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記憶と妖精~偽りの瞳~  作者: 夜寧歌羽
第四章 学び舎の老教授
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第三十四話 日常は勉強と共に

「おはようございます、先生」

「おはよう。朝から元気そうじゃな」


 翌日。カイとの鍛錬と朝ご飯を済ませた私は、昨日と同じ時間にコバリィ先生の書斎に来ていた。ちなみに今日もカイには負けた。


「それで、宿題はちゃんとやってきたのか?」

「はい。やってきましたよ」


 まあ、師匠に色々言われながらだったけど……。

 絵本の内容を書き移した紙を先生に渡し、昨日のことを思い出す。

 昨晩、もらった絵本を抱えて宿屋に戻った私は早速、課された宿題に取り掛かっていた。でも、今まで本なんて読んだことのなかった私は、絵本一つを読むのにもかなり苦戦してしまった。その日に習った文字の読み方を一文字ずつ思い出しながら、私は頑張って絵本を読んでいたのだが、その様子を見ていた師匠は、そんな絵しかないような本も読めないのかと散々貶してくれたのだ。

 まったく、本当にいい師匠だ。折角弟子が勉強にやる気を出していたというのに、その気持ちを挫こうとするなんて。信じられない。

 心の中で師匠を非難しつつ、貸してもらった絵本も先生に返す。とりあえず丸一日かけて文字を習った私だが、習った文字の読み方を完全に覚えるのは、もう少し時間がかかりそうだ。

 貸してもらった絵本を返すと、先生は私に尋ねた。


「ちなみに聞くが、どんな内容じゃった?」

「えっと、羊の一家が狼に襲われる話、でした。でも、羊も襲われるばかりじゃなくて、狼に食べられないようなんとか知恵を絞って、最終的には狼を退治する、っていう……」


 例え力の弱い者でも、工夫次第で強い者に勝つことができる。そんな希望を抱かせるようなお話だ。子供に読み聞かせるにはちょうどいいのだろう。


「その通りじゃ。ちゃんと読できたようじゃな」


 物語のあらましを説明すると、先生は満足げに頷いた。どうやら今のは、私が宿題をちゃんとやってきたのかどうかの確認だったようだ。

 うわー、もしかして私、信用されてなかったのかな? ちょっと傷つくんだけど……。

 試されたことに不満を覚えた私にはお構いなしに、先生は絵本を魔術で本棚に片付ける。


「さて、では今日も隣の教室で授業をしよう。さ、移動するんじゃ」

「わかりました。今日もお願いします」


 そうして私は、またあの広い教室を贅沢に使って、文字の書き方と読み方を教えてもらった。


「よし。では、今日勉強するのは、これじゃ」


 景気よく宣言した先生は、黒板にいくつか文字を書いた。どれも私には読めない、新しい文字だ。どうやら今日は、昨日勉強した文字とは別の文字について勉強するようだ。


「ま、また新しい文字を勉強するんですか……」


 昨日経験した嵐のような文字の書き取りを思い出し、身震いする。


「もちろんじゃ。昨日教えた字とはまた違うじゃろう? これは複式文字と言ってだな。物事の意味を表す文字じゃ」


 先生はそれから、今日習う文字に関して詳しく教えてくれた。

 私達の使っているノーム語には、昨日習った八十二文字の他に、より画数の多い複式文字という文字があるようだ。

 昨日勉強した文字は略式文字と言って、読み方、つまり発音を表す表音文字。今日勉強する複式文字は、物事の意味を表す表意文字。私達の使っているノーム語は、この二種類の文字を組み合わせて使っている。つまり、手紙を書くには、この二種類をマスターしなければならないということだ。


「それから、これは詳しい説明は省くが、魔術文字というものがある」

「魔術文字?」


 先生によると、魔術文字とは、魔術を使う時に使う、先の二種類とはまったく別の文字らしい。この文字はリニア文字と呼ばれることもあるそうで、この文字は字の形も書き方も、他の二つとはまったく異なっている。先生は複式文字の読み方が変わっただけだと言っていたが、とにかく、ルールがよくわからない。


「三種類も、文字があるんですか……」


 この先に待ち受けている道の長さに気持ちが沈む。これじゃあ、いつまで経っても手紙を書くことができないではないか。


「今使われているのはな。これら三種の違いは、書き方の問題というだけじゃよ。例えば……」


 先生が例に挙げたのは『名前』という言葉だった。これを、読み方を表す略式文字では『なまえ』と書き、意味を表す複式文字では『名前』と書く。そしてリニア文字では『name』という風に、まったく異なる文字で表される。

 ――ん。あれ……。

 そうやって先生が説明しながら、三つ目の文字、リニア文字を書いた時、私の視界におかしなものが映った。

 煙の塊のような、もやもやした何か。それが黒板に書かれた文字の周りに集まっていくのが見える。これまでも何度か見えていた靄と同じだ。でも、今回は少しおかしかった。いつもならただ見えるだけの靄だったが、今はそれを見ているだけで、なんだか背筋がゾワゾワしてくる。その感覚は、目の前の靄が大きくなるにつれて、段々強くなってくる。

 ……何だろう。あの文字。魔術文字とか言ってたけど、線がぐにゃぐにゃして、ミミズがのたうち回ったみたい。それに、うぅ……なんか、背筋に変な感覚が…。


「す、すみません、先生。その、それ、早く消してください。なんか、見てて気持ちが悪いんです……」


 我慢できなくなった私は、先生にそうお願いしながら、肩を抱いて顔を背けた。黒板の文字と靄が視界から消えても、嫌な感覚は収まらない。まるで、体の表面を何かが撫でていくような感覚。風も吹いていないのに。不快というよりは、慣れない感覚への戸惑いが強い。

 けれどもう、そんな悠長なことも言っていられない。徐々に胸が苦しくなってくる。


「はっ、はっ……」


 な、なんでこんなに体が……やっぱり、何か、変だ。それに疲れる。ずっと座っているだけなのに、何か運動をしてる、みたいな……。


「ん? このリニア文字ことか? いったいどうしたというんじゃ。……む。これは。わかった。消そう」


 私の身勝手な訴えを聞いて、先生はすぐにその文字を消してくれた。全身の違和感が消え、少し体が軽くなる。黒板に集まっていたもやもやも消える。


「ふぅ……あ、ありがとうございます。すみません、その、急に変なことを言って……」


 突然のことに戸惑いながら、先生に謝る。ただ黒板に文字が書いてあるだけなのに、どうしてこんな……。


「良い。お主に非はない。……ふむ。意外じゃったな。お主、魔法は使えないと言っておったが、魔力には敏感なんじゃな。エルフにも珍しい体質らしいが……」

「……え? 魔力?」


 先生には、今の感覚の原因がわかるのだろうか。それに、魔力って言葉……。


「ふむ。これについてはあまり詳しく話すつもりはなかったが、説明したほうがよさそうじゃな。今の文字、リニア文字はな、書くだけで魔力が宿る特別な文字なのじゃ」

「魔力が宿る……?」


 それって、どういうこと? 

 先生の言葉の意味がわからず首を傾げる。だが、先生はそれに気付かないまま話を進めた。


「リニア文字は魔力を蓄える性質があり、魔法陣にもよく利用されている。恐らくじゃが、文字に集まってきた魔力とお主の魔力が反応しているのじゃろう。想定外じゃった」


 先生は少し思案気な顔をした後、ペンを手に取って紙にメモをした。その間も私は、さっき聞いた耳慣れない言葉について、考えを巡らせていた。

 魔力、魔力か……どこかで聞いたことがある気がするな、この言葉。多分、魔法に関係ある話題の時だったと、思うんだけど……いつだったっけ。


「まあ、心配するな。日常生活で必要になるのは最初の二種類だけじゃ。リニア文字はもう使わない。さあ、気を取り直して、今日はこっちの、複式文字を勉強していくぞ」

「あ、はい……」


 それから私は昨日と同じように、複式文字一つひとつについて、読み方と意味と書き順を教えてもらった。けれど心の中には、疑問が悶々と残っていた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「ふむ。上手じゃぞ。いい調子じゃ。これでちょうど十文字くらいか。そろそろ休憩にしよう」


 一時間後。それなりの数の文字を勉強した私は、学校に鳴り響く鐘の音を合図に、ようやく十分ほどの休憩をもらうことができた。


「ふぅ……」


 まだ初めて一時間だけど、結構疲れたな……。

 紙に書いた自分の字をひと通り眺めて、鉛筆を置く。机の上に溜まった消しゴムの削りカスを払い落として机の上を綺麗にした後、背中を伸ばして体を解した。

 んー、あぁ。疲れた。今勉強している複式文字は、昨日勉強した略式文字とはまったく違うな。字の形は複雑だし、画数も多いし、字のバランスも難しい。ひと文字習うだけでも大変だ。

 そうして少しの間気を抜いていると、窓の外から、学生達のものと思わしき元気な声が聞こえてきた。体を動かす授業でもしているのだろうか。義眼を使って様子を見る。思った通り、学校の中庭らしき場所で、三十人くらいの学生が取っ組み合ったり走り回ったりしていた。

 ……何やってるんだろう。まだ幼い子達だ。鬼ごっこみたいなことしてる。楽しそう。あんなことまで授業でやるんだ。

 そんなちょっとした休憩時間に、私は朝から気になっていたことを、先生に尋ねてみることにした。


「あの、先生。質問してもいいですか」

「ん? いいぞ」


 椅子に座って紙を見ていた先生は、顔を上げて私のほうを見た。


「朝の話のことなんですけど、魔力って、いったい何なんですか?」


 私の素朴な疑問に、先生は紙をめくる手を止めて、


「ほう! 魔力とは何かときたか。これはまた、難しい話じゃな」


 あ、もしかして私、また何か常識的なことを聞いちゃったのかな。どうしよう。変に思われないかな……。

 そんな心配をする私には目もくれず、目を丸くした先生は、顎に手を持っていって顎に生えた髭を弄り始めた。どうやらこれは、先生が何かを考える時の癖のようだ。

 髭がないとできない癖だ……。うーん、なんだろう。髭っていうものに魅力を感じたことはないが、ここまで立派な髭を持っている人がこうやっているのは、なんだかちょっとカッコいいかも。

 私が変なことを考えている間に、先生は考えをまとめたようだ。


「魔力というのは、そうじゃな。魔法や魔術などの、魔法現象の元になるもの、と言えば、わかるかの?」

「ま、魔法現象の元……」


 もと、とは。いったい。


「力の源……うん。魔法を起こすために必要な力。源じゃ」


 先生も説明に苦労している。そのせいなのか、私もすぐには理解できなかった。


「うーん。よく、わかりません」

「では、一つ例を出そう。お主は毎日生活するために、ご飯を食べるじゃろう?」

「まあ、はい。そうですね」

「うむ。でも、ご飯を食べないと、お腹が空いて、更には力が出なくて困るじゃろう」

「確かにそうですね……」


 動きたい時にお腹が減っていると、確かに力が出ない。それと同時に、とてもひもじい思いになる。胃が締め付けられるようなあの感覚は、あまり気持ちのいいものではない。


「そうじゃろう。わしも同じじゃ。で、話を魔力に戻すと、魔力は、魔法と魔術にとっての食事に相当するんじゃ」

「あー……あ、なるほど!」


 そうか。魔力は魔法にとっての食事。つまり、魔法を使うために必要なエネルギー、と。だから、魔法の元になるものなのか。そういうことか……。


「あー、やっとわかりました。ありがとうございます」

「よいよい。これからも、何か気になったことがあったら質問するといい。さて、そろそろ休憩も終わりにして、勉強の続きをしよう。次は、そうじゃな。折角魔力の話が出たので、次は魔法関連の字を教えるとしよう。ああ、心配しなくても、リニア文字のことではないぞ」

「は、はい。大丈夫です。お願いします」


 先生が授業の開始を宣言したので、私も背筋を正して頭の中を切り替える。難しいことを質問したのであまり休憩にはならなかったが、また一つ謎が解けたし、とても有意義な時間になった。

 ……魔力は魔法の元になるもの、か……じゃあ、時々右目にだけ見えるあのもやもやは、もしかしたら魔法の源、魔力、なのかな。そんな気がする。これも後で、先生に聞いてみようかな。

 また新しい疑問を胸に抱きつつも、私はとりあえず、削って先端を尖らせた鉛筆を握った。


 それから数時間後。昨日と同じように学校の食堂でお昼を食べて、お腹いっぱいになった午後。最初の一時間はまた新しい文字を教えてもらっていたが、一度休憩を挟んだ後、先生は授業を再開するなり、


「よし。では今度は、今まで勉強した文字を使って、文章を書いてもらおうかの」

「文章、ですか」


 文字を教えてもらう以外に勉強の方法がないと思っていた私は、ちょっと驚いた。


「そうじゃ。今までの復習も兼ねてな」


 復習ということはつまり、今日はもう新しい文字は習わないということか。昨日の習った略式文字にもまだ不安があったから、復習できるのはありがたい。それに、もう新しい知識を詰め込まれないというのなら、授業も少しは楽になるかもしれない。


「それに、文字のつり合いや美しさというのは、文章として連続させた時に初めてわかる。単語ばかり練習しても、美しい字は書けん。だから、今からその練習をするのじゃ」

「は、はい。わかりました」


 綺麗な文字が書けるに越したことはない。私は鉛筆を持って、先生と一緒に簡単な文章をいくつか書いた。

 『私の名前は』とか『明日はあめです』とか、一般的な文章を練習した。私はまだ略式文字と五十個の複式文字しか知らないので、書ける文章のレパートリーは少ないが、こうやって自分の気持ちを文として外に出すことができるのは新鮮で嬉しい。自分が成長していることを実感できる。

 ……跳ねとか止めとかバランスとか、細かい部分を何度も注意されて、何回か気が滅入りそうになったけど、まあでも――。

 『私はげんきです。』と紙に書く。手紙の最初に書けそうな言葉だ。その様子を見ていた先生は、満足げに頷いて、


「うむ。お主も大分、字を書くことにも慣れてきたようじゃな」

「はい。なんだか楽しくなってきました」

「それはよかった。わしも教えている甲斐がある」


 先生は、嬉しそうにそう言った。


「ふむ。そろそろいい時間じゃな。そろそろ終わりにするか」

「あ、はい」


 まだ昨日より早い時間だったが、今日の授業はこれで終わりのようだ。外を見ると、学生の集団が校舎を出ていく姿があった。他の教室では、もう授業が終わっていたようだ。

 朝より人は少ないかな。学校が終わる時間は、人によってバラバラなのか。

 先生は魔術で黒板を綺麗にした後、外を見ていた私に一枚の紙を差し出した。


「では、レイラ。今日の宿題じゃ」

「え……今日も、宿題あるんですか……」


 先日同様、あからさまにがっかりする。私にとって宿題という言葉は、もはや天敵同様の存在だった。

 今日は折角早めに授業が終わったのに……やっぱりあるのか。


「当たり前じゃ。技術は毎日続けなければ身につかんぞ」


 そんな私の気持ちを察しているのかもしれないが、先生はそう言って宿題を押し付けてくる。

 まあ、先生の言うことも理解できるけど……やっぱり、宿題があるというのは嫌だな。気持ちが落ち着かない。授業が終わっても、学校から解放されていないような気分になる。


「今日の宿題は、そうじゃな。自分で考えた文章を紙に書いてくるのじゃ。なるべく今日教えた複式文字を使ってな」

「自分で考えたこと、ですか」


 昨日のように、本を書き写すとかではないようだ。だが、自分で考えた文章と言われても、何を書けばいいのかわからない。


「そうじゃ。これまでお主が考えたこと、見たこと、感じたこと。それを文にして、わしに見せてくれ。まあ、有り体に言えば日記じゃな。別に今日あったことでなくても良いから、何か書いてくるのじゃ」

「あ、はい。わかり、ました……」


 日記、日記って言われても……今までそんなもの書いたこともないし。どんなことを書けばいいんだろう。これまで考えたり感じたりしたことは色々あったけれど、今思い出せと言われても……うーん、どうしよう。

 内容を好きに考えてきていいというのは、自由度があっていいとは思う。でも、肝心の内容が思いつかなくて、私は困ってしまった。

 頭を悩ませた私に、先生は少しだけ具体的な例を出した。


「そんなに深く考えなくていい。本当に何でも良いぞ。今までの旅で、色々あったのじゃろう? その思い出の中で、わしに教えたいことを一つ、その紙に書けばいい」

「あ、そっか」


 今までの旅の思い出、か。それならばまあ、いくつか書けそうなことがありそうだ。今日はまだ時間があるから、宿に戻ったら少し考えてみよう。


「わかりました。それじゃあ、先生。また明日」

「ああ。また明日」


 今日も色々教えてくれた先生に挨拶をして、私は教室を後にした。


 校舎を出ると、外は学生でいっぱいだった。仲の良い集団で下校する人や、校門の近くで待ち合わせをしている人なんかで込み合っているようだ。私はとりあえず目立つのが嫌だったのでフードを被り、道の端っこのほうを選んで校門を抜けた。

 折角昨日よりも早く終わったので、私は少し、この町を散策することにした。

 学生達の列に紛れながら、適当に歩いて町並みを眺める。この町に来てからはずっと学校に行っていたので、こうして町を散策するのはこれが初めてだ。

 ……それにしても、どこに行っても学生ばかりだな。まあ、学術特区だから当たり前か。

 学生の年代は、私と同じか少し年上が多い。みんな、一緒に買い物したり食事をしたりして、仲が良い人と一緒にいる。そんな彼らのことを、私は少し羨ましいと思った。

 学校生活、やっぱり楽しいのかな。勉強は大変そうだけど……まあ、私は魔法が使えないし、魔術も駄目そうだから、普通の生活をしていても関わりはなかっただろう。でも、やっぱりちょっと憧れる。友達と楽しく学校に通う。悪くない、普通の生活だ。


「……あ」


 そんなことを考えながら町を歩いていると、文房具屋さんを見つけた。人気の甘味処のように賑わっているわけではないが、数人の学生が出たり入ったりしている。

 そうだ。筆箱を買おう。ついでに、宿題の紙を入れる鞄を買おう。鉛筆と紙を手に持って移動するのはなんか恥ずかしかったし、ちょうどいい。

 ポケットの中にお金があることを確かめてお店に入る。そこで気に入った鞄と筆箱を買った後、私は宿屋に戻った。


「えっと、ただいま戻りましたぁー」


 部屋の扉を開けると、そこには誰もいなかった。あの二人はまだ帰っていないらしい。ちょうどいい。この間に宿題を終わらせよう。

 買ってきた鞄から紙と筆箱を取り出して、机の上に広げる。文具屋で買ってきた筆箱は、白い布製の、円筒の片側に動物の顔をあしらった可愛い物だ。多分、猫のつもりなのだろう。こうして見ると、机の上に寝そべっているようにも見える。背中の部分にチャックが付いていて、中身を出し入れできる仕組みだ。

 一緒に買ってきた鞄は、シンプルに革の肩掛け鞄だ。大きいと旅の間にかさばるので、小さ目の物を選んだけれど、結構使い勝手が良い。今は文具しか入れていないが、旅の間は適当に物を入れておこうと思う。

 さてと。買い物は終わったし、宿題をやらないと。

 椅子に座った私は、鉛筆を持って、白紙の紙を眺めながら考えた。旅の思い出を書けと言われたが、何を書くかは決まっていない。それに、なるべく今日習った字を使うという条件もある。

 その辺も考慮して、書けそうなことは……。


「あ……うん。決めた」


 心に浮かんだ情景が消えないうちに、私は紙に鉛筆を走らせた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「ほう。そうかそうか。お主はアケルから来たんじゃな」

「はい、そうです。そこであったことを思い出したので、ちょっと書いてみました」

「ふむふむ。……あー、そうか。海を見るだけの日が一週間もあったと。そこでずっと、色々なことを考えていた、と」


 私が宿題で書いてきた紙を眺めながら、先生は私に色々と尋ねてきた。


「はい。もう、ずっと前のことですが」

「そうか。今も何か考えたりするのか?」

「まあ、たまに」


 師匠の弟子になって旅を始めてからは、どこかをぼーっと見ながら何かを考える、ということは減った。そうしている時間が無駄だから、というわけではない。他に優先すべきことが増えただけだ。今でも時々、気を抜いてぼーっとしたいと思う時はある。


「自分は誰なのか、なぜここにいるのか。……中々、深いことを考えていたんじゃな」

「そう、ですかね。私はただ、他の誰もが知っていることを、自分も知りたかっただけです」


 そんなに大層なことを考えていたわけではない。もっと身近な話だ。


「自分が何者で、どこで生まれたのか、とか……。最近は大分、慣れてきたように思いますけど」

「そうか。まあ、お主の疑問はもっともじゃな。……でも、そんなことはわしもわからんよ。自分がいったい何者なのかなど、きっと誰にもわからんのじゃ」


 紙を机の上に置いて、大きく息を吐くコバリィ先生。紙に落とされた視線がわずかに揺れている。

 ……なんか、話の趣旨が変わってきたような気がする。私はもっと単純に、自分の名前とか出身とかを知りたいと考えていただけなんだけど。

 静かになった先生を見ながら首を傾げていると、先生はゆっくりと顔を上げて、


「さてと。ではそろそろ、今日の授業を始めようかの」

「あ、はい。今日もお願いします、先生」


 今日も席に座って、鉛筆を持った。机の上には、昨日買ったばかりの猫筆箱が体を投げ出していた。


 それからの日々はこれまでとまったく異なり、時間という時間が勉強に消えていった。

 くる日もくる日も、学校に行って先生と二人、複式文字の勉強ばかり。四日目を超えた辺りからいい加減嫌になってきたのだが、先生が時折挟む関係ない話とかが面白いのでそうも言えない。でも、鉛筆の持ちすぎで手は痛いし、座りっぱなしでお尻は痛いし、貸してもらった本は面白いしと、口に出せない不満は山ほどある。

 不満といえば、宿題の存在もある。毎日課される宿題は、自由な内容で何か書いてくるようにと言われたので、私はこれまでの旅の思い出を一日一つ書いてくるようになった。それを読んだ先生は、質問したり、驚いたり、一緒に憤ってくれたり。いつも何かしらの反応を返してくれる。おかげで私も嬉しくなって、色々なことを書くようになった。旅の始まりから、今に至るまで。まるで自分を主人公にした物語のように。

 しかし、毎日毎日、同じようなことばかり勉強していては流石に飽きる。ましてやそれが、文字を書くだけなんていう単純作業の繰り返しであれば尚更だ。それは先生も同じだったようで、ある日の授業では字の勉強はいったん休みにして、私達が今いる国、エインノーム連合王国ができる前の話になった。つまり、歴史の授業だ。


「歴史はわしの専門分野でな。少々難しい話を出してしまうかもしれんが、変なことを言い出したら注意してくれ」

「は、はい」


 へぇ、コバリィ先生は歴史が専門なのか。それなら、教科書には載っていない面白い話が聞けそうだ。教科書は使ってないけれど。

 これからの話に興味を持った私は、机の上を片付けて背筋を正した。


「現在残っている最も古い文献は、五千年以上前のものじゃ。だが、使っていた言語が現在とはまったく異なるため、内容は把握できておらん。その後の、およそ四千年前頃からなら、歴史がはっきりしておる。当時はこの大陸にも様々な国があって、それぞれが争い合っていたようじゃ」

「争い合う……戦争、ってことですか」

「そうじゃ。多くの国が現れ、そして消えていった。これを大陸戦国時代という。かなり長い間続いておったようじゃぞ。この時代が終わったのが今からおよそ二千年前じゃから、それまでずっと、およそ二千年間も争い合っていたことになる」

「え、二千年!?」


 うわー……二千年か。二千年も戦争続きだったなんて……なんか、馬鹿みたいな話。人には学習能力がないのだろうか、なんて思ってしまう。


「途中、何度か落ち着いた時期もあったようじゃが、それも五十年と持たなかったそうじゃ。で、そんな時代が終わった時、世界は五つの国に別れておった。娯楽の発展なんかを見ると、情勢は中々安定しておったようじゃぞ。その理由は、五つの国すべてが、強大な魔物、ドラゴンを敵として認識しておったからじゃ。共通の敵と戦うために、協力し合っていたということじゃな」


 ドラゴン、共通の敵……。ここでも出てきた。昔は沢山いたと聞いていたけど、この時代のことだったのか……。


「敵の敵は味方、ということですね。それがすべての国に当てはまったと」

「そういうことじゃ」


 数日前に習ったことわざを披露した私に、先生は微笑んだ。そして、黒板に一つ用語を書く。


「この時代のことを、五大国時代という。名前くらいは覚えておいたほうがいいな。魔法、魔術関連の技術が発達し、魔法や魔術が使えない者でも、その恩恵を受けられるようになった。つまり、魔術を使わずとも、蛇口を捻れば水が出るようになり、料理の火加減が摘み一つで簡単に調節できるようになったのじゃ。また戦闘の面では、多くの魔剣や名刀が生み出され、ドラゴン退治で名を上げた英雄も多い。今なお語り継がれる英雄譚は、この頃のものが多いな。その手のことは、アドレが詳しいぞ」

「あ、師匠、そういうの好きなんですか」

「まあな。詳しくは本人に聞いてくれ。話を進めるぞ」


 意外だった。あの師匠が英雄譚に憧れるなんて。師匠もやっぱり男の子なんだな。

 師匠の話題に気を取られている間に、先生の話は一転して、不穏な方向に向かっていった。


「じゃが残念なことに、ドラゴンは千年と経たずに狩り尽くされてしまった。今、ドラゴンの姿をまったく見ないのはこれが原因じゃ。そうして共通の敵を失った国々は、また互いに争い始める。戦乱の世が再び訪れたのじゃ。これを、五国乱世という」


 先生はまた、黒板に用語を書いた。重要なのだろう。テストに出るのかもしれない。私はなんだか不安になって、紙の端にメモをした。

 えっと……『五国乱世・五つの国が戦争した時代』と。こうして見ると、そのままの名前だな。覚えやすい。


「この時代の話は、あまり気持ちの良いものではない。血みどろの、戦争の歴史じゃ。失われた遺跡や文献も多い。そんな時代が終わったのが、今から八百年前。戦いを続けられなくなったそれぞれの国が平和を望み、エインノーム連合王国としてまとまった。以後、この大陸において、国同士の争いはなくなったのじゃ」

「お、来ましたね。連合王国」


 ようやく現在に繋がった。五千年前に始まった一連の話。中々長かった。


「五千年も前からの歴史がわかっているなんて、凄いです。戦争とかも多かったんですね。特に、最初のほうは。期間も長かったですし」

「そうじゃな。人の歴史は戦の歴史じゃ。わしも経験したわけではないのでよくわからんが、とにかく戦争が多かったそうじゃ。中には、口に出すのも憚られるような、悲惨な戦争もあった」

「その原因には、どんなのがあったんですか?」

「原因か。主に、領土争いや種族間の対立、資源の奪い合い、金の絡み、貿易の不平等、後継ぎや婚姻の問題……数を上げたらきりがないな」

「うわぁ……」


 人の欲深さを感じる内容だ。どうやら戦国時代というのは、とても恐ろしい時代だったようだ。きっと、普段の生活も大変だったのだろう。今の私のように、世界をまたにかけた旅なんかできなかったのかもしれない。

 けれど私は、戦争という言葉に少し惹かれていた。戦いが絶えない世界。それは私にとって、究極の理想以外の何物でもなかった。


「人が増えると、それだけ争いも増えるということじゃ。性じゃよ、我々の。あ、レイラお主、これはわしら人間だけのことだと思っておるな? お主らエルフも例外ではないぞ。他人と意志を通わす術を持っている者はすべて当事者じゃ。社会というものを作ったせいで、人と人との関係が複雑になり、こじれることが多くなった。そのこじれが争いに繋がる。お主も経験ないか? ちょっとしたことで口論になったり、くだらないことで傷付いたりしたことが」

「あ……そう、ですね。あります。私も……」


 思い返せば、そういう些細な出来事はいくらでもあった。初めて会ったばかりの人はもちろん、ずっと一緒にいた人とさえも、ちょっとしたことで喧嘩になってしまう。そんな経験が。

 他人を理解できなかった時、他人に理解されなかった時、他人を理解しようとしなかった時。行き違い、勘違い、先入観、好意の空回り、度が過ぎたおふざけ。何が人を怒らせるのかわからない。みんなそれぞれ爆弾を抱え、そして、みんなそれぞれ、地雷原を歩いているようなストレスに晒されている。

 だから、人を怖がり、異質なものを排除しようとする、か。


「この問題は、いつになっても解決しないじゃろうな。人が人である限り。さて、もういい時間じゃな。今日の授業はこれでおしまいじゃ。では、いつものように自由作文の宿題をやってくるように」

「はーい」


 机の上に広げていたメモを片付けて、席を立つ。今日もいい話を聞かせてもらった。


「先生、ありがとうございました。その、物語を聞いているみたいで、面白かったです」

「そうかそうか。気に入ってもらえて何よりじゃ。では機会があったら、今度はもう少し詳しい話をするとしようかの」

「はい! 是非お願いします」


 そんな風に、私は日々、新しい知識を身に付けていた。


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