第二十一話 火山の恵み
フィーンを出てから、二十二日目。灼熱の砂漠を抜けた先にある山岳地帯。天気は曇り。遠くには険しい山々が見える。辺りにはまばらに木が生えていて、それらは先へ進むごとに多くなっている。多くの人に踏み固められた街道を行く私達は今、馬車のような乗り物に乗っていた。
「この辺りは普段、大きな魔物が多いんですがね。うちのパロは臆病だから、怯えちまって中々進めないことがあるんだが、今回はそういうのまったくないね。珍しい」
ガタゴトと揺れる車内で、手綱を握る御者さんが言う。パロというのは、この馬車を引いてくれている大型の魔物の名前だ。草食で四足歩行のパロは、リビットラギアという種類の魔物の雌で、体長およそ三メートル。結構大きい。そしてたまに火を吐く。でも、彼女はとても温厚な性格で、人を襲うことはまったくないらしい。
私は最初、魔物と聞いて無条件に怖いと思っていたけれど、十日間も一緒にいると、そんな感情もいつの間にか消えていた。今では、クリクリした緑色の目が可愛いとすら思える。向こうから顔をスリスリして甘えてくることもあり、もうすっかり仲良しになっていた。
そんなパロと一緒に街道を行き来している御者さんは、文字通りこの道十年以上のプロ。砂漠を出てすぐの所にあった小さな村と、この先にある町とを往来し、人や品物を運ぶ仕事をしている人だ。二週間ほど前に知り合い、目的地が一緒だということで、ご一緒させてもらうことになった。
そうして出会った御者さんの言葉通り、砂漠を抜けた後、生息している魔物の種類はガラリと変わっていた。草食の魔物は人を丸呑みできるくらい巨大で、それを食べる肉食の魔物はさらに大きく、四、五メートルくらいある。まるで、恐竜の世界に迷い込んだかのようだ。
数日前に一度、草食の魔物の群れが馬車の隣を並走したことがあり、その時は凄い迫力だった。けれど、それ以来魔物との遭遇はなく、道中はとても平和だった。
「へぇ、そうなのか。俺らの日頃の行いが良いからかな」
「またまた。今回は可愛い娘さんが乗ってくれてるからでしょう。嬢ちゃんには何かしらの祝福か、加護があると見たね」
師匠の軽口を否定した御者さんは、振り返って私を見た。
「……そう、ですか」
御者さんの言葉に、私は遠くを見たまま静かに答える。そんな私に、御者さんは少し悲しそうな表情になる。
「はぁ、相変わらず元気がないねぇ。嬢ちゃんが笑顔でいてくれたら、おじさんも元気が出るってのに」
私を励まそうとしているのか、そんなことを言いながら前に向き直る御者さん。でも、申し訳ないが、そんな言葉では私の気持ちは明るくならない。
フィーンで子供達を死なせてしまったショックは、たった三週間程度で癒えるはずもなく、私は少し、塞ぎ込みがちになっていた。
「はぁ、レイラ。お前、まだ気にしてんのか」
黙って外を見続ける私に、師匠が言った。いちいち言われるのは気に入らないが、その通りだった。
「……悪いですか」
「悪いさ。いつまでもそんな調子だと、こっちまで気分が暗くなってくる」
そう言って師匠は、わざわざ私の隣に座り直した。ただでさえ狭い荷台が、さらに狭くなる。私は、あからさまに嫌な顔をした。
そんな私に構わず、師匠は私の頭に手を乗せる。
「元気出してくれよ、レイラ。次の町も近いんだから」
そのまま、ゆっくりと頭を撫でられる。鬱陶しくてやめてほしいと思ったが、私は黙り続ける。
「あ、そういや、次の町は温泉が有名なんだったなー。みんなで一緒に温かい温泉に入って、一回気分を変えようぜ」
わざとらしく師匠は言った。その話を聞いて、少しだけ顔を上げる。
「……はい」
温泉、ね。まあ、魅力的ではあるけれど。
師匠の言葉にとりあえず頷いて、私はまた、義眼を使って周囲の警戒に戻った。
その後少し経ってから、師匠が言った『みんなで一緒に』という言葉の意味に気付き、私は一人赤面していた。
そのまま何事もなく、数時間後。義眼を使って辺りを警戒していたところに、御者さんの声が聞こえた。
「お、見えてきた。お三方、あそこがリアセラムですよ」
馬車の横から顔を出して、御者さんの指差す方向を見る。そこには、今までは遠くに見えていた高い山が目前にあった。
「あれ、ですか」
街道の続く先にある高い山。その中腹辺りに、私達の目的地、リアセラムがあった。
この町はフィーンとは違い、木造の建物が多かった。平屋の建物がほとんどだ。温泉が有名だからか、湯気のようなものが所々に見られる。町は山の真ん中辺りまで続いていて、さらに標高が高くなると、山肌は段々と白くなっていく。頂上付近は雲に隠れて見えない。
左目を使って山を解析すると、あの山の地下にはドロドロのマグマがあることがわかった。つまり、あれは火山だ。でも、あまり活発な活動はしていない。火山のすぐ側にあんな大きな町があるのも、長年噴火していないからなのだろう。温泉が出るというのも、火山のおかげという訳だ。
山の麓には、広大な森が広がっていた。けれどそこは、今まで見てきたような深い緑色の森ではなく、赤だったり黄色だったりと、とてもカラフルな森だった。木々が紅葉しているのだ。
「凄い、ですね。これって……」
「紅葉だな。やっぱり、紅葉はここが一番綺麗だ」
「いい時期に来れましたね、お客さん。これだけの紅葉は滅多に見れないよ」
「……ふん」
それぞれの感想を聞きながら、私は色付いた森を眺め続ける。
……森、か。久しぶりだな。ちょっと、行ってみたいかも。
これもエルフとしての本能なのか、ここしばらく十分に自然と触れ合っていなかったせいで、目の前の森に心惹かれる。あの森の中に入ってみたい。自然を感じたい。でも、ここはフィーンとは違う。どうせ町の中にも自然はあるのだからと我慢して、私は馬車に揺られ続けた。
私達を乗せた馬車は、多くの人や他の馬車とすれ違いながら山道を上っていく。そして、町の入り口を抜けて少し行った所で、馬車は止まった。
「よし、到着だ。長旅お疲れさん」
周りには沢山の人が行き交い、似たような馬車が他にもいくつか止まっている。どうやらここは、荷物や人を降ろしたり、積み込んだりする場所のようだ。
「よっと。ほら、レイラも降りろ」
「は、はい」
先に降りた師匠に手伝ってもらいながら、馬車を降りる。背中の荷物は、三週間前よりも幾分か軽くなっていた。
師匠は御者さんにコインを投げて、馬車に乗せてくれたお礼を言った。穴あきの銀貨だった。
「ふう、ありがとう。おかげで結構な楽ができた」
「いやあ、これが俺の仕事なもんで」
肩をすくめて御者さんは言う。もしこれがずっと歩きだったら、さらにもう一ヶ月くらいかかっていただろう。それに、終盤はずっと上り坂だったから、馬車がなかったらとても辛かったはずだ。パロと御者さんに大感謝だ。
地に足を着けてもまだ体が揺れているように感じる中、ふと、パロがいつもと違う声で鳴いていることに気付いた。
「あ、パロ……」
馬車の前に出て、ゴワゴワしたパロの体を優しく撫でる。人の肌とも魚の鱗とも違う、不思議な皮の手触り。私に触れられた彼女は低く鳴きながら、首を動かして顔をすり寄せてきた。私もそれに応えて、体を預ける。
フィーンを出てから一週間歩いて、そこから十五日間は、この馬車に乗せてもらった。長かった馬車の旅も、これで終わり。初めて乗った馬車の乗り心地はあまり良いものではなかったけれど、いざ終わってしまうとなると少し寂しい。
……この子とも、一緒に旅ができればいいのに。
フィーンでの悲劇を経験した後、唯一心の支えになってくれたのが、このパロだった。彼女のおかげで、私は少しだけ元気を取り戻すことができた。まだ万全とは言えないけれど、フィーンを出たばかりの頃に比べれば、大分マシになっていると思う。
「レイラ、そろそろ」
名残惜しいが、師匠に呼ばれて渋々離れる。パロも、寂しそうに低く唸っていた。
そんなパロを見て、彼女のパートナーである御者さんが羨ましそうに言う。
「すっかり懐いちまったなあ。俺がパロと仲良くなるのも、結構大変だったのに。嬢ちゃんにはやっぱり、何かの祝福がついているんだろうね」
「そう、なんですか……」
「絶対そうさ。じゃあな嬢ちゃん。またこの辺りに来た時は、挨拶くらいしてくれよ」
「はい。……ありがとう、ございました」
「こちらこそ」
そう言って御者さんは馬車に乗り込み、パロに合図をした。馬車はいつもよりゆっくりと進んでいき、人混みに紛れて見えなくなった。
……行っちゃった。
「さて。いつまでもこんな所にいたら邪魔だな。俺達も行くか」
「……はい」
旅に別れは付き物。落ち込む心にそう言い聞かせながら、私達は宿を探して町を歩いた。
温泉が特産だというリアセラムは、人で溢れていた。これまで見てきた町、特にフィーンとの差が激しい。有名な温泉地なだけあって、観光で訪れる人も多いようだ。そこら中からいい匂いがしてくる。
リアセラムはさっきも見た通り、大きな火山の中腹にある町だ。そのせいで、ここには坂道しかない。温泉は山の上の方から湧き出ているらしく、坂を上っていくほど温泉宿が多かった。その一番上にある高級温泉宿は、この町で一番の人気と、一番の宿泊料を誇っているらしい。
でも、私達にそんな贅沢をする余裕はないので、表通りから外れた手頃な宿を取った。温泉のない宿だが、その分値段が安い。
町に着いた時間が遅かったので、部屋に入った頃にはもう夕暮れだった。
「ふう。今日はもう、外に出るのはやめとくか」
「……はい」
荷物を置いて、ふかふかのベッドに腰を下ろす。二十二日にも及ぶ移動は、半分以上馬車を利用していたとはいえ、かなり疲れた。
……はぁ。疲れた。気分もちょっと落ち込んでるし、今日はもう、すぐに寝ようかな……。
深く息を吐く私の前で、部屋の窓を開けた師匠が、おお、と声を上げる。
「レイラ、見てみろ。いい景色だぞ」
窓の外に目を向ける。部屋は町の外に面していた。ここからだと、山の中腹辺りの森が一望できる。町の外からとはまた違った紅葉景色に、私は息を呑んだ。
「……凄い」
「だろ?」
師匠はなぜか誇らしげだ。この人が景色を用意したわけじゃないのに。……いや、でも、用意、できないわけじゃないのか……?
「もしかして、師匠。森が見える部屋にしてもらったんですか」
「驚いたか? ま、すぐに温泉に入れない代わりってことで。ここからの景色は俺も好きなんだ」
「そう、ですか……ありがとう、ございます」
気を遣わせてしまったことを申し訳なく思うけれど、この景色がいつでも見られるのはとても嬉しい。
景色に見惚れる私に、師匠は言った。
「今日はもう遅いから、温泉は明日な。町の一番上が大浴場になってるから、そこに行こう」
「はい」
綺麗な景色を見ることができて、ちょっとだけ元気が戻ってきた。何度も会話に出ている温泉も、楽しみだ。……師匠達と一緒に入るのは、恥ずかしいので遠慮したいけど。まさかとは思うけど、ちゃんと女湯と男湯に分かれてるよね?
その後、宿の夕食までには少し時間があったので、私はこの町に関する基本的な情報を教えてもらった。
この町は、国の内陸部に位置する中規模の町。主な産業は温泉と観光。それから、野菜も何種類か作られているようだ。生活している種族は、ドワーフと竜人が多い。ここの町長さんも竜人らしい。
そんなリアセラムがある山の名前は、リアセドラ火山という。温泉も野菜も綺麗な景色も、全部この火山からの恵みだ。標高は二千五百メートルを超え、頂上にはいつも雪が積もっている。火山といっても、ここ数百年は安定していて、噴火をした記録も少ないらしい。数年前までは、火口の中にドラゴンがいる、なんて噂もあったようだが、学者団の調査によって否定されたそうだ。
「ドラゴン、ですか」
「ああ。アケルに現れたあれと一緒だな。あの時は結構騒いだが、昔はドラゴンなんて、どこにでもいる魔物だった。まあ、いつの間にか見なくなったんだけどな」
肩をすくめて師匠は言う。まるで、実際に見てきたような言い方だ。
「もしかして、あのドラゴンが今はここにいたりして……」
私が疑問を呟くと、師匠は頷いた。
「あるかもな。だから、わざわざここに来た」
「そう、なんですか」
ということは、今回私達がすることになる主な仕事は、ドラゴンの捜索もしくは情報収集ということになるのだろうか。でも、アケルを出てから二ヶ月近くも経っているし、今更有益な情報が得られるとはあまり思えない。フィーンでもちょっとしか話を聞けなかったし、大丈夫なのかな。
そのことを師匠に話すと、彼はこともなげに言った。
「いや、今の時代、ドラゴンは結構目立つ。目撃者がいれば、話はすぐに広まるはずだ。あのドラゴンがこっち方面に飛んでったって話は、お前も聞いただろ」
「え?」
初めて聞いた、そんなこと。いつの間にそんな情報を仕入れていたのだろう。
首を傾げる私に、師匠は呆れたように、
「おいおい、お前、聞いてなかったのか? 馬車に乗った村で、婆さんがドラゴンの話をしてくれたじゃないか。」
「え、あ、そうでしたっけ……」
言われてみれば、そんなこともあった、かもしれない。あの時は、子供達のショックで落ち込んでいたから……。
「はあ、頼むぜ。あのドラゴンのことは、お前もなんか気になるって言ってたじゃないか」
「う、すみません……」
縮こまって謝る。早く本調子に戻らないといけないと思っていたところなのに、早速仕事に支障が出ていた。
……もしかしたら、私、この仕事に向いてないのかな。フィーンでも、あの子達の相手ばかりして、結局迷惑かけてばっかりだったし……。
後ろ向きに考える私に、師匠はもう怒っていないと言うように、
「……まあ、いいさ。お前の気持ちも理解できる。ここに来た目的は、そのドラゴンのことと、お前の気分転換のためなんだからな」
「え……そう、だったんですか」
私のためにって、師匠、そんなことまで考えていたなんて……私、また師匠に気を遣わせてしまった。
「……ごめんなさい、心配させてしまって」
「いいさ。弟子が元気ないのは、俺達も嫌だからな。一度気分を変えて、次からまた頑張ればいい」
「はい……」
励まされて、頷く。今すぐ元気になるのは無理かもしれないけれど、とりあえず、前向きに考えることにしよう。子供達のことは……もう、過ぎたことだ。
その後は、時間になったので食堂に夕食を食べに行った。メニューは、白米がメインの和食。おかずは、特産の野菜が多めの豚汁だ。
旅の間は、その辺の魔物を狩って、焼いて、食べていたので、野菜はあんまり取れなかった。お肉も美味しいけれど、やはり野菜もないとバランスが悪い。お店の料理から、今まで足りていなかった栄養を補給する。
……もしかして私、肉より野菜のほうが好きなのかな。
そんなことを考えながら部屋に戻ってくると、開けっ放しだった窓の外はすっかり暗くなっていた。
荷物を軽く整理してから、体を拭って着替えをする。
「さてと。明日の予定は、散策と温泉な」
「はい、わかりました。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
師匠達に挨拶をして、私は久しぶりに、ベッドでゆっくり眠った。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。私は日が昇る直前に目を覚ました。旅の間も朝早くから鍛錬をしていたので、すっかり早起き癖が付いてしまったようだ。
伸びをしながら体を起こし、目を擦る。窓の外を見ると、白み始めた空と、薄く霜のかかった森が見える。朝からいい景色だ。
「お、起きたな、レイラ」
「んぅ……師匠?」
名前を呼ばれて、声のした方を見る。そこには、既に身支度を整えた師匠とカイ。二人とも、私より早く起きていたようだ。
「うっし。じゃあ、やるか」
自分の剣を持って、師匠が言う。何をとは言われなくとも、こんな朝早くからすることは一つしかない。私は素直に頷いた。
「はい。あ、ちょっと待ってください。着替えるので」
「わかったよ。外で待ってる」
その後、着替えを済ませた私は、師匠達と一緒に宿を出た。向かった先は町の外。部屋から見えていた森の中だった。
「ふぅー……気持ちいいですね」
涼しい風と爽やかな空気。早朝の静かな雰囲気がとてもいい。まさに今、自身が自然と一体になっていることを感じる。
下から見上げる紅葉というのも、綺麗だ。ここにいる間はずっとこの景色が見られると思うと、それだけでなんだか幸せな気持ちになってくる。
「ちょっとは元気が出たようだな。よかった」
そんな私を見て、師匠が言う。確かに今日起きてからは、何となく気分が軽い。なぜだろう。この町に溢れる自然のおかげなのだろうか。
そんなことを考えながら軽く体を動かして、準備運動を済ませる。
「さ、始めるぞ」
正面には、地面に剣を突き刺して腕組みをする師匠。その挑発的な態度に、私は俄然やる気を出した。
「はい」
武器を取り出し、剣を出現させる。重量が増し、腕に負荷がかかる。でももうフィーンの時のように、自分の武器を持ち上げられない、なんて間抜けなことにはならない。旅の間も毎日、師匠達と一緒に鍛錬を続けてきたから。旅を始めたばかりの頃と比べると、かなり体力が付いてきたはずだ。筋肉も鍛えられて、全体的に体が引き締まってきた。特に、腕の辺りとか。おかげでお肉ばっかり食べていても、全然太ったような気がしない。
……いや、太るのはお米とかの炭水化物が原因だったっけ。まあ、どっちでもいい。今は、目の前の鍛錬に集中しなくては。
「今日こそは、勝ちますから」
「どうだか。いい加減その言葉にも飽きてきたぞ」
師匠は地面から剣を引き抜いて、私の決意表明に肩をすくめた。だが、すぐに表情を引き締めて、鞘に納まったままの切っ先を私に向ける。
「来い、レイラ」
「っ、……ふっ!!」
私は、今出せる全力を尽くして、師匠に挑んだ。そして、全身に痣とたんこぶを作った。
◇ ◇ ◇ ◇
「反省会だ、レイラ」
「はい……」
模擬戦の興奮も落ち着いて、全身の汗が乾いてきた頃。私達三人は宿の食堂に集まり、朝食を取っていた。でも、テーブルの上に並んだ美味しそうな料理を前にしても、気持ちが食事に向かない。その理由はわかっている。私は、師匠に負けたことが悔しいのだ。
「これで俺とは十敗目か。カイとやった時も負け続けだから、二十二連敗だな」
「い、言わないで、ください……」
言葉にされると、改めて惨めな気持ちになる。本当に、悔しい。人生における汚点が増えたような感じ。敗北という事実を受け入れたくない。自分が負けず嫌いであるということは、この三週間に十分すぎるくらい自覚していた。
「体力は順調に増えたが、お前、一か月前からほとんど成長してないな」
「うぅ、そうですか……」
容赦なく技量を貶され、さらに落ち込む。しかし師匠は、そういうことじゃないと首を振って、
「馬鹿、そう落ち込むな。お前は多分、剣の技術は十二分にあると思う。カイと違ってな」
「え、そう、なんですか」
驚いた。師匠が言うには、私には十分な戦闘技術があるというのだ。
師匠の隣で、引き合いに出されたカイが不快そうな顔をする。師匠はそれに気付いているのかいないのか、私を見たまま話を続けた。
「ああ。だが、なんていうかな。やっぱり体力と筋力が、まだまだなんだろう。技術を十分に生かしきれていない」
おかずを平らげ、師匠は言う。
体力と筋力……つまり、また基礎トレーニングか。……はぁ。
「私、戦ってるほうが好きなんですけど……」
必要だとわかっていても、好きじゃないことはしたくない。
我儘を口にした私に、師匠は頷いて、
「わかってる。だから、俺らが相手してるんじゃないか」
「はい……そう、ですね」
私の求めるものはすべてお見通しだというように、師匠は言った。そして、今日の総まとめに入る。
「とにかく、戦闘面に関しては、俺から教えることは何もない。肉体の動きもしっかり理解しているし、相手の行動も見極められている。俺の剣を見切るなんて、そうそうできることじゃないしな。でも、お前はなぁ……うん。迷ってる。そのせいで、体の動きが鈍い。迷いの原因が何なのかわかれば、お前はもっと強くなれるはずだ」
「迷い……」
その言葉で思い当たるのは、一つしかない。剣を握るといつも思い出す、アケルで暴れた時のことだ。
要するに私は、怖がっているのだ。自分のことを。このまま強くなっていけば、またあの時のように、殺しを愉しむ化け物になってしまうのではないかと思っている。それが、怖い。自分のことが怖いのだから、十分な力が発揮できないのも当然。師匠の言う迷いとは、そういうことだ。
……でもこれって、自分の過去がわかれば、全部解決するはずの問題なんだろうな。
私は改めて、自分が記憶喪失であるということを意識した。すると、長らく感じることもなかった寂しさが蘇ってきて、箸を動かす手が止まる。
……私の過去、か。
「ほら、早く食っちまえ。いつまでもくよくよすんな」
「……はい」
それを師匠に目ざとく指摘されて、私は一度お茶碗を置き、味を変えるために味噌汁に口を付けた。白味噌だった。
その後、私達は宿を出て、リアセラムの町に繰り出した。賑わう人々の間を、適当に散策する。それだけで、小さな話がいくつも聞こえてくる。
朝ご飯食べ過ぎた。疲れた、眠い。これ美味しい。お土産何を買おうかな。この後どこに行こうか。景色が綺麗だね。さっきの人の服、格好よかった。ちょっと、他の女なんか見ないでよ。などなど。
これまでの町とは違い、観光地ならでは会話が多い。賑わいもそうだが、露店の数もかなり多かった。話に聞こえたお土産屋さんも、一ヶ所だけではないようだ。
そんな情報を入手しつつ、私達は町を歩き続けた。いい時間になったので、適当な場所で昼食を取り、また腹ごなしに町を歩く。
ご飯を食べて元気になったのか、師匠は熱心に客引きをするお店を素通りして、どんどん坂道を上っていった。着いていくのが大変だ。そして、町で一番大きな温泉宿の隣、ちょっと裏道に入った所にある建物に入った。
……あれ、ここって……?
目の前に立つそれなりに大きな建物。出入りする人を見ると、どうやらここは町役場らしいことがわかる。それに気付いて、私は心の中で首を傾げた。
どうして、師匠はこんな所に来たんだろう。旅をしている私達は、あまりこういう場所には用事がないと思うのだけれど。
「先日手紙を出したアドレだ。町長のイェージャに会いに来た」
師匠は慣れた様子で、受付のお姉さんに話しかける。それを聞いて、また首を傾げる。手紙なんて、いつの間に出していたのだろう。全然知らなかった。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
混乱する私をよそに、お姉さんは私達を上の階へと案内した。そして、二階の応接間に通され、しばらくお待ちくださいと言われる。お姉さんは魔法でお茶を淹れて机に並べ、応接室を後にした。
応接室には長椅子が二つあり、その間には高級そうな焦げ茶色のテーブルが一つあった。窓は空いていて、外からは町の喧騒が聞こえてくる。師匠が遠慮なく長椅子に座ったので、私とカイもそれに倣い、師匠を挟む形で腰を下ろした。
「……師匠。いつの間に町長さんと約束してたんですか?」
腰を落ち着けたところで、いきなり役場なんて所に来た理由を尋ねる。私に何の説明もなかったことが、少し不満だった。
「ん、村に寄った時に、ちょっと思いついてな」
けれど、師匠の返答はそれだけだった。そんな反応をされると、なんだかあまりいい予感がしない。
これ以上聞いても何も教えてくれなさそうだったので、私は左目を使って、今自分達がいる建物の構造を調べた。万が一、何かがあった時のためだ。決して人の仕事を覗き見するためではない。
この役場は周囲の建物と同じように、木造の三階建てだった。一階は受付と応対のスペース、二階は来客用のスペース、三階は町長さんの執務室になっているようだ。建物の入り口はちょっと奥まった所にあるのは、温泉と観光に力を入れているせいなのだろうか。役場が目立つ所にあると、印象が悪くなると思ってのことなのかもしれない。
そこまで見たところで、扉の外に人が来ていることに気付いた。和服っぽい赤色の服を着た、なんとなく優雅な雰囲気をまとった女性。恐らく、彼女がここの町長さんなのだろう。義眼の使用をやめて背筋を伸ばした時、扉が開かれ、女性が入ってきた。
「どうもぉ。久しぶりねぇ、アドレ」
彼女は、目を見張るような美人だった。竜人聞いていたが、その特徴はあまり見受けられない。目はつぶっているように細く、口角が緩く上がっている。そのせいで、常にうふふと微笑んでいるように見える。
「よう、イェージャ」
師匠は軽く手を挙げて、女性の言葉に応じた。イェージャと呼ばれた女性は、長い服の裾を引きずりながら、ゆっくりとしたペースでこちらに歩いてきて、私達の前の椅子に座った。
「十年ぶりくらいかしらぁ。カイ君も、久しぶり。随分と大きくなったわねぇ」
「……ふん」
まるで孫を相手にしているような彼女の言葉に、カイは鼻を鳴らした。
「あらら、愛想がないのは変わらないのねぇ。あんたも、いつまで経っても全然変わんないわぁ」
「お前こそ。いつまで町の長でいるつもりだよ。まあ、特に問題がないなら、別にいいんだが」
そんな師匠との思い出話もそこそこに、女性は私に視線を向けた。
「手紙、読んだわよぉ。その子が例の子ね?」
「そうだ。こいつがレイラ、俺の弟子だ。レイラ、こいつはこの町の長、イェージャだ」
「あ、はい。どうも……」
師匠に紹介されて、とりあえず頭を下げる。私が顔を上げた時、イェージャさんからも名乗った。
「イェージャ・ジェム・マエスローよぉ。レイラちゃん、よろしくねぇ」
緩い笑顔に、間延びした言葉遣い。なんとなく、マイペースという印象を受ける人だ。この人がいるだけで、なんだか空気がほんわかする。
彼女は私の顔を見て、ゆっくりとした口調で言った。
「ふうん。結構可愛い子じゃない。こんな子と一緒に旅してるんでしょお? 羨ましいわねぇ」
体を隅から隅までじっくりと見られるのが気恥ずかしくて、小さく身じろぎする。
うぅ、この人の視線、なんか、他の人と違う……まるで、体の中まで見られているみたいな感覚。何も隠し事ができない。頭の中で考えたことが全部、この人に吸われていくような感じがする。
「で、イェージャ。手紙の件、調べてくれたか?」
彼女の面妖な雰囲気に呑まれそうになる私の意識を、師匠の意識が引き戻す。どうやら彼は、手紙で何かをお願いしていたようだ。わざわざ私を連れてきたということは、私に関係することなのだろうか。
「ええ、ええ。まあ、それなりに頑張ってみたわよぉ。でも、残念ながら結果はゼロだったわ。ごめんなさいね」
イェージャさんは、私を見ながら申し訳なさそうに言った。
ゼロだったと言われても、何を調べてくれたのか知らない私には、それが何を意味する数字なのかわからない。師匠はこの人に、どんなことをお願いしていたのだろう。
困惑する私に気付いて、師匠が説明してくれる。
「こいつは今でこそこの町の長だが、一時期旅をしていたことがあるんだ。そのおかげで、結構な数のエルフに顔が利いてな。だから、ちょっと力を借りてお前のことを調べてもらってたんだが……どうやら、収穫はなかったらしいな」
そう、なんだ。私の情報を調べてくれたのか。でも、ゼロだったっていうことは……。
「ごめんねぇ。一応、大陸のほとんどは調べたはずなんだけど、レイラちゃんのことを知ってるエルフは、いなかったのよぉ」
「そう、だったんですか。その、ありがとうございます……」
大陸のほとんどって、いったいどれだけの人数を調べたんだ、この人。
彼女の顔の広さに驚きながらも、自分の情報が何一つなかったという言葉に、自分が孤独だという現実を思い知らされる。
……いなかった、のか。私のことを知っているエルフは。ということはやっぱり、私って、この世界に独りぼっち、なんだな……。
「まあ、仕方ない。そんな深刻に考えるな。まだ手はある」
「はい……」
落ち込む私の肩をポンと叩き、師匠はイェージャさんの方に向き直った。
「じゃあ早速で悪いが、もう一つの依頼、やってくれるか」
「あらぁ。もう、アドレったら、人使いが荒いんだから」
そう言ってイェージャさんは唇を尖らせる。だが、師匠のお願いを断る気はないのか、彼女はゆっくりと席を立った。
「さぁ、男さん達は一旦こちらへ」
イェージャさんに指示され、師匠とカイが立ち上がる。そうしてスペースができた私の隣に、彼女は座った。二人分の場所が空いたはずなのに、彼女はなぜか、私のすぐ隣に腰を下ろした。肩と肩が触れ合い、顔と顔がとても近くに来る。
「あ、あの。イェージャ、さん? 何を、するんですか?」
「んふふ、それは、これからのお楽しみよぉ」
鼻が近い。目が近い。唇が、近い。イェージャさんの息がかかる。もう、動こうにも動けない。
や、やだ。初対面の人がこんな近くに。ちょっとドキドキしてきた。どうしよう。なんか、変な気持ちになってきちゃう……。
恥ずかしさにもじもじする私を落ち着かせるように、彼女は私の髪を軽く梳いた。耳元で、指の間を髪がすり抜けていく音がする。心地よい音。いつか、フェニさんやフィキさんに髪を梳かしてもらった時のことを思い出す。でも、目の前にあるのは、今日初めて会ったばかりの人の顔。
「いい子だから、私の目を見ててね」
「い、いったい、何を……」
口ではそう言って抵抗するが、私の意識はもう、イェージャさんの灰色の瞳に吸い込まれそうになっていた。
なんだか、頭がぼーっとする。彼女の吐く息に色が付いているように見えて、少し意識が戻ってくるが、靄のような息が顔にかかり、またぼんやりとしてしまう。
白色の、柔らかそうなもやもや。でも、それは右の視界にしか見えない、不思議な靄だった。
「私の目を、見て」
イェージャさんの口が動く。でも、その声はどこか別の場所から聞こえてくるかのように、おかしな響きがかかっている。気が付くと、私の頭は全部、白いもやもやに覆われていた。
「あ、れ……?」
自分の声さえも、少し遠いような気がする。感覚がいつもと違う。
イェージャさんの縦に開いた瞳孔が、私を見返している。言われた通りに彼女の灰色の瞳を見つめていると、突然、体がグラっと揺れて、どこかに落ちていくような感覚に襲われた。
目の前にはちゃんとイェージャさんが見えるのに、体の感覚だけが、どこか別の世界に行ってしまったような感じ。不思議な感じ。
「目を、閉じて」
言われるがまま、目を閉じる。視界が真っ暗になり、それに釣られて私の意識は、どことも知れぬ場所に落ちていった。




