第三十三話 生徒一人
翌朝。午前八時半過ぎ。その日の鍛錬を終えた私は、揃いのローブを身に纏った学生の集団と一緒に、早速学校へ向かっていった。ちなみに今日も師匠には負けた。
学校へと続く道を歩いているのは、魔法使いのような制服を着た学生達。そんな中、唯一制服を着ていない私だけが、周囲から浮いてしまっていた。学生達から奇異な目で見られるのが嫌なので、私はそっとフードを被り、目立たないように道の端を歩いた。
昨日と同じように校舎に入り、階段を上がって上の階へ。豪華な壁紙に彩られた廊下を通って、コバリィさんの部屋の扉を叩く。
「おはようございます。あの、レイラです」
「ん、空いておるぞ」
入室の許可をもらったので、私は扉を開け、部屋に入った。
「えと、失礼します」
「おはよう。早かったな」
「は、はい。その、遅れるのが、嫌だったので」
「そうか。いい心がけじゃ」
約束の時間の十分前に来た私のことを、先生は褒めてくれた。頭の隅では、早すぎるとかえって迷惑になるかもしれないと思っていたが、その心配はなかったようだ。
「では少し早いが、始めるとするかの。まずは部屋を移動しよう。ここでは少々狭い。隣の教室が空いておるから、そこを使おう」
「わかりました」
先生に案内されて、隣の教室に向かう。コバリィ先生の書斎は、決して狭いとは言わないが、机が一つしかなく、来客用の椅子もあまり座り心地がよくない。他人に勉強を教えるには、確かに不便そうだ。
そうして移動した先は、特に何の変哲もない、よく見る普通の教室だった。
「ここ……で勉強するんですか」
黒板があり、机と椅子が並んでいて、窓が大きい。日常の気配が感じられる。教室はとても広く、三十人くらい入れそうだった。でも、そんな教室でも生徒は私一人。それは想像しただけでも、寂しいを通り越して笑ってしまいそうなくらい、閑散とした光景だった。
「そうじゃ。部屋が広いほうが、気持ちも変わるじゃろう」
「は、はぁ……」
まあ、確かに気持ちは変わるけど……はぁ。仕方ない。部屋の広さは気にしないことにしよう。どちらにしろ、勉強に支障はない。
「わかりました。じゃあ、えと、私、どこに座ればいいですか?」
気持ちを切り替え、とりあえず自分の席がどこなのかを尋ねる。しかし先生は私に、好きな席に座っていいと言った。
「どこでもよいぞ。どうせ生徒はお主一人しかおらんのだ。どこに座ってもそう変わらないじゃろう」
「あー、まあ、そうですね」
じゃあ、適当に決めちゃおう。
先生の言葉に甘えて、適当に黒板が見やすい場所、真ん中の列の前から二番目を選ぶ。黒板との距離は、これくらいがちょうどいい。
座る場所を決めたら、今度こそ今日の授業開始だ。
「よしよし。では、早速今日の授業じゃ。アドレからは、ひと通りの読み書きができるようにしてほしいと言われておる。というわけでしばらくの間は、文字の練習じゃな」
「はい。よろしくお願いします」
「では、先に練習用の紙と、字を書くための鉛筆を渡しておこう」
先生が私にくれたのは、数枚の紙と鉛筆、そして手の平サイズの消しゴムだった。これらはどうやら、そのまま私にプレゼントしてくれるらしい。紙は縦線と横線が描かれた方眼紙で、鉛筆はきちんと削ってある。
「これで、字を書くんですね」
まだ道具が揃っただけだが、いかにも勉強という感じがしてくる。鉛筆を握ってみると、その気持ちはさらに強くなった。
「そうじゃ。使い方はわかるか?」
「はい。大丈夫です」
そのくらいのことなら、問題ない。持ち方も削り方も知っている。……いったいどこで知ったのかは、思い出せないのだけれど。
「よしよし。では、字を教える前に、まず文字について少し話すとするかの」
「あ、はい。わかりました」
まだ書いたりはしないんだなと思ったが、とにかく先生の話に耳を傾ける。
「わしらが住んでいる国、エインノーム連合王国は、ノーム語という言語を標準にしておる。わしらが今話している言語じゃな。これは、八百年ほど前に大陸が統一された当時、最も話者が多かった言語じゃ。ノーム語が標準にされてから現在に至るまで、その言語体系は大きく変わっておらん」
どうやら先生の話は、言語の歴史から始まるようだ。ただ字を習うだけだと思っていた私は意外な出発点に驚きながらも、話の続きを聞く。
「言語には他にも種類があったが、ノーム語が標準になってからは徐々に廃れていった。じゃが、そうして消えていった他の言語から単語が入ってきたりしておるから、完全に絶滅したのかと言われると、微妙なところじゃが」
「へぇ……」
文字だけではなく、言語そのものの歴史か。ちょっと、面白そうだ。自分が今話している言葉に、いったいどんなルーツがあるのか。知っても特にはならないかもしれないけど、なんだか楽しそう。
でも、先生はこの話をここで切り上げた。私が勉強するべきこととは、あまり関係がないと思ったようだ。
「言葉の歴史はこんな感じじゃな。まあ、こんなことについて長々と話しても、面白くないか。つまり何が言いたいかというと、ノーム語であれば、この大陸中どこに行っても、同じ言葉、同じ文字が通じるのじゃ」
「なるほど……そのノーム語が、私がこれから勉強する言語、ということですね」
「そうじゃ。と言っても、お主は既に言葉を話しておる。後はそれを、文字に書いたり、読んだりできるようにするだけじゃ。一から別の言語を学ぶわけではないので、恐らくは余裕じゃろう」
先生は軽く笑って、白いチョークを手に取った。ということはつまり、いよいよ鉛筆の出番だ。
「では始めよう。まずは、そうじゃな。わしの名前を書いてもらおうかの」
そう言って先生は、黒板に名前を書き始めた。縦線、横線、曲線。それらを、止めたり跳ねたりはらったり。流れるように字が描かれる。
これが、文字の書き方か……私が知っている文字とは、全然違うな。しかし難解な字だ。どこからどこまでが一文字なのかもよくわからない。これが犬か何かの絵だと言われても、信じてしまいそうだ。
「これで『コボル』と読む。日常ではこのように連続して書くことが多いな。ああ、今はまだ読めなくても構わん。では、一文字ずつに分解してみようか」
先生は絵を三等分して、一つずつ下に書いた。それは上に書いてあるものとほとんど同じだったが、少し違う。こうして見ると、ひと文字ひと文字は本当に簡単な図形だということがわかる。三文字連続で書いていた時は、文字の始めと終わりを繋げて書いていたようだ。難しく見えていたのはそのせいか。
……これくらいなら、私でも書けるかも。何か壮大な絵を描くよりは、圧倒的に楽そうだ。
「この形が描ければ、お主は『コボル』と書けるようになる。同時に、読むこともできるようになるだろう。では、一緒に書いてみよう。鉛筆を持って、わしの真似をして書いてみるのじゃ」
「はい」
先生の言葉に従い鉛筆を持つ。黒板に先生が一角ずつ書いていくのと一緒に、書き順を習いながら私も手元の紙に字を書いていく。方眼紙のマス目が良い手掛かりになった。
「――こんな感じじゃな。どうじゃ。書けたか?」
「はい。えと、一応……」
んー、なんだか字が曲がっているような気もするけど……形は、大体合っている、よね。
不安なので、一度先生に確認してもらう。
「ふむ。どれ、見せてみなさい。……うむ。まあ良いじゃろう。では、これを五回、練習しようかの。できるだけ黒板の手本に似せて、同じ形になるようにな。そうすれば、誰もが読める綺麗な文字になる」
「わかりました。やってみます」
そうして私は、先生に書き順や線の曲がり具合などの細かなポイントを教えてもらいながら、ペンを動かした。
「おっと、忘れてはらなんぞ。書き順は常に正しく。丁寧に書くのじゃ。止めたり跳ねたりするところも、きちんと正確にな。慣れている者は省略しがちだが、基本がしっかりしている字のほうが美しい」
「は、はい」
「それから、字を書く時の姿勢にも気を付けよ。顔を近付けすぎてはならんぞ。今くらいがちょうどよいじゃろう」
「はい。わかりました」
先生のアドバイスを聞きながら、紙に五回、同じ文字を練習する。そのおかげか、最後に書いた文字は、黒板のお手本にとても近くなったように思う。
「どう、ですか? 先生」
「うむ。かなり良くなった。この調子で、わしの名前を全部書いてもらおうか」
「はいっ」
褒められた私は嬉しくなって、黒板に書かれたお手本を見ながら、先生のフルネーム『コボル・フォーラン・シー』を五回紙に書いた。
「……できました。どうですか?」
「うん、上手じゃな。この調子だと、わしよりも上手くなりそうじゃ」
「本当ですか? ありがとうございます」
なんだかおだてられているような気はしたけれど、褒められるのは素直に嬉しい。この調子で頑張ろう。
「では次は、もっと身近なものにしよう。お主の名前じゃ。レイラという字は、こう書くのじゃ」
黒板に書かれる三つの文字。最後の一文字には見覚えがある。
「『ラ』は一度使ったな。残りの『レ』と『イ』を練習しよう。さあ、やってみなさい」
「はい」
レイラという短い文字を、教えられた通りに紙に書く。数ヶ月前に見つけた私の名前だ。忘れないように、しっかり丁寧に練習する。
この名前を決めた時のことが懐かしい。あの時はこの名前を使っていいのかどうか迷って、フェニさんに色々言われたんだっけ。なんだか感慨深いなぁ。
でも、私が練習しているこの三文字は、武器の持ち手に描かれていたものとは、まったく違う形だった。
「……できました」
「どれどれ。……うん。綺麗じゃな。だが、もう少しここが内側にスラッとしていると、より美しく見えるな」
「あ、はい。……こう、ですか?」
「そうじゃそうじゃ。うん。よくなったぞ」
「あ、えへへ……ありがとうございます」
自分が書いた自分の名前を褒められて、私はまた嬉しくなった。先生は本当に、人をやる気にさせるのが上手い。
「さてと。そろそろ字を書くことにも慣れてきた頃じゃろう。ここまでは知っている単語を書く練習していたが、実は、これらの文字には順番があるんじゃ。これを見なさい」
チョークを置いた先生は、魔術を使って机の上に置いてあった紙を広げた。クルクルとしわなく広がった大きな紙は、ピタッと黒板に張り付いてその半分覆った。
「これは文字の基本表じゃ。八十二文字ある基本的な文字が全部載っておる。今書いたばかりのものもあるじゃろう。これが『レ』、これが『イ』、これが『ラ』じゃ」
「ほんとだ……」
先生の名前を書いた時に使った文字もある。本当に沢山の種類がある。
なるほど。便利な表だ。それぞれの文字の読み方がわかれば、この表を使って文章を読むこともできそうだ。
それにしても、八十文字もあるなんて多いな。もっと少ない、五十文字くらいだと思っていた。
「これが全部読み書きできるようになれば、基本は終わりじゃな」
「うぇ、これで基本なんですか」
まだ先があるというのか。これが文字の山の頂上ではないようだ。
「そうじゃ。まだまだ先は長いぞ」
まあ、八十文字も覚えなければならないのはちょっと大変だけど、一度覚えてしまえばこっちのもの。今頑張れば、後は楽になるはずだ。前向きに考えて自分を鼓舞する。
「では目標が見えたところで、早速続きをやるとしようかの。今日の最後には、これを何も見ずに書いてもらおうと思っておる。今日の試験じゃ」
「え、し、試験?」
ていうことは、この八十二文字を、たった一日で全部覚えなくちゃいけないの? 冗談でしょ……。
「これ、全部、今日覚えるんですか……?」
身を引きながら尋ねると、先生はその通りだと頷いた。
「そうじゃ。日が沈むまでは、まだたっぷり時間があるからな。丸一日かければ、このくらい余裕じゃ」
確かに、今はまだお昼前の早い時間。勉強を始めて一時間と経っていない。これからずっと勉強を続けるのであれば、不可能ではないだろうが……。
でも、今から日が沈むまでずっと勉強するなんて無理だ。そんなに集中できないよ。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、先生は、
「そんな顔をするでない。よく観察してみなさい。この字は、こっちの字と形が似ているじゃろう。こういった似通っている点に注目すると、それほど種類はないことがわかる。三分の一は他の字の組み合わせじゃ。大丈夫、お主は確かに文字を書けないかもしれないが、努力を知らぬ子供ではあるまい」
「うぅ、わかりました。頑張ります」
……うん。やる前から無理なんて言わないようにしよう。どうせいつかやる羽目になるんだから。
突然課されたノルマに辟易しながらも、私は気持ちを奮い立たせて、鉛筆を握るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「うぁあー……」
「よしよし。これで半分は終わったな。どれも綺麗に書けておる。この調子で頑張るのだぞ」
「は、はいぃ……」
鉛筆を放り出し、机に突っ伏す。満足げに頷く先生の、半分、という言葉が心に重い。
勉強を始めて既に四時間。途中、休憩時間を知らせる鐘が鳴った時に少し休んでいたけれど、もうお腹も減って、集中力も切れてしまった。そろそろ何か気分転換がしたい頃合いだ。
「せんせぇ……私、お腹空きました」
頬を机にくっつけたままもごもご喋る。それを聞いた先生は、私が書いた紙から顔を上げた。
「む、そうか。もうそんな時間か。ちょうどいい。昼食にしようか」
「やった」
体を起こして小さく喜ぶ。ここまで、本当に長かった。もう字を書きすぎて手が痛い。半分の四十文字書くのに、いったいどれだけかかったのだろう。太陽が一番高い時間は、もうとっくに過ぎている。
はぁ、ようやくご飯が食べれる。さてと。とりあえず休憩はもらったし、後はどこで何を食べるか、考えないと。
「どこでご飯食べようかな……」
今自分が何を食べたいのか考えながら小さく呟く。すると、私が練習で書いた紙を片付けていた先生が、
「ん、なんじゃ。まだ決まってないのか? なら、折角じゃ。学園の食堂を使ってみるといい」
学校の食堂でご飯を、と聞いて、私は驚いた。
「え、食堂、ですか……それって、私が使ってもいいんですか?」
当然だが、私はこの学校の生徒ではない。ただちょっとした縁で文字を教えてもらっているだけの、いわば部外者のはず。そんな私が学校の施設を使っても大丈夫なのだろうか。そう思ったのだ。
尋ねた私に、先生は頷いた。
「大丈夫じゃ。アドレが所定の手続きをきちんと済ませているから、お主は一時的には学生という扱いにされておる。食堂に限らず、売店や図書館なんかの施設も使えるぞ。学外での学生割引は使えないが」
「え、そうだったんですか」
師匠がそんな手続きを……知らなかった。あ、そう言えば前に、手続きに必要だからって年齢を決められたっけ。誕生日も。あれがその手続きだったのかな。
もう遥か昔のように感じる出来事を思い出し、あの時の師匠の態度にムッとする。
……ああ。思い出したらなんか腹が立ってきた。なんだよ。誕生日は今日でいいな、って。あんな軽い調子で決められるなんてあり得ない。それに誕生日だって言うなら、もうちょっと祝ってくれてもいいじゃん……。
「ほれ、どうした。行くぞ」
「あ、はい」
師匠のことは色々気に食わないけど、とにかく今はご飯を食べよう。早くしないと、お腹と背中がくっついちゃう。
深く息を吐いた私は席を立って、先生に続いて教室を出た。
食堂は校舎の一階にあるようなので、階段を使って下に降りる。階を一つ降りるたびに、美味しそうな香りが立ち上ってきた。
「良い香りがするな。今日の献立はなんじゃろう」
「……揚げ物、ですかね。あれは魚かな。後は、野菜と、ご飯と、お味噌汁。……白味噌、かな?」
「なんじゃ、わかるのか? 良い鼻じゃな」
「あ、いえ。そうじゃなくて。そこに今日の献立らしき張り紙が……」
そう言って私は、近くの壁に貼られていた料理の絵を指差した。書いてある文字はまだよくわからないが、絵があればどんな料理なのかは大体わかる。それを見た先生は、おっ、と声を上げた。
「なんじゃ。わしが見逃しておっただけか」
その他のメニューは、魔物の唐揚げ丼と、ハンバーグ定食と、キノコのクリームパスタだった。
お昼には少し遅めの時間だったせいか、食堂の中は思ったより空いていた。とても広い場所だ。さっきの教室の五倍はあるのではないだろうか。掃除が大変そうだ。
私は、不覚にもキャベツの沢山乗った唐揚げ丼に魅力を感じてしまったので、迷いなくそれを選んだ。そして、クリームパスタを選んだコバリィ先生と一緒に、端っこの席に座った。
「あ、コバリィ先生。こんにちはー。今からご飯ですか?」
「ああ。こんにちは」
「先生いつもパスタですね」
「老人の胃にはこれくらいがちょうどいいんじゃ」
コバリィ先生は沢山の学生に挨拶されていた。中々の人気者だ。先生は教えるのが上手だから、学生から慕われているのだろう。学生達の気持ちもわかる。まだ会って一日の私も、同じように慕っているから。
顔見知りの学生達とひと通り挨拶を済ませた先生は、ようやくフォークを持って手を合わせた。
「では、頂くとしようか」
「はい。いただきます」
私も箸を持って、早速唐揚げを一ついただく。鶏に似た魔物のお肉らしいが、どんな味がするのだろう。期待しながらひと口食べる。
サクッという気持ちいい音がする。その瞬間、口の中に香ばしい香りが広がり、熱い肉汁がじわぁっと溢れ出す。私はその未知の美味しさに唸った。
……うわぁっ! これ、凄い……。なんか、今までにない味付けだ。衣が他と違うのかな。この私が肉に食欲をそそられるなんて思ってもみなかったけど……これだけ美味しいのなら、仕方がない。それに、私は野菜のほうが好きだけど、別にお肉は嫌いじゃないし。
そうして私が学園のご飯を味わっている時に、目の前のコバリィ先生はフォークにパスタを巻き付けてちまちま食べている。そんな中、また一人先生に挨拶をしにきた人がいた。
「おや、コバリィ教授。こんな時間にお食事ですか。珍しいですね」
そう話しかけてきたのは、若いお兄さんだった。耳が長いので、この人は私と同じエルフだということがわかる。さらに、身に纏っているローブが学生達とはちょっと違う。ということは、この人は多分、学校の先生だ。
「カーネル君か。この時間に会うのは確かに珍しい。君も食事かな?」
「ええ。資料の整理をしていたら、思ったよりも時間がかかってしまったので、つい。それでええと、教授、こちらの子は? 学生とは、ちょっと違うようですが……」
エルフのお兄さんは私を見て首を傾げた。学生のローブや帽子を身に着けていないから、この場でも一人目立っているのだろう。実際、他の学生達からの視線を痛いほどに感じている。
エルフのお兄さんの視線が気になり、私は目線を少し落とした。その先には彼が持っているお盆。トロトロのソースのかかったハンバーグ定食。
あ、こっちも美味しそう……って、駄目駄目。唐揚げ丼食べてるのに。……でも、また機会があったら、食べてみよう。
「ん、友人から預かった子じゃよ。レイラという。レイラ。こちら、カーネル・リンカ・カレント。属性魔術の先生じゃ」
「あ、はい。レイラです。どうも……」
コバリィ先生に紹介されて、カーネル先生にぺこり。髪の毛が丼に入らないよう気を付ける。
「レイラさん、ね。何か事情があるようだ。ああ、心配しなくても、僕は何も聞かないよ。それより、隣いいかな」
「はい。どうぞ」
カーネルさんは私の出で立ちに何かを察したようだが、詮索はしないと言ってくれた。自分の事情をあまり話したくない私にとっては、とてもありがたいことだった。
目の前に座ったカーネル先生に、コバリィ先生はパスタを食べながら尋ねた。
「そう言えば、カーネル。この間の件はどうなったんじゃ。解決の糸口が見えたと言っておったが……」
「ああ、そうそう。ちょうどそのことで近々伺おうと思ってたんですよ。森の遺跡の話ですよね」
二人は何やら、内輪で話を始めた。恐らく私には関係のない話題だと思ったので、口は挟まずご飯を食べる。けれど、聞こえてくる二人の会話は、非常に興味深いものだった。
ん……遺跡? ふうん。そんな物がこの近くにあるんだ。何の遺跡なんだろう。凄く面白そうな話だけど……部外者の私は、あまり介入しないほうがいいかな。
「それじゃ、それ。数ヶ月に占拠されたという森の遺跡。聞くところによると、本格的にゴブリンの根城にされてしまったそうじゃな。早く追い出さないと、貴重な資料が滅茶苦茶にされてしまうぞ」
「ええ、私も同じ気持ちです。先日の交渉で、ようやくサイクロプスの長から許可を頂きました。ただ、助力まではしていただけないようなので、住み着いた魔物の排除は我々で行わなければなりません。そこで近々、学生の教練も兼ねて下見に行こうと思います。ゴブリンの数が少なければ、そのまま学生達と一緒に追い出してしまおうかと。予定は調整中ですが、念のため、コバリィ教授にもご同行をお願いしたいのです」
「うむ……そうか。わかった。予定は後で話し合おう」
お肉と一緒に食べるキャベツは最高だ。もちろんご飯も美味しい。お肉の味付けがご飯にもかかっていて、それがとても美味しい。これでこそ丼だ。
「じゃが、学生を連れて行くのなら、我々だけでは少々不安じゃな」
「そうですか。……では、剣術指導の先生に同行をお願いしてみますかね。もしくは、騎士団の方々にお願いしてみるとか。腕の立つ学生もいます」
「うむ。それがよかろう。生徒の安全が一番じゃからな」
学生のことを一番に考えるコバリィ先生。流石だ。こういうところが人気の秘訣なのだろう。
一緒に付いてきたお味噌汁を飲み干し、最後の唐揚げを平らげる。食事を終えて満足した私は、食器を返却するために席を立った。そして私が戻ってきたタイミングで、カーネル先生はコバリィ先生に別れの挨拶をして、テーブルを離れた。
「……何の話をしてたんですか?」
折角なので、カーネル先生と何の話をしていたのか聞いてみる。私には関係ないから秘密にされるかと思ったが、先生は快く話してくれた。
「ん、わしの研究の話じゃよ。町の西にある森の中に大昔の遺跡があるんじゃが、数ヶ月前、そこがゴブリンの群れに占領されてしまったんじゃ。今、そこをなんとか取り戻そうと、色々算段を考えている」
「そうなんですか……」
遺跡をゴブリンが占領……そんなことがあるんだな。その遺跡ってどんな場所なのだろう。ちょっと気になるな。
「数ヶ月前って、大分前ですね。何か、すぐに動けない理由があったんですか?」
「まあ、色々と制約がある場所じゃからな。森に住んでいる者達と話し合いをする時間が必要だったんじゃ」
「ふぅん。大変そうですね」
「まあな。じゃが、お主にはあまり関係のないことじゃ。今は自分の勉強に集中せんとな。さ、そろそろ戻るぞ。続きをやらねば」
「はい。わかりました」
パスタを食べ終わったコバリィ先生が食器を片付けてくるのを待ってから、食堂を後にする。教室に戻った私達は、残っていた文字の続きを勉強した。
そして、残りの四十文字を全部習い終わった頃には、もう空が赤くなっていた。
「んー、あぁー……やっと、これで、全部、終わったぁ」
お昼を食べてから四時間以上。朝勉強を始めてから数えると、もう八時間くらいだろうか。窓の外から眩しい夕日が差し込み、教室は綺麗なオレンジ色に染まっていた。そんなロマンチックな雰囲気に包まれた教室の中、私は疲れた体を机の上に投げ出す。
「疲れた……」
「ご苦労じゃ。試験も合格。これで、今日の目標は達成じゃな」
「はぁ、ありがとうございました。もう指が痛いです……」
「はっはっは。まあ、そうじゃろう。今までまともに鉛筆も握ったことがなかったそうじゃからな。いい経験じゃ」
右手をさする私に、先生は、
「そんなお主に、ほれ。これを貸してやろう」
コバリィ先生から、厚紙でできた何かを渡される。
「ん? 何ですか?」
それは大きくて四角くて、でも薄い。見覚えがある。どうやらこれは、本のようだ。ページ数は、十ページくらいだろうか。ペラペラと軽く中身を見てみると、全部のページに絵が描いてある。そして、文字よりも絵のほうが多かった。つまり、これは絵本だ。
絵本? 子供向けのやつじゃん。……でも、まあ、文字を覚えたての私が読むには、これくらいでいいってことなのかな。最初から変に難しい物を読まされないだけ、先生は優しい。
「これくらいの本ならば、もう十分に読めるじゃろう。それを読んで、この紙に全部書き移してくるのじゃ。それを今日の宿題としよう」
早速絵本を読んでみようと思った時、先生の口から、何やら嫌な言葉が聞こえた。
「えっ、しゅ、宿題、ですか……」
宿題と聞いて、胸の片隅から嫌な感情が湧き上がってくる。当然、その感情は表情にも表れる。
「そんな顔をするな。二度も三度もやれとは言っておらん。何、十項もない絵本じゃ。今のお主なら一時間とかからんだろう。ちゃんとやってくるのじゃぞ」
「むぅ、はーい……」
宿題……はぁ、なんだか嫌な気持ちになる言葉だなぁ。でも、先生にやれって言われたんだから、やらないと。まだ寝るまでは時間があるし、帰ったら早速やろう。
「じゃあ、先生。また明日」
「ああ。また明日な。おやすみ」
コバリィ先生にお別れの挨拶をして、私は、絵本と紙と鉛筆をお土産に、宿屋へと戻った。




