い校舎の中を歩きながら、ルラちゃんに教えてもらった学園の仕組みはこうだ。
この学校では、初等部、中等部、高等部の三段階で学生の学習段階を分けているらしい。
初等部では、今私が勉強しているような文字の読み書きや一般常識、魔術の初歩を教えてもらう。それらの勉強を終え、試験を受けて合格すれば、次の中等部に進める。
中等部は、一般常識の少し深い部分や、基礎的な魔術全般について勉強する。そしてまた試験を受けて、合格すれば次の高等部に進める。でも、大抵の人は先には進まず、ここで卒業していくらしい。次に進むのは、本当に魔術に興味がある人と、お金に余裕のある人だけのようだ。
最後は高等部。高等部はこれまでの二つとは違い、いくつかの学科に分かれている。属性魔術科、高等魔術科、魔法具学科、魔法薬学科の四つだ。学生はこの四つの中から自分の好きな学科を選び、それぞれ専門的な魔術を勉強する。そして、最後の試験に合格すれば、晴れて卒業。立派な魔術師を名乗ることができる。
ちなみにルラちゃんは今高等部で、属性魔術科にいるらしい。
それから、他の町から来る人達は、基本的に中等部からの入学となるそうだ。つまり初等部で勉強している内容は、他の町の学校と同じということ。初等部は五年、中等部は四年、高等部は四年の十三年間を勉強に費やすらしい。でも、中等部からは飛び級の制度もあって、実力のある人は九年程度で卒業してしまうのだとか。だから、何年生という括りにあまり意味はない。
そういった話を聞かされた私は、自分がもし最初からこの学校に通っていたら、いったいどんな生活をしていただろうかとつい考えてしまっていた。
「この下には中等部の教室があるわ。今は授業中かな。……ね、どう? レイラちゃん。この校舎、結構広いでしょ?」
「う、うん。思ったより、広い」
今まで食堂と教室を行き来する生活しかしていなかった私は、自分が今いる校舎の広さに驚いていた。こんなに沢山の教室と研究室があったなんて。しかも、一つの階に、四十人は入れる教室が五つも六つもある。外から校舎を見た時はそんなに大きいと感じなかったのに。不思議だ。
そんな私の疑問をお見通しだというように、ルラちゃんは、
「気付かなかったかもしれないけど、この建物の中って、魔術で広げられてるんだよ」
「え? 広げられてる?」
首を傾げた私に、得意顔のルラちゃんは頷いて、
「そう。実際の建物はこんなに広くないんだけど、空間を広げる魔術を使って、中身を広くしているの。それが、この建物が広い理由」
「へぇ……凄いね。魔術って、そんなこともできるんだ」
私は素直に感心していた。空間を広げるなどという、物理法則を無視した現象を起こせるなんて。きっと、とても凄い魔術師がこの建物を作ったに違いない。
……もしかして、この校舎が白色のふわふわに包まれているように見えるのって、この魔術のせいなのかな。
「まあね。でも、レイラちゃんはエルフだから、あたし達みたいに勉強なんかしなくても魔法が使えるんじゃないの?」
「いや、私はその……魔法、使えなくて」
あまり言いたくはなかったが、私は正直に白状した。それを聞いた彼女は少し意外そうな顔をしたが、想像よりも驚かれることはなかった。
「そうなの。この学園にエルフなんて珍しいと思ったけど、カーネル先生と一緒なのね」
「あ、うん。そういうこと。でも、あんまり困ることはないんだよ。色々便利な方法が他にもあるから」
「そうなんだ」
ひと通り教室の説明を終えた私達は、そのまま一階まで降りていった。階段を下りている最中、今度はルラちゃんから私に質問をしてきた。
「ねぇ、レイラちゃんは、どうしてここに来たの?」
「え、私?」
今まで説明ばかりだったルラちゃんだが、今度は私の話を聞きたいようだ。
ずっと喋らせてばかりで悪いなと思っていた私は、自分が旅をしているという前提から、ここに来る経緯を話した。
「えっとね。私、旅をしているんだけど、字の読み書きとかできなくて。それで、師匠……あー、一緒に旅をしている人に、ここに折角大きな学校があるんだから、色々勉強してこいって、ここに通わされてるの。なんか、コバリィ先生と知り合いだったみたいで」
「へぇ、旅かぁ……いいなぁ。あたしもしたいなぁ」
私の話を聞いたルラちゃんは、羨ましそうに呟いた。
「ねぇ、旅ってやっぱり危険なの? 外は魔物とか出るんでしょ?」
「まあ……それなりに」
私は今まで魔物に襲われたことはほとんどないが、師匠の話によると、一日に二度、三度と遭遇する危険な地域もあるようだ。それも、とても強力な魔物に。考えただけでワクワクしてくる。
「じゃあ、レイラちゃんって強かったりするの? その、戦いが」
「どうだろう。わかんない。毎日鍛錬してるけど、師匠達に負けてばっかりだし」
「ふぅん。そうなんだ」
彼女はまだ何か聞きたそうだったが、それ以上何かを言う前に、私達は階段の踊り場に差し掛かった。そこでふと、外から聞こえてくるカンッ、カンッという音に耳が反応した。毎朝嫌というほど聞いているような音に似ているが、少し違う。もっと軽い、木と木をぶつけ合うような音だ。
音の聞こえてくる方、窓の外を見ると、広い中庭のような所で、簡単な鎧を身に付けた学生達が木刀を手に模擬戦をしていた。
私は踊り場で足を止め、ルラちゃんに尋ねた。
「ねぇ、ルラちゃん。あれは何やってるの?」
「え? ああ、あれは剣術の授業だよ。騎士を目指してる人が受けるの。あたしも受けてるのよ」
「へぇ、騎士を目指す人が……ルラちゃんもそうなの?」
「そうよ」
ルラちゃんの話を聞きながら、中庭で剣の練習をしている学生達の姿を見守る。みんな私よりも少し年上の人達だ。男の人もいれば、女の人もいる。指導している先生は強面で厳しそうな人だったが、その指導は的確だった。
だが私に言わせれば、みんなまだまだだ。構えは安定しておらず、型もどこかおかしい。一人前の剣士になるには努力が足りない。けれど中には綺麗な構えをしている学生もいて、その人は日頃から練習しているのだなとわかる。しかし先生の注意に反抗しているようでは……。あの学生は、内面に問題があるようだ。
……まあ、学生の授業なんてこんなものか。みんな真面目にやっているみたいだけど、師匠やカイとは比べ物にならないな。あんな程度だったら、例え百人いたとしても、私でも普通に勝てそうだ。
「……頑張ってるんだね」
色々と思うところはあったが、とりあえず当たり障りのない感想を口にした時、休み時間を知らせる鐘が鳴った。馴染みのない独特のリズムが学校中に響く。それを合図に、教室の中も外の学生達も、一斉にガヤガヤと動き出す。
「まあね。みんな本気だから。……あ、そうだ。ねぇ、ちょうど休み時間になったところだし、ちょっとあたしの練習に付き合ってよ」
中庭を指差し、ルラちゃんは言った。その動作で、彼女が何の練習をしようとしているのか理解する。
「え……いいの? 私で」
「もちろん。こう見えてもあたし、結構やるんだから。先生にも勝ったことあるし」
ルラちゃんは胸を張って、自慢げに武勇を語った。やる気満々な彼女の申し出を無下に断るのも悪いと思い、私は彼女の申し出を快く受けることにした。
でも本当は、私はもっと慎重になるべきだった。十分後の私は、そう後悔していた。
◇ ◇ ◇ ◇
「先生、ここ使わせてもらいますね」
中庭に出たルラちゃんは、さっきまで学生達を指導していた先生に話しかけた。周りにはまだ学生達が残っていて、木刀を手に自主的な練習をしている。
「ん、ああ、ルラリエンスか。いいぞ。いつも熱心だな。……ん? そいつは?」
「レイラちゃんよ。コバリィ先生の特別生ですって」
「あ、レイラです。えっと、その、どうも……」
ルラちゃんに紹介された私は、先生に軽く会釈した。先生は私の顔を見て少し驚き、次いで首を傾げて、
「コボル教授の? ああ、そういえば会議で何か言っていたな……。まあいいか。で、お前はその子と模擬戦したいと」
「そうです。いつも相手が同じじゃつまらないじゃないですか」
「はは、そうか。まあ確かに、お前の相手が務まるような奴はそうそういないな」
ルラちゃんはこの先生と仲が良いようだ。それに、この会話の内容。彼女にそれなりの実力があるというのは事実のようだ。
「そっちの……レイラといったか。君の意見は大丈夫か? こいつの無理に付き合わされているんじゃないだろうな」
「あ、それは、大丈夫です」
先生の確認に頷く。信用されていなかったルラちゃんは、少し不服そうな顔をしていた。
私の返答を聞いた先生は、しばらく私とルラちゃんの顔を眺めた後、頷いた。
「よし、いいだろう。模擬戦を認める。武器はあいつからもらってこい」
「ありがとうございます。さ、行こ、レイラちゃん」
「う、うん。ありがとうございます」
今のやり取りを聞いていたのか、周りの学生達が遠巻きに私達のことを見てくる。視線は私に、特に眼帯と耳に集中している。そんなにエルフが珍しいのだろうか。それとも、この学校にエルフがいるという状況が珍しいのだろうか。視線を感じて緊張しつつ、私は模擬戦で使う武器を受け取りに行った。
武器といっても、木製の練習用だ。剣、槍、盾と、近接武器が揃っている。年上のお兄さんが一人、それらの手入れをしていた。
「よう、ルラ。その子、どこから捕まえてきたんだ」
「コバリィ先生の特別生よ。暇そうだから連れてきたの」
いやあの、私は別に、暇だったわけじゃないんだけどな……。
二人の会話を聞きながら、私は心の中で突っ込む。私がここにいるのは、ルラちゃんが半ば強引に私を連れ出したからだ。けれどもそれを口には出さず、二人の会話を少し後ろから見守る。
「ふぅん。そうか。ルラはいつも、これ使ってたよな。君はどうする?」
「あ、えっと……」
お兄さんに尋ねられ、武器を眺める。だが、私がいつも使っているような刀身の長い剣は見当たらなかった。
「……ない。どうしよう」
もしかしたら私の剣は、他の人があまり使っていない種類の剣なのかもしれない。武器屋でも見たことがないし。
ないものは仕方がないので、適当に似たような形の木刀を手に取り、軽く振る。これはどちらかというと、剣というよりも刀に近かった。
……悪くない。でもやはり、長さが足りないから感覚が狂う。
もう二、三回振ってみると、なんとなく間合いがわかってきたような気がする。戦えなくはない。
「まあ、これでいいかな」
剣を選んだ私達は、中庭の空いていた場所で向かい合った。ルラちゃんはローブと帽子を脱ぎ去り、胸当てとこてを身に付けていた。ローブの下に着ていたのは、白いブラウスにオレンジと黄色のスカート。模擬戦をするというのにスカートとは大胆な子だと思ったが、私も人のことは言えないということに少しして気が付いた。
……なんか、急に恥ずかしくなってきたな。今まで師匠達と戦っていた時も、もしかして、中、見えちゃってたりしたのかな……。
今更ながら顔を赤らめていると、私を見た先生が、ルラちゃんと同じような防具を差し出してきた。
「君。防具忘れてるぞ。安全のために付けないと」
「いえ、いらないです。邪魔になるだけなので」
「え、そうか……怪我しても知らないぞ」
「大丈夫です」
防具の装着を断ると、先生は少し驚きながらも引き下がった。
そんな私達の様子を、他の学生達や先生が見守っている。自分達の練習はどうしたのだろう。多くの視線を感じて落ち着かないが、今は目の前の戦いに集中しないと。
「……はぁ。まあ、そこまで言うなら認めよう。ルラリエンスも準備はいいな。休み時間には限りがあるから、制限時間を設ける。そうだな。五分にしよう。先に相手を降参させたほうが勝ちだ。それから、これはいつも言っているが、相手にあまり大きな怪我はさせないように。いいな。特にルラ。相手は今日会ったばかりなんだろ」
「了解。わかってますよ。あたしを誰だと思ってるんですか?」
「えっと、わかりました」
降参させたほうが勝ち。大きな怪我は駄目、か。ルールがあるのは少し面倒だ。でもまあ、模擬戦だし、安全のためにこういうルールを設けられるのは仕方がない。
時間がわからなくなると困るので、義眼にタイマーをセットし、視界の端っこに表示させておく。
慣れた様子で木刀を構えたルラちゃんは、挑戦するような目で私を見つめていた。彼女の青色の瞳からは、強敵と戦うことができそうだという期待感が感じ取れる。その期待に応えられるかどうかわからないが、私も楽しむことができるのなら、それでいい。こちらも、普段より短い木刀を両手に持って、いつものように中段に構える。
……ん、いつもより剣が軽い。これなら、片手で持ったほうがいいかも……。
考えを変えた私は右手一本で剣を持ち、その感触を確かめてから、力を抜いて剣先を地面に向けた。慣れない剣で変に構えを取ると、かえって不利になりそうだったから。でも、それを見たルラちゃんは、驚いたような表情になった。
……やっぱりまだこの剣の扱いに慣れないな。最初は様子を見て、体を慣らそう。模擬戦でも、相手が今日会ったばかりの年上の女の子でも、私は、負けたくない。
心の中で静かに闘争心を燃やし、戦いの始まりを今か今かと待つ。
「二人とも準備はいいな。では、始めっ!」
「はぁっ!!」
開始の号令と共に、ルラちゃんは動いた。ほぼ真上からの、頭を狙った一撃。構えから予想していた通りの動き。難なくかわす。続けて繰り出された下から上へ跳ね上げるようなひと振りもかわす。教師に勝ったと豪語していた通り、彼女の攻撃は中々に速かった。
……さっき見た学生達よりは、やるみたい。
攻撃を避けられた彼女は距離を開け、再び構えを取った。その鋭い視線が私を射抜く。
「ふん、やるようね。あたしの攻撃をかわすなんて。でもっ!」
お喋りが多い人だ。口を動かす余裕があるのなら、そのエネルギーを戦いに使うべきだというのに。
剣を軽く振って感触を確かめる。反撃はまだ必要ないだろう。
またもルラちゃんから攻撃がくる。繰り出された三連続の突きを避け、薙ぎ払うような攻撃を剣でいなし、一定の距離を保ったまま、人の円の中を移動していく。
ルラちゃんが一瞬剣を構え直したかと思うと、続けて素早い六回連続攻撃が繰り出された。しかし、木刀を打ち付け合う音は鳴らない。
「このっ、なんで避けるのよっ」
反撃のチャンスは何度もあったが、今のところは見逃している。すぐに終わってはつまらない。折角時間制限なんてものがあるのだ。時間いっぱいまで、存分に楽しまなければ。
楽しくなってきた私は、相手の技を避けずに受けるようになった。木刀を受け止めて力比べに持ち込むか、弾いて体制を崩させる。
彼女はどうやら、素早い攻撃を連続で繰り出すことが得意なようだ。その連続攻撃の最中に剣で受けて技を止めれば、リズムが乱れて動きが止まる。そこに隙がある。だが、そこを突くのはまだ早い。
「くっ、この、これでも食らえっ!!」
「……ふっ!」
ルラちゃんの体重が上手く乗った、真上からの渾身の一撃。反撃とばかりにその技を下から上に弾き飛ばす。
力加減を間違えた。
彼女の剣は手からすっぽ抜けて、空中を飛んだ。
「あっ……!」
動揺するルラちゃんの目の前で、振ってきた木刀を左手でキャッチ。二振りの木刀を両手に持つ。
――っと。やば、ちょっとやりすぎたかな。あ、でも……この感じ。なんか、いい……。
胸の内に妙な感覚を抱いた私は、自分の口角が少し吊り上がっていることに気付いていたが、その表情はもう、自分の意志ではどうにもできなかった。
「くそ、剣なんかなくたって、戦えるんだから……!」
剣を失ったルラちゃんは素早く距離を取り、私を見据えて意識を集中させる。すると、最近よく見るようになった半透明なモヤモヤが、彼女の体の周りに集まり始めた。
……お? これは、もしかして……。
「あ、おいルラリエンス! 剣術の模擬戦で魔術は……」
「もう、授業じゃないんだから! 魔術も実力の内よ!」
彼女は先生の言葉に反抗し、手を前に突き出す。
「フレイムバレット!」
その言葉と同時に、魔力が彼女の手の平に集まり、オレンジに色付く。色の付いた魔力が炎となって現実に干渉。手の平に出現した炎の塊は、彼女の手が示す方向、私に向かって一直線に飛んできた。
へぇ、呪文ってこんな感じなんだ。初めて聞いたな。でも、どこかで聞いたことがあるような……?
そんなことを考えながら、私は体ごと二本の木刀を回転させ、目にも止まらぬ速さで飛んできた炎の弾丸を十数発、すべて斬り伏せた。木でできた剣は炎に触れたが、一瞬だったので火が燃え移ることはなく、炎の切れ端は空中で小さくなって、消滅した。
「な、嘘……」
周囲の野次馬が息を呑む。先生までもが目を見開いている。面白い反応だ。私が初めて剣を握った時のことを思い出す。そして、その時に感じた感情も。
ふふっ。なんか、楽しくなってきた。この感覚、懐かしい……。
両手の剣を素振りして、その使い心地を体で感じる。そして私は、信じられないという表情のルラちゃんに微笑んだ。お楽しみはこれからだ。
「……ふふっ」
……やっぱり、剣は二本のほうがいい。
「ひっ……この、まだよ!」
怯えたように表情を引きつらせた彼女は、さらに呪文を唱えた。魔力の靄が右の視界に現れ、次々と魔術が発動する。波打つ地面、行く手を阻む水の壁、突然爆発する足元の小石。ルラちゃんの操る自然現象が私を襲う。
どうやら彼女は、剣だけではなく魔術も連続攻撃が得意のようだ。ならば、同じようにリズムを崩してしまえばこっちのもの。
間髪入れずに繰り出される魔術を木刀で斬り、斬れないものは確実に避ける。罠のように私を取り囲んでくる魔術も、彼女の魔力に捕らわれる前に逃げれば問題ない。
「この、この、なんで当たらないのよっ!!」
電撃が私のすぐ横をかすめていく。髪の毛に静電気が溜まるが、気にしない。氷塊を巻き込んだ竜巻を斬り伏せる。ルラちゃんの顔には焦りと疲れが見え隠れしている。そろそろ限界が近いのかもしれない。魔術もずっと使えるわけではないのだろう。
タイマーを見ると、制限時間は残り二十秒を切っていた。これが最後のチャンスと見た私は、ここでようやく攻勢に転じた。
地面から生えてきた氷の塊に乗ってジャンプし、放たれた炎と水の弾丸を斬り伏せながら、ルラちゃんに飛びかかる。
「っ……! ぷ、プロテクトッ!!」
上を見上げた彼女は、私が突然距離を詰めてきたことに動揺したのか、咄嗟に腕をかざし、防御の魔術を使った。しかし、その魔術は今までの物とは違い、どこか不安定で脆い。そんな防壁では私の攻撃を防ぐことはできないだろう。
……ああ、駄目だよ、そんな薄い防壁じゃ。
全体重と重力を乗せた一撃を、彼女の頭目がけて振り下ろそうとした、その時。
「そこまでじゃ!!」
ハッと我に返った私は、慌てて腕に力を入れて斬撃を中断し、そのままルラちゃんを押し倒すような形で地面に着地した。
「……っ、はっ……」
衝撃が体に伝わる。上手く着地できたのかどうかわからない。乾いた土が舞い上がる。荒くなった自分の呼吸以外、何も聞こえない。
目の前には、きつく目を瞑ったルラちゃんの顔がある。視界の片隅で、砕けた魔術の防壁が消えていく。私が使っていた二本の木刀は、彼女の首を挟み込むように刺さり、地面を抉っていた。
「はっ、あ……」
「っ……」
震えていたルラちゃんが、恐る恐る目を開ける。顔を近付けていたので、必然的に目が合う。彼女の瞳が見開かれ、そして、そのまましばらくの間見つめ合う。彼女の顔には、驚きと恐怖が入り混じっていた。
私はとにかく、ルラちゃんが無事だということに安堵した。
ま、間に合った……。私、もう少しでルラちゃんのこと……。
「こら、レイラ。お主、ここで何をしとるんじゃ」
聞き慣れた声に顔を上げると、コバリィ先生がいた。右手に不思議な形の杖を持ち、野次馬達が空けた道をゆっくりと歩いてくる。
「こ、コバリィ先生! あの、これは、その、えと……」
まるで叱られた子供のようになった私は、慌てて木刀を地面から引き抜き、ルラちゃんから離れた。あれやこれやと適当な言い訳を口にし始める私だったが、先生は左手を上げてそれを制する。
「まあ良い。話は後じゃ。探したぞ。せめて書き置きくらいはしてほしかったな」
「す、すみません……」
素直に謝りつつ、まだ地面に倒れたままのルラちゃんに手を差し出す。ルラちゃんには、怖い思いをさせてしまった。危ない目に合わせたことを謝ろうとしたが、彼女は、
「あ、あの、ルラちゃん――」
「っ、こ、来ないでっ!!」
そう叫ぶなり、彼女は私の手を跳ね除け、立ち上がって逃げ出した。着ていたローブと帽子を残したまま、戦いで汚れた服も直さず、緋色の髪を振り乱して。
「あ、待って! ルラ、ちゃ……」
その小さくなっていく背中に跳ね除けられた右手を伸ばしたが、もう遅い。彼女は建物の中に姿を消し、足音も聞こえなくなった。
あ……ルラ、ちゃん。私……。
言葉を失い、視線を落とした私の肩に、コバリィ先生の手が優しく乗る。
「行くぞ、レイラ。教室に戻ろう」
「……はい」
何も言えなかった私は、フードを被って先生の言葉に従った。貸してもらった木刀をお兄さんに返す。その時、先生が言った。
「ああ、アンセノール君。その木刀はもう使わないほうが良いぞ」
「え? ど、どうしてですか? コバリィ先生」
「ふむ……」
尋ねられた先生は、左手に木刀を一本持ち、そのままもう片方の木刀を軽く叩いた。すると、二本とも途中で砕けて、折れてしまった。ボロボロの木くずとさっきまで木刀だったものが地面に落ち、土の上に広がる。
「うわ、ふ、ふくざつこっせつ……」
誰かの呟きが聞こえてくる。まさしくその通りだ。私は恐る恐るコバリィ先生を見た。先生は穏やかな表情を崩さずに、武器を管理していたお兄さんに言った。
「こういうことじゃ。また新しい物を買わんとな。片付けは任せて良いな?」
「は……はい。わかりました……。嘘だろ。魔術で強化してあったはずなのに……」
彼の呟きを背中に聞きながら、私達はしんと静まり返った中庭を離れ、いつもの教室に戻った。




