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記憶と妖精~偽りの瞳~  作者: 夜寧歌羽
第三章 温泉街の聖女
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第二十九話 雨の災難

 翌朝。今日は生憎の雨だった。

 当然だが、私は雨が降っても鍛錬を休まない。嫌な顔一つせず、むしろ普段よりもテンション高めで、いつも通り朝早くから外に出た。

 その三十分後。大きな雨粒が全身を濡らす中、私は体中を泥だらけにして、地面に這いつくばっていた。


「うぅ……ゲホッ、ゲホッ……うぇ、口の中に泥が……」

「ふん。相変わらず迷いがあるな、レイラ。それに軽い。もっと食え。太れ。でないと投げ甲斐も何もねぇぞ」

「な、なんですか、投げ甲斐って……ゲホッ、うぅ……」


 それに太れだなんて。女の子になんてこと言うんだ、師匠は。

 泥で汚れた顔を雨で洗い流しつつ、口の中に入ってきた泥をペッペと吐き出す。既に下着までびしょ濡れだというのに、泥のヌメヌメした感触が加わってさらに気持ちが悪い。服は勝手に綺麗になるので問題ないが、手や髪の汚れは自分で落とさないといけない。それがとても億劫だった。

 くそっ、濡れた落ち葉で足が滑って、上手く動けなかった。雨の日は好きなんだけどなぁ……。


「とりあえず、腕立てと腹筋を百回ずつやってろ」

「っ、はい……」


 立ち上がって、剣を片付ける。色々と思うところはあるが、負けは負け。いくら悔しくても、認めなくてはならない。

 木の下で師匠に言いつけられた筋トレをしながら、頭の中で先ほどの戦いを反芻する。負けた理由を周囲の環境のせいにしているようでは、まだまだだ。


「ふうー……終わった。次は、腹筋……」


 最近は、剣の鍛錬よりも筋トレを多めにやっている。これも強くなるためだ。そのおかげで、お腹が少しずつ割れ始めている。嫌ではないが、嬉しくもない。日々微妙な気持ちを抱えながら筋トレに励んでいる。

 ……よし。少し休憩したら、今度は弓だ。雨の中で弓を引くのは初めてだな。やっぱり、雨の影響で矢の軌道が変わったりするのだろうか。その辺りも考慮しないといけないとなると、いつもより大変になるな……。

 今日は雨が降っているので、ジェミニちゃんは部屋で待っている。だから今日は、弓の練習も一人だ。でも、もうジェミニちゃんに教えてもらわなくても大丈夫。今まで教えてもらったことを思い出して、頑張ろう。

 そう思っていたのだが、弓を取り出す前に、師匠が帰ると言い出した。徐々に雨が激しくなってきたので、鍛錬を早めに切り上げるらしい。

 反対する理由もないので素直に従い、宿に戻る。


「もうちょっと早く言ってくださいよ」


 数分の時間差で襲ってきた筋肉痛に顔をしかめながら言う。日に日に筋トレの量が増えているので、筋肉痛とは毎日のように付き合っていた。


「しょうがねぇだろ。ここまで酷くなるとは思わなかったんだから。こんなに降られると、続けるのは流石に無理だ」


 四人集まった朝食の席。私は濡れた髪をタオルで拭きながら、宿の外で降りしきる雨を見ていた。雨は時間が経てば経つほど強くなっていて、今ではもう、道の向こうの建物が白く霞んでしまうくらいだ。


「こりゃ、今日は外に出ないほうがいいだろうな。少なくとも午前中は」

「ですよね」


 一も二もなく同意する。ここまでの雨を経験するのは、久しぶりだ。

 でも、一日中宿にいても、することないんだよなぁ。私達の仕事は、町に出ないと始まらないし。


「もう、三人とも、こんな雨でも鍛錬してたの? 風邪引いちゃうよ」


 三人揃って馬鹿なんじゃないの、と、味噌汁をすすりながらジェミニちゃんが言った。フードを脱いだ彼女の顔には、昨日買ってきた眼帯が付いていた。


「大丈夫だよ。体はそんなに冷えてなかったし。後は髪の毛さえ乾いてくれればね……」


 やっぱり髪の毛が長いと、濡れた時に困るんだよなぁ……。

 中々乾いてくれない髪をタオルで挟んで、水分を拭き取っていると、何の前触れもなくくしゃみが聞こえた。意外な人物からだ。

 三人の視線が彼に向く。今までひと言も喋らなかったと思ったら。


「……カイ、もしかして、風邪?」

「……違う。俺は、こんなことで風邪なんか……」


 とかなんとか言っている間にも、またくしゃみ。二回。そして三回。

 あーあ。これは駄目そう。


「もう、言わんこっちゃない」


 呆れ顔のジェミニちゃんは、カイに何やら魔法をかけた。彼女の手の平からオレンジ色のもやもやが出て、カイの周りを包んでいく。


「ほら、これで温かいでしょ」

「……チッ。感謝、する」


 ホッとしたような様子で、彼はゆっくりとした動作で朝食を口に運んだ。私は既に食べ終わったというのに、彼のお皿にはまだ料理が半分くらい残っている。やはり、いつもより食欲がないようだ。

 うーん、顔も赤くなってきたし、なんだか辛そう。大丈夫かな。


「はぁ、まったく。鍛え方が足りんな。どいつもこいつも」

「……うるさい。う、ケホッ……」


 ゲホゲホと咳込み始めたカイを見て、溜息を吐く師匠。ジェミニちゃんはしばらくカイのことを心配そうに見つめていたが、不意に私の方を見た。


「ねえ、レイラちゃんは大丈夫なの?」

「あ、うん。私は全然平気。服も乾いたし、寒くもないよ」

「そう」


 乾いた服がなんだかポカポカしているので、体は温かかった。多分、また私の知らない便利機能だろう。わからないことの多い服だ。まあ、そのおかげで色々と助かってはいるのだが。


「とりあえず、部屋に戻って寝たほうがいいよ。ご飯も食べれてないし。体を温かくしないと。さ、行こう。歩ける?」

「……あ、ああ」


 体調を崩してしまったカイを連れて、私達は部屋に戻った。

 とりあえずカイをベッドに寝かせる。息が上がっていて、体がとても熱い。本当に大丈夫なのだろうか。こんなカイは初めて見た。


「くそ……すまん」

「気にしないで。とにかくカイは、ちゃんと寝てて。いいね?」

「あ、ああ……」


 無理に動こうとすることはないと思うけど、念のため釘を刺しておく。風邪のせいなのか、彼は意外なほど素直だった。

 カイがベッドの中で大人しくなると、師匠が私を手招きしてきた。


「レイラ。お前に一つ、頼みたいことがあるんだが」

「あ、はい。頼み事、ですか」


 なんだろう、急に。珍しいな、師匠からの頼みなんて。


「ああ。イェージャに会いに行って欲しいんだ。あいつが帰って来たって聞いたから、ちょっと会いに行って、話を聞いてきて欲しい」

「話、ですか? まあ、いいですけど……」


 どうせ一日中ここにいてもやることはないのだ。仕事があるならそのほうがいい。

 イェージャさんの名前が出たからなのか、ジェミニちゃんがあからさまに嫌そうな顔をする。それを無視して、師匠は私の肩を叩く。


「頼んだぞ。俺はちょっと、あいつに薬を買ってくる」


 ベッドの中でぐったりするカイを顎で示した師匠は、先に部屋を出ていった。


「わかり、ました……。じゃあ、えと、ジェミニちゃん。後はお願いできる?」

「任せて。ちゃんと面倒見てあげるから」

「ありがとう。お願いね」


 カイのことはジェミニちゃんに任せ、私は師匠の指示に従い、イェージャさんに会うために宿屋を出た。


  ◇  ◇  ◇  ◇


 雨は少し落ち着いてきたようだった。しかし、風はまだ強い。フードを被ってはいるが、顔は外に出た瞬間に濡れてしまった。上着が水を防いでくれているようなので、朝暴れた時のように中まで濡れてはいない。けれどこれでは、また髪を乾かす羽目になりそうだった。

 ……はぁ。師匠のお願いを聞いたはいいけど、この天気は本当に酷いな。こんな雨は久しぶりだ。雨は好きなんだけど、雨に打たれるのは、あまり好きじゃないかも……。

 足を滑らせないように気を付けながら、坂道を上って役場へ急ぐ。流石に今日ばかりは観光客の姿も少なかった。露店もほとんど閉まっているので、いつものような賑わいもない。雨一つでこんなに町の様子が変わるなんて。フィーンでは雨なんて降らなかったから、なんだか不思議だ。

 役場に着いた。とりあえず入り口で濡れた上着を脱ぎ、水滴を落とす。そして、受付のお兄さんに声をかけた。


「あのー、すみません。町長さんと約束していた者ですけどー」

「ああ、はい。かしこまりました。こちらへ」


 前と同じように二階の応接間に通され、しばらくお待ちくださいと言われる。去り際にお兄さんは、お茶を淹れてくれた。

 湯気の立つお茶を飲みながら窓の外を眺めていると、数分後、イェージャさんがやってきた。


「あらぁ。レイラちゃん。久しぶりねぇ。今日は、アドレは一緒じゃないのねぇ」

「お久しぶりです、イェージャさん。師匠からお願いされたので、代わりに来ました」

「そぉ。まあ、それはそれでちょうどいいのかもしれないけれど」


 裾を整え、彼女は私の正面に座る。イェージャさんは、燃えるようなオレンジ色の和服を着ていた。彼女の鱗と同じ色だ。赤系の色が好きなのだろうか。初めて会った日のことを思い出しながら、そんなことを思う。

 この人と会うのも、もう二週間ぶりだった。初めてジェミニちゃんと一緒に温泉に入った時が最後だろう。あれから毎日のように温泉を利用させてもらっているが、あの時のようにばったり会うこともなかった。

 そう言えば、宿を出る前に師匠が、イェージャさんが帰ってきたとかなんとか言っていたっけ。ということはこの人、どこかに出かけていたのかな?

 疑問に思って尋ねると、彼女は、


「えぇ、まあねぇ。久々に羽を伸ばせたわぁ」

「そ、そうですか」


 その言葉を聞いて、私の脳内では、大きなドラゴンが文字通り羽を大きく広げた姿が浮かんでいた。

 今更だが、この人、実はドラゴンなのだった。うーん。疑ったのは私だけど、今目の前にいるこの人がドラゴンになる姿なんて、全然想像できないな……。


「どうかしたのぉ?」

「い、いえ。なんでもありません。それより、師匠に何かお話があったんじゃないですか? 詳しくは聞いてませんけど……」


 首を傾げたイェージャさんの言葉を適当にあしらって、話を本題に戻す。今日は、師匠からの大事な仕事できたのだ。あまり変なことを考えたら駄目だ。


「あぁ、そうそう。まあ、アドレって言うより、レイラちゃんへのお話、かなぁ」

「え、私に、ですか?」


 予想外だった。てっきり、師匠の仕事に関係する事柄だと思っていたのに。


「まー、内容が内容だからねぇー」


 そう言ってイェージャさんは、湯呑に手を伸ばしてお茶をすする。あちっ、という声が聞こえた。


「……あちち。やぁ、もう。お茶は冷たくていいって言ったのにぃ」


 どうやら彼女は、熱いのが苦手なようだ。

 イェージャさん、猫舌なのか。ドラゴンなのに。意外だ。


「ま、まあ。今日は雨で、外寒いですし。気を遣ってくれたんじゃないですか?」


 意外なものを見て驚きつつも、私はお茶を淹れてくれたお兄さんをフォローした。あの人だって、きっと何か考えがあったから温かいお茶を淹れたに違いない。


「そうかもねぇ。ま、後で注意しておきましょ。あ、そんなことより、お話よ、お話」


 話題がお茶に逸れていたところを、イェージャさんが元に戻した。そうだ。猫舌のドラゴンのことは、今はどうでもいい。


「レイラちゃん。今日はあなたに、とっても大事なお話があります」

「大事なお話、ですか」


 急に真面目な口調になったイェージャさん。私は思わず背筋を正した。そんなに大切なことなのだろうか。なんだか緊張してくる。


「その前に、一つ聞いておきたいことがあるわ。あなた、アドレからは聞いたのかしら。あなたが見た夢の話」

「あ……はい。聞きました」


 それは、大分前に、森の中で聞いた話だった。この町に来た最初の日、イェージャさんに初めて会った時。彼女が私に魔法を使って、昔見た夢を見させた。家族に関する、とても恐ろしい夢を。

 頷いた私に、彼女は少し視線を逸らして、小さく呟いた。


「そう。……結局話したのね。思い出さないほうがいいとか言っていたくせに」


 非難するような口調で、彼女は小さく呟いた。

 師匠、そんなことをイェージャさんに話していたんだ……。まあ、確かにあの話は、ちょっと刺激が強いかもしれないけど。それも、彼なりの優しさだったのだろう。


「まあでも、あいつが話したのなら話は早いわ。あなたが夢で見た、家族が殺される場面。それを基に、私はもう一度エルフの家庭を調べてみたの」

「そう、だったんですか。それで、ここしばらく姿を見なかったんですね」


 私への話とはつまり、私の家族の話か。確かにそれなら、師匠よりも私に直接話したほうがいいだろう。


「それで、どうだったんですか」


 何か新しい情報が入ったのだろうか。そんな期待を胸に尋ねる。しかし彼女は、静かに首を振った。


「ごめんなさい。あなたの家族のことは、何もわからなかったわ」

「あ……そう、ですか……」


 わかっていたことだった。私のことは前に一度調べてもらっていたので、そこまで期待はしていなかったが……それでも、何もわからなかったと言われて落ち込む自分がいる。


「……じゃあ、私が見た夢は、本当にただの夢、だったってことですか」

「それは、まだわからないわ。ただ少なくとも、私や他のエルフが生きている中で、エルフの家族が殺されたような事件はなかった。今回分かったのは、そういうこと。国の記録にも、人の記憶にも残ってなかったのよ」


 落ち込む私を慰めるように、彼女は言った。


「でも、それじゃあ……ここ数百年の間、そういう事件がなかった、ってことですよね」


 そうなると、私はいったい、何歳になるのだろう。二百? 三百? ……もっといっているかもしれない。見た目はこんなだけど、中身はとんでもないおばあちゃんだったり……。

 イェージャさんのとんでもない年齢を頭の片隅に思い出して、そんな妄想が膨らむ。とても現実的とは思えない。

 そんな私に、彼女は優しい言葉をかけてくれる。


「そんなことないわ。単純に私の調査が抜けていたとか、まだ誰にも知られていない集落があったとか、そういう可能性はまだある。こういう言い方は失礼かもだけど、あなたくらいの見た目の子が、百歳以上ってことは多分ないわ。だから、私が知らない町出身とかの可能性が……」


 イェージャさんは、ふと何かに気付いたように言葉を止めた。そのまま窓の外に目をやり、しばらく動かなくなる。

 ……あれ。どうしちゃったんだろう。急に黙り込んじゃった。

 心配になった私は、イェージャさんの顔を覗き込んだ。


「……? イェージャさん?」

「……ああ、そうだわ。そういえば、あっちの国にも、エルフがいたわねぇ」


 私に視線を戻したイェージャさんは、少し興奮した様子で口早に話し始めた。


「私、ちょっと思いついちゃったぁ。レイラちゃん、もしかしたら、あっちの国の子かもしれないわよぉ」

「え? あっちの国、って……」

「うーんと、なんだったかしらぁ。名前が出てこないわねぇ。ええっとぉ……」


 腕を組み、足を組み、首を捻るがまだ出てこないのか、頭をコツコツと叩き始めるイェージャさん。

 うーん……木魚を叩くような効果音が似合いそうな場面だ。

 なんてこと考えながら、しばらくその様子を見守っていると、彼女は突然大きな声を上げて、


「そう! デラント! デラント共和国。あそこにも、エルフの可愛い子がいるのよぉ」

「え? そうなんですか。えっと、確かその国って……」


 デラント共和国。随分前に聞いたことがある名だ。確か、これは、フェニさんに教えてもらったことだったような気がするぞ。


「海の向こうの国よ。魔法をあんまり使ってなくて、カガクとかガカクとかいう、洗練されたカラクリ技術で発展した大きな国、らしいわぁ。随分前に、そっちから来たエルフの子がここに来てねぇ。うちの温泉を褒めてくれたのよぉ」

「そ、そうなんですか。へぇ、そんな国が」


 科学、画角……多分前者が正解だろう。写真は関係ないはずだし。それに、科学という言葉には、なんだか馴染みがあるような気もする。

 科学で発展、か。面白そうな国だな。


「そう。だから、ね。次の目的地は、そのデラント共和国にしたらどうかしらぁ」


 つまり、私に海を越えろと。どれだけ遠い国なのかも知らないのに。


「え、は、はぁ……私に言われても、ちょっと。どれだけ遠いのかわからないので、困ります……」


 そこに私の記憶の手掛かりがあるのなら、行ってみる価値はある。でも、次の目的地なんていう大事なことは、一度師匠に相談してからじゃないと。

 そう思って、私は答えを適当にはぐらかした。だが後で知った所によると、この大陸からデラント共和国のある大陸までは、三ヶ月以上船の上で過ごさないといけないらしい。

 目の前で楽しそうにうふふと笑うイェージャさんは、しれっと、とんでもないことを口にしていたのだった。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「ただいま戻りました」


 宿に帰ると、カイはベッドで静かに眠っていた。彼の寝顔は随分と落ち着いている。きっと、師匠が買ってきた薬が効いてきたのだろう。朝ほど辛そうではない。額に濡れたタオルが置かれているのが、なんだか可愛い。

 その他、特にやることもないジェミニちゃんはぼーっと窓の外を眺めていて、椅子に座っている師匠も、これまたぼーっと天井を仰いでいた。

 私に気付いた師匠は、こちらを向いて椅子に座り直した。


「戻ったか。どうだった」

「まあ、普通にお話してきました。楽しかったですよ。お菓子いただいちゃいました」

「えー、いいなぁ」


 あれ、ジェミニちゃん、イェージャさんのこと嫌いじゃなかったっけ……。

 それから私は、寝ているカイを起こさないよう、できるだけ静かな声でイェージャさんと話したことを師匠に伝えた。


「ほう、そうか。デラント共和国か」

「へぇ、海の向こうにも国があるのねぇ。知らなかった」


 二人の関心は、デラント共和国に集まっていた。この国の名前を聞くのは随分と久しぶりだったので、私も驚いた。


「師匠は行ったことあるんですか? その、共和国に」

「あるぞ。でも、何十年も前、まだあの国が帝国だった頃の話だ」


 へえ、知らなかった。師匠、この国を出て海を渡ったことがあったんだ。しかも、帝国だった頃だなんて。これは面白い話が聞けそうだ。

 師匠の旅の記録を垣間見て、私は少し、彼の過去に興味を持った。


「どんな所でしたか? 向こうの国は」

「ん、まあ、凄い所だったぞ。この国とは全然違ってな。この国と比べると魔法があまり使われてなかったな。代わりに、科学で生活していた。見たことない物がいっぱいだったぞ。電気とかな。まあ、俺にとっては結構住みやすい所だった」

「そうなんですか……」


 うーん、科学に、電気か。ますます気になるなあ。エルフもいるって言っていたけど、魔法をあまり使ってないなんて。不思議だ。私も行ってみたい。そのデラントっていう所。

 しかし師匠は、私の期待の眼差しに気付きながらも、


「ま、お前を連れていくのはまだ先だな。まずはこの国を制覇してからだ」


 世界一周の旅でもしているかのような師匠の言葉に、私はがっかりした。


「えー、そんな。これ、一応私の記憶に関わる大事な話なんですけど」

「わかってるさ。でも、とりあえずこの国の中でお前の情報がないか、全部調べつくしてからだ。あのドラゴンだって、まだ見つけてないだろ」

「う、そうでした……あ、そうだ。イェージャさんから、あのドラゴンの話も聞きましたよ」


 海を渡れなくて残念だが、イェージャさんの話を思い出して、私は話を続けた。師匠が彼女にお願いしていたのは、私の家族のことともう一つ、海から飛び立ったあのドラゴンを探すことだった。その結果も、彼女から聞いてきている。


「お、待ってたぞ。それを早く教えてくれよ」

「順番ですよ、順番。それでですね。イェージャさんが言うには、あのドラゴンを見つけることはできなかったらしいです。それらしい痕跡はいくつか見つけたらしいんですけど、そこまでだったみたいです」


 あれから四ヶ月以上も時間が経っているので、痕跡が見つかっただけ奇跡かもしれない。そんなことをイェージャさんは言っていた。今後、新しく痕跡が見つかることはないだろう、とも。


「そうか。場所は聞いたか?」

「はい。地図をもらってきました。ちょっと待ってくださいね……」


 上着の内ポケットから、イェージャさんから預かった地図を取り出す。地図が雨に濡れていないことを確認してから、机の上に広げた。


「この、丸が付いている所が、痕跡があった場所らしいです。こっちから順番に……ここが最後に見つけた場所。私、地図読めないんで、師匠にお渡ししますね」

「おう。わかった」


 広げた地図を師匠に渡す。実は、地図を見たのは今日が初めてだった。だから私には、イェージャさんの地図がいったいどの辺りの地図なのか、皆目見当もつかない。こういうことは全部、師匠に任せてしまうのがいいだろう。

 そういうことで、地図も渡したし、私の仕事はこれで終わりだ。


「イェージャさんからの要件は、これで全部です」

「了解。ありがとな、レイラ。俺の代わりに話を聞きに行ってくれて」

「いえいえ。あの人にも言われましたけど、私が直接聞いたほうがいい話もありましたし」

「ん、そうか。じゃあ、時間もいい感じだし、飯にするか」

「はーい」


 師匠のひと声が合図となり、私達は宿の食堂に降りて昼食を取った。

 濃い赤味噌のお味噌汁を飲み干した後。体調が悪いカイは動けないので、宿の人にお粥を作ってもらい、部屋で食べさせることになった。既にお粥は三分の二がなくなり、スプーンを口に運ぶ彼の顔色も、朝よりは大分良くなっていた。


「大丈夫? カイ」

「ああ……なんとか」


 まだどこか腫れぼったい目をしながらも、カイの口調ははっきりしている。この様子だと、明日の朝起きた時にはきっと治っているだろう。

 それにしても、本当に意外だ。まさかあのカイが風邪を引くなんて。カイは病気に強いイメージがあったのに。……いや、これは私の勝手な想像だろう。これまで自分の周りで病気になった人がいなかったから、カイの印象からそう思っていただけだ。

 お粥を食べ終わったカイは、空になったお皿を私に差し出し、静かに言った。


「……ありがとう」

「ううん、いいよ。カイはゆっくりしてて。さてと、熱はどうかな?」


 カイのおでこに手を当てる。冷たいタオルで冷やしていたとはいえ、まだほんのりと温かい。心なしか、カイの頬も少し赤い。まだ熱があるのだろう。やはり、今日はずっと寝ていないと駄目だな。

 暇そうにしていたジェミニちゃんが、ベッドの上の無力なカイを見て、


「あれれー、カイ、あんたもしかして照れてるのぉ?」


 なんだか表情が輝いているような気がする。冷やかしているつもりなのだろう。また適当なことを言って。


「う、うるさい」


 ジェミニちゃんにからかわれたカイは、布団の中に逃げた。その反応がなんだか子供みたいで、ちょっと面白い。

 カイって風邪を引くと、こんな感じになるんだ。面白いけど、面倒が増えたな……。


「ちょっと、カイ。まだ薬飲んでないよ。ジェミニちゃんも、あんまり変なこと言わないで。風邪なんだからしょうがないでしょ」

「はいはい」


 何がそんなに面白いのだろう。私に注意されたジェミニちゃんは、ベッドの上でゴロゴロし始めた。こっちはこっちで猫みたいだ。


「はぁ。もう。えっと、ほら、薬。これ飲んだら、ちゃんと寝ててよ」

「……わかっている、それくらい」


 布団から出てきたカイは大人しく薬を飲み、再び布団を被った。

 ……剣では私より強いカイも、風邪には勝てない、か。カイのこんな弱いところ、初めて見た。まあ、病気だからしょうがない。どんなに健康な人でも、病気になる時はなる。病は自然の摂理なのだ。

 それから、特にやることもない私達は、降りしきる雨の音を聞きながら、部屋の中で静かに過ごしていた。カイは寝て、師匠は誰かに手紙を書いて、ジェミニちゃんはベッドの上でゴロゴロする。そして私は、静かに窓の外を見る。

 カイの風邪は本当に災難だったが、雨は私に、静かな時間を与えてくれた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


 予想通り、翌朝にはカイの風邪は治っていた。体調が回復した彼は、昨日の態度が嘘のようにいつもの仏頂面に戻り、いつも通り鍛錬をこなし、いつも通り朝食を平らげた。そうして今日も、いつも通りの一日が始まった。

 でも、何もかもがいつも通りとはいかない。今日は、私達がこの町に滞在する最後の日だから。



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