第一話 妖精の目覚め
目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。
「ぅ、ん……?」
不思議な木目の描かれた天井。穏やかに揺れるレースのカーテン。窓の外から入ってくるかすかな波の音と、温かい太陽の光。棚の上に置かれた花瓶には、名前も知らない一輪の白い花が生けられ、無意識のうちに吸い込んでいた空気は、どことなく潮の香りがする。
「ここ、は……」
誰かの部屋、だろうか。でも、俺はどうして……?
体に掛けられていた毛布を跳ね除けて、ゆっくりと起き上がる。
どうやらここは寝室のようだ。けれど、人の姿は見当たらない。馴染みのない部屋の中にあるのは、クローゼット、タンス、それから、俺が寝ていた物も含めてベッドが二つ。隣のベッドはなぜかシーツと毛布が乱れているが、持ち主の寝相が悪いのだろうか。枕も床の上に放り出されており、これでは誰かに踏まれても文句は言えないだろう。
そして、そのベッドの向こう、窓とは反対側の壁に、一つの扉があった。室内をひと通り見回した限りでは、部屋の出入り口はあそこだけのようだ。
「俺、どうして、ここに……」
わからない。どうして自分がここにいるのか、ここがいったいどこなのか。こんな所で眠った記憶はないんだが……そもそも、ここは誰の部屋なんだろう。
多くの疑問が頭の中を駆け巡る。見覚えのない光景に頭を抱えて――その手の平から伝わってきた感触に、思考が止まった。
……あれ。
サラサラとした、心地の良い手触り。それはほんの些細なことだが、いつもと何かが違う。
違和感の正体、頭から垂れ下がる長い物を摘んで、よく見えるよう目の前に持ってくる。外からの光を受けて、腰まで届きそうなほど長く伸びた銀の髪がキラリと輝く。
手の平から流れ落ちるその髪先に従って、ゆっくりと視線を落とす。そうして目に入ってきたのは、ワンピースのような薄手の服を身に着けた華奢な体で――。
「あ……」
自分の物とは思えない肉体が、自分の意志に従って動いているのを、俺は確かに見た。
細い指。白く滑らかな肌。膨らんだ胸に、小さなか弱い四肢。白銀に輝く長い髪。驚きの声は女の子のように高い。そして、長く尖った両の耳が、髪をかき分けて飛び出している。
そう、か。あれは、夢じゃなかったのか……。
はぁ、と小さな口から溜息が漏れる。そうだった。寝起きの混乱で忘れていたが、これが今の俺――いや、今の私の姿だった。
「……全部、悪い夢だったら、よかったのにな……」
……どうして、こんなことになっているんだろう。寝ても覚めても変わらぬ現実に観念して、窓の外に視線を投げる。
その時。何の前触れもなく扉が開いた。
「え、あ……?」
「あーはいはい、わかったわかった。もういいだろ? いい加減信用してくれって」
「はあ? あんたのことなんか、いったい誰が信用できるっていうの?」
弾かれたように振り返る。するとそこには、背の高い屈強そうな男性と、その男性をキッと睨み付けている髪の長い女性。何事か話しながら入ってきた二人は、こちらの視線に気が付いた瞬間、はたと動きを止めた。
「あのなぁ……ん?」
「あら?」
ばっちりと、目が合ってしまった。しばらくの沈黙。声を掛けようにも、驚きと緊張で口が動かない。
「あ、え……」
「おお! 起きたのか!」
「目が覚めたのね! よかった……」
……え?
急に顔を綻ばせ、ほぼ同時に声を上げた二人。そして、
「ふいー、よかった。あんまりにも目を覚まさないもんだから、もう二度と目覚めないんじゃないかと思ったぜ」
日に焼けた顔に安堵の色を浮かべて、男性は隣のベッドに深く腰を下ろした。
「あ、はぁ……?」
二度と目を覚まさない、って、どういう……それより、この人は、誰だ?
初めて見た自分以外の人間は、なんだか一風変わった格好をしていた。
かすかに赤色がかった髪の毛に、無精髭の目立つ彫りの深い顔。年は三十代くらいだろうか。所々擦り切れた服を着て、背中には刃の広い大きな剣。見ているだけでも重そうなそれを、男性は軽々と持ち上げて、ベッドの縁に立て掛けた。
……この人はどうして、剣なんて物騒な物を持っているのだろう。
よくわからない状況に戸惑って、俺はただ首を傾げることしかできない。
「もう、心配したのよ? 夜中にいきなり運び込まれて来るんだから」
窓の側に立った女性が言った。俺と目線を合わせるようにして優しく尋ねてきた彼女は、ゆったりとした服の上に、使い古されたエプロンを身に着けていた。背中で緩く纏められた金色の髪の毛をかきわけて、人間ではあり得ないほど長い耳が覗いている。
あ、この人……俺と同じ、長い耳だ。いったい、この耳はどうして……。
「大丈夫? 怪我とか、痛いところとかはない?」
耳の長い女性に突然尋ねられて、考え事をしていた俺は、咄嗟に適当なことを口走った。
「……え? あ、えっと、はい……」
口に出してから思った。つい反射的にそう言ってしまったが、本当に大丈夫なのだろうか。
改めて、自分の体を確認してみる。けれど、体にこれといった異常は――この体そのものが異常と言ってもいいのだが――何もなかった。痛むところもないし、手も足も、全部思い通りに動かせる。強いて言うならば、服に袖がないので少し肌寒いくらいだろうか。
「そう。よかったわ」
私の返答を聞いた女性はホッと息を吐き、もう一度よかったと繰り返す。
……どうして彼女は、俺のことをそこまで心配していたのだろう。この人は、この人達は、いったい何者なんだ。それに、この場所はいったい……。
「……あ、あの」
自分一人で考えているだけでは何もわからない。増え続けるこの大量の疑問をどうにかしようと、恐る恐る口を開く。
「ん? どうした?」
俺の声に、男性が反応する。彼の方を見ながら、俺は言葉を続けた。
「ここは……いったい、どこなんですか? それに、あなた達は、その……誰、なんですか?」
会ったばかりの人に話しかける。たったそれだけのことなのに、口から出てきた自分の言葉は、なぜか少し震えていた。
そんな俺の問いかけに、男性は頭を掻きながら、
「あー、すまん。こっちのこと、まだ何も言ってなかったな。ここはアケルっていう港町だ。でもって、俺はアドレ。アドレ・マッドルカ。ただの旅人だよ」
「アドレ……」
……聞いたことのない名前だ。アケルという町の名前にも聞き覚えはない。
「それでこっちが……」
アドレと名乗った男性が女性を示して、
「フェニよ。フェニ・シーリング。この宿を経営しているの」
こちらもまた、知らない名前だった。二人とも、あまり馴染みのない名前をしている、気がする。どこの国の人なのだろう。それから、フェニという女性が言ったことにも、気になることが一つ。
「宿を、経営……?」
「ええ。まあ、経営って言っても、娘と二人で細々やってるだけなんだけどね。ちょっと大袈裟な言葉だったかも」
そう肩を竦める耳の長い女性――フェニさんは顔の前で手をひらひら振って、謙遜するようにそう付け足す。
「そう、ですか……」
よくわからないが、とにかく、この部屋の持ち主はこの人みたいだ。一つ納得した俺は、続けて質問する。
「それで、その……どうして俺――あ、いや、私は、ここに?」
無意識のうちに男性的な一人称を口走りかけて、咄嗟に言い直す。自分の現状を忘れたわけではないが、なぜか口に出たのはその一人称だった。
……これから自分で自分のことを言う時は、『私』としたほうが良いだろう。今の私は、誰がどう見ても女の子なのだから。そのほうが、違和感がない。
「……ん? ああ、それなら――」
私の言葉に一瞬眉根を寄せたアドレさんの言葉を、横からフェニさんが遮る。
「昨日の夜遅くに、こいつがあなたを運んで来たのよ。海で拾ったって言ってね」
唇を尖らせた彼女の口調は、いかにも不機嫌そうだった。
……海で、拾った? 聞き間違いだろうか。言葉の意味がよくわからない。
「えっと……それはその、いったいどういう……?」
「ああ、すまん。こいつの言い方が悪かったな。それは――」
アドレさんが仕切り直した時、部屋の扉が何者かによって開かれ、彼の言葉は再び遮られてしまった。
「……師匠、いるか」
入って来たのは黒髪の青年だった。アドレさんやフェニさんよりも明らかに若い。青年の腰には、綺麗な鞘に収まった一振りの剣。アドレさんの背負う大きな剣よりは格段に軽そうだが、私の細腕では、どちらも持てるかどうかも怪しい。
「ん……」
「……ん?」
そんなことを考えていると、室内に一歩踏み込んだ青年と目が合った。その途端、はたと動きを止め……そしてなぜか、一瞬もしないうちに視線を逸らされた。
え……な、なんで……。
「ああ、お前か。ちょうどよかった。こっち来てくれ」
アドレさんに手招きされて、青年は渋々こちらに近付いてくる。その表情は、少し固い。
「こいつはカイ。俺の弟子だ。なんか今日は機嫌悪いみたいだが、結構良い奴なんだぞ」
「……カイ・アルダーセル」
簡単に名前だけを告げた青年は、それきり私の方に顔も向けず、部屋の壁に背を預けた。そのぶっきらぼうな態度が、少し怖い。もしかして、私の知らない間に、何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
「それで、カイ。今ちょうど、こいつを見つけた時の話をしてたんだ。お前のほうからも詳しく話してくれないか」
「……話すも何も、師匠が勝手に突っ走って行っただけだろう」
突き放すような物言い。師匠と呼んではいるが、アドレさんへの敬意は薄いのかもしれない。
「……大雨の中、海辺に人が倒れているのを見つけたお人好しが、わざわざ助けてここまで運んできた。それだけのことだ」
呆れたようなカイさんの言葉に、フェニさんが吹き出す。
「ははっ、お人好しだって。あんた、弟子に馬鹿にされてるわよ?」
「うるせえ、フェニ。ったく、お前はもうちょっと言葉を選んで話せねえのか」
「……事実だ」
アドレさんの口調が悪くなり、三人の間で口論が始まってしまった。徐々に大きくなる彼らの声が頭に響き、思わず顔をしかめる。こんな目の前で争われるなんて嫌だ。見ていられない。
だから、これ以上争いが白熱しないうちに、私は三人の言葉を遮るようにして質問した。
「あ、あの! さっき、海がどうとか、って……」
私の大きめの声に気付いたアドレさんは、一旦口を閉じてこちら顔を向ける。
「む……ああ、話の途中だったな。いったい何があったのかは知らねえが、お前、浜に打ち上げられてたんだよ。あの嵐の中、お前をここまで運ぶのは大変だったんだぞ? 雷まで鳴ってたし。あ、別にお前を責めてるわけじゃないからな。悪いのは天気だ」
「そうね、確かに昨日の雨は酷かったわ。雷もそうだけど、海は大荒れで波は高いわ、船が何隻か壊れるわで大惨事だったのよ。まったく勘弁して欲しいわね、この時期に嵐なんて」
そう言って、フェニさんは大きな溜息を吐いた。彼女の口ぶりからして、昨夜は相当大変だったようだ。きっと疲れているのだろう。
それにしても、嵐に雷、か……ううん、まったく記憶にない。どういうことなのだろう。
「とりあえず、お前がここにいる経緯はそんなとこだ」
「あ……そう、ですか。ありがとうございます。その、助けて頂いたみたいで……」
色々と理解できなかった話も多いが、一つだけ。私が今も生きているのは、この人達のおかげだということがわかった。
半分横になったままで申し訳ないが、背筋を伸ばして頭を下げる。命を救われたのだ。感謝してもしきれない。
「いいって、これくらい。頭下げられるようなことでもない。それで……」
アドレさんはそこで一旦言葉を区切り、改めてこちらに向き直った。
「俺達のことは話したから、お前のことも、教えてくれないか」
「え? あ、それは、えっと……」
琥珀色の真摯な瞳に問われて、私はつい、視線を逸らしてしまった。
命を救ってくれた彼らが、助けた私のことを知りたいと思うのは当然だ。だが……本当に、話してしまっていいのだろうか。こんな突拍子もない、現実離れした話をしても、この人達は信じてくれるのだろうか。
頭に浮かんだ不安に、私は半分開きかけた口を閉じてしまった。
「あー、えっと、言いたくないことがあるのなら、無理にとは言わないわ」
中々話し出せない私に、フェニさんは優しくそう言ってくれる。
「い、いえ、そういう訳では、ないんです……」
彼女の言葉に甘えたい自分を抑えて、首を横に振る。言いたくない、というよりも、話したくても話せない、と言ったほうが正しい。でも、できる限りのことを話さないと何も始まらない。そんな気もする。信じてもらえなかった時のことが怖いけれど……俺も、私もこの人達の好意に応えないといけない。
迷う心を落ち着かせるため、深呼吸を一つ。こちらに注目した三人の反応を確かめながら、私はおずおずと話し始めた。
「ええと、ですね。私が覚えているのは……森。森の中の、ことです」
それは、まだ記憶にも新しい、つい昨日のことだった。
◇ ◇ ◇ ◇
最初に感じたのは、自分が今、ここにいるという自意識だった。
胸の中で、ドクン、ドクンと心臓が脈打っている。その力強い鼓動に紛れて、静かな呼吸音が聞こえる。それは、生きていることの何よりの証。自分は今、確かに生きて、ここにいる。
途切れることのない心地良いリズムに身を任せていると、そのうち、また別の感覚を意識した。
頬に当たる柔らかい地面。鼻孔を塞ぐ土の香り。瞼の向こうに感じる明るさ。曖昧だった体の存在が、徐々にはっきりとしてくる。試しに指を動かしてみると、カサ、と爪の先が地面に食い込んだ。呼吸の間隔がわずかに乱れる。
――それが、目覚めのきっかけだった。
「ぅ、ん……」
爽やかな風声に誘われて薄く目を開けると、突然の眩しさが網膜を刺激する。一瞬真っ白になる視界。何も見えない。
軽く瞬きを繰り返しながら、重たい体をゆっくりと起こす。
そして、明るさに目が慣れ、徐々に見えてきた視界には――見知らぬ世界が、広がっていた。
「あ……え?」
無秩序に立ち並ぶ背の高い木々。一面を覆う緑の絨毯。頭上を覆う枝葉の天井が、吹き込むそよ風に合わせて静かに波打つ。その隙間から降り注ぐ光の筋に照らされて、目に見える物すべてが輝いて見えた。
「ここは……どこ、だ?」
自然と口に出ていた呟きをかき消すように、風の音が頭の中を通り抜けて行く。揺れる木の葉の奏でる美しい旋律。爽やかで、清々しい。
森、という言葉が脳裏に浮かび、ああそうか、と納得する。確かにここは、その言葉がぴったりの場所だ。でも、どうして俺は森なんかにいるのだろう。
その疑問に答えてくれる人はいないかと、ざっと周囲を見渡してみる。だがどこを見ても、あるのは樹木ばかりだった。他に人の気配はなく、辺りは新鮮な空気で満たされている。俺がいるのは、そんな深い森の中でもちょうど木が生えていない、少し開けた場所のようだ。
疑問は深まるばかりだった。まったく見覚えのないこの森はいったいどこなのか。そして、自分はなぜここにいるのか。いくら考えても答えは出ない。もしかして、ここは夢の世界なのだろうか。けれど、それにしては妙にリアルだ。この手についた土の感触も、においも、何もかも。
「俺は、どうして……」
わからない。……そういえば、俺は眠りにつく前、何をしていたのだったか。
それも、わからない。どこで眠ったのかも思い出せない。ただわかるのは、ここが今までいた場所とは違う、という漠然とした感覚だけ。
他に何か手掛かりはないかと、今度は自分の持ち物を確認することにした。そうして見下ろした自分の体に、俺はなぜか、よくわからない違和感のようなものを抱いた。
「あれ……」
本当にこれが、自分の体なのだろうか、と。
一番上に着ていたのは、少しサイズの大きな、深紫色で丈の長い上着。その中に着ているワイシャツの首元には、黒色のネクタイが巻かれ、その四角い先端が、膨らみのある胸元に垂れ下がっている。腰を覆う赤いチェック模様のスカート。そこから伸びているのは、太ももまである黒の長靴下と、茶色のロングブーツを履いた二本の細い足で……。
「これ、は……?」
この服装にも、見覚えはなかった。
釈然としない思いを抱えながら、広げた自分の両手を見つめる。五本の細い指と、土で汚れた小さな手の平。視界の端に垂れ下がる白銀の髪の毛は、上着の中に入ってしまうほど長い。額にかかる前髪に触れてみると、髪の毛は手の平にサラサラした感触を残して、流れるように零れ落ちた。
やはり何かがおかしい。何なんだろう、この全身の違和感は。
正体のはっきりしないもどかしさに、俺は首を捻る。
――不意に、周りが静かになった。森を包み込む静寂。さっきまではあんなに騒がしかった風の音も、何も聞こえない。そんな中で、体の中に響く自分の鼓動を聞き取ると、これまでは感じなかった不安が押し寄せてきた。
見たことも聞いたこともない場所に、たった一人。今までは特に気にならなかったこの状況が、なぜだか怖くて、寂しくて。その孤独感を紛らわせようと、もう一度周囲に視線を巡らせる。誰か、たまたま通りかかっただけでもいいから、人に会いたい。どうしてこうなっているのかを聞きたい。
けれどもやはり人の姿はなく、誰かが通った跡もない。音の消えたこの森は、俺が動き出すのを静かに待っているかのようだった。
……とりあえず、移動、してみよう。このままでは埒が明かない。
立ち上がって、服に付いていた土汚れを払う。それから俺は運に任せて、適当に目の付いた方向へと一歩踏み出した。
森の中を実際に歩いてみると、ここは俺が予想していた以上に、生き物の声で満たされていることに気付いた。風の音がなければ本当に静かな場所だけど、それだけが自然じゃない。姿の見えない鳥達の鳴き声。木々に住み着く虫達の気配。風もないのに草木が揺れたかと思えば、小さな毛むくじゃらの何かが通り過ぎるところだったりする。
とても綺麗な場所だな、と思った。これまで見たことがないくらい緑で満ち溢れていて、これまで感じたことがないくらい、空気が美味しい。ここにいる理由はどうあれ、この場所自体は嫌いじゃない。むしろ、段々好きになってきていた。
そんなことを思いながら、穏やかな雰囲気に包まれた森を歩いていると、
「ん……?」
どこからか、かすかに水の流れる音が聞こえた。これまで耳にしていたどれとも違う、涼しげな音色。近くに川でもあるのだろうかと足を止めたが、ここからそれらしき物は見当たらない。でも、聞き間違いではなかった。今も聞こえている。
この音は、いったいどこから聞こえてくるのだろう?
気になった俺はさらに足を進めた。水辺なら誰かに会えるかもしれない。
それから思ったよりも長い時間歩き続けて、俺は草木のない場所に出た。そこには音から想像していた通り、小さな川が流れていた。
森を切り裂く細い河川。周囲には角の取れた石がゴロゴロ転がっており、その両側を囲む木々がまるで壁のようにも見える。水面の反射が目に眩しい。小川の所々にはちょっとした段差があり、俺はそこから水が流れ落ちる音を聞いていたようだ。
「……凄いな」
それは、自分が大自然の中にいることを改めて感じさせるような光景だった。
ゆっくりと川に近付いて、その側にしゃがみ込む。水に指先を浸してみると、冷たい。そして、底が見えるほど透き通っている。
……なんか、凄い。こんなに清らかな川を見たのは初めてだ。
そうして自然の良さに感動していた時だった。静かに揺らめく水鏡に、少し変わった少女の顔を見たのは。
「え……だ、誰、だ?」
ゆらゆらと形を変えながら、驚愕の表情を浮かべている女の子。自分の服装と同じく、この女の子に見覚えはない。それよりもまず目を引いたのは、その特異な容貌だった。
まだ幼さの残る顔に、異彩を放つ二色の瞳。血を連想させる深紅の左目と、空よりも深い瑠璃色の右目。そして、長く垂れた髪の毛の束からは、人間ではあり得ないほど長い耳がぴんと飛び出ている。
恐る恐る顔に手を伸ばすと、水面に映った頬に指が触れた。次いで目元、耳……と、わざわざそんなことをしなくても、彼女の正体には薄々気が付いていた。
「嘘、だろ。これが……これが、俺?」
口の動きも、瞬きのタイミングもまったく同じ。声や体の印象とも一致する。つまり、ここにあるのは他でもない、俺自身の顔ということ。
いや、でも、そんなはずはない。なぜなら俺は、こんな可愛らしい女の子じゃなくて、女なんかじゃ、なくて――。
「……あ、れ」
そこまで考えたところで、俺はまた妙な感覚を抱いた。頭に浮かんだイメージが急激に霞む。それを表現する言葉が喉元まで来ているのに、そこから先が出てこない。思考が混乱する。水の中の少女が頭を抱える。
「俺は……俺はいったい、誰、なんだ」
自分の顔が、思い出せない。
顔だけではなく、名前も家の場所も、家族のことも、これまでどこでどうやって生きてきたのかも、まったくわからない。
「そんな、なんで……」
自分のことを、俺は覚えていない? まさか、そんなはずはない。これは何かの間違いだ。
けれど、どれだけ頭を巡らせても、その答えが出ることはなかった。俺の記憶は、文字通り空っぽだった。
震える腕で肩を抱く。怖かった。何も思い出せないことが、自分が誰なのかわからないことが。こんな時、誰かにこの気持ちを打ち明けることができたなら、少しは気も紛れたかもしれない。でも、ここは人っ子一人いない森の奥深く。俺の胸の内を受け止めてくれるような優しい人は、どこにも存在しない。
また、心に暗い感情が押し寄せてきた。たった一人世界から切り離されているだけでも辛いのに、頭の中は空白だらけで、唯一頼りになるはずだった自分ですら、信用することができない。
グッと奥歯を噛み締めて、溢れ出しそうな衝動を堪える。こんな所でくよくよしても、状況は何も変わらない。一度気分を入れ替えようと、両手いっぱいに水をすくい、自分の顔面にぶつける。一回、二回。最後に、濡れた顔を袖で拭うと、少しは頭が冷えた気がした。
……諦めないで、また移動しよう。どこか人のいる場所に行けば、こんな些細な問題はすぐに解決する。だから、今はとにかく前に進むんだ。
それだけを考えて、俺は川の流れに沿って歩き出した。
それから、日が傾いて空がオレンジ色に染まり、さらに太陽が木々の向こうへと沈んでも、この深い森から抜け出すことは叶わなかった。
かなりの距離を歩いてきたせいで、もうどれだけ進んだのかわからなくなってしまった。しかし結局、人には出会えていない。それどころか、動物に巡り合うことすらなかった。道標である川の幅は徐々に広くなり、最初は歩いて三歩ほどだったのにも関わらず、今では十歩以上かかりそうだ。それに応じて、深さもそれなりにあるだろう。
頭上を見上げれば、雲の切れ間から満天の星空が覗いている。数え切れないほど瞬く小さな星々は、言葉では表せないほど綺麗だった。耳を澄まさずとも、世界の至る所から鳥や虫の鳴き声が響いてくる。その姿が見えないのが不思議でたまらない。
そして、世界に夜の帳が下りてからも、俺の目は周囲の様子を捉えることができていた。明るかった時と比べると少し見えにくいが、それでも物の輪郭や色彩がはっきりわかる。星が明るいわけでもないのに、見えすぎて逆に怖いくらいだ。この現象が色の異なる瞳と何か関係あるのかは、まったくもってわからない。時間が経てば経つほど、謎は深まるばかりだった。
「……はぁ」
いったい、どこまで進んでいけばいいのだろう。起きてからずっと歩き詰めのせいで足が痛い。それに、そろそろお腹も空いてきた……。
グウグウと空腹を訴えてくる腹の虫。目が覚めてから何も食べていないので、生き物としては当然の反応だ。時折休憩を挟んでいるが、補給できるのは川の水だけ。木の実などの食べ物を探してみる、という手もあったが、暗くなってから森に入るのは流石に気が引けた。
相変わらず何も思い出せないが、夜の森は危ない印象がある。それに加えて、食べられる物と食べられない物、もしくは食べたら危ない物の区別がつかないこの状況では、目に付いたものに触れることにも抵抗があった。
そうは言っても、何かを食べなければ生きることはできない。このままでは、人のいる場所を見つける前に倒れてしまう。こちらも早く何とかしなければ。
「はぁ……ん?」
あれから何も好転しない状況に溜息を漏らして、前方に視線を戻した時、俺は一つの変化に気付いた。
緩やかに蛇行した川の先、並び立つ木々の向こうから、青白い光が漏れている。
……なんだろう、あれは。
淡く、幻のようにも見える光に首を傾げる。太陽は既に沈み、この辺りで光る物と言えば、空に輝くお星様くらい。でも、石よりも小さな星がここまで光ることはないし、何よりここは森の中だ。誰かが持ち込まない限り、こんな所に光を放つ物なんて……。
「あ……まさか」
もしかして、あそこに人が?
そう思うと、俺は居ても立っても居られなかった。期待に胸が高鳴る。疲れて動きの鈍くなっていた脚に力がみなぎり、歩くペースが目に見えて上がる。転がる石に足を取られないよう気を付けながら、足早に先を急ぐ。
いつの間にか俺は、はやる気持ちに身を任せて駆け出していた。進めば進むほど光は強くなり、道の先からはこれまで聞いたこともない大きな音が響いてくる。疑問に思うが、足は止まらない。それでいい。あの場所に、きっとその答えがある。
そして、後少しで川の先が見えるというところで、突然目の前が白く染まった。反射的に手で顔を庇い、目をギュッと瞑る。乱れた呼吸を整えつつ瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、まさしく目を疑うような光景だった。
「これは……!」
そこは高い崖の上だった。すぐ傍を走っていた川は大きな滝へと姿を変え、地面を離れた水が勢いよく流れ落ちている。うっかり足を踏み外してしまったら、ただでは済まないほどの落差だ。
俺をここまで導いたせせらぎの終着点は、眼下に広がる広大な滝壺だった。水平線の彼方まで、どこまでも続く大海原。右手には白い浜辺となだらかな草原が広がり、緩い弧を描いた地面の線が、世界の壮大さを表している。
そして、薄く伸びた雲の切れ間から、仄かな白光を放つ巨大な月が顔を覗かせていた。
「す……凄い」
その圧倒的な迫力に、思わず息をのむ。
星が瞬く夜空の、四分の一ほどを覆う白い月。ぼんやりと光るその姿はまるで、暗黒の世界に浮かび上がる夜の太陽だ。海から半分ほどしか見えていないのに、これまで目にした何よりも雄大で、何よりも美しい。
海面を不規則に揺らす波に、月の光がキラキラと反射する。海と陸とを切り分ける砂浜の奥には、少し出っ張った部分があった。その先端部分には、白亜の灯台が建っている。海に出る人々の道標も、あの月の前では道を示す必要もないだろう。
そして、灯台のある場所から陸地にかけて、いくつもの四角い光が群れをなしていた。星や月とは違う、人工的な明るさ。その周囲に浮かび上がる、数え切れないほど沢山の建物……間違いない。ずっと探していた人のいる場所。町だ。
やっと、やっと見つけた……!
これでようやく人に会える。この孤独から解放される。その喜びと安心感から、ホッと息を吐く。これまでの疲れがどっと押し寄せて、何だか力が抜けてくる。立っているのも辛い。もう足がパンパンだ。でも、歩き続けてきてよかった。途中で諦めなくてよかった。そして何より、この絶景を見ることができて、本当によかった。
ここが切り立った断崖だということも忘れて、俺はもう一歩踏み出した。冷たい水飛沫が体を濡らすが、そんなことも気にならない。それほどまでに、俺はこの神秘的な光景に魅せられていた。
まだ、どうやってここから降りたらいいのかとか、その前に今日の夜をどこで越せばいいのかとか、色々と考えるべき問題はたくさんあるけれど……今はまだ、この景色に心を奪われていてもいいかな、と思った。
そうして、今まで張り詰めていた緊張の糸が解けた時だ。何の前触れもなく、背後でガサガサと草の揺れる音がした。
「え……?」
唐突に現れた生き物の気配に戸惑い、反応が遅れる。そのたった数秒の迷いが、致命的な過ちだった。
「にゃ~」
にゃあ、って、いきなりなん――。
聞き覚えのある可愛らしい鳴き声。その主である小さな何かが、背中にぶつかってくる。
それは普段なら特に気にすることもない、ほんの小さな衝撃だった。しかし、崖際に立つ俺をここから追い出すには、十分過ぎる力加減だった。
「う、わっ……!」
バランスを崩した体が前方に傾く。足の裏から地面の感覚がなくなり、一瞬の浮遊感。体を捻って振り返った視線の先、ついさっきまで自分が立っていた場所に、ちょこんと何かが着地する。その金色に輝く一対の瞳と束の間目が合い、そして、
「ひ、ぃっ!!」
落下は、一気に始まった。視界いっぱいにフワリと舞い上がる髪の毛。伸ばした手が空を切り、地面が上に、体が下に。お腹の中身がひっくり返ったような、強烈な不快感。
催した吐き気を、落下の恐怖が塗り潰す。落ちる。落ちてる。怖い。そんな、嫌だ。このままじゃ、絶対に死んでしまう。
死にたくない。死にたくないっ。こんな、まだ自分が誰なのかもわかっていないのに、何も思い出していないのに、折角町を見つけたのに……っ!
けれど、頭は理解していた。もうすべては手遅れなのだと。俺の人生は、もうここで終わりなのだと。でも、諦めたくない。俺はまだ、生きていたいんだ。
涙で視界が霞む。背後に暗い海面が迫ってくる。溢れる感情の中で恐怖と諦観が入り乱れ、俺は強く目を閉じた。
誰か、助けて……っ!!
耳を塞ぐ甲高い悲鳴が自分のものだと気付く前に、俺の意識は消えていた。