第二十三話 心の距離の縮め方
「うぅ……こ、こっち、見ないでよ……?」
生まれたままの姿になった私は、タオルで前を隠しながら、濡れた石の床に足を付けた。
「冷た……っ」
床の冷たさに驚いて、思わず声を漏らしてしまい、今の声でカイが振り向くのではないかと思った私は、ビクビクしながら様子を伺った。しかし目の前のカイは、黙々と体を洗っていた。
先ほど景色に見惚れていた時は気付かなかったけれど、脱衣所と湯船の間には、体を洗うための石鹸や椅子などが置いてあった。汚い体で温泉に入るなということなのだろう。私も、折角温泉に入るというのに、自分の体が汚いのは嫌だ。
私がお風呂場に入っても、カイは特に気にした様子もなかった。この感じだと、わざわざ忠告などする必要もなかったかもしれない。でも、今の私は、どうしてもそう言っておきたい精神状態だった。
泡と戯れているカイから離れた椅子に座り、温泉から溢れ出たお湯を頭から被る。髪の毛が濡れて重くなり、空気に触れている肌の上を温かいお湯が流れていく。これだけでもう気持ちがいい。
次に、白色の固形石鹸をタオルで泡立てて、体を洗っていく。石鹸はあまり使ったことがなかったので、泡に触れるのはとても新鮮だ。でも、すぐ近くにいる裸のカイのことがどうしても気になって、体を洗うことに集中できない。洗い始めて五秒も経たないうちに、またチラチラと視線を送ってしまう。
……み、見てない、よね?
彼は相変わらず、ただ機械的に体を洗っている。所々泡で隠れたその背中が、なんだか艶かしく見えてしまう。
うぅ、やだ。何を考えてるの、私……。
あらぬ想像に顔を赤くするが、いつの間にか私は、カイの背中から目が離せなくなっていた。一人で体を洗っている彼が、なんだかとても、寂しそうに見えらから。
……うぅ、やっぱり恥ずかしい。けど、折角一緒に入ってるんだし……背中、流してあげようかな。それに、カイは一応、先輩なわけだし。
そう考えた私は、自分の体を軽く流してから、またタオルで体を隠しながらカイの後ろに立った。その気配に気付いたカイの顔が、わずかに動く。
「……おい、何を――」
振り向きかけたその顔にタオルをかざして、強めに言う。
「み、見ないで。……背中、流してあげる、から……」
「……そうか」
カイは無感情な声でそう言って、前を向いた。
よ、よし。これで、大丈夫かな。
私はもう一度石鹸を泡立てて、タオル越しにカイの背中に触れた。大きくて、筋肉質で、そして、至る所に傷の残る、男性の背中。
「……カイの、背中、傷だらけだね……」
「……そうか」
古いものも新しいものも、小さなものから深そうなものまで、沢山。これを見るだけで、カイがこれまでどんな生活をしてきたのかが想像できる。
……そういえば、私はまだ、カイのことを何も知らない。もう出会って四ヶ月、旅を始めてからは三ヶ月も経つのに、カイが私と出会う前の話を、ほとんど聞いたことがない。これだけ一緒に過ごしてきたのに。……なんだか、寂しいな。どうせこれからも一緒なんだから、もうちょっとくらい、仲良く、なりたい。
そんなことを考えながら、恐る恐るタオルを動かす。自分では手の届かない背中の真ん中を、重点的に洗ってあげる。
「だ、大丈夫? 痛くない?」
「……別に」
心配になって聞いてみるが、反応は薄い。こんな状況でも、カイはいつも通りだった。
痛くないのならと、背中をタオルでゴシゴシ擦っていく。そんな中、不意にカイが口を開いた。
「……昔の、古い傷だ」
「あ、そう、なんだ……」
背中の話だろう。なんと返せばいいのかわからなくて、そこで会話が終わった。
驚くほど普段通りの空気の中、私はカイの背中を洗い終わった。桶にお湯を溜めて、背中の泡を流す。
「終わったよ」
「……そうか。……ありがとう」
「えっ? あ、う、うん。どう、いたしまして……?」
突然の感謝に戸惑いつつ、そう返す。そして、自分が今、初めてカイに感謝されたのだということに気付いて、ちょっと嬉しくなった。
……思い付きでやったことだったけれど、これで少しは、仲良くなれたかな。
わずかな満足感を胸に、自分が元居た場所に戻ろうとする。その時、背後でカイが立ち上がって、言った。
「……座れ。次は、俺がやる」
「……え?」
意外な言葉だった。驚いて、思わず振り返る。
――そして、自分の顔がこれ以上ないほど真っ赤になっていることを自覚しながら、前に向き直った。心臓がドキドキしている。今更ながら、ここがお風呂場だということを思い出した。
……見ちゃった。見ちゃったよ。どうして、どうしてカイは腰をタオルで隠さないの。いや、確かにタオルは体を隠すためじゃなくて、洗うためにあるんだけどさ。でも、ねぇ? カイには恥じらいっていうものがないの? 表情だけじゃなくて、感情もないの?
「……早くしろ」
「は、はいっ」
裏返った声で返事をして、カイの言葉に従う。私はさっきまでカイが座っていた椅子に腰を下ろし、カイが洗ってくれるのを待った。
「……髪、邪魔だ」
「あ、ご、ごめん」
カイに注意され、私は自分の髪を体の前に持ってきた。その直後、背中にタオルが触れて、ちょっとビクッとする。そんな私に構わず、カイはそのままタオルをゴシゴシと動かした。強く、でも、痛くはない。どちらかというと、優しい感じ。
「……お前の背中は、綺麗なんだな」
「えっ? あ、う、うん……」
私がカイの背中について話をしたせいか、カイのほうからも、私の背中を見た感想を言ってきた。
綺麗って……急にそんなことを言われると、なんか、恥ずかしいんだけど。これって、背中を褒められてるわけじゃなくて、傷跡がないってことだよね。さっきはそういう話をしてたんだし。
「……なんか、怪我しても、すぐに治っちゃうんだよね。跡も、全然残らないし」
「……そうか」
背中に限った話ではない。私の体は全部そうだった。師匠との鍛錬でいくら痣を作っても、擦り傷を作っても、気が付いたら治っている。骨折のような大きな怪我でさえも、三日から四日あれば治ってしまう。どうやら私は、そういう体質のようだった。
周りの人はみんな驚くので、恐らくこれは普通ではないのだろう。でも、おかげでお医者さんの手を煩わせなくて済むし、入院期間も圧倒的に短くなる。どうしてこんなに怪我の治りが早いのかはわからないけれど、これが悪い体質ではないことだけは確かだ。
「……奇妙だな」
「そう、だね。私も、そう思う」
カイの感想に同意する自分のことがおかしくて、ちょっと笑ってしまう。自分のことを自分で奇妙とは。何を考えているのだろう。恥ずかしさでおかしくなってしまったのだろうか。
そんな話をしながら、カイは背中を洗ってくれる。そして最後に、彼は背中の泡を流してくれた。
「……終わったぞ」
「う、うん。ありがとう。……気持ち、よかったよ」
「……そうか」
カイの意外な気遣いに感謝する。まさか、カイに背中を流してもらえるとは思っていなかった。
その後、カイは泡だらけのタオルを軽くすすいで、湯船に向かっていった。裸足の足音が止まり、水の音が聞こえてくる。その間、私は椅子に座ったまま前だけを見て、また恥ずかしさに心臓をドキドキさせていた。今振り返ると、また何かが見えてしまいそうな気がしたから。
二分くらい待ってから恐る恐る振り返ると、カイは温泉に浸かって景色を見ていた。こちらを振り向く様子はない。
……もう、大丈夫かな。
私は立ち上がって、温泉に向かった。
湯船の縁にしゃがんで、まずは足から温泉に入る。見た目にはわからなかったけど、結構熱い。そして、その熱さに慣れてきたら膝、腰と、順番に湯の中に入れていく。途中、長い髪の毛が湯に入らないよう、タオルを使って頭の上で巻いた。髪をまとめるためのゴムを持ってくればよかったと、ちょっと後悔する。
お腹、胸と体を沈め、肩まで温泉に浸かる。体がぽかぽかして、とても気持ちが良い。
「ふぅー……」
カイからは少し離れた所に落ち着き、深く息を吐く。
目の前には自然いっぱいの美しい景色。連なる山々がカラフルな紅葉模様に彩られ、まるで巨大な紙の上に、赤系統の絵の具をばら撒いたみたい。カイと一緒だというこの状況は恥ずかしいけれど、こうして一緒に景色を見るのも、悪くないかもしれない。
そんなことを思って、私は横目にカイの様子を見ながら、ちょっとだけ近付いてみる。すると、それに気付いたカイは、私が近付いた分だけ遠ざかった。
それを見て、確信する。やはり私は避けられている。そう思うと、とても悲しい気持ちになった。先ほど背中を流した時、少しは距離を縮められたのではないかと思ったのだが、そうではなかったようだ。
「……ねぇ。カイって、私のこと、嫌いなの?」
私は思わず、そう尋ねた。私から離れようとしていたカイの動きが、はたと止まる。そして、目の前の景色を見つめたまま、カイは答えた。
「……わからない」
シンプルな言葉だった。それを聞いて意外に思った。彼は、私のことを嫌っていたわけではなかったのだ。
「あ……そう、なんだ」
だが、私はカイの言葉を嬉しく思っていいのかわからず、曖昧な言葉を漏らした。今はまだわからないということは、これから嫌われてしまうかもしれないから。
これ以上近付いてもいいのか迷っている私に、カイは続けて言った。
「……お前の目を、見た時。なんというか、今までにない何かを、感じた。……その目で見られると、落ち着かなくなる」
「そう……」
どうやらカイは、私の目、オッドアイが嫌いなようだ。なんとなく想像していた通りだった。
温泉に入っているので当たり前だが、私は今、眼帯を外している。だから彼は、私から遠ざかろうとしていたのだろう。
「……ごめんね」
私のせいでカイが不愉快になっていると知り、謝る。でも、彼は小さく首を振った。
「……いや。別に、お前が悪いわけじゃない」
そう言うと、今度はカイのほうから私との距離を詰めてきた。
「あ、ありがと……」
そのまま少しずつ距離を詰まっていき、ついに肩が触れ合う。緊張が最高潮に達して、顔が熱くなっているのを感じる。視界の端に、カイの顔が見える。
私はカイの方を向かないよう、景色を見たまま言った。
「……また、一緒に来たいね」
「……ああ」
眼下の景色は、紅葉と夕日が混じり合い、徐々に赤みを増していた。
◇ ◇ ◇ ◇
私とカイが温泉屋さんを出ると、お店の前には師匠とイェージャさんの姿があった。
「お、帰って来たな」
「お帰りぃ。温泉、どうだったかしらぁ」
二人とも仲良さそうに肩を並べている。イェージャさんは相変わらずの間延びした口調だ。
「あ、はい。凄く、よかったですよ」
イェージャさんの質問に答えると、温泉の中でのことを思い出してしまった。隣にいるカイのことを意識してしまい、少し顔が赤くなる。それを誤魔化すように、私は軽く髪に触れた。長く伸びた髪の毛はまだ乾ききっておらず、温泉の香りがほのかに漂っている。
「お、なんかホカホカしてんな。髪、ちゃんと乾かしたか?」
そう言って師匠は私の頭に手を伸ばし、髪の毛をぐしゃぐしゃにした。束になった髪が揺れて、地面に水滴が落ちる。
「や、ちょ、やめてくださいよ」
急な行動に嫌がるけれど、師匠はやめてくれない。
なんか、最近の師匠、いちいちやることが鬱陶しいんだけど……。
温泉を出た時にできるだけ水分を拭いたのだが、これだけ長い髪が完全に乾くのには、まだちょっと時間がかかりそうだ。
「あ、そうだ。イェージャさん。これ……」
貸してもらった札を差し出す。あの貸し切り温泉に入るためのお札だ。これのおかげで、今日はいい温泉に入ることができた。でも、私が持っていたら彼女も困るだろう。そう思って返そうとしたのだが、
「いいのよぉ。そのまま持ってなさい。この町にいる間は、好きに使ってくれて構わないわぁ。どうせ、私以外使う人いないんだしぃ」
「え、いいんですか?」
そんな簡単に専用のお風呂を使ってもいいのかと驚いたが、持ち主のイェージャさんがそう言うならと、もう一度お札をポケットにしまう。
……ということは、この町にいる間はずっと、あの温泉を使い放題、か。なんだか申し訳ないけど、ちょっと、嬉しい、かな。
「あ、ありがとう、ございます」
「素直でいいわ。うふふ、照れちゃって。可愛いわねぇ」
すっかり母親気分になったイェージャさんにからかわれる。
そんな時、私の嗅覚が、いつもと違う何かを感じ取った。
「……? 何か、変なにおい、しませんか?」
首を傾げつつ問うと、手を引っ込めた師匠は眉を潜めて、
「は? どうした急に。温泉のじゃないのか?」
何やら戸惑っている様子の師匠だが、私は彼の言葉に首を振った。
「いえ、私達じゃなくて、イェージャさんと師匠の方から……」
確かに温泉の香りもまだ残っているけど、それとは違う独特な臭いが、師匠とイェージャさんの方から漂っているような気がした。
……なんだろう。よくわからないけど、頭の中に、ねばつくようなイメージが浮かんでいる。あまりいい印象が持てない臭いだ。
「気のせいだろ」
「ほんとですって。変ですよ。お二人も温泉に入ってきたほうがいいです」
私の話をまともに聞いてくれない師匠に、唇を尖らせる。嗅覚には自信があるのだ。絶対に変な臭いがする。師匠だって気付いているはずだ。納得がいかない。
そんな私に、イェージャさんが何か思いついたような顔で言った。
「あら、気になった? ごめんなさいねぇ、さっきまで部屋でお香を焚いていたのよぉ。きっと、それのにおいねぇ」
「え? あ、そうなんですか」
お香か。この人がそういうのなら、そうなのだろう。お香にも色んな香りのものがあるし、こういう、ちょっとおかしな香りのものがあってもおかしくない。
「ちなみに、そのお香は何の香りなんですか? あんまり馴染みがない香りなので……」
初めて嗅いだ香りだったので、イェージャさんに尋ねてみる。すると彼女は、
「うん? うふふ、それはねぇ。愛、の香りよ」
「……?」
何やら意味深な笑みを浮かべて、イェージャさんは言った。その言葉の意味がよくわからなかった私は、彼女とその隣に立つ師匠の顔を見比べて、ただ首を傾げていた。
時間も遅くなったので、私達は宿への帰路に就いた。赤く焼けた空に夕焼けの残り香を感じつつ、役場に戻っていくイェージャさんを見送り、三人で町を歩く。
「で、レイラ。どうだったんだ。温泉」
真っ先に口を開いたのは、師匠だった。さっきイェージャさんにも同じようなことを聞かれた気がするが、素直な感想を述べる。
「よかったですよ。凄かったです。温泉もそうですけど、景色が本当に綺麗で。ね、カイ」
「……そうだな」
そう言って私は、隣を歩くカイの方を見た。彼との距離は、いつもよりほんの少しだけ近付いているような気がした。
「いや、そっちじゃなくて。入ったんだろ? 二人で。何か、したのか?」
「へ? あ、うぅ、それは……」
二人で、と師匠に言われた途端、私は顔が真っ赤になった。
……師匠は、知っていたのか。あの温泉が混浴だと。知っていて私達を行かせたのか。っていうか、あそこは確かイェージャさん専用の温泉だって言ってた。それなら……そうか。だからあそこは、温泉が一つしかなかったのか。一人しか使わないんだから、男湯も女湯もあるわけないじゃないか。
今更ながら気付いた。すべては、カイに付いていくように指示した、師匠の仕組んだことだったのだ。男の人とお風呂に入るという恥ずかしい思いをした恨みを込めて、私は師匠を睨んだ。
「……わざと、なんですね」
「何がだ? 俺はただ、お前達の距離感がもうちょっと縮んでくれればなと思っただけだぜ?」
俺は何も悪いことはしていないぞ、とでも言いたげな顔で、師匠は肩をすくめた。しかし、師匠の思惑はお見通しだ。
師匠は言い訳を続ける。
「それに、温泉はイェージャの奴が言い出したことだ。俺に変な言いがかりをつけないでくれ」
「それは、確かにそうでしたけど……。でも、凄く、は、恥ずかしかったんですから……」
あの場で見てしまった色々を思い出してしまい、頭を振る。
できるだけ早く忘れたい。でも……ううん。こんなこと考えるから駄目なんだ。もっと、別のことを考えないと……。
「……ふん。そんなに気にするようなことか。背中を流したくらいで」
唐突にカイが口を開いて、呆れたように言った。彼は、まったくもって気にしていないのだろう。あの場でもカイは堂々としていたのだし。でも、私は違う。
「き、気にするよっ、そりゃあ、その……」
み、見ちゃった、わけだし。色々。カイのせいで。いや、カイは別に悪くないんだけど……うぅ、もう。折角忘れようとしてたのに……。
「ん、なんだ。てことはお前ら、本当に何もなかったってことか?」
私達の会話を聞いて、師匠が驚いたようにそう言った。
「は? 何もなかったって……?」
師匠は、いったい何を期待していたのだろう。温泉に入る以上のものなんて、別に何も……。
そこまで考えたところで、私は思い当たった。思い当たってしまった。そのことを想像してしまい、また顔が熱くなる。
「はぁ、まじか。お前ら、ちょうど年頃だろうに……」
残念そうに溜息を吐く師匠。だが、私はそれどころではない。耳の先端まで真っ赤にして、頭に浮かんでしまった妄想をなんとか振り払おうとする。
「なっ、は、うぅ……」
なんてことだ。師匠は、私とカイで、そういうことをしてほしかったというのか。そこまで距離を縮めろと。そんな、無理だよ。私とカイが、なんて……。
「……? 何のことだ、いったい」
いや、ちょっと。恥ずかしいからそんなこと聞かないで欲しいんだけど……。
師匠の意図に気付いてしまった私とは対照的に、何もわからない様子で首を傾げるカイ。いったい、彼はどこまで鈍いのだろう。もしかしてカイには、男女に関する知識がないのだろうか。さっきからずっと、私だけが恥ずかしがっているような気がする。
師匠も大概酷いと思うけど、カイってやっぱり、デリカシーとかそういうの、ないんだな……。
「その反応。やっぱ何もしなかったんだな、お前ら。あーあ。こいつら本当に十代かよ。つまんねぇの」
そう言って師匠は、頭の後ろで手を組んで空を見上げた。その子供のような口調が憎たらしい。
この、確信犯。面白がるようなことじゃないのに。
そうこうしている間に、もう宿は目の前だ。
「うぅ、もう、いいです! 私、先行きます」
恥ずかしい話題に耐えきれなくなって、私は早歩きでその場を離れ、ひと足先に宿の中に入った。
建物に逃げ込む直前、背後から師匠達の声が聞こえた。
「あ、おい、レイラ! ったく、あいつ、拗ねやがった」
「……さっきから何の話をしている。お前ら」
「あん? おい、カイ。流石にそれは冗談だろ。お前はわかってるはずだ。何年か前、店に連れてったじゃないか」
「……わからないから、聞いている」
その後、私は部屋の鍵を持っていなかったので、師匠が戻ってくるまで、部屋の前で締め出されることになった。それはそれで、凄く恥ずかしかった。
◇ ◇ ◇ ◇
日が変わって、翌日。鍛錬を終えた朝食の席。
「おいおい、お前、まだ拗ねてんのか。そろそろ機嫌直してくれよ」
「……やです」
箸を動かしてご飯を口に入れながら、私は短く答えた。そのままモグモグとご飯を噛みしめ、今度はおかずに箸を伸ばす。そうやってただ黙々と食事を進める。隣のカイと同じように。
「いや、昨日は悪かったよ。流石に弄りすぎた」
「……ふん」
「はぁ……レイラまで無口になりやがって。兄妹かよ、お前ら」
「何か言いました?」
「いや、別に……」
師匠の策略に嵌められて、カイと一緒に混浴に入れられた私の気持ちは、たったひと晩では収まるはずもなかった。なので、今はとにかく、拗ねている。自分でも子供っぽいとは思っているが、他に手段が思いつかなかった。
……いや、別に、カイと一緒に入るのが嫌だとか、そういうわけじゃないんだけど。ただ、師匠に妙な気を遣われたというのが、気に食わないだけ。私達は別に、まだそういう関係じゃないのに。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさん」
静かな食卓だったが、食べ終わったのは三人ともほぼ同じだった。いつもは私が二人よりも遅れていたので、黙々と食べていた私が追いついた形だ。
箸を置いた私は、師匠に今日の予定を尋ねた。しかし、私はまだ昨日の件のことを根に持っているので、いつも通りとはいかない。
「師匠。今日の予定は」
突き放すような感じを意識して、問いかける。自分で言っておいてあれだが、思いのほか事務的な口調になった。
もちろん、これからずっとこの態度でいるつもりはない。今日一日が特に何事もなく無事に終われば、それで許すつもりだ。
「ん、適当に町を歩く。知り合いに会うつもりはないぞ」
「そうですか」
そんな私の問いにも、師匠は普段通り答えた。悪かったなどと言っていたが、本当はあまり悪いことをしたとは思っていないのかもしれない。また私の中で師匠の評価が下がる。
昨日は観光客の多い表通りを中心に回り、午後は役所に行って、イェージャさんに会った。まだ町のすべてを見たわけではないので、今日は昨日行かなかった場所を中心に回ってみようとのことらしい。
「町の下の方を見に行こう。余裕があれば、裏の方にも。ああ、心配するな。この間みたいなことにはならないさ」
「……はい」
……この町にもやはり、あの麻薬組織のようなものがあるのだろうか。あの子達のように、光の当たらないところで苦しむ子供達が、いるのだろうか。だとしたら、絶対に許せない。
胸の中に暗い感情が湧き上がり、救えなかった五人の子供達のことを思い出す。フィーンを出てすぐの頃は、よく彼らの夢を見ては、泣いていた。最期、子供達に温かいご飯を食べさせてあげられなかったことを、私はずっと後悔している。
……あいつらの仲間がいたら、その時はまた、皆殺しにしてやる。
邪な考えに目を細めた私を見て、師匠は、
「そんな怖い顔すんな。可愛い顔が台無しだ」
「……どんな顔をしようが、私の勝手です」
「なんだと。生意気な口を利くようになったな、こいつ」
そう言って師匠は、また私の頭をグリグリした。嫌がるともっと面倒なことになると思い抵抗はしなかったが、私の表情はさらに可愛くなくなった。
その後、私達は町へと繰り出した。
宿を出て、先日とは逆方向に坂を下っていく。どこまで行くのだろうと疑問に思いながら進んでいくと、結局、御者さん達と別れた馬車の停泊所まで戻ってきた。そこから十歩も歩けば、もうそこは町の外だ。
馬車に乗っていた時は気付かなかったが、町の入り口には、アーチ状の大きな門があった。温泉目当ての観光客を迎えるためだろう。大きな動物の胸の骨を使って作られたようで、なんというか、迫力がある。
私はなんとなく、今まで下ってきた坂を振り返った。ここからだと、ちょうど町の全体を見渡すことができた。町の中心を貫く大通りがどうなっているのか、よくわかる。朝から多くの観光客で賑わうこの道は、下から見ると結構グネグネと曲がっていた。私達が宿泊している宿は、大体その真ん中辺りから分かれた道の先にある。
中央の道を中心に、建物が横に広がって立っている。他にもいくつか大きめの通りもあるようだ。この町は全体的に、縦に長い形をしている。
……最初見た時から思ってたけど、このリアセラムの町はやっぱり、アケルともフィーンとも違う独特な場所だ。山の中腹にあるという地理的条件もそうだけど、建物の見た目もかなり違う。建物はどれも木造で、三角屋根が多い。使われている木材は多分、全部この山から採られたものだろう。この町は温泉だけじゃなくて、木材加工や木製製品の製造に優れているようだ。
何のおかげか知らないが、この辺りでは植物の成長が他よりも早いらしい。そのせいか、町の外に見える森の植物は、これまで見てきたどの植物よりも背が高く、大きな葉っぱを持っていた。
「おい、そこのエルフ。邪魔だ、退け」
「あ、すみません」
見知らぬ御者さんに注意され、慌てて道の端に寄る。
いけない。町の分析に集中しすぎて、自分の周りのことに意識が向いていなかった。気を付けないと。
反省しつつ、そういえば師匠達はどこに行ったのかと辺りを見回す。
すぐに見つけた。二人は少し離れた所にある騎士団の詰め所で、入り口の警護をしている人に何事か聞いていた。
「なあなあ。最近ここらで、ドラゴンか何かを見かけたって噂を聞いたんだが、本当か?」
「ドラゴン、ですか。この辺りではよく耳にする噂ですよ。何ヶ月に一回はそういう話を聞きます。ですが、信憑性のある記録は一件もありません。あまり鵜呑みにしないほうがよろしいかと思います」
「ふうん、そうなのか。わかった。ありがとな」
師匠は早速、ドラゴンに関する情報を集めているようだ。
そう言えば、あの時のドラゴンがこっち方面に飛んで行ったっていう情報があったんだっけ。昨日あんなことがあったせいですっかり忘れていた。師匠に任せっきりじゃなくて、自分でもちゃんと聞き込みをしないと。
町に来た目的を思い出した私は、師匠に負けじと、適当に町を歩いていた優しそうなお兄さんに話しかけてみた。
「あの、すみません。この町の人ですか?」
「え? ああ、まあ。そうだけど」
私の顔を見たお兄さんは少し驚いたような顔をしつつ、頷いた。眼帯のことを意外に思ったのだろう。気にせず話を続ける。
「えっと、私、ここに来たばかりで、ちょっとお尋ねしたいことがあるんです。最近、この辺りで、その……おっきな魔物を見たって話、聞いたんです。それでその、本当、なのかなあって」
「おっきい魔物? うーん、この辺りの魔物は大体、他と比べると大きいほうだけど……」
「そういう、普段見かけるのじゃなくて、もっと、すっごく大きいやつらしいんです。その辺の魔物を丸呑みできちゃうくらい。その話聞いて、私、ちょっと怖くなっちゃって。確かめておきたいんです」
そう言いながら、私は少し大袈裟に怯えて見せる。ドラゴンと言うと対象が限定されてしまうので、適当に大きな魔物という括りで聞いてみた。これなら、さっきの師匠みたいなことにはならないはずだ。
私の言葉を聞いたお兄さんは、小さく頷きながら言った。
「そう。まあ、気持ちはわかるよ。でも、大きな魔物か……。あ」
「え、や、やっぱり、いるんですか?」
少し考え込んだ後、何かを思い出したように顔を上げたお兄さん。その反応を見て、私は思わず半歩下がった。
どうしよう。最初はただの演技だったのに、本当に怖くなってきた。
「そういえば、普段は山の上の方に生息してるはずのライナーグが、最近下の方にも降りてきてるって話、聞いたな」
「え……その、ライナーグって、危ない、んですか?」
「ああ。なんでも、大きさはそこのリビットラギアの四倍で、その足は家を軽々と踏み潰すとか、なんとか。君みたいなエルフが大好物って話もあるよ」
「え、え……!?」
い、家を踏み潰す? しかも、リビットラギアの四倍って……パロが四匹も積み上がっている、ってことだよね。それに、エルフが大好物とか。やばいよ。私の天敵じゃないか。そんなのが山の下に降りてきてるってことは、この町も危ないんじゃ……。
思わず周囲を見回し、本気で怖がる。冗談では済まされない情報が出てきた。
怖がる私に対して、目の前のお兄さんは突然、ぷっと吹き出した。あまりに唐突だったので、驚いて飛び上がる私。それを見たお兄さんは、なんと、お腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ、ウソウソ、最後のは冗談だよ。本当はエルフなんか食べない。あいつ、草食だし」
「え……? それ、ちょ、ちょっと! 怖がらせないでくださいよ!」
冗談って……もう。変な人。
つい大きな声を上げてしまった私の反応に、お兄さんはもっと笑った。下手な冗談に踊らされたことが気に食わなくて、私は唇を尖らせる。
「つい面白くって。ごめんね。ところで、君のその眼帯はどうしたの? 病気?」
「え? あと、昔、ちょっと、大きな怪我、しちゃって……」
唐突に眼帯のことを尋ねられ、一瞬戸惑う。だが、ふとフィーンでおじいさんに言われたことが脳裏をよぎり、私は咄嗟に『だいぶ前に怪我をした』ことにした。もちろん、それは嘘だ。でも嘘を吐くにしても、内容は統一しておいたほうがいい。適当なことを言っていると、いつかボロが出てしまう。
「そう。ここには目に効く温泉もあるから、是非入ってってよって、言いたかったんだけど……」
「あ、すみません。私のは、その。もう、治らない、んです……」
「そうなんだ。ごめんね、変なこと聞いて」
「いえ……」
さっきまで軽い冗談を飛ばしていたお兄さんが、今度は申し訳なさそうに視線を外す。私のせいで、気まずい空気になってしまった。目のことになるといつもこうなる。触れられたくない話題なので仕方ない。でも、オッドアイをジロジロ見られるくらいなら、このほうがいい。
軽く息を吸って気持ちを切り替えた私は、お兄さんに感謝の言葉を述べた。
「えと、その、ありがとうございました。お話、聞かせてくれて」
「いいよ。気にしないで。じゃ、この町を楽しんでいってね」
「はい。ありがとう、ございます」
話を聞かせてくれたお兄さんに、丁寧に頭を下げる。彼は軽く手を振りながら私の元を離れ、私も師匠達の方に向かった。
二人の元に戻ると、私の様子を見守っていたらしい師匠が手を上げて待っていた。
「おう、ちゃんと聞き込みできてたな」
「私にも人と話をすることくらいできます」
子供扱いされているような言葉に、私はぷいとそっぽ向いて答えた。
「はぁ、まったく。そんな態度取らないでくれよ。……まあ、いいか。そろそろ移動するぞ。この町は見かけによらず広いからな。ついてこい」
「はい」
あまり抑揚を付けずに答え、私達は町の入り口を離れた。
お昼も近くなってきたからか、道には朝来た時よりも多くの人がいた。おかげで前に進むのもひと苦労だ。上手く人の流れに乗らないと、全然前に進めない。
人混みをかき分けつつ、師匠達と離れないよう気を付けながら進んでいると、前から来た人と軽くぶつかってしまった。
「わ、っと、ごめんなさい!」
ぶつかってきたのは、フードを被った小さな人影だった。
思わず謝ったが、相手はなんだか慌てた様子で、そのまま人の波に乗ってどこかへ消えていく。
あれ。……今の人。わざと?
こんなに人の多い状況では仕方ないかもしれないが、私の目には、向こうから狙ってぶつかってきたように見えた。なんだか嫌な予感がして足を止め、上着のポケットを確認する。
……ああ、やっぱり。
「……師匠。私、ちょっと用事ができたので、先に行っててください」
「え? おい。どこ行くんだよ」
「すぐに戻ります」
それだけ言うと、私は人の少ない路地に入って、さっきぶつかってきた人影を義眼で追跡した。
フードの人物は慣れた様子で人混みをかき分けていた。そして、しばらくすると脇道に入り、そのまま人気のない場所へとどんどん進んでいく。相手の位置が大体わかったところで、私も人影を追って脇道を進む。
この町の路地はフィーンと比べると幅が広いが、やはり大通りと比べると全然人がいない。並ぶ家々の隙間を縫うようにして移動して先回りし、相手の進路を予想して角で待ち伏せる。後は、相手を待つだけだ。気絶させて盗られたものを奪い返したら、騎士にでも突き出してしまおう。
……でも、あの人。いったい誰なんだろう。なんか違和感、あるんだよなあ。あんまりそういうことをするような人じゃないと思うんだけど……。
なぜ自分がそんなことを気にするのかもよくわからない。でも、私はなぜか、相手の素性が気になっていた。
しばらくして、フードの人影が小走りにやってきた。その人は用心深く後ろを見ながら歩調を緩め、ようやく安心したのか、足を止めて息を吐いた。
「ふぅ……ふふ、今日も上手くいったわ。これだけあれば、いつもよりましな食事ができるわね。あの娘、子供のくせに結構持ってるじゃない」
聞こえてきたのは、思ったよりも高い声だった。女の子だろうか。『今日も』ということは、常習なのだろう。彼女の手には思った通り、私が上着のポケットに入れていたお金の袋がある。
……子供のくせに、ね。やっぱり私って、まだまだ子供に見えるのかぁ……。
私を子ども扱いした彼女の背丈は、私と同じかそれ以下。ボロボロのフードで顔は見えないが、金色の髪の毛が少し覗いている。
「でも、流石に同族から盗るのは忍びないわね……ううん、これも生きるためなんだから。そんなこと言ってられないわ」
私は、その女の子の呟きを聞き逃さなかった。
同族? ということは、彼女も私と同じエルフなのだろうか。同じ種族の人がこんなことをしているなんて、なんだか悲しくなってくる。……あまり仲間意識はないけど。
「……さて。これだけの収穫があれば、今日はもう十分ね。ふふ、やっぱり私、ついてるわ!」
私から奪ったお金を手に、無邪気に喜ぶ女の子。けれどもちろん、私が彼女をこのまま逃がすはずもなく、
「っと、そこまでだよ」
女の子の前に姿を出した私は、驚いて固まった女の子の手首を掴むと、その手に持っていたお金の袋と、白いハンカチを取り返した。
「あ、えっ!?」
これは、フィーンで師匠に買ってもらった大切なものだ。お金も大切だけど、これを失うわけにはいかない。盗られる前と同じようにポケットにしまい、目の前の女の子に目を戻す。
私の登場に驚いた女の子は、おかしなことを口走った。
「ど、泥棒!」
「泥棒はそっちでしょ……えっと、ほら。とりあえず、一緒に来て。騎士団の詰め所に行こっか」
こういう時、本当はどうしたらいいのかわからないけれど、とりあえず騎士さんのいる所に連れて行けばいいだろう。泥棒は立派な犯罪なのだから。
そうして私が少々強引に引っ張っていこうとすると、女の子は手を無茶苦茶に振り回して抵抗した。
「やだー!! 騎士団なんかに行ったら、絶対あそこに連れ戻される。あんなとこ戻りたくないー!」
どこに戻りたくないのか知らないが、これではまるで駄々をこねる子供だ。私のことを子供扱いしていたが、彼女、私よりも子供なのではないだろうか。いや、どう見てもそうだ。
「放して! 痛い! もう!」
どれだけ手をブンブン振り回されても、私は手を離さなかった。正直に言って、この程度はなんともない。私はほんのちょっと力を加えているだけなのに、彼女はまるで手枷に繋がれたみたいに大暴れしている。
……はぁ。これも、師匠に鍛えられたおかげなのかな。
そんなことを考えていた時だった。息を切らした女の子の言葉に、私はハッとした。
「はぁ、はぁ、やだもう! 何なのよこいつ! 早く、誰か、助けて、アドレ!」
「えっ?」
今、この子……アドレって言った?
それは間違いなく、私の命の恩人の名前だった。弟子入りしてからはずっと、師匠、師匠と呼んでいたが、忘れるはずがない。彼女は、アドレさんのことを知っているのだ。
「君……師匠を知ってるの?」
「へ? し、師匠? な、何の話?」
思わず尋ねた私を、キョトンとした顔で見つめる女の子。だが、ハッと我に返った彼女は、その隙に私の手を逃れ、駆け出した。
「あ、ま、待って!!」
素早く反応したおかげで、一歩踏み出しただけで追い付いた。しかし、思いのほか女の子の勢いが強く、体が傾き、そのまま折り重なるように相手の上に倒れ込む。
「きゃあ! ちょ、退きなさいよ!!」
「待って、待ってよ。ねえ、君――」
アドレさんの知り合いなの? そう尋ねようとした矢先、もつれ合って倒れた拍子に、今までフードで隠れていた女の子の顔が見えた。その途端、私は、彼女の上に乗ったまま言葉を失った。
エルフ特有の長い耳。すすけたブロンドの髪。小さな鼻とピンク色の唇。ふっくらとした白い頬は、興奮に赤く染まっている。そして、何よりも目を引くのが、その瞳。
森の色をした左の瞳。黄金に煌めく右の瞳。二つの色を持った瞳が、私の目を見返している。
そう。彼女は、私と同じオッドアイだったのだ。




