第二十八話 一日を楽しく
「……そう。ゆっくり引いて。ゆっくり」
「うん……」
朝の空気に支配された静かな森の中。囁くようなジェミニちゃんの言葉に、私はあまり唇を動かさずに答え、弓の弦を引き続けた。もう何度も聞いた弓が引き絞られる時の音。それだけが森の中に響く。
弓の練習を始めて二週間。流石にもう、腕が震えることはない。ジェミニちゃんに教えてもらった通りに狙いを定める。呼吸は落ち着いている。指が自分の唇に触れる。引くのをやめ、狙いを調整。
――今。
ビュンッ、と弦が弾け、矢が高速で飛び出す。撃ち出された矢は、大きな弧を描いて空中を飛び、五十メートル以上離れた木の枝にまっすぐ突き刺さった。
「……ふぅ。やった」
「お、当たった。うん、いい感じだったよ。今日は五本、か。昨日は八本くらいかかったから、凄い成長だよ」
矢が目標に命中したのを確かめたジェミニちゃんは、そう言って私を褒めてくれた。
普段はジェミニちゃんのことを勝手に妹だと思っているが、弓の先生をしている時だけは、逆に姉だと思っている。それくらい、弓に関してはとても頼れる存在だった。流石は里で一番の射手だ。
弓を片付け、ジェミニちゃんを見る。
「ありがと、ジェミニちゃん。嬉しいよ」
「うん。私も、レイラちゃんが弓を使ってくれて、嬉しい」
お互いに顔を見合わせて、照れたように笑い合う。辺りには私とジェミニちゃんしかいない。師匠とカイは先に宿へ戻っているはずだ。
二週間ずっと練習したおかげで、二十メートルくらいの場所ならほぼ百パーセント当てることができるようになった。なので、今度は次の段階。より遠くに目標を設定して、当たるまで帰れない、ということを始めた。
最初にやった時は、無謀にも百メートルも離れたものを的に設定したので、遠距離射撃の感覚を掴むまでかなりかかった。結局、二十本以上の矢を消費して、ようやくその日の朝食にありつくことができたのだったか。けれど、そんなことを続けたおかげで、近距離でも命中率がかなり上がった。これも全部、ジェミニちゃんのおかげだ。
「さ、戻ろっか」
「うん」
今日の練習が無事に終わったので、私達は宿に戻った。
私達が町に来た頃に全盛期だった紅葉は、今はもう落ち着き、木の葉が少しずつ散り始めている。そのせいか、地面も赤や黄色に染まっている。森の中はどこもかしこも、赤、黄、茶の三色で彩られていた。
「でも、レイラちゃんは凄いなぁ。こんなにすぐに弓を使いこなせるようになるなんて」
「え? そうかな? ジェミニちゃんが丁寧に教えてくれるからだよ」
首を傾げ、謙遜する。その言葉は本当だった。ジェミニちゃんは、本当に教える弓を教えることが上手だった。ここまで弓が上手になったのは、彼女の力がとても大きい。
けれど、ジェミニちゃんは私の言葉を否定する。
「そんなことない。レイラちゃんが凄いの。きっと、レイラちゃんは天才ね!」
「て、天才って……大袈裟だよ。私は、別にそんな……」
私は、自分のことをそんなに凄いと思ったことはない。もちろん、オッドアイや怪我の治癒力など、他の人と違うところはかなりあると思う。でも、それが他人と比べて優れているかどうかは、よくわからなかった。
「もう、レイラちゃんはいつも謙遜してばっかりね。そんなに遠慮しないで。褒められたら素直に受け取っておけばいいのよ」
「そう、かな。うん。わかった」
まあ、褒められるのは嫌ではないから、ジェミニちゃんの言うとおりにしよう。自分から、こんなことができて私は凄いんだぞ、なんて言わなければ、迷惑に思われることもないだろう。
そんな話をしながら宿に戻ると、師匠達はもう朝ご飯を食べ始めていた。
「お、今日は早かったな。何本で当たったんだ?」
「五本です。どうですか。昨日より少なくなりましたよ」
師匠の問いに胸を張って答える。しかし、彼は私を褒めてくれなかった。
「ほう。そうか。でも、俺はどんな遠くの的でも百発百中の奴を知ってるぞ。そいつに比べたら、お前なんかまだまだだな。な、ジェミニ」
「えっ? ま、まあ、そうかもね」
突然師匠に同意を求められたジェミニちゃんは、曖昧な返事をした。
もう、私をそんな化け物じみた人と比べないで欲しい。こちらはまだ、弓を触り始めて二週間しか経っていないのに。
「む、そんな凄い人と比べないでくださいよ。私なんて、まだまだ初心者なんですから」
「はいはい、初心者ね。百メートルを狙って当てる初心者がどこにいるってんだ、まったく」
「じゃあ、中級者ということで」
師匠呟きを聞いて、自分の言葉を訂正する。確かに、二週間続けていれば初心者とは呼べないかもしれない。
席に座って朝食を注文した私は、少し話題を変え、今度はこちらから師匠に尋ねた。
「そういえば、師匠は弓、使わないんですか?」
「ああ。面倒だからな」
師匠は弓のことを一蹴した。
弓、涙目。まあでも、師匠に弓はあまり似合わなさそうだ。今使っているような両手剣みたいに、大きな武器が似合うだろう。斧とかハンマーとか。でも、武器は使い勝手で選ばないと意味がないので、似合う似合わないを気にする必要はあまりない。それに、カッコいい武器が強いとは限らない。装飾が多い武器は、実用性に欠けるイメージがある。
「でも、剣だけじゃ遠くの敵を倒すのは難しいでしょう。遠距離攻撃の手段もあったほうがいいですよ」
弓の魅力を知った私から、一つアドバイス。しかし、師匠は横暴な理論でそれを拒んだ。
「剣でも投げりゃ当たる。それで十分だ」
「え、えぇ……」
師匠らしい強引な理屈に、私は久しぶりに引いた。
まあ、師匠の行動が色々と度を越していることは、知っていたけれど。まさかここまでとは。
ちょうどそこで食事が運ばれてきたので、会話は終わった。その日の味噌汁は、合わせ味噌だった。
朝食が終わった後、私は師匠に、少し前から考えていたことを話すことにした。
「あ、そうだ師匠。一つお願いがあるんですけど」
「なんだ? あ、もしかして、金が要るのか? なんか欲しい物でもできたのか」
「いえ、そういうことじゃなくて。今日、ジェミニちゃんと一緒に町を歩きたいんですけど、いいですか?」
私がそうお願いすると、隣に座っていたジェミニちゃんは驚いて、私の顔をまじまじと見た。
「え、私と?」
「うん。ジェミニちゃんと」
今までジェミニちゃんは、私達が町の調査をしている時、師匠と一緒にいることが多かった。晴れの日も雨の日も、師匠がどこか知り合いのお店に買い物に行った時も、師匠が野菜を作っている畑を見学しに行った時も、いつも一緒だった。そんな二人に嫉妬したわけではないのだが、とにかく一度、私はジェミニちゃんと一緒に町を歩いてみたかった。そのための計画は、色々と練ってある。
私のお願いに、師匠は頷いて、
「そうか。まあ別に、俺は構わんが。ジェミニがそれでいいなら」
「わ、私は……別に、構わないわよ。レイラちゃんと一緒でも」
「やった。じゃあ、決まりだね」
という訳で、今日、私はジェミニちゃんと一緒に行動することになった。
◇ ◇ ◇ ◇
二人で宿を出ると、外はやはり人でいっぱいだった。はぐれてしまわないよう互いに手を繋ぎ、人混みをかき分けて先へ先へと歩いていく。
よーし。師匠の許しも出たし、今日はジェミニちゃんと、この町を目いっぱい楽しむぞ! お仕事なんかするもんですか。
仕事を忘れてすっかり観光気分になった私が、上機嫌でジェミニちゃんの手を引っ張っていると、
「ね、ねぇ、レイラちゃん。いったいどこに行くつもりなの?」
私が何も言わなかったせいか、ジェミニちゃんに行き先を尋ねられた。
急に連れ出したのだから、気になるのは仕方がない。けれど、彼女を驚かせてみたくなった私は、答えをはぐらかした。
「あ、えっと、それは……うん。着いてからのお楽しみ」
「えぇ? それって、どういう……」
「大丈夫。いい所に連れてってあげるから。さ、行こ?」
ジェミニちゃんの答えは聞かずに、私は昨日の夜に考えたプランに従って先へ進んだ。
「よし、着いた。ここだよ」
私が一番に向かったのは、表通りから外れた路地。知らないと見つけることができないような場所にある、地下へと続く階段だ。人気もなければ看板もない。しかし、ここが私の目指していた場所だった。
「え……ここ?」
暗がりにある階段を見て、ジェミニちゃんは戸惑っていた。そんな彼女のことを放っておいて、私は階段を下り、扉を開けた。
「すみませーん」
「ちょ、ちょっと、レイラちゃん……」
扉は重く、ギィギィと音が鳴った。結構古い場所だ。
中はとても暗かった。エルフの視力を持ってしても、はっきりものが見えないほどに。ここまで暗いと、流石にちょっと怖い。お化けが出ると言われても、信じてしまいそうなくらいだ。
私は振り返って、まだ階段上にいるジェミニちゃんに手招きした。
「さ、こっち」
「で、でも……」
「心配しないでいいよ。ここの人、優しいから」
疑いつつも、ジェミニちゃんは恐る恐る階段を下りてくる。彼女が中に入ったところで、私は扉をバタンと閉めた。その瞬間、
「いらっしゃいませー!」
気さくな掛け声と共に、部屋の明かりが一斉に点灯。真っ暗だった部屋が一気に明るくなる。
明かりが付いたおかげで、今まで見えなかったこのお店の内装が明らかになった。壁や棚に並べられているのは、槍、剣、盾、斧、弓、甲冑。その他ゴツゴツした金属製の色々が、私達を出迎える。
それらを見たジェミニちゃんが、息を呑んだ。
「え、こ、これって……」
「お、今日のお客さんは可愛い子ちゃんだ」
お店の奥から声をかけてきたのは、ドワーフのお姉さん、テロットさんだった。彼女は奥のカウンターから出てくると、私達の前に立った。
とりあえず、挨拶をする。
「どうも。おはようございます」
「君は、この間の子か。また来てくれるとは嬉しいね」
私よりも頭二つ分背の低い彼女は、私を見上げて笑顔になった。
部屋の中を見回していたジェミニちゃんが、私と彼女とを見比べて、
「れ、レイラちゃん、ここって、もしかして……」
「うん。武具屋だよ」
ここは、町でそれなりに有名な武具屋さん。随分前に足湯で会ったドワーフのおばあさんの、娘さんが経営しているお店だ。ここにある武器は、ほとんどがお店のご主人が作ったもので、その質の良さがとても評判だった。この町は火山の町なので、強い火力が必要な鉄鋼業も栄えているのだ。
私は数日前、カイと一緒にここに来たことがあった。その時に見つけた武器を見て、ジェミニちゃんを連れてこようと思ったのだ。
「テロットさん。今日は、この子の武器を見に来たんです。色々見させてもらいますね」
「もちろんだよ。自分に合うものを見つけておくれ」
テロットさんもそう言ってくれたので、遠慮なくお店の中を見て周る。ジェミニちゃんが不安そうに言った。
「でも、お金が……」
「大丈夫。お金は私が出すから」
この日のために節約を重ねてきたので、資金は潤沢にあった。
私が持っているお金は、全部師匠からのお小遣いだ。このお小遣いは、この町に来てから毎日もらっていたのだが、あまり使う機会がなかったので日に日に増え、袋はとても重たくなってしまっていた。最近は昼食代にしか使っていなかったので、ここでジェミニちゃんの武器を買うくらいどうってことない。
「い、いいの? 武器、結構高いよ?」
「いいの。気にしないで。さ、ジェミニちゃん。色々見てみよっか」
「う、うん」
ジェミニちゃんの背中を押して、私達は早速、彼女が使う武器を見始めた。旅に武器は必須なのだ。
彼女が使うのは、やはり弓だろう。この武具屋は、どの武器もそれなりの種類が揃っている。もっとも、私にはそれらの違いがよくわからないのだけれど。まあ、種類が多いに越したことはない。選択肢が多くあるのはいいことだ。
それからしばらくして、ずっと無言で武器を眺めていたジェミニちゃんが、一つの弓の前で足を止めた。
「あ、これ……」
彼女が見ていたのは、とても質素で、大きな弓だった。竹一本を加工して作られた、飾りのない一本の大きな弓。
……ああ、これか。この間来た時も、なんかいいなあと思ったんだよね。よくわからないけれど、なぜだか不思議と、手に取ってみたくなる。もしかしたら、ジェミニちゃん、昔はこういう弓を使っていたのかな。
「おや、目がいいね。流石エルフだ。そいつは、この町で取れる竹を使って作った大弓だよ」
「……ちょっと、触らせてもらっていいかしら」
「あいよ。ちょっと待ってな」
お姉さんは壁に飾られていたその大弓を取り、ジェミニちゃんに手渡した。
「ほら。天井、気を付けてくれよ」
「ええ」
言われた通り天井に気を付けつつ、ジェミニちゃんは弓を構えた。その姿はまるで、彼女の心の内を表しているかのようだった。よどみなく行われる一連の動作も。フードに隠された真剣な表情も。虚空の的を見つめる鋭い眼差しも。そのすべてが、美しい。
……おお。これは。凄い。
そのままジェミニちゃんの指が、ピン、と弦を弾いた。一瞬の音色がお店の中の空気を震わせ、雰囲気が変わる。私の右目には、彼女の指から白色の靄のようなものが放たれ、部屋中に広がっていく幻が見えた。
「おお、これは凄い。こんなに綺麗な構えは見たことがないよ」
「……まあ、形式的なものだから。実戦では、こんなことしてる暇はないわよ」
「そうなのかい。いやしかし、エルフってのは、こんなにも美しく弓を使うんだねぇ。はぇー、部屋の空気が変わっちまったよ……」
感嘆の息を漏らすテロットさん。彼女は私の心の内を、全部代弁してくれていた。
「いいもの見せてもらった。どうする、それにするかい?」
「あ、えと、どうしよう……」
ジェミニちゃんは、確認するように私を見た。
「いいよ、なんでも。ジェミニちゃんがいいと思ったのもなら、私、いくらでも出せる」
半分大袈裟な言葉だったが、そのおかげで彼女は決断してくれた。
「じゃ、じゃあ、これ、お願い」
「はいよ。二百五十セルになるよ」
「わかりました。えっと、銀貨が一枚、二枚……」
銀貨を数えながら、テーブルの上に出す。財布代わりの袋に入っている銀貨の数は、すでに三十枚を超えている。二百五十セルなら問題なく出せるだろう。
ううん、それにしても、お金が数えにくいな。銀貨ばっかりだ。たまに銅貨もある。今度、師匠に両替してもらおうかな。いや、全部使っちゃえばいいのか……。
心の中で不満を抱きつつも、私はテーブルの上に数えた銀貨を出した。
「二十三、二十四、二十五。はい、確認してください」
「あいよ。二十五枚、ちょうどだね」
お金を確かめたテロットさんは、ジェミニちゃんのほうを見て、
「矢と矢筒はおまけしておくよ。二十本くらいあればいいか?」
「そう、ね。とりあえず、それくらいで。あ、後、ゆがけか手袋、手入れの道具とかもあると、嬉しいんだけど……」
「ああ、手袋ね。もちろんあるよ。こっちにおいで」
防具が置かれている棚の隅に、手袋はあった。茶色の革製で、結構しっかりしている手袋だ。テロットさんがその中から、ジェミニちゃんの手のサイズに合うものを選んだ。手袋を受け取ったジェミニちゃんは、手を入れて感触を確かめた。
「……うん。いい感じ。これなら弓も問題なく引けるわね」
「そうかい。ならよかった。それも、買ってくかい?」
「ええ」
「じゃ、十七セルだ」
あ、こっちは安いな。
さっきの弓との差に驚きつつ、私は十七セル数えてテロットさんに渡した。
「毎度。さ、他に何か必要なものは?」
「あー……私が欲しいと思ったものは、もう大体……」
そう言って買い物を終わらせようとするジェミニちゃんに、私は待ったをかけた。まだだ。まだ一番大切なものが残っている。
「待った。まだだよジェミニちゃん。近距離武器、まだ見てないでしょ。ナイフくらいは持っておいたほうがいいよ。色々役に立つから」
これは私の経験談だ。近接武器という扱いのナイフだが、これ一本あるだけで生活ががらりと変わる、非常に有能なライフハックツールだと私は思っている。武器としてはもちろん、料理をする時は包丁代わりに、地面を掘る時はシャベル代わりに。動物の解体もお手の物。さらに、油断した人間の首や心臓をザクッとひと突きすることもできる。それがとても楽しい。一番おすすめの使い方。
ナイフは、一本で何通りもの使い方ができる万能道具なのだ。
「そうなの? レイラちゃんがそう言うなら……」
「よしきた。ナイフだね。あそこにあるよ。見ていきな」
テロットさんの助言を頂きつつ、私達はジェミニちゃんが使うナイフを選んだ。そうして、かなりの数を品定めをした結果、
「……じゃあ、これ。色々見たけど、これくらいで十分だと思うわ」
そう言って彼女が手に取ったのは、柄が木製の普通のナイフだった。鞘や柄には特に便利機能はなく、柄と刃がほぼ同じ大きさ。刃こぼれしにくそうなナイフだ。
他にも、鞘に砥石が埋め込まれていたり、ブレードが収納式になっていたりと、様々な種類のナイフがあったが、結局シンプルなものに落ち着いたようだ。
「おお、それかい。いいね。そいつはきちんと整備さえすれば、いつまでも使える代物だよ。ドワーフとか、騎士団の殿方にも人気があるね。信頼性が高いから」
「そう。気に入ったわ。これにする」
「よしきた。じゃあ、そいつと鞘、装備するためのベルトを付けて、三十セルだよ。その他の道具はおまけしといてやるさ」
「ありがとう。感謝するわ」
そうしてジェミニちゃんは、ナイフもお買い上げになった。
私がお金を払った後、テロットさんはジェミニちゃんに、弓を持ち運ぶために留め具、ナイフをしまうためのベルトなどを身に着けさせた。今までワンピースに外套一枚だけだった彼女の姿が、一気に戦士らしくなる。
最後に、弓とナイフの整備道具一式が入った袋を手渡され、お買い物が終わった。
「よし。いいね。これであんたはどこから見ても、立派な射手だよ」
「それは事実よ。でも、ありがと」
素直に感謝の言葉を述べるジェミニちゃんは、なんだか少し、照れくさそうに笑っていた。
「出る時気を付けな。弓が当たるよ」
「わかった。色々ありがとう」
「ありがとうございましたー」
買い物を済ませた私達は、テロットさんの武具屋さんを出た。私は何も買っていないけれど、とてもいい買い物をした気分だ。弓は買えたしジェミニちゃんは格好よくなったし、文句ない。
ふぅ。ジェミニちゃんのおかげで、財布がかなり軽くなったな。思ったより色々買った。でも、これだけ残っているなら、お昼ご飯も贅沢できる。他にも買いたいものがいっぱいあるし、午後はもっと楽しくなりそうだ。
武具屋に入ったのは朝一番だったが、外に出た時にはもう、太陽は空高くに昇っていた。
「結構時間かかっちゃったねー」
予定では、もう少し早めにここを出られると思っていた。最後のナイフ選びに時間を使ってしまったようだ。でも、これはこれで楽しめたのでよしとしよう。私も何か買おうか迷ったくらいだ。
「そう、だね。……ありがとう。レイラちゃん」
お金のことを気にしているのだろう。改めてお礼を言ってくれるジェミニちゃんに、私はそんなの気にしないでと首を振った。
「ううん。いいよ、これくらい。ね、それよりさ、そろそろお腹空かない?」
いつまでも変に気を遣われるのも申し訳ないので、私は話題を変えた。予定より少し早いけれど、ご飯にはちょうどいい時間だ。お腹もそれなりに減っている。それに、食事処が人でいっぱいになる前に行きたい。
「そう、かもしれない」
「よし。じゃあ行こうか。こっちだよ」
行くお店は、実はもう決めてあった。
表通りに戻って、また少し歩く。それなりに時間も経ったので、人通りは朝よりも格段に多くなっていた。朝より荷物の増えたジェミニちゃんは、長物を背負って大変そうだったが、慣れた様子で人の流れに乗って、私についてきてくれた。
そういえば、ジェミニちゃんと初めて会ったのも、こういう人混みだったな。向こうが突然ぶつかってきて、お金を盗られたんだった。よくある手口なのだろう。あの時のジェミニちゃん、なんていうか、生意気だったな。あれからもう二週間前か。時間が経つのは早いな。
そんなことを思い出しながら先へ進み、目的のお店に着いた。
「着いた。ここだよ。席、空いてるといいけど……」
お店には、既にかなりの人がいた。でも、よく見るとまだ席は空いている。お昼のピークにはギリギリ間に合ったようだ。
いらっしゃいませの挨拶を聞きながら、店員さんに案内された席に座る。日の光が当たる外のテラス席だ。お店は全体的に和風な雰囲気で、店内には座敷の席なんかもあるようだ。ジェミニちゃんと向かい合わせに座った私は、とりあえずメニューを広げた。
……うん。読めない。まあでも、頼むものは決めてあるので、問題はない。
「ね、どう。このお店。いい所じゃない?」
メニューをジェミニちゃんに渡して、私はこのお店の感想を聞いた。彼女がこういう場所をどう思っているのか気になったから。
「あ、うん。そうだね。なんていうか、お洒落な所だね。始めて来たかも、こういう所」
外のテーブルなので、食事の様子を通行人から見られてしまうけれど、まあ仕方ない。
「そうだよね。ここ、ご飯も凄く美味しいんだよ」
「本当? 楽しみ。何にしようかな……」
その後、頼む料理を決めた私達は、店員さんを呼んで注文した。しばらくして、料理が運ばれてくる。
お盆に乗っていたのは、おにぎり二つとお味噌汁、だし巻き卵にから揚げ、それからお漬物。
私達が頼んだのは、このお店の人気メニュー、和のおにぎり定食だ。
「わ、凄い。こんなの初めて見た」
料理を見たジェミニちゃんは、興奮した様子でおにぎりを眺めた。
あれ、ジェミニちゃん、おにぎり初めてなのか。こういうの、他の場所では珍しいのだろうか。
「これ、何?」
「おにぎりだよ。ご飯を握って、食べやすくしてあるの。こっちの、白いほうには梅干しが入ってて、こっちの茶色のは、五目御飯のおにぎり」
「へぇー。どうやって食べるの?」
「普通に、こう、ガブッと」
両手を口の前に持っていって、おにぎりをかじるジェスチャーをする。
「へぇー」
彼女はまだ、不思議そうな顔をしていた。それを見た私は、ジェミニちゃんに聞いてみた。
「里にはこういうの、なかったの?」
「うん。まず、お米がなかったからね。里ではいつも、森の中から採ってきた木の実とかばっかりだった。こっちに来てからも、安いパンとかしか、食べたことなかったし。森に入って、自分で木の実を探して食べる、なんてことも」
「そう、なんだ……」
悲しいことを思い出させてしまった。申し訳ない。とりあえず、ご飯にしないと。折角のお料理が冷めてしまう。
「と、とりあえず、食べよ。今は、目の前に美味しいご飯があるんだから」
「……そうね」
「いただきまーす」
私達は料理に手を付けた。おにぎりは両方とも凄く美味しくて、おかずも絶品。特に、だし巻き卵が凄かった。港町から仕入れたかつお節を使っているらしい。懐かしい味がした。
その他の感想としては、梅干しを一口で食べてしまい、涙目になるジェミニちゃんが可愛かった。
昼食の後は、適当に町をぶらぶらしながら買い物をした。年齢は知らないけど、ジェミニちゃんだって女の子なのだから、色々と必要なものがある。髪留めとか、櫛とか。色々買ってあげた。それから、一番大事なものも。
「見て見て、ジェミニちゃん。お揃い」
お店の鏡には、私の顔と、フードを外したジェミニちゃんの顔が映っている。彼女の右目には、私と同じ色の眼帯。これなら、オッドアイを見られることもない。
ジェミニちゃんがいつもフードで顔を隠しているのは、オッドアイを見られたくないからだ。そして、なぜオッドアイを見られたくないのかというと、この瞳が森の聖女である証だから。もし聖女の存在を知る人に見られたら、里に連れ戻されてしまう。それが怖いからだ。だから私は、彼女に眼帯を買うことにした。顔を一生隠し続けることなんて、仮面でも着けない限り絶対にできないから。
「どう?」
「う、えと……ちょっと、恥ずかしい、かな……」
そう言いながらジェミニちゃんは、また顔を隠すようにフードを被った。
ああ、折角可愛い顔なのに……。
「そっか。お揃いは流石にあれだったかな。……お。ジェミニちゃん、これ着けてみて。絶対似合うと思うから」
ふと目に付いた緑色の眼帯を、ジェミニちゃんに渡す。これなら、さっきのよりはいい感じがする。
「これ、どうかな。左目の色と一緒」
「あ、うん……」
彼女はそれまで試しに着けていた黒色の眼帯を外して、私が選んだ緑色の眼帯を着けた。
「……どう?」
「あ……なんか、えっと……」
感想を尋ねるが、ジェミニちゃんは口をもごもごして、中々感想を言ってくれなかった。黒色を着けた時とは全然違う反応だ。
……もしかして、気に入ってくれた?
「い、いいと、思う」
彼女は、小さな声で私に言った。それを聞いて、私はとても嬉しくなった。
「そっか。じゃあ、それも買っちゃおうか」
「うん……」
そうして私は、計五十セル以上の買い物をした。おかげで荷物が大変なことになったが、ジェミニちゃんが笑顔になってくれたので、大満足だった。
買い物を終えた私達は、熱々の温泉饅頭を片手に、いつかも来た足湯に浸かっていた。買い物の際に興奮して色々な場所を巡ったので、いつも以上に足はクタクタだ。歩き疲れた後の足湯は、とても心地が良かった。
「ふぅー。温泉もいいけど、足湯もお手軽でいいよねー」
「うん。そうだね」
この時間はちょうど人が少なくて、今ここにいるのは私とジェミニちゃんの二人だけだ。この間はもう少し人がいたような気がするのだが、日によって違うのだろうか。
お饅頭をかじりながら、そんなことを考える。なんだかお茶が欲しくなってきた。
「……ねぇ、エルフの里って、どんなとこ?」
荷物を下ろして体が落ち着いてきたので、私は以前から気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
するとジェミニちゃんは、ふんっ、と鼻を鳴らして、
「つまんない所よ。何もないし。里って言っても、ただ森の中に建物があるだけ。文化的な生活をしているとも言えないわ」
「え、そ、そうなんだ……」
酷い言い様だ。自分の生まれ故郷なのに。まあ、彼女が里のことをあまりよく思っていないのは知っているので、それも仕方ないのかもしれないが。
「文化的じゃないって、どういうこと?」
「非効率的なのよ、色々と。きっと他の種族のほうが、豊かな生活をしているわ。まあ、その分魔法でなんとかしているのだろうけど。わかりやすいのは、畑かしら。里にも畑はあるけど、ちょっとだけ。服を作るために使う麻の畑があるくらい。食べ物はほとんど自分達で採ってこないといけないの。動物を狩ったりすることもしないから、肉なんて食べない。水も、魔法か雨水か川の水を使うし。外部とのやり取りなんて酷いのよ。何年かに一回、アドレが一人来るだけなの」
「え、そうなんだ……あ、じゃあ、師匠と知り合ったのも、それで?」
「そうよ。アドレのおかげで、私は成長することができたの。だから私は、ここにいるのよ」
そう言ってジェミニちゃんは、食べかけの温泉饅頭を見つめた。里での生活を思い出しているのだろうか。それとも、里を出てから今に至るまでの、辛い日々のことを思い出しているのだろうか。
エルフの里の話を聞いた私は、野性的という印象を抱いていた。
うーん、思ったよりも質素な生活だ。自給自足とはこういうことを言うのだろう。
「まあ、なんていうか、全部のエルフがそんな所にいるわけじゃないのよ。あの里がわざとそういう生活をしているだけ。異常なくらい外部との接触を避けているのも、妖精様とかいうのを信仰しているのが原因」
「妖精様?」
この言葉も、ジェミニちゃんから何度か聞いたことがある。自分の里を罵る時に、決まって言う言葉だ。
「ええ。その、レイラちゃんは、エルフがどうやって生まれたのか、知っているかしら? 有名なお伽話になっているのだけれど……」
「あ、うん。聞いたことあるよ。あれだよね。妖精と人間が結婚して、生まれたのがエルフだ、ってやつ」
大分前に、フェニさんから聞いた話だ。その話を聞いたのも、もう四ヶ月以上前。ああ、懐かしいな。アケル。私はまた、あの町に行くことができるのかな……。
「そう、それ。その、妖精と人間との間に生まれた最初のエルフが、その妖精様」
「へぇ、そうなんだ。あの話のエルフが……妖精、様?」
あれ? 私今、なんか変なこと言ったような気がする。ちょっと待て。頭の中を一回整理しよう。
人間がいて、妖精がいる。妖精が恋して、二人は結婚する。間に子供が生まれる。その子供がエルフ、イコール、妖精様。……は?
……妖精じゃないじゃん。
「妖精じゃないじゃん!」
私は、思わず叫んでいた。そんな私の反応に、ジェミニちゃんが吹き出す。
「……ぷっ、ふふ。面白い反応するのね、レイラちゃん」
「だって! 妖精じゃないじゃん! エルフじゃん。しかも、お伽話の中の人だよ? そのお話が本当なのかわからないのに、どうして信じられるの?」
「だって、本人がそう言うんだもの」
「ほ、本人?」
また、驚かされた。本人、ということは、その妖精様は、世界で最初のエルフは、実在するのか?
「ええ、本人」
ジェミニちゃんは、当然のように繰り返す。口の端に小豆色の餡子が付いていた。
「里の近くに、その妖精様の宿る大きな木があってね。そこに、あの人はいるの」
ふと、彼女の話す景色が頭に浮かんだ。
森の奥、深い緑に覆われたある場所に、とても大きな木が一本、生えている。人工物の一切ない、神聖とさえ思える場所。その太い幹の一部が、人の体のような形になっていて、そこに、お伽話に出てくる世界で最初のエルフがいる。樹木と一体になった彼女は、その場所から動くこともせずに、ただじっと、祈るように手を合わせている……。
そんな光景。
……あれ。私、どうしてこんなにはっきり、大樹の光景が……?
私がそんなことを考えている間も、ジェミニちゃんの話は続いていた。
「私、妖精様を否定してるわけじゃないの。私が言いたいのは、聖女っていうしきたりが、明らかにおかしいってこと。あの森は別に、何に脅かされているわけでもない。外で戦争が起こっているわけでもない。それなのにどうして、体の一部を差し出してまで、森を結界で覆わないといけないのかっていう……」
そこまで言うと、彼女はハッとして口を押えた。まるで、何か話してはならなかった重大な秘密を、つい口を滑らせて喋ってしまったかのような反応だ。
少し心配になって、私はジェミニちゃんの顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「なんでもない。……この話、他の人には話さないでね?」
「え? まあ、いいけど……」
私は、何となく察した。ジェミニちゃんは私の肩を掴んで、何度も何度も念を押してくる。
「アドレにも、話したら駄目。カイも駄目。竜の魔女にも、絶対に駄目よ。わかった?」
「わ、わかったよ。ジェミニちゃんがそこまで言うなら……」
絶対に言わない。そう心に誓う。ジェミニちゃんとの約束だ。破るなんてあり得ない。
何度も頷くと、彼女はようやく私を開放して、
「……まあ、何が言いたいのかっていうとね。必要性がわからないの。大樹に宿る妖精様と、当の聖女様以外、誰にもね」
そう言って彼女は、この話を締めくくった。
必要性がわからない、か。ジェミニちゃんも、色々考えたんだろうな。本当は里を出たくなかったって言うし。でも、きっとその人達は教えてくれなかったんだ。だから彼女は、こうして里を飛び出してきた。聖女という役割に納得できなくて。
……それにしても、妖精様に、聖女様、か。私もエルフだから、部外者とは言えないのだろう。一度、会ってみたいな。その妖精様とやらに。世界で最初のエルフなら、私のこと、知っているかもしれない。
そんな希望を抱きながら、私はお湯の中にある自分の足を見つめた。それから、お饅頭を食べ終わった私が、帰ろっか、と言い出すまで、ジェミニちゃんとの間に会話はなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
宿に帰ると、師匠とカイは既に戻っていた。
「お、帰って来たな。……なんかでかいの持ってるな」
真っ先に目に付いたのだろう。師匠に早速、弓のことを尋ねられた。
「あ、これ……レイラちゃんが買ってくれたの」
そう言いながらジェミニちゃんは、弓を背中から下ろして、大事そうに胸に抱えた。
ああ、しまった。今のこの感じ、弓じゃなくてぬいぐるみだったら最高だったのに……! なんでもいいから、ぬいぐるみも買っておけばよかった。
「レイラが? って、他に金を出す奴もいないか。それで、今日は二人でどこ行ってきたんだ?」
頭の中に閃くものがあったが、時は既に遅い。ジェミニちゃんにぬいぐるみを抱かせるのは諦め、私は師匠に、今日あったことをかいつまんで話した。
「色々です。買い物したり、ご飯食べたり。足湯行ったり。ね、楽しかったよね?」
「うん。楽しかった。……ありがとう。レイラちゃん。色々、買ってくれて」
「いいっていいって」
そう言いながら私達は、大小様々な紙袋を、どっさりとベッドの上に広げた。これが、今日の戦果だ。自分でも引くほど多い。ちょっと、買いすぎたかもしれない。
「おいおい、また随分な荷物だな。全部、ジェミニのか?」
その気持ちは、師匠も同じだったのだろう。彼は、まるで体に悪い食べ物を見るような目で、私達の戦果を眺めていた。
「そうです。鞄と、着替えもありますよ。後、ナイフとかー、砥石とかー、小物とか。眼帯も、買ったもんねー」
「ねー」
買ってきた眼帯を顔に着けたジェミニちゃんは、私を見てにっこりと笑った。こうやって買った物を眺めているだけでも楽しい。財布はほとんど空っぽだけど、それだけの価値はあった。なぜなら、必要ない物は買っていないから。ここにある物は全部、今のジェミニちゃんに必要な物だ。
「ほお、弓だけじゃなく、ナイフも買ったのか。水筒まであるとはな。こんな用意周到に。これじゃあ、まるで――」
何かを言いかけた師匠と、目が合った。その時、何かに気付いたかのように、彼の言葉が止まる。私は、知っていますよという気持ちを込めて、微笑んだ。それを見て、師匠も少し、表情を和らげる。そして彼は、ジェミニちゃんに視線を向けた。
「……まるで、今日にもいなくなっちまうみたいじゃねえか」
荷物を整理していたジェミニちゃんの手が、止まった。
彼女も、わかっていたのだろう。これが、そのための準備であることを。
私はジェミニちゃんの手を取って、あえて明るい口調で言った。
「……さあ。色々片付けたら、晩ご飯、食べに行こ? 私、お腹空いてきちゃった」
こんな言葉程度では、彼女の心を誤魔化すことはできないとわかっている。でも、もう少しだけ、一緒にいるとはできる。いつかその日が来るとわかっていても、今この瞬間を楽しむことは、別に悪いことじゃない。
私はできる限りニコニコして、今日がジェミニちゃんにとってとても良い日になるよう、頑張った。沢山笑って、沢山話した。友達の心を癒すために。
その日の夜、ジェミニちゃんはベッドの中で、ずっと私の腕を掴んでいた。




