第二十二話 夢の中の記憶
私は、知らない女性の胸に抱かれていた。
「ごめんね。本当に、ごめんね……私が、しっかりしないといけないのに……」
女性は必死に嗚咽を押し殺しているようだった。でも、私は彼女がなぜ泣いているのか、わからない。だから、私は無邪気に尋ねた。どうして?と。
「どうして泣いてるの? どこかいたいの?」
でも、目の前の女性が口を開く前に、突然視界が歪み、景色が変わった。
辺りは炎に包まれていた。
家具は壊され、洋服は黒く焦げている。手作りであろうぬいぐるみや、小さなガラクタのような小物、木製の食器など、何か、大切だったはずの物がすべて、燃えていた。
目の前に立つ見知らぬ二人の男が、私を見て何事か言い争っている。頑丈そうな鉄の甲冑に身を包み、手には血にまみれた剣。足元には、血の海の中にエルフの女の子が横たわっている。
「……ぁ、あぁ」
なんだ。これは。
目を背けたくても、できない。視線が動かせない。それが誰なのかわからないけれど、何か、とても大切な人だったような気がする。
すぐ近くで、赤ん坊の泣き声がした。そうして初めて、自分が小さな赤ちゃんを抱いていたことに気付く。
私、なんで……この子は、誰?
わからない。何が起こっているのか、わからない。でも、生々しい血の臭いは、本物とまったく変わりない。でも、これは。この光景は、現実なのか?
赤ん坊の泣き声を聞きつけて、男の一人がこちらを向いた。その足元に倒れていた女性が必死に泣きつくが、男はそれを振りほどいて、私から赤ん坊を奪い去ろうとした。
「あ……だ、め……っ」
嫌な予感がして、抵抗する。でも、私の非力な腕では、屈強な男に敵うはずもない。男は私から引ったくった赤ん坊を、力任せに地面に叩き付け、そのか弱い体を、まだ小さな頭を、何度も何度も踏み付けた。
水の詰まった柔らかい何かが潰れるような、嫌な音。女の人の悲鳴が木霊する。赤ん坊の泣き声はもう、聞こえない。
そして男が足を上げると、そこには大きな血溜まりがあった。ついさっきまでは、ヒトだったはずの……。
「あ、あ、ああ……」
いや、やだ、そんな……。
気持ちの悪い臭いが強くなる。お腹の中で、何かが蠢く感覚。気持ち悪い。吐きそうだ。
男の視線が私を捉える。言いようのない恐怖が込み上げてくる。赤ん坊の次は、私の番なのかもしれない。
逃げなくちゃいけない。本能的にそう思った。なのに、体は動かない。足の、全身の震えが止まらない。太ももの内側を、生温かい液体が伝う感覚。お腹の中が痺れたような感じがして、喉元まで何かが昇ってくる。
怖い。男の手に握られた剣が、とてつもなく怖い。
男は後ずさりする私に近付き、髪を千切れんばかりに引っ張ってくる。頭を襲う強烈な痛み。涙が溢れる。
「い、いや……いやっ……!」
痛いっ、やめてっ!
何を言っても、男は髪を放してくれない。何とか暴れようとするが、その途端、頬を殴られた。口の中が切れ、血の味が滲む。その痛みに体を動かせなくなり、私はまた、涙を零すことしかできなくなる。
「うっ、ううっ……」
なんで。いったい何がどうなっているの。私、私は、どうしてここにいるの? ここはどこ。この男は誰。あの女の人は、私は、いったい誰なの?
圧倒的な暴力に頭を混乱させながら、呻き声と嗚咽を漏らす。涙に霞む視界の向こうには、突き付けられたナイフの刃。すがるように視線を上げると、男の口元は醜く歪んでいた。男がこれから何をしようとしているのか、嫌でもわかってしまった。
「あ、あ、い、や……」
悪寒が背筋に走る。顎の筋肉が痙攣して、歯がガチガチと鳴っている。逃げようともがいていた腕から力が抜けた。言葉では表しきれないほどの恐怖が、私の体を彫像のように固めてしまっていた。
や、めて……い、や、いや……!!
「に、げて、レイラ……!」
誰かの必死の訴えが耳に届いた瞬間、左の瞳に、キラリと光る鋭いナイフの先端が――。
◇ ◇ ◇ ◇
「うぅ……」
応接間の長椅子に寝かされたエルフの少女、レイラが、目を閉じたまま小さく声を漏らす。その傍らにしゃがみ込んでいるのは、このリアセラムの長であり、魔女という異名を持つ竜人、イェージャ・ジェム・マエスロー。彼女はレイラの耳元で、何かを言い聞かせるように囁いている。その声には、相手を睡眠状態へと誘導し、夢を操る魔法が宿っていた。
「さぁ、私の声を聞いてね。あなたは今、夢の中にいるの。見えているのは全部、これまであなたが見てきた夢よ。ねぇ、何が見える? 私に教えて」
「ん……」
イェージャの問いに答えるように、レイラは小さく口を動かした。
「パロ……」
「パロ?」
その言葉に、イェージャは首を傾げ、確認するように振り返る。その先には、椅子の傍らに立って腕を組むアドレと、その隣に佇む弟子のカイ。イェージャからの視線を受けたアドレは、静かに首を振った。
「最近のことだ」
「ん、パロ……かわいい」
アドレの声に反応して、レイラが寝言のように呟く。ここ最近で最も印象に残っている夢は、二週間ほど一緒に過ごした馬車を引く魔物の夢だったようだ。
一つ頷いたイェージャは、レイラの方を向いて話を合わせる。
「そうねぇ、可愛いわねぇ。聞いて。その夢は、一度しまっておきましょう。次に思い出すのは、なあに?」
「次……」
イェージャの言葉に、思案げに呻くレイラ。そして、その顔は徐々に、悲しみに歪んでいく。
「……フリック、君……うぅ、みんな……」
「うん?」
イェージャが確認するまでもなく、アドレは首を振っていた。これも、彼が求める夢ではなかった。
「もっと前だ。……その記憶は、あまり思い出させないでやってくれ」
「やだ、みんな……ごめん、なさい……」
レイラの閉じられた瞼の端から、涙が零れる。体に力が入り、喉が絞られる。
アドレの言葉に頷いたイェージャは、素早く話題を変えさせた。
「あら、あら。辛かったわね。でも、大丈夫。あなたはそれを乗り越えたのよ。もう一度、別の夢を見てみましょう。今度はもっと前の」
少女の顔を濡らす涙を拭き、力の入っていた腕をお腹の上に置く。しばらくして、レイラは再び落ち着いた呼吸を始めた。
「さぁ、次の記憶を思い出して。あなたは今、どこにいるの?」
そんなことを何度か繰り返して、イェージャはレイラに夢を思い出させていく。
そして、数回目の試みで、彼女の様子に変化が現れた。
「さ、目を開けて。あなたは今、どこにいるのかしら?」
「ど、こ? ……ここ、どこ」
反復するように呟くレイラ。しかしその表情は、どこか混乱しているように見えた。
「よく見てみて。そこは、あなたが知る場所のはずよ」
「ん……わかん、ない。女の、人が」
「あら? それが誰だかわかる?」
「ん、苦しい……おっぱい、顔に……」
言葉と同時に、レイラの表情も苦しげに歪む。イェージャは眉根を寄せて首を傾げ、アドレを見上げた。
今度ばかりは、アドレも真剣な表情で頷いた。少なくとも彼の中には、レイラが女性の胸の中で苦しんだような記憶はなかった。
「多分、それだ。続けてくれ」
「ええ」
より一層真剣な表情で、イェージャはレイラに向き直った。本番はこれからだ。言葉に込められた魔法が強くなり、レイラが見ている光景をよりはっきりとさせる。
「何が見える? 私に教えて」
「おっぱい、大きい……泣いてる」
「泣いてる? それは、どうして?」
「わかん、ない。お父さんが、って、言って……どうして?」
イェージャの言葉をオウム返しに呟くレイラ。そこで一度彼女の表情が消え――唐突に歪んだ。
「あ……熱、い」
「どうしたの? 何が見えるの?」
ただならぬ何かを感じ取ったイェージャが鋭く問いかける。
「女の、子が、倒れて……血が、臭い、が……」
小さく語るレイラの呼吸が、徐々に早くなる。小刻みに震える体。イェージャはそんなレイラの目元を撫でて、ゆっくりと言った。
「……一度、目を閉じましょう。今度は音を聞いて。何が聞こえる?」
「あ……赤ちゃんの声。腕の、中で……」
その言葉を聞いて、アドレとカイが顔を見合わせた。まさか、それは、レイラの子供なのではないか。そんなことを考えたのだ。それはイェージャも同じだったようで、彼女は思わず確認を取った。
「……ええと、それは、あなたの赤ちゃん?」
「わ、わから、ない……あっ、だ、め……」
「何? どうしたの?」
「男が……人間の、男が、赤ちゃんを踏んで、つ、つぶし……うぅ」
レイラの瞼から涙が零れ、掠れた呼吸が嗚咽に変わる。握られた拳が服を掴む。全身の震えが大きくなる。
「チッ……」
アドレの隣で、カイが奥歯を噛みしめる。不快そうな表情を隠そうともしない。
「……目を閉じましょう。もう、見なくていいわ」
「やだ、だめ……い、いやっ……」
まるで何かを振りほどこうとするかのように、レイラの手が顔の前で動く。イェージャは驚いて飛び退いた。
耐えきれなくなったのか、その様子を見つめていたカイが口を開いた。
「……もう、十分だろう」
「いや、駄目だ。イェージャ、続けてくれ」
しかしアドレはそう言って、夢の中で苦しむレイラを静かに見つめていた。その間も、レイラは悲鳴を上げて体をビクビクと震わせている。
提案を否定されたカイはあからさまに舌打ちをしたが、それ以上何も言わなかった。
「……わかったわ」
イェージャはアドレの言葉に頷き、悪夢の中の少女が見ている光景を訪ねた。
「……何が、見えるの?」
「はっ、はっ……ナイフの、刃が、左目、に……っ」
その場にいた全員が息を呑んだ。左目。眼帯に隠されたレイラの左目は、義眼。本人にもわからない謎の瞳。その秘密が、今彼女が見ている夢の中にあるのではないか。そんな期待を胸に、アドレは次の言葉を待つ。
しかし、その秘密がレイラの口から語られる前に、彼女は一段と大きな悲鳴を上げ、体を震わせた。
「いや、助けてっ、いやっ!!」
それきりレイラは動かなくなった。その顔は涙と鼻水で濡れ、呼吸は荒く、乱れたスカートは、生温かい液体で濡れている。
「……なんてこと」
イェージャが小さく呟きながら、レイラのスカートと下着を魔法で乾かした。床にできた水溜りも消し、風を起こして室内に溜まった臭いを外に逃がす。
ぐしゃぐしゃになった顔を拭ってやりながら、イェージャは可哀想なエルフの耳元で、静かに囁いた。
「……レイラちゃん。聞こえる? あなたは今、パロの夢を見ているのよ。さぁ、さっきしまった場所から、楽しい夢を取り出して。さっきまで見ていたものは、全部忘れてしまいましょう」
「うぅん……パロ……」
小さく呟いたレイラの頭が、わずかにコテンと傾いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ん、う……」
目が覚めると、目の前に師匠の顔があった。
「起きたか?」
「……師匠?」
あれ、私……?
師匠に手を貸してもらって、体を起こす。ここは、リアセラムの役場の応接間。その長椅子に、私は寝かされていた。
「えっと……私、寝て、ました?」
私、いつの間に寝ていたのだろう。抱いた疑問を師匠に尋ねる。
「ああ。ぐっすりとな。いい夢は見れたか?」
「はい、まあ。えと……確か、パロとお昼寝する夢を見たような、気がします」
青々とした草原で、二人っきりでお昼寝をする夢。御者さんには悪いけど、パロを独り占めできて嬉しかった。夢の内容とともに、そんな気持ちが思い出される。
部屋の中を見回すと、机を挟んだ正面の長椅子には、カイと町長のイェージャさんが座っていた。カイはいつも通りの仏頂面で、イェージャさんも相変わらずニコニコしている。
「うふふ、それはよかったわぁ。いい夢を見せてあげた甲斐があったってものよぉ」
「え? それって、どういう……?」
緩い笑顔のまま、彼女は言った。その言葉の意味がわからなくて、首を傾げる。見せてあげた、とはいったい……。
その問いに答えたのは、私の隣に座った師匠。
「驚いたか? 種明かしをするとな。こいつは魔法で人の夢を操ることができるんだ。お前の寝顔を見て、なんか悪戯してやろうとか言っていたぞ」
「そんなことしてないわよぉ。レイラちゃんも、可愛い子と一緒の夢を見れたって言ってたしぃ」
「え、そ、そうだったんですか……」
無防備な寝顔を見られたと知り、私は急に恥ずかしくなって、イェージャさんから顔を背けた。なんだか、恥ずかしい秘密を知られてしまったような気分だ。
……それにしても、私、どうしてこんな所で寝ちゃったんだろう。私、ここで何してたんだっけ……。
眼帯が少しずれていたので、その位置を直しながら考える。この部屋でイェージャさんと会って、私のことを調べてくれたという話をしたところまでは覚えている。でも、その後のことがよく思い出せない。なぜだろう。まだ寝ぼけているのだろうか。
「えっと……私、なんで寝てたんですか?」
すっきりしない頭で師匠に尋ねる。すると、彼はおいおいというような顔をして、
「覚えてないか? 朝の鍛錬で疲れたーつって、ちょっと休ませてもらったんじゃないか。話は俺達だけでできるからって」
「そう、でしたっけ?」
当然のように言い切る師匠。でも、私にはそんな記憶はなかった。いや、忘れているだけなのだろうか。
うーん。やっぱりよく思い出せない。確かに今朝の鍛錬は結構疲れたけど、眠るほどじゃなかった、と思う。しかも、もうお昼も過ぎてるし。うーん。何かを忘れているような気がするんだけど……。
色々と考えながら座りを直した時、ふと、お尻の辺りに違和感を覚えた。
「……うん?」
より正確に言えば、下着とスカート。なんだか、いつもとちょっと感覚が違うような……?
「あらぁ、どうかしたの?」
居心地が悪そうに見えたのか、イェージャさんが首を傾げる。
「い、いえ。なんでもありません」
咄嗟にそう言ったけれど、やっぱり何かが腑に落ちない。何なんだろう、この雰囲気。みんなは何かを知っているのに、私だけ知らない、みたいな。まあ、ついさっきまで寝ていたのだから、それも当然と言えば当然なのだろうが。
「ま、なんでもいいじゃないか。疲れは取れたか?」
「まあ、はい。たいぶ、体が軽くなった気がします」
「ならよかった。でだ。俺らの話はもう少し続くんだが、お前はどうする。一回宿に戻るか?」
私のことを心配してか、師匠はそんな提案をした。
「そう、ですか。どうしよっかな……」
師匠の提案に、少し考える。理由はどうであれ、ここで寝てしまったのだから、体調があまりよくないのかもしれない。それに、話の流れがわからない以上、私がここにいても意味はないだろう。ここは師匠の言葉に甘えて、先に帰らせてもらおうかな。
考えがまとまり、口を開こうとした時。イェージャさんが、パン、と一つ手を叩いた。
「そうだぁ、レイラちゃん。私達がお話してる間に、温泉に入ってきなさいよぉ。気持ちいいわよぉ」
「え、温泉って……いいんですか?」
唐突な話に驚く。でも、私は少し嬉しくなった。今日町に出てからずっと、温泉のことを楽しみにしていたから。
イェージャさんの提案に、師匠は同意した。
「お、いいなそれ。寝汗とか掻いてるだろうし、一度さっぱりしてこい。ついでに、カイ、お前も行ってこいよ」
「は? ……なぜ俺が……」
「いいから黙って行ってこい。二人で行け」
「……チッ、わかった」
師匠に命令されたカイは、渋々頷いた。そんなやりとりを尻目に見つつ、私はイェージャさんから、何か札のようなものを渡された。
「はい、これ。温泉屋の番頭さんに見せてね。そうすれば、私専用の温泉が使えるから。貸し切りよぉ」
「あ、か、貸し切りですか……わざわざ、ありがとうございます」
受け取った札を手に持って、私は、なんだかいつもより不愉快そうな顔のカイと一緒に応接室を出た。
◇ ◇ ◇ ◇
レイラとカイが部屋を出た後。応接室に残ったアドレは、役場の外に出た二人の弟子を窓から眺めていた。
自分のペースで先を歩くカイの後ろを、慌ててちょこちょこと付いていくレイラ。つい数分前までは自分の記憶にうなされていたというのに、いつも通りの興味津々な顔で町を見回している。彼女は今も、眼帯に隠された義眼を使っているのだろうか。
弟子を見守る男の背中に、イェージャは声をかけた。
「よかったの? 夢のことを話さなくて。あの夢はきっと、あの子が求めている記憶。もしくは、その一部のはずよ」
「……ああ。わかってるさ」
アドレは静かに答える。そして、視界から弟子達の姿が消えた時、小さく呟いた。
「世の中には、知らないほうがいいこともある。それと同じように、思い出さないほうが、幸せなこともある」
その言葉には、どこか悲しい響きがあった。
一つ息を吐いて窓から離れたアドレは、イェージャの隣に腰を下ろした。そして、彼女の魔法によって明らかになったレイラの夢について、考察を語る。
「レイラの言葉から想像するに、あいつの家族はもういない。お前が調べてもあいつの情報が出なかったのは、恐らくそのせいだ」
「早計ね。あの子の家族がもういないだなんて。今日私がやったのは、一度見た夢を思い出させること。あの夢があの子の過去の記憶そのものなのかどうかはわからないわ。そうでしょう? アドレ。人の記憶なんて、後でいくらでも変えられる」
「だが、可能性は高い。辛い記憶が悪夢になるのはよくあることだ。あれだけの反応を示したのなら、記憶がそのまま夢となって蘇ったと考えるほうが自然だ」
イェージャの慎重な意見にも、アドレは頑なに自分の主張を覆そうとはしなかった。彼は自分なりの理論と経験則から、そう結論付けていた。
「後は、それがいつのことかわかれば、あいつの年齢が予測できる。イェージャ、お前の知る限りで、エルフの家族が虐殺された事件はなかったか」
「悲劇は、毎日どこかで起きるものよ。でも、それらしき大きな事件は、最近は聞かないわねぇ。そんな悲惨なことが起こったのなら、皆の記憶に残るはず」
「だよな……はぁ。俺にも心当たりはない。とりあえず、今日わかったことを踏まえて、もう一度調べてくれるか」
「任せて。でも、珍しいわねぇ。あなたがたった一人のためにそんなに頑張るなんてぇ」
アドレの胸に手を当てて、意味ありげなことを呟くイェージャ。アドレは含みのある彼女の視線から目を逸らして、穏やかに言った。
「別に。俺は、俺のやりたいことをやっているだけだ。いつも通り」
「そう。あ、ところで。私達、久しぶりに会ったんだしぃ、もっと積もる話をしましょうよぉ」
アドレの胸の中に入り込み、急に甘えたような声を出したイェージャ。そんな彼女に、アドレはしょうがないなと小さく笑いながら、イェージャの肩に手を回した。
「ああ。じゃあ、まず何から話そうか。……いや、こっちの話ばかりだったから、俺がお前の話を聞く番かな」
「そうよ。ねぇ、聞いてぇ。あんたからあの手紙が来た頃のことなんだけどぉ、妖精の森のエルフから連絡があってぇ……」
思い出話を始めたイェージャの話に、静かに耳を傾けるアドレ。
この瞬間の二人は、まるで十年振りに再会した恋人同士のようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ちょ、ちょっと待ってよ、カイ。歩くの早いって……」
町の役所を出た私達は、すぐ隣の建物、噂の大浴場に移動していた。今回私達はなんと、町長さん専用の温泉を使わせてもらうことになっている。待ちに待った温泉が貸し切り状態ということで、私は初めての温泉を楽しみにしていた。
でも、目の前を歩くカイは違うようだ。何か気に入らないことでもあったのか、彼の歩調はいつもより早かった。
「待ってってば。もう……」
早歩きというか、もうほとんど走りながら付いていく。そんなことをしている間に、私達は温泉屋さんの中に入っていた。
入り口の暖簾を潜ると、そこは大きな広場だった。天井は高く円錐型で、ここが建物の中であることを一瞬忘れてしまいそうになるほどだ。広場の中心には受付らしき場所があって、数人の竜人さんがいた。入り口とは反対側の壁には赤や青などの暖簾がかかっていて、その先は恐らく、温泉へと繋がっているのだろう。
「わぁ、凄い……」
大きな建物だなぁ。これだけでも、大浴場って感じがする。もしくは、銭湯とか。
私が感心している間に、カイはもう受付に行っていた。急かすような視線に気付き、慌ててカイの側に行く。そして私は、イェージャさんにもらった札を、受け付けの人、番頭さんに手渡した。
「えと、これ、どうぞ」
「あいよ」
札を受け取って番頭さんは、札と私達を見て少し不思議そうな顔をしたが、すぐに表情を戻し、二人分の風呂桶とタオルを取り出した。
「ふむ……。あの白い暖簾の所だ。少し山に入っていって、風呂場の手前に脱衣所がある。ゆっくりしていきな」
「は、はい。ありがとうございます」
何か気になることでもあったのかなと思いつつ、手渡された桶を抱えて、私達は番頭さんの示した暖簾に向かった。暖簾には何かを象ったマークのようなものが書いてあったけれど、何なのかよくわからなかったので、特に気にせず先へ進む。
暖簾の向こうは、番頭さんが言っていた通り山の中だった。けれど、木の板で作られた道と手すり代わりのロープがあったので、迷うことはない。緩やかに曲がっていく道に従い、森の中を進んでいく。しばらくすると、立ち並ぶ木々の向こうに、もくもくと湯気の立つ場所が見えてきた。
「……あそこかな?」
木の板で作られた道が終わり、ゴツゴツした岩だらけの場所に辿り着く。地面には木の板が敷かれていて、周囲は背の高い岩や木、竹に囲まれていた。周りから見られないようにする配慮だろう。つまり、ここが脱衣所ということになる。それなら、目的の温泉はこの先にあるはずだ。
そう思うと我慢できなくて、私は服も脱がずに脱衣所を通り過ぎた。そして、その先に広がる光景に、思わず息を飲んだ。
顔に吹き付ける湿気を含んだ空気。しっとりと濡れた石の床。岩でできた湯船に溜まっている、わずかに色の付いたお湯。火山性の温泉だ。
温泉の溜まっている湯船の向こうは開けていて、眼下に広がる広大な森を見渡すことができた。紅葉に彩られた森と、その先に見える遠くの山々。柔らかに立ち上る湯気が、景色の美しさをさらに引き立てている。
そこは、豊かな自然の中にある、広い露天風呂だった。
「わぁ、凄い景色……」
まだ温泉に入ってすらいないけれど、私は感動していた。こんな景色は中々お目にかかれない。この温泉を使わせてくれたイェージャさんに感謝だ。
そうして、私が露天風呂の景色に感動していると、背後からカチャカチャという金属音が聞こえてきた。剣を腰のベルトから外す時の音だ。振り返ると、カイが荷物を降ろして、腰から剣を外し、近くの岩に立てかけていた。そして、そのまま私が見ている前で、上着を脱ぎ始める。
「え? ちょ、ちょっと待って!」
私は、思わず止めに入った。確かにここは温泉だし、服を脱がないと入れない。けれど、こんな、まだ私がいるのに服を脱ぐなんて、恥ずかしいからやめてほしい。
「えと、その、ここって、男湯? なら、私は、その、また違う所に……」
「……何を言っている。ここには、男湯も女湯もないぞ」
当たり前だろう、とそのまま付け足してもおかしくない口調だった。
「え、それ、って……え?」
う、あと、えと……男湯も女湯もない、ってことは、つまり、混浴ってことで。こんよっくってことは、男と女が一緒に入るってことで。えと、そうなると、つまるところ……私とカイが、一緒に、お風呂に……?
そのことに気付いた途端、私は耳まで真っ赤になった。
恥ずかしい気持ちと信じられない気持ちで、頭の中が混乱する。そんな私に構わず、カイはまた服を脱ぎ始めていた。私はもう止めようにも止められなくなって、岩の影に隠れ、カイの姿を見ないようにした。義眼の機能も全部切って、自分の膝に顔を埋める。
うぅ、そんな、カイと一緒にお風呂なんて、恥ずかしすぎる……。
そんなことを考えているうちに、布の擦れる音が消え、裸足で床を踏むペタペタという音が聞こえてきた。そして、服を全部脱いだのであろうカイは、恥ずかしさで顔を上げられない私に向かって、
「……入らないのか」
は、恥ずかしくてそれどころじゃないよ……!
「う、さ、先に行ってて!」
心の中で叫びながらそう言う。もちろん、温泉には入りたい。入りたいけど。でも……カイと一緒に、なんて……。
しばらくの間、恥と温泉の狭間で揺れる。三ヶ月近く一緒にいたとはいえ、まだそんなに親しいわけでもないのに、男の人に裸を見せるなんて……自分の体を見るのも、まだちょっと恥ずかしいのに。それに、必然的にカイの裸も見ちゃうことになるし……。ああもう! 私、いったいどうしたらいいの……?
でも、すぐそこには素晴らしい景色と温泉がある。折角ここまで来たのに、温泉に入らず帰ることなんてできない。
「うぅ……」
結局、温泉の誘惑には勝てなかった。
恐る恐る岩陰から顔を出して、脱衣所に彼の姿がないことを確認する。そして、風呂桶に入っていたタオルで体を隠しつつ、私は一人、大自然の中で服を脱ぎ始めた。




