第二十七話 森の中の隠し事
翌朝。この町に来て四日目になる日の始まり。私が目を覚ましたのは、まだ太陽の気配もない時間。日の出の二時間ほど前だった。
なぜこんな早くに目が覚めたのか。その理由はわかっている。昨日、夜になっても帰ってこなかった師匠が、ようやく帰ってきたのだ。義眼で外を見ると、ちょうど見慣れた影がコソコソと宿の入り口を潜るところだった。
私を抱き枕にしていたジェミニちゃんを引き剥がし、静かに着替えを済ませる。最近発見した義眼の暗視機能でジェミニちゃんの寝顔を眺めながら待っていると、まったく音を立てずに扉が開き、師匠が入ってきた。
「おはようございます、師匠」
とりあえず、朝の挨拶。まだ外は真っ暗だが。
私が起きていたことに気付いた師匠は、驚いて足を止めた。でも、すぐに観念したように部屋に入ってきた。
「まいったな。レイラお前、ずっと俺を待ってたのか」
「ついさっきまで寝てましたよ。師匠が戻ってきたので、起きたんです」
小さな声での会話。二人を起こさないように細心の注意を払っている。
「……もしかして、怒ってるのか? 昨日俺が戻らなかったから」
「いえ、そんなことはありません。ね、それより、ちょっとお散歩しませんか? 外、涼しくていい空気でしょう」
私の提案に、師匠はまだ夢の中にいる二人を見やり、それから、何も言わずに頷いた。
外に出ると、町はとても静かだった。私達がいつも鍛錬に出かけている時よりも早いせいか、普段は気にならない鳥や虫の鳴き声がやけに大きく聞こえる。
明かりも人もいない町を、二人で並んで歩く。行き先は決めない。適当だ。けれど、私の足は自然と、町の外へ出る方向へ進んでいた。
「……なぁ、レイラ」
「なんですか? 師匠」
「お前、怒ってないって言ってたが……俺がどこに行ってたのかとか、聞かないのか」
口を開いた師匠は、私の顔色を伺うようにそう言った。
この言い方だと、まるで自分に怒られる理由があるように聞こえる。師匠にはそういう、怒られるようなことをした自覚があるのだろうか。
そうは思ったが突っ込んだりはせず、私は前を見たまま答えた。
「ええ、まあ。大体予想、できてますし」
「そ、そうか……」
この町に来てからずっと刺激を欲しがっていた師匠。昨日、やけに面白おかしく反応した時の私の話。そして、いつもは夜になれば部屋に戻ってくる彼が、私達放っておいて、しかも黙って行くような場所。隠しておきたいこと。
これだけ考えれば、まあ、大体予想がつく。師匠だって男性なのだから、そういうことがしたいと思うこともあるだろう。
それに、かすかにだが、先日イェージャさんが『愛の香り』と表現していたにおいを感じる。今更になって、彼女がこのにおいをそう表現をした意味がわかってきた。
「それについては、私から聞くことはありませんよ。そんなに心配しないでください」
「そうか……その、ありがとう、か?」
「感謝も必要ありません」
別に咎めているわけではないのだ。師匠に感謝されるいわれはないし、感謝されたいとも思わない。
歩きながら話をしているうちに、私達は町の外、森の中に入っていた。紅葉した葉っぱの隙間から降り注ぐ月明かり。大型の鳥の低い鳴き声。なんだか懐かしい雰囲気だ。夜の森に入ったのは、私の記憶が始まっているあの日以来だ。
「私が散歩に誘ったのは、師匠に聞きたいことがあったからです」
「聞きたいこと? なんだよ、改まって」
森の中でまっすぐに立っている木々とは別に、一本だけ、何かに踏み倒されたのか、倒木が地面に寝ころんでいる。私はその倒木を指差して、師匠に言った。
「とりあえず、座りませんか? 長い話になるかもしれないので」
師匠は頷き、私達は二人で並んで腰を下ろした。お尻の下で朽ちかけた木がギシギシと音を立てる。だが、この木は案外丈夫そうなので、私達の体重で潰れてしまうことはないだろう。
私は目の前に広がる闇を見つめながら、昨日、あのおばあさんから聞いた話を師匠に話し始めた。
「昨日、午後、師匠と別れた後にですね。足湯に入っていたおばあさんから、こんな話を、聞いたんです」
大昔、ここはドワーフの土地だったということ。その頃は、この土地の使用権を火山の火竜、ドラゴンが与えていたということ。そのドラゴンは徐々に権威を失い、支配を諦め、人間をはじめとするドワーフ以外の種族にも土地の使用を認めたということ。そして、そのおかげで今のリアセラムの町ができたということ。
「ほう……そうか。そんな話、まだ覚えている奴がいたんだな」
私の話を聞いた師匠は、どこか懐かしそうに夜空を見上げた。空は徐々に、漆黒から深い青へと変わり始めている。日の出まで後、一時間半。
「……知ってたんですか。この話」
「まあな」
本当に何でも知ってるな、この人……。
半分呆れながら尋ねると、師匠は肩をすくめてそう言った。やはり、この人の知識量には驚かされる。
「それで、そのおばあさん、最後にこう言ったんです。ドラゴンは、ここに作られた町の長となることで、かつての支配者としての体面を保っておられる、と」
「ほう。そうなのか」
私がおばあさんから聞いた最後の話をすると、師匠は興味を惹かれたようにこちらを見た。その視線に恐々としながらも、私は続けた。
「それで、ですね。私、この話を聞いて思ったんです。この町の長って、イェージャさんじゃないですか。後で町の人に聞いてみたんですけど、この町には選挙とかなくて、ずっとイェージャさんが町長をやっている、らしいんですよ。だから、その……昔この土地を支配していたリアセドラ火山のドラゴンって……もしかして、イェージャさんじゃないのかな、って……」
これは、完全に私の憶測にすぎない。でも、あのおばあさんや町の人の話を加味すると、そうとしか考えられないのだ。
なぜなら、質問をした十人中十人が『自分が生まれた頃から町長はあの人だった』と答えたのだ。若い人ならまだわかるが、あのドワーフのおばあさんと同じくらいの老人も、そう答えた。そしてさらに、では前の町長は誰だったのかと尋ねると、十人中十人が揃って首を傾げ『前の町長のことなんて聞いたことがない』と言う。そこまでされたら、疑わざるを得ない。この町にはそもそも、町長が変わるという制度がないのではないかと。そして、その疑いは本当だった。この町には選挙制度がなく、町の議会などという役職もなかった。この町のことは、全部あの人が一人で決めていたのだ。
「……へぇ、そうか。あいつが、ドラゴンか」
「そうです。師匠は、知っているんでしょう? あの人のこと。教えてください。あの人……イェージャさんは、本当にドラゴン、なんですか」
誤魔化しは許さないというように師匠の顔を見ながら、私は尋ねた。
少しの間、沈黙が訪れる。私の髪をなびかせる風がやんだ後、彼は視線を前に戻して、深く息を吐いた。
「……よく、そこまで調べたもんだ」
師匠の口から紡ぎ出された静かな言葉に、私は確信を得た。彼は、このことも知っていたのだ。イェージャさんがドラゴンであるということを。
「やっぱり、そうなんですね。あの人が……」
ドラゴン。あの細目で黒髪の、胸の大きい和服の似合うのほほんとした美人さんが、ドラゴン。大自然の覇者。アケルを襲ったアレと、同じ存在。
……イェージャさんが、ドラゴン、か。でも、まだ少しだけ、信じられない、かな。
自分で疑っておいてなんだが、あの人がドラゴンだとは、とても思えない。でも、これは事実だ。自分で導き出した仮説と同じ解。
とりあえず、大きく息を吐く。自分を納得させるために、私は、師匠に言い訳をした。
「調べたっていうか、少し質問をして回っただけです。イェージャさんは凄いですねって聞くと、みんな頷いて、当然のように言うんですよ。『あの人がいないとこの町は滅びる』って」
「ほほう、そうか。まあ、それがあいつのやり口っていうか、良いところではあるんだがな」
何やら不穏な言葉を使った師匠に、私は重ねて尋ねる。
「じゃあ、師匠。あの人と二人きりになったあの時、アケルのドラゴンのことも、聞いたんですか?」
「ああ、もちろんだ。だが、あいつは知らないってさ。知り合いでもなければ、興味もないらしい。ドラゴンってのは、大抵一人で生きていくもんだからな。そもそも期待はしてなかった」
「そう、ですか……」
流石、師匠。行動が早い。やっぱりこの人には、敵わないな。
とりあえず私は、彼女がドラゴンであるという現実を受け入れることにした。このことは、彼女に直接聞いたりしないほうがいいだろう。自分から教えてくれなかったということは、それはあまり触れられたくない話題のはずだから。その気持ちは私にもよくわかる。
師匠のおかげで、昨日から頭を悩ませていた問題が片付いた。目的を達成した私は、立ち上がって宿に戻ろうとした。しかし、
「あ、待て、レイラ」
「え? なんですか? 師匠」
師匠に呼び止められて、足を止める。そんな私に、彼はついさっきまで私が座っていた場所を軽く叩いて言った。
「まだ、座っていてくれ。俺からも、お前に話さないといけないことが、あるんだ」
「あ、はい。わかり、ました」
急なことでちょっと驚いたが、とりあえず促されるまま再び倒木に腰かける。師匠からの話とは、いったい何なのだろう。
「なんですか? 師匠。そんなに改まっちゃって。らしくないですよ」
「そ、そうか。その……なんていえばいいか、よくわからないんだが……」
「……?」
師匠は迷うように視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたのか、私の目をまっすぐ見つめて話してくれた。
「レイラ。お前に、言わなくちゃいけないことがある。それは、それはな。お前の、家族のことだ」
「え? か、家族の……?」
思ってもみないかった話に、私は開いた口が塞がらなかった。まさか、この流れで私の過去の話が出てくるとは。
驚く私に言い聞かせるように、師匠は言葉を続ける。
「落ち着いて、聞いてくれ。レイラ。お前の家族はな、恐らく、もう……もう、生きてはいない」
「え……それ、って」
私は一瞬、呼吸を忘れた。
い、生きていないって……そんな。
「ど、どうして、そんなこと、わかるんですか……」
辛うじて声を絞り出す。すると師匠は、少し話を変えた。
「イェージャと初めて会った時のこと、覚えてるか」
「は、はい……」
それは、つい最近のこと、たった三日前の出来事だ。そんな時の話と持ち出した師匠が何を考えているのかわからず、混乱が深まる。
「あの時お前、鍛錬で疲れたって理由で、寝てただろ。あれ、嘘なんだ」
「え? 嘘って、どういう……」
確かにあの時、私はその日の鍛錬の疲れから、ソファで眠ってしまった。それが、嘘?
師匠の話は続く。
「イェージャは、その、特殊な魔法が使えるんだ。ドラゴンだからな。それは、人が一度見たことのある夢を思い出させる魔法で、それをお前にかけて、アケルにいた時にお前が見た夢を思い出させた」
混乱した私は、ただ黙って師匠の言葉を待った。数ある疑問の答えはきっと、この人の口から出てくるはずだ。
「アケルで……ああ、確か、魔物が攻めてきた日の朝だったな。覚えてるか。お前、左目が痛いって言いながら降りてきただろ」
「は、はい……」
「その時お前、なんか凄く怖い夢を見た、って言ったな。懐かしい、とも」
「そう、でしたっけ……」
師匠に言われて、思い出す。そう言えばあの日が、左目が義眼だとわかった日だ。もう、あれから三ヶ月。今となっては、思い出の一つだ。アケルに攻め込んできた魔物と戦っているうちに、戦いが楽しいと思い始め、最後にはドラゴンが出て、私は大怪我を負った。初めて病院のお世話になった。
そんなことがあったせいで、夢のことはすっかり忘れてしまっていたが……まさか、今になって思い出すことになるとは。
「じゃ、じゃあ、つまり、イェージャさんの魔法で、私はその時に見た夢を、思い出した、ってことですか」
「そうだ。あいつの魔法にかかったお前は、あの時の夢をもう一度見た。そして、その内容を俺達に教えた。……半分寝言みたいな感じだったが」
そう、だったんだ……。あの日、あの時、イェージャさんが私に魔法を……。
空を見上げて、今師匠から聞いた話をなんとか飲み込む。あの時抱いた違和感の正体がわかった。
あの日の師匠達、なんかおかしいと思ったんだ。でもまさか、こんなことを隠していたなんて……。
「それで、その……どんな、内容だったんですか。私が見た、夢って」
「それは……」
私が夢について尋ねると、師匠はまた、視線を揺らした。言いたくないのだろう。そんな師匠の目をまっすぐ見て、私は強く頼み込む。
「お願いします。教えてください。私、知りたいんです。どんなに酷い内容でも、怖い内容でも、私、受け止めたいんです。自分の、過去を……」
忘れてしまったことを、思い出したい。そのために私は、師匠に弟子入りして、旅をしているんだ。その気持ちを込めて、師匠を見つめる。
「そこまで言うなら……だが、覚悟はしておいたほうがいい。あの夢は、間違いなく、悪夢と呼べる類のものだ」
「それでも……お願いします」
悪夢と聞いて気持ちがざわつく。だが、私は口の中に溜まった唾を飲み込んで、師匠に頼んだ。
そうして師匠の口から聞いた話は、とても残酷で、とても恐ろしくて、私の心に大きな衝撃を与えた。
私が子供の頃、母の胸の中で、父に関する悲しい知らせを聞いたこと。母と姉と、まだ赤ん坊の弟、もしくは妹が、人間に殺されたこと。私はその一部始終をすべて見ていたこと。そして最後に、私の左目が、ナイフで抉られたこと。
「……っ!!」
最後の話を聞いた時、視界いっぱいに迫るナイフの先端が脳裏にフラッシュバックし、左眼孔の奥に激痛が走った。まるで、鋭い刃物で左目を貫かれたような強烈な痛み。思わず身を守るように体を丸める。
「だ、大丈夫か?」
「だい、じょうぶ、です……うぅ」
眼帯の上から左目を押さえ、心配してくれる師匠にそう言う。この感覚は、前にも感じたことがある。そう。あの日の朝、アケルで感じた左目の痛みと同じものだ。やはり私は、あの日、この夢を見ていたのだ。
心臓の鼓動が早い。訳もわからず涙が流れる。
……これが、私が見た夢、なのか。確かにこれは、悪夢と呼んでもいい内容だ。……でも、これが私の過去ならば、受け入れるしかない。ずっと求めていた、失った記憶の片鱗なのだから。
呼吸を落ち着けた私は、頬に零れた涙を拭って、師匠に向き直った。
「……ありがとう、ございます」
「え?」
「ずっと隠したままにしておかなくて、教えてくれて、ありがとうございます」
私のお願いを聞いてくれた師匠に、頭を下げる。彼が今まで私に隠していた理由がわかった。こんな内容、誰だって言いたくない。今、師匠がこれを話そうと決意するのにも、大きな勇気が必要だったはずだ。
だから、私は師匠に感謝した。
「そう、か。わかった」
私からの感謝を受け取った師匠は、なぜか少し安心したような顔になった。
「よかった」
「え? なんで、ですか?」
「ん、そう大したことじゃない。俺は、心配していたんだ。この話をすることで、またお前を、悲しい気持ちにさせてしまうんじゃないかって」
「そ、そうですか……」
目尻に残っていた涙を拭き、私改めては師匠を見た。彼の言葉は続いている。
「俺、もしかしたらお前のこと、見くびっていたのかもしれないな。俺は、お前が自分の過去を知れば、苦しむと思った。でもお前は、話してくれてありがとう、って言った。予想外だったよ。それを言ってくれる余裕があるんだ。お前は十分、強いよ」
そう言って師匠は、私の頭に手を置いた。そのままゆっくり、優しく撫でてくれる。
「あ、ありがとう、ございます……」
なんだか恥ずかしくなって、目を逸らす。でも、嫌じゃない。むしろ嬉しい。テレテレして口元がにやけそうになるが、頑張って堪える。そうして少しの間、私は大人しく師匠に撫でられていた。
しばらくして、撫でるのをやめた師匠が言った。
「さ、宿に戻ろう。あいつらも、そろそろ起き出す時間だ」
「……そう、ですね。ありがとうございました、師匠。散歩に付き合ってきれて」
「いいさ、これくらい。いつでも付き合う」
お互いに照れ臭く笑い合った後、私達は来た道を戻って宿屋に戻った。そして案の定というか、頬を膨らませたジェミニちゃんのお出迎えがあった。
「もう! 二人ともどこ行ってたの! あ、朝から心配しちゃったじゃん!」
その言葉は本当なのだろう。なんだかとても取り乱した様子でそう叫ぶ彼女は、折角の金髪がぐしゃぐしゃだった。その目には涙がいっぱいに溜まっていて、今にも泣き出しそうだ。
あ、これ、結構怒ってるな……。
女の子の涙に波乱の予感を感じて、置き手紙くらいするんだったと後悔する。でも、今更そんなことを考えたところで、もう手遅れだ。私は師匠と二人揃って、ジェミニちゃんにこってりと怒られた。
でもまだ、一日は始まったばかり。朝から元気なジェミニちゃんのおかげなのか、今日はいい日になりそうだった。
◇ ◇ ◇ ◇
それからの毎日は、もう矢のように過ぎていった。
朝はいつも通り剣の鍛錬と、追加された弓の練習。昼間は町を歩き回って、この町やドラゴンや私についての情報収拾。気分を変えるため、普通に観光地を巡ってみることもある。また、山の中に入っていって、大自然の凄さを感じる日もあった。夜になると、それぞれ集まって一日何していたのかを報告。それを師匠とカイが紙にまとめて、一日が終わる。
これまで私達がフィーンでやってきたことと、ほぼ同じことの繰り返しだ。変わったことといえば、ジェミニちゃんに弓を教えてもらっているということと、子供達と遊ぶという日課がなくなったこと、それから、この町にしかない温泉の虜になってしまった、という三点だ。
ジェミニちゃんとの弓の練習は、彼女の教え方が上手なおかげでとても順調に進んでいる。最初はどちらかというと不得手だった弓も、何日も続けていれば流石にコツを掴んできて、近い場所なら義眼がなくても狙った場所に矢を当てることはできるようになってきた。でも、まだまだ精度は低いので、練習は必要だ。これからも、剣の練習と並行して続けていこうと思っている。
温泉は、本当に恐ろしい。一度でもその魅力を知ってしまえば、もう温泉がない生活を想像できなくなる。温泉の素晴らしさを知ってしまった私は、雨の日以外は毎日温泉を利用していた。ほぼ毎日、イェージャさんに貸してもらったあのお札が大活躍している。
一応あの露天風呂はイェージャさん専用のお風呂なので、何度も使わせてもらうのは申し訳ないなと思った私は、前に一度、他の人と同じ大浴場に入ろうと思った。だが、温泉の中では眼帯を外さなければならないことを思い出し、やめた。やはりまだ、オッドアイを誰かに見られるのは嫌だった。
ある日のこと。部屋でゆっくりしていた時、ジェミニちゃんに尋ねられた。
「ねぇ。レイラちゃんは、自分の武器の手入れはしないの?」
「え? あ、うん」
素朴な質問。彼女がそんなことを聞いてきた理由は、ちょうどその時、師匠とカイが揃って自分の剣を手入れしていたからだった。私だけ何もしていないことを疑問に思ったのだろう。
私は自分の武器を取り出して、答えた。
「なんか、私の武器ね。手入れしなくても、いつもピカピカで切れ味も鋭いんだよね」
剣を出し、刃を抜く。普通の剣よりも長い、少し反り返った抜き身の刃。部屋の明かりを反射して銀色に輝く刀身には、ただ一つの刃こぼれもなく、ただ一つの錆もない。
「うわ、すっごい綺麗……」
「ね。凄いよね。前、結構大きな魔物を倒した後、刃が欠けちゃったことがあったんだけど、一回しまってもう一回出したら、なんか直ってた」
折角師匠に剣の研ぎ方を習ったんだけど……。
この武器の性質がわかってからというもの、一度も武器を手入れしたことはない。何度も怒られながら身に付けた技術と、費やした時間が無駄になったような気がして、とてもショックだったのを覚えている。
はぁ、あまり思い出したくないなぁ。あれは、とても嫌な事件だった。でも、まあ、そうして教わった技術も、いつか使う日が来る……と信じたい。
「へぇ……じゃあ、弓も弦を調整したりする必要もないんだね。羨ましいなぁ」
「そう、だね。まあ、便利だよ。うん」
ジェミニちゃんからの羨望の眼差し。私は剣をしまって、手の中に納まった武器の持ち手を眺めた。
……本当に、便利すぎる。こんなに都合が良い武器を、いったい誰が作ったのだろう。なぜ作られたのだろう。そして、いったいどんな技術を使って作られたのだろう。
疑問は尽きない。私の名前らしきものが書いてあるということ以外、この武器に関してはまったく不明だった。
「本当に、わからないことだらけだよ……」
答えのない疑問に頭を悩ませる私に、話を聞いていた師匠が、
「まあ、いいじゃないか。お前の武器がどんなものかなんて、そんなに大した問題じゃない。それが何であれ、お前は使いこなせているんだ。使えるものはなんでも使ったほうがいい」
「そう、ですね」
師匠の言うとおり、かもしれない。変に気にしすぎるのもよくないか。
これは、私の物。私が最初から持っていた物だ。私はこれを使いこなせているのだから、それでいい。詳しいことは、後から調べればいいのだ。
そんな風に日々を過ごして、私達がリアセラムに来て、二週間ほど経ったある日のこと。昼間の散策を早めに切り上げた私が部屋に戻った時、中から師匠とジェミニちゃんの声が聞こえてきた。
「……なぁ、ジェミニ。そろそろ、考えてくれよ。この後、どうするんだ」
「うぅ、それは……」
……あれ。師匠と、ジェミニちゃんの声だ。あの二人、何話してるんだろう。
その言葉に何やら不穏な空気を感じ取った私は、ドアに耳を付け、義眼で中の様子を伺いながら、二人の会話を盗み聞きした。
「本当に、頼む。この町に来て、もう二週間以上経つ。こっちも、お前とずっと一緒にいるわけにはいかないんだ。この後自分がどうしたいのか、考えてくれないと、その……単純に、俺も、困る」
「それは、わかってる、けど……」
どうやらこれは、ジェミニちゃんについての会話のようだ。エルフの里から逃げてきた彼女を、今後どうするのか。それを話し合っているのだろう。
けれどジェミニちゃんは、師匠の問いに中々答えを出すことができない。フードの中で目を伏せた彼女は、膝の上で拳を握っている。
「私、戻りたくないわ。あんな所」
「それは、わかっている。このままここに居続けるのか? それとも、一人で旅を続けるのか? それくらいなら、答えられるだろ」
師匠の声を最後に、部屋は静かになった。色々と考えているのだろう。
数分後、ジェミニちゃんが口を開いた。
「……ここに、私の居場所はないわ」
「今は、そうかもしれない。でも、これから作ることはできる。イェージャに協力してもらおう。あいつなら、お前の仕事や住む場所を考えてくれる」
師匠の提案に、ジェミニちゃんは力なく首を横に振った。
「魔女の力は借りたくないわ。あの魔女は、私に聖女になって欲しいのよ。しばらくの間は匿ってくれるかもしれないけど、いつかきっと、私は里に送り返される」
「そうか……」
ジェミニちゃんの言葉を聞いて私は、そこまで悲観的にならなくてもいいのに、と思った。きっと師匠も同じ気持ちだ。
だが、温泉でばったり出くわした時の態度を見ると、彼女の言葉もあながち間違っていないかもしれない。あの人はきっと、ジェミニちゃんのことをあまり良く思っていない。その理由が、彼女の言うように聖女から逃げたせいなのか、それとも町で泥棒をしていたからなのかは不明だが。
「じゃあ、ここを出て、一人で旅をするのか。お前の力なら不可能ではないだろうが、旅は、想像以上に厳しいぞ」
「……うん」
小さな声。彼女も本意ではないのだろう。でも、他に良い方法がないことは自覚している。そんな気持ちの籠った言葉だった。
「……本当は、ずっとアドレと一緒にいたい。ここでずっと一緒に住めたらって、時々思う。その……レイラちゃんとも、友達、になったし。あの子ならきっと、私のこと、理解してくれる」
「ああ。多分、あいつもそう思ってるだろうな。お前のこと、結構気に入ってるみたいだから。あいつも、友達は少ない。この間も、友を失ったばかりなんだ」
「そう……」
唐突に私の名前が出てきて、少しドキッとする。盗み聞きしているのがバレたのかと思った。
び、びっくりしたぁ……。
とりあえず気持ちを落ち着けて、改めて二人の会話を聞く。
「でも、あいつはきっと、旅を続けることを取る。あいつには、自分の過去を探すっていう大事な目的があるからな。そのために、危険な目に遭っても旅を続けている。ほんと、馬鹿な奴だ。自分のことが怖いなんて言ってるくせに、自分を探している」
「そう。そう、だよね。ただ逃げてるだけの私とは、違うものね。あの娘は」
自分を卑下して、再び俯くジェミニちゃん。
そんなことはない、と言ってあげたかった。逃げるのは悪いことじゃない、ジェミニちゃんは間違ってはいない、と。でも、それが正しいことなのかと聞かれたら、わからない。何も言えない。
だから私は、そのまま扉の外で声を聞いていた。
「……どこか、行く当てはあるのか」
最後に師匠は尋ねた。ジェミニちゃんは、また首を横に振った。
「……そんなもの、ない。どこにでも行くわ。ここじゃないどこか、まだ行ったことのない場所に。そういうものでしょ。旅って」
それきり会話は途切れ、部屋の中は静かになった。入るタイミングを完全に見失ってしまった私は、今部屋の中に入るのは諦め、一度宿を出て適当に町を歩いた後、また改めて部屋に戻った。
師匠とそんな話をした影響か、その日からジェミニちゃんは、少し笑顔が少なくなった。




