第二十五話 弓引く姉妹
宿に戻る頃には、すっかり日が落ちていた。そのまま食堂で夕食を食べたら、部屋に戻って着替えだ。
帰り道でジェミニちゃんの服を買ってきたので、それを着せてあげる。彼女は反抗的な態度を取ることもなく、素直に服を着てくれた。
「うん。似合ってるよ。可愛い」
「そ、そう。……ありがと」
彼女の小柄な体がすっぽりと入る外套と、白色のワンピース。履きやすそうな靴と靴下。それから、下着も新調した。全部これまで着ていたものと同じようなものを選んだのだが、想像以上にいい感じだ。
自分のコーディネートに満足した私は、自分も寝巻に着替えて、外で待っていてくれた師匠達を呼ぶ。
「お待たせしました。終わりましたよ。いつもすみません」
「おう、いいって。気にすんな」
師匠はそう言って、顔の前で手を振った。そして自分のベッドに腰を下ろすと、腕を組んでジェミニちゃんに向き直る。
「さて。で、ジェミニ。部屋のベッドが足りないから、お前は誰かと一緒に寝てもらわないといけないわけだが」
人数は増えたが、部屋は三人部屋のままでいいということになった。四人部屋になると当然宿泊費も増えるので、少しでもお金を節約しようということだ。
師匠に尋ねられたジェミニちゃんは、新しいフードの中で顔を伏せながら、小さく言った。
「……レイラ、と、一緒が、いい」
「え? 私?」
予想外の言葉に、思わず自分で自分を指差す。てっきり師匠と一緒に寝たいと言い出すかと思ったのだが……。
「い、嫌……?」
間抜けな声を出した私を、不安そうに見上げるジェミニちゃん。その視線を正面から受けた私は、咄嗟に口走る。
「い、いや、私は別に、構わない、けど……」
私の言葉を聞くと、彼女は途端に笑顔になった。それを見た師匠が一つ手を叩いて、
「よし、決まりだな。じゃあ、ジェミニはレイラと一緒に寝るということで」
その言葉が就寝の合図となった。
たった数時間でここまで仲良くなってしまったことに驚きつつ、私はジェミニちゃんと一緒にベッドに入る。これまで誰かと一緒に寝ることはなかったので、ちょっと緊張する。けれど、それはジェミニちゃんも一緒だったのか、掛け布団を被る前に目が合うと、二人して照れたように、微妙な笑みを浮かべた。
部屋の明かりが消えて、静かになる。窓の外からはほのかな白い光が差し込んで、一番窓に近い私達のベッドに光を落としている。
今更になって気付いたのだが、宿の部屋には北側に窓がない。宿に限らず、今まで見てきたすべての建物には、北側に窓がなかった。その理由は、今も窓の外を明るく照らしているあの巨大な月の光。月が明るすぎるため、そのような構造になっているのだろう。ちなみに、たった今気が付いた。
「……ねぇ。レイラ、ちゃん」
「ん、なあに?」
そんなことを考えながら天井を見ていた私の耳に、ジェミニちゃんの囁く声が聞こえた。
布団の中で向かい合わせになる。顔が近い。ちょっと恥ずかしい。
「その……レイラちゃん、って、呼んでもいい?」
「え? うん。もちろんいいよ。っていうか、もうそう呼んでるじゃん」
「あ、そ、そうだね……あはは」
彼女は少々恥ずかしそうにして、仰向けの体勢に戻った。私もまた上を見て、天井の木目を数える作業に戻る。
……えっと、これはよく見るやつだな。たけのこみたいな形のやつ。どこの天井もこればっかりだ。いい加減飽きてきたな……はぁ。どうして天井はたけのこばっかりなんだ。そういえば、さっきの晩ご飯もたけのこが入ってた。美味しかった。うん。
適当なことを考えて眠気が訪れるのを待っていると、またジェミニちゃんがこちらを向いて、囁いた。
「ねえ、レイラちゃん」
「ん、なに?」
首を動かして、ジェミニちゃんの顔を見る。彼女は私の目をまっすぐ見つめて、消え入りそうな声で言った。
「私と、その……お友達、に、なってほしいの」
「え?」
ちょっと、驚いた。まさか、彼女のほうからこんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。
……そんなにかしこまらなくってもいいのに。
彼女にまた悲しそうな顔をされる前に、私は頬を緩めて、笑った。友達になってほしいかなんて、そんなこと。答えは決まってる。
「もちろん。私のほうこそ、お願いしたいな。ジェミニちゃん、私とお友達になってくれる?」
こちらからも同じことをお願いする。すると彼女は、一瞬キョトンとして、それからすぐ、嬉しそうに頷いた。
「うん……!」
「うん。これで、お友達だね」
彼女の笑顔を見届けて、仰向けの体勢に戻る。今度はもう、木目なんか視界に入らなかった。
……やっば。何これ。どうしよう。妹ができたみたい。もう無理。可愛すぎるんですけど……!!
その晩、私の心の中は大荒れで、中々寝付けなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。日の出とともに目が覚めた私は、目の前に女の子の顔があってびっくりした。
うわっ、なんでこんな近くに美少女が……って、そうか。そういえば、ジェミニちゃんと一緒に寝ることになったんだった。取り乱しちゃ駄目だ。起こしちゃう。
「……ふぅ」
とりあえず、息を吐いて落ち着く。これからしばらくの間は一緒に寝ることになるのだから、これにも慣れないといけない。
そっと隣のベッドの様子を伺うと、二人とも起きていた。
「ど、どうしましょう?」
隣のジェミニちゃんを起こさないよう、小さな声で師匠に尋ねる。いつもならこの後、外に出でて鍛錬をしているのだが、彼女を部屋に一人残しても大丈夫だろうか。そう思っての言葉だった。
「まあ、いいんじゃないか。ジェミニも見た目ほど子供じゃない。置いてっても大丈夫だろ。まあ、文句くらいは言われるかもしれんが」
「わかりました」
師匠の了解が得られたので、私は布団を動かさないように気を付けながら、そっとベッドから出ようとした。しかし、
「……え、ちょっと」
ジェミニちゃんの腕が、まるで木に張り付くコアラのように私の左腕に巻き付いていて、身動きが取れなかった。
「えぇ……」
どうしよう。これじゃ、着替えもできないよ……。
助けを求めて再び師匠を見ると、彼は何が面白いのか、ぷっと小さく吹き出して、
「ははっ、昨日会ったばかりなのにもう仲良しだな」
「ちょ、師匠。笑い事じゃないですって。このままじゃ、今日の鍛錬ができない……」
「すまんすまん。でも別に、一日くらい休んでも構わんよ。たまにはそういう日があってもいいと思う」
師匠はそう言うけれど、私は鍛錬をサボりたくなかった。雨が降っても毎日続けてきた鍛錬だ。こんな理由で休みたくはない。私は一刻も早く、目標である師匠に追い付きたいのだ。そのためには、一日だって無駄にしたくない。
……うう、仕方ない。ごめんね、ジェミニちゃん。
心の中で謝りながら、強引に彼女の指を引き剥がそうとする。その時、コアラ少女が小さく唸った。
「ん、うぅん……」
あ、やば。起こしちゃったかな。
表情を歪め、首を動かすジェミニちゃん。そこで動きは止まった。一瞬、大丈夫だったかなと思ったが、その直後、彼女の目元がピクリと動いた。
「うぅん、うん……あれ」
「あー、起こしちまったな」
眠たそうに目をパチパチさせるジェミニちゃんを見て、どこか他人事のように師匠が言う。
目が覚めた彼女は、しばらくの間状況が掴めないようで首を捻っていたが、自分が私の腕に抱き付いていたことに気付くと、慌てて手を引っ込めて、照れたように笑った。
「あ……え、えへへ」
「あー、えと、おはよう、ジェミニちゃん」
とりあえず、朝の挨拶をする。それから、今から私達がしようとしていることを説明した。
「えと、私達これから、外に出て鍛錬するんだけど、一緒に来る?」
「たんれん……?」
言葉の意味を探すように首を傾げた後、彼女は、
「うん!」
と、元気よく頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
ガキンッ、と目の前で剣と剣がぶつかり合う。刀身は鞘に入ったままだが、そんなことは関係ない。火花を散らし、しのぎを削る。
「くっ……」
力比べに入られては勝ち目がない。そう判断した私は、剣を滑らせて相手の勢いを逃がし、体を引いた。相手と位置が入れ替わる。すかさず後退して距離を取る。
「チッ」
剣を構え、相手と再び正対。剣の先には、同じく剣を構えたカイがいる。普段の無表情とは打って変わった厳しい表情で、こちらを牽制するように鋭い眼差しを向けている。
ジェミニちゃんを起こした後、着替えを済ませた私は、カイと剣の鍛錬をしていた。
「ふぅー……」
深く息を吐き、早くなった呼吸を落ち着ける。少し離れた所では、付いてきたジェミニちゃんと師匠が地面に座って、私達の戦いを眺めていた。
「……わあ」
「ふん」
だが、二人の視線を気にしている余裕などない。私は今、目の前の戦いを楽しむことに忙しいのだ。
カイに肉薄し、剣を振り下ろす。しかし、それを見切っていたカイは、私の攻撃を避け、すかさず攻撃してくる。下段右側。予想の範囲内。地面に剣を付き立てて、防ぐ。剣を伝って、腕に衝撃が走る。
……うっ。でも、これくらい、師匠に比べれば……!
続けて繰り出されるカイの連続攻撃を完璧に防御。ただ早いだけの攻撃なら、防ぐのは容易い。
「ふっ……!」
相手の攻撃が止んだ。今度はこちらから仕掛ける。カイが一歩下がったタイミングを逃さず、体を回転させて力を乗せ、剣撃を繰り出す。左側への一撃。カイは防ぐ。想定通り。剣を引き、突く。喉を狙ったその攻撃は剣に払われ、次の右下方からの攻撃も防がれた。
そして次の攻撃に繋げようとした時、剣と剣がぶつかり合った。一瞬の拮抗。しかし、長くは続かない。私の剣はいつの間にか、カイに押さえられていた。
「チッ……」
この舌打ちは私のものだ。カイよりも力の弱い私は、こうして力任せに押さえつけられるとまったく身動きが取れない。ならばと、私はカイの腕を狙って蹴りを入れた。剣を押さえる力が弱まった。カイは警戒して後ろに下がり、私達は再び、睨み合った。
「凄い……レイラちゃん、強い」
ジェミニちゃんの声が聞こえる。私を褒める彼女に、師匠はふんと鼻を鳴らして、
「あんなの、まだまだだ」
そんなの……わかってる。
目の前のカイを睨みながら、奥歯を噛む。既に肩で息をしている私に対して、彼はまだ、汗すら掻いていない。体力の乏しさを自覚して悔しくなるが、その気持ちを剣に乗せて攻撃。避けられる。続けて二撃、三撃。しかし、わずかに攻撃タイミングがズレたその隙を突かれ、カイからの反撃を食らい、数秒後。私は地面に伏した。
「うぅ……いたぁい」
「……ふぅ」
息を吐いたカイは、剣を腰に戻した。そして、地面に倒れて頭を押さえる私に、手を差し出した。
「……ほら」
「……え?」
珍しい行動に戸惑いつつ、彼の手を取って立ち上がる。初めてだった。彼に優しくされたのは。
ど、どうしたんだろう。最近、カイ、私に対して優しくない? 大丈夫? 後で何かあったりしない?
「あ、ありがと」
「……ああ」
勘ぐりながらも感謝する。なんだか気恥ずかしくなって、私はカイから視線を逸らした。
なんていうか、不思議な気持ちだ。どうして急に、こんなことを……。
「よし、終わったな」
立ち上がった師匠の声に、意識を戻す。私は地面に落ちていた自分の剣を拾って、師匠を見た。彼の視線は、まあいつも通りだ。
「ま、成長はしてるようだな。まだまだ全然だが」
「……はい」
「どこが駄目なのかは、言わなくてもわかるな」
「……はい」
厳しい言葉だった。でも、本当のことなので素直に受け止める。
軽い反省会の後、私は剣をしまって、ずっと私達の鍛錬を見物していたジェミニちゃんの隣に座った。
「えと、お疲れさま。凄かったよ、レイラちゃん」
「そう。ありがとう」
彼女が差し出してきたタオルを受け取り、汗を拭う。ここは標高が高いからか、普段よりも息が切れるのが早かった。トレーニングにはいい環境だ。汗を掻いても、すぐ温泉に入れるし。
「本当に、凄かった。相手も凄かったけど、レイラちゃんも、早かったし……私、動きを見るだけで精一杯だった」
負けた私を励まそうとしてくれているのか、ジェミニちゃんは自分なりの言葉で、先ほどの戦いの感想を述べた。でも語彙力が足りないのか、その感想は子供のようだ。でも、それも仕方ないかもしれない。私が初めて二人の鍛錬を見た時もそうだった。
「……ありがとう」
「だから、その……落ち込まないでね?」
「大丈夫だよ。負けるのは、いつものことだから」
そう。私は今まで、カイに一度でも勝てたためしがない。もちろん、師匠にも一度だって勝ったことはない。自分が弱いことは自覚している。それでも私は、まるで言い訳をするように今の戦いの反省点を口にした。
「相手の動きは、見えるんだよ。次にどんな攻撃が来るのか。自分の攻撃が防がれるのか避けられるのか、全部わかる。でもね。体のほうが、それに追い付いてくれないの」
「へ、へぇ。そうなんだ」
あれ、上手く伝わらなかったのかな。
私の説明に、曖昧な返事をするジェミニちゃん。それを聞いて私は、彼女にはあまり、こういう話はしないほうがいいと思った。血生臭い戦いの話なんかしても、楽しくないのだろう。まあ、それが普通か。おかしいのは私のほうだ。
「はぁ。とにかく、もっと早く体が動いてくれれば、カイにも師匠にも勝てそうなの」
「そうなんだ」
地面に座り、大きな木の幹に背中を預ける。この森の木々は、やはり他より大きい。まるで、自分が小さくなったように感じるくらいだ。
「……ねぇ。どうしてレイラちゃんは、そこまでして強くなりたいの?」
「え?」
ジェミニちゃんの問いかけに、私は首を傾げた。どうして強くなりたいのか、なんて、そんなこと今まで考えたことがなかったから。
「どうして、か……」
「うん。戦いって、痛い、でしょ? 怖い、でしょ? でも、レイラちゃんはなんで、あの二人と戦って、負けて、痛い思いしても、なんでそんなに楽しそうなの?」
ジェミニちゃんは、純粋な眼差しで私を見つめてきた。
なぜ楽しそうなのかと聞かれても……私には、よくわからない。
息を吐いて、考える。目の前では、私に勝ったカイと師匠が互いに剣を構え、戦いを始めようとしていた。
強くなりたい、か。どうなんだろう。私は、強くなりたいのだろうか。
剣をぶつけ合う二人を見ながら色々考えてみて、なんとなく思ったことを口にしてみる。
「私は、ただ、戦うのが好きなの」
「え?」
「剣を振って、ひ……っと、何かを斬るのが好き。だから、戦うのが好き。でも、どうせ戦うなら、負けたくない。だから、強くなりたいんだと、思う」
自分でもよくわからないまま口にしたせいか、言葉は途切れ途切れになった。
私は、強くなりたいんじゃない。強くなる必要があるんだ。だから私は、師匠達と戦っている。体を鍛えている。
「そっか」
私の答えを聞いた彼女は、そう言って視線を前に戻した。
「……私は、強くならなくちゃいけないの」
持ち手だけになった武器を取り出し、左手に持つ。手の中でそれを様々な武器に変化させながら、私は呟いた。剣、盾、銃、ナイフ、そして、弓。
最近わかったことなのだが、この武器は今まで使ったことのある四種類以外に、もう一つ、弓にも変わることができた。武器を弓に変化させると、それに応じて矢筒が背中に出現する。今回は背中に場所がなかったので、剣のように腰にぶら下がった。中には、矢が何十本と入っている。
「……あ。それ、弓?」
「あ、うん。そうだよ」
私の手の中に弓が現れると、それに気付いたジェミニちゃんが声を上げた。
「レイラちゃん、弓も使えるんだ」
「あー、それは、どうかな」
実を言うと、弓の使い方はまだよくわかっていなかった。この武器が弓になることがわかったのがつい最近のことだし、まだそんなに弓を使ったことがない。でも、使い方は感覚でわかるし、義眼を使えば一応的に当てることはできるので、それなりに使いこなせてはいると思う。
「ね、一回射てみてよ」
「え? ああ、うん。わかった」
ジェミニちゃんにそう言われて、私は立ち上がって、矢筒から矢を一本取り出した。
……なんか、緊張するなあ。
隣のジェミニちゃんの視線を感じるが、頭を振って意識を集中させる。目標は、十メートルほど向こうにある木の幹に決めた。
的を見据え、弓を構える。矢をつがえ、引いていく。義眼の着弾予測を頼りにしながら照準を定め、ここだ、と思った瞬間に手を離す。
ヒュッ、と耳元で風を切る音。放たれた矢は、まっすぐ目標に吸い込まれるように飛び、義眼の見せた予測通りの場所に当たった。
「おお。当たったね」
矢が的を射たのを見届けたジェミニちゃんが、パチパチと手を叩く。私は息を吐いて、なんだか妙に力が入っていた肩をほぐした。
「もしかして、レイラちゃん。あんまり弓、使ったことない?」
「まあ、うん。わかる?」
慣れていないのがバレバレだったのだろうか。まあ、本当のことなので仕方ないのだが。
「まあね。ね、その弓ちょっと、貸してくれる?」
「え? あ、いいよ」
快くジェミニちゃんに弓を渡す。弓を受け取った彼女は、弓の重さを確かめた後、どこか懐かしそうに呟いた。
「……なんか、変わった弓。でもこの感覚、久しぶりだな」
その言葉を聞いて、おや、と思った。久しぶり、とは。
「ジェミニちゃん、弓使えるの?」
「ん、まあね」
弓の弦をピン、と弾きながら、彼女は答えた。
なるほど。それなら、私が弓初心者だと見抜いたのにも頷ける。そうなると、多分、弓に関しては彼女のほうが上なのだろう。これはもしかしなくても、色々と学ぶことがあるような気がする。
「あ、矢、一本貸して」
「うん。どうぞ」
言われた通り、矢を一本手渡す。
矢を受け取った彼女は、私が射た的に目を向け、弓を構えた。真剣な眼差し。しかし、その目に殺気は宿っていない。それを見て私は、彼女はこれまで、何かを殺すために弓を射たことはないのかもしれない、と思った。
矢をつがえ、徐々に力を加えて引いていくジェミニちゃん。それはまるで、透明な水が川を流れていくような、美しく完璧な動作だった。
そして、弦が顔に付くくらい、いっぱいまで引き切った瞬間、彼女は手を離した。
ヒュンッ、と風を切る音。放たれた矢は、まるで最初から決められていたかのように、まっすぐ緩やかな弧を描いて空中を飛び、まるで最初からそこにあったかのように、私が当てた矢のすぐ上に当たった。
「……おぉ」
思わず、感嘆の声が漏れる。無意識のうちに息を止めていたようだ。完璧な射撃を見せてくれたジェミニちゃんは、ゆっくりと弓を下げて髪を整えた。そのほんのわずかな動作まで、私にはとても美しく見えた。
「……凄い」
「そう。まあ、これでも里一番の名手って言われてたからね。十年前は」
「そう、なんだ」
これで十年のブランクがあるなんて、そんなまさか。信じられない。それほどまでにこの動作は、彼女の体に染みついているのだろう。聖女になるのが嫌で里から逃げたりしなければ、彼女はきっと、もっと素晴らしい弓の射手になっていたはずだ。
しばらく弓を射た余韻を味わうように目を閉じていたジェミニちゃんは、瞼を上げ、心から満足した顔で私に弓を返してきた。
「ありがと、レイラちゃん。久しぶりに気持ちよかった」
「あ、うん」
自分の手に帰ってきた弓の重さ。でも、なんだろう。こうして弓を持っているだけでも、なんだか引け目を感じてしまう。あんなものを見せられてしまっては、もう、今までのようないい加減な使い方はできない。あんな適当に、ただ矢をつがえて引いて離した、みたいな使い方では、弓に申し訳ない。
そう思った私は、ジェミニちゃんを見た。私より背の低い彼女は、なんだか不思議そうに私の顔を見て、小首を傾げた。
「……ねぇ、ジェミニちゃん」
「何? レイラちゃん」
「あの、もし、よかったらさ。私に、弓、教えてくれない、かな」
「え?」
私からのお願いに、彼女は一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに頬を緩めて、
「うん! 喜んで!」
と笑顔を見せた。
そういうわけで、今日からジェミニちゃんが、私の弓の先生になった。すぐそこで師匠達が激しく戦っている間に、早速基本を教えてもらう。
「まずは立ち方からね。こんな感じ」
「こう?」
ジェミニちゃんが示した手本を真似してみる。
「えと、もっと足を開いて。横向いてから前を向く、みたいな感じで」
「……こうかな」
言われた通りに立つ。今度はさっきよりも少しだけ、型にはまったような感覚がした。
「そうそう。で、弓の構え方だけど……。こう、腕をまっすぐ伸ばして」
「まっすぐ」
腕を、伸ばす。弓が目の前に来る。
「うんうん。そう。矢は、ここを持って、ここをこう引っかけて……そう。いい感じ」
「うん」
「ああ、そうじゃなくて。こう持って、こう引く」
「……こう引く」
言われた通り、引く。確かに、こっちのほうがやりやすい。
「そう。で、ゆっくり引いて。ゆっくり」
「ゆっくり」
「引きながら、的を見て。手首、気を付けてね」
「うん」
弦が引き絞られ、弓本体がしなる。そのギギギという音が、なんだか心地よく聞こえる。
そう言えば、この弓は何でできているのだろう。木、ではないことは確かだが、鉄とも微妙に違うような気がする。剣の素材もはっきりしていないし……いや、駄目だ駄目だ。今は、弓を引くことに集中。折角ジェミニちゃんに教えてもらってるんだ。このまたとない機会、無駄にはできない。
「的を見て。よく狙って」
「……狙い方が、よくわからないんだけど……」
前々から疑問に思っていたことを、ジェミニちゃんに尋ねる。今回はあえて、義眼は使っていない。折角教えてもらっているのにこれに頼ってばかりなでは、なんだかズルい気がした。それに、普通の人の左目にはこんなもの入っていないのだから、義眼を使わなくてもできるようにならないといけない、とも思った。
「とりあえず、的を見て。手のすぐ上、弓の左側の……ここ。と、的の端が重なるように。高さは、感覚だから。射てみないとわからないかな。視線は的に。右目で照準を合わせて」
ジェミニちゃんが指を差してくれた場所に的を持ってくる。狙うは、さっきジェミニちゃんが射た矢の少し上。
「わかった……」
「ゆっくり引いて。そう。で、右手を頬にくっつける。くっつけるまでにできるだけ狙いを定めて。つけたら放すつもりで……。よし、今」
「っ……」
矢が飛んで行った。放たれた矢は、さっきジェミニちゃんが当てた場所から左に七センチ、上に二十センチの場所に命中。でも、それは私が狙っていた場所とはかなりズレていた。
む……まあ、最初だし、仕方ないか。
「どう。これが、基本かな」
「……ふぅ。結構、難しいんだね」
慣れていないせいか、やはり変な所に力が入っているような気がする。それとも単に、これまであまり使ってこなかった筋肉を使っているせいなのだろうか。剣と弓では全然違うのだから、それも当然か。
「最初は、誰だってそんな感じだよ。慣れないうちは基本に忠実に、ね。私のは、あまり実践的じゃないかもしれないけど。でも、本当に上手だったよ、レイラちゃん。本当は、弓、結構使ったことあるんじゃないの?」
「あ、そう。どう、なんだろう。自分じゃよくわからないんだけど……」
確かに少し、感覚的にわかる部分もある。でも、なんというか、その感覚は初めて剣を使った時よりも薄い。恐らく私は、弓よりも剣のほうをよく使っていたのだろう。それならば、感覚が弱いのにも納得できる。
「初めてで的に当てることができるんだもん。絶対体に染みついてるよ。そんな気がする」
「そっか。……でも、ジェミニちゃんが教えてくれたやり方のほうが、自分でやってみた時より、やりやすかったよ。ありがとう。これからもよろしくね」
「う、うん。こっちも、ありがと」
私の言葉に、彼女は照れたように目を泳がせた。そして、
「その……嬉しかった。レイラちゃんに弓を教えてって言われて。だから、ありがとう」
「あ、うん。よろしくね」
そうやって二人して照れくさく笑っているところに、剣を背中に引っかけた師匠が声をかけてきた。どうやら、カイとの鍛錬は終わったようだ。
「おーい、そっちの弓姉妹。そろそろ終わったか?」
師匠の言葉に、ちょっと驚く。突然変なことを言われたからだ。
「し、姉妹、ですか」
な、なんか恥ずかしいな。ジェミニちゃんと姉妹、なんて。
心なしか、ジェミニちゃんのほうも恥ずかしそうにしている。今の今まで結構近い距離でくっついていたので、それのせいもあるかもしれない。
「おう。そうだ。そうやってエルフが二人並んでると、姉妹にしか見えん」
「は、はぁ……」
師匠は私達を指差してそう言った。
ジェミニちゃんと姉妹と言われるのは、別に嫌なわけじゃなかった。むしろ、嬉しいかもしれない。でも姉妹というからには、どうしても気になることが一つ。
「ちなみに、どっちが姉なんですか?」
「んー、そうだな。弓を教えてた時は、ジェミニのほうが姉に見えたな」
「む、そうですか……」
自分が姉ではなくて、ちょっとがっかりする。でも、すぐに冷静になった。
……まったく、私はいったい何を期待していたのだろう。姉妹の上下関係なんて、別にこだわるようなところじゃないのに。でも、姉と言われたジェミニちゃんの顔が少し得意そうなので、なんだか負けた気がして悔しい。
そんな私達を見ながら、師匠が言葉を続ける。
「でも、今朝のジェミニは妹みたいだったぞ。レイラの腕を抱き枕にして。ありゃ完全に妹だ」
「あ、うぅ……アドレ、見てたの?」
師匠の思わぬ発言に、途端に頬を赤く染めるジェミニちゃん。そんな彼女に、師匠は追い打ちをかけた。
「ああ。みんな見てた」
「うぅ……」
ジェミニちゃんは耳まで真っ赤になって、フードを被った。三人からの視線に耐えられなかったらしい。
そんな彼女の様子にも気付かない師匠は、振り返ってもう一人の弟子に尋ねた。
「だよな? 兄弟子さんよ。可愛かったよな?」
「チッ……うるさい」
服を土で汚したカイは、そう言って師匠を睨んだ。どうやら今日も、彼は師匠に勝てなかったようだ。
「ま、小さな妹をいじるのはこれくらいにして、宿に戻るぞ。飯にしよう」
「はい。さ、行こ。ジェミニちゃん」
私はジェミニちゃんと仲良く手を繋いで、四人で宿への道を戻り始めた。今日は既に色々あったが、一日はまだ、始まったばかりなのだ。




