第十七話 縄と薬と子供達
「う……」
意識を取り戻した時、最初に聞いたのは、ギシギシという聞き慣れない音だった。
あ、れ。私……。
目を開けると、目の前には自分の腕。横向きに寝ているのではない。体は座った状態のままだ。お尻の下に固い床の感触があり、頭を支え続けていた首が痛い。それだけではなく、全身が気だるくて、なんだか頭がすっきりしない。まるで、病気にかかって熱に侵されているかのように、どこかボーっとしたような感覚がする。
あれ、私、どうして、こんな……。
眼帯は付けたままだった。でも、上着は着ていない。脱いだ覚えはないのに。
どうしてこんなことになっているのだろう。もやもやした頭ではわからない。けれど、自分の手首が縄で縛られているのを見て、ハッとした。
「え……?」
なに、これ。嘘。何がどうして……。
その痛みに、ようやく思考が働き始める。なぜ私は縛られているのだろう。なぜこんな所にいるのだろう。他にも沢山の疑問が頭に浮かぶが、記憶が混乱していて、意識を失う前に何をしていたのか、よく思い出せない。やはり、頭の中がもやもやする。
確か、あの子達と遊んでたような気が……いや、でも、師匠との鍛錬だったような気も……いや、それはもうどっちでもいい。とにかく、これを、なんとかしないと。
深く考えるのはやめ、縄から抜け出そうともがく。しかし、一向に解ける気配はなかった。天井から垂れた茶色い縄は、私の手首を痛いほどにきつく縛っていた。
「はぁ、はぁ……」
すぐに息が切れてしまい、抵抗を諦める。そこでふと、一つ疑問に思った。
……おかしい。私はこんなに、体力が薄かっただろうか。それに、頭もなんだか重いし……。
疲れて体重を縄に預けると、手首に負担がかかって痛みが強くなった。このままでは血が流れなくなって、手が死んでしまう。気を失っていた間もずっとそうしていたからか、既に手は青白くなってしまっている。できるだけ腕に体重をかけないようにしながら、状況を確認しようと、私は自分が今いる場所を見回した。
ここは、物で溢れていた。フィーンの町にしては珍しく、建物自体は木製のようだ。だが、木の板を立てて作られた壁は薄いようで、隙間から外の光が漏れている。しかも、床は硬い地面そのまま。砂が溜まっていて、少し足を動かすとジャリジャリ音がする。いくつかある棚には、沢山の縄や木箱、何かの道具やガラスの瓶がごちゃごちゃと並べられている。あまり高くない天井からはいくつか縄が垂れていて、滑車やフックが繋がっている。そのうちの一つに、私は拘束されていた。
……物置小屋、かな。それか、小さな倉庫って感じ。
出入口と思われる扉は目の前にある。木製の扉は壁と同じく薄そうで、鍵はかかっているようには見えない。縄さえ解くことができれば、簡単に逃げられるだろう。でも、手首の拘束は厳しく、なぜだか立ち上がることすらできない。体が重くて、腕を上げているだけでも精一杯なのだ。
「ん、この、解けてよ……」
もう一度縄抜けに挑戦しようとした時、目の前の扉が開いた。光が目に飛び込んできて、一瞬眩しい。その外からの光を遮るように、人影が近付いてきた。
「お? 起きたか、エルフ」
そこにいたのは、一人の人間の男だった。その姿を見て、私は思い出した。
師匠と鍛錬をした後、いつものように子供達と遊んでいたこと。あの子達がくれた水筒に痺れ薬が入っていたこと。それに動揺しているところにこの男が現れて、子供達に私を捕まえるよう命令し、追いかけ回されたこと。そして、薬のせいで動けなくなったところにこいつが現れ、なす術なく連れ去られたこと。
「あ……お、お前!」
そうだ。こいつは、あの子達が話していた『お兄さん』だ。あの子達を悪いことに利用していた張本人。こいつが、私を捕まえたのだ。
「口が悪いな。女ならもっと淑やかにしたらどうだ」
「誰が、お前なんかの言うことを……!」
憎しみを込めて、力の限り睨みつける。こいつはあの子達を利用していた。絶対に許せない。
けれど、今自分が拘束されて何もできないことを思い出し、悔しさが増しただけだった。
「おいおい、泣くなよ。そんなところは女らしいんだな」
「な、泣いてない!」
「騒がしい女だ。こんなのがガキ共の理想のお姉ちゃんか。つまらねえ」
「何を……」
こいつ……くっ。
男の話は容量を得ない。適当なことばかり言っている。目の前で薄ら笑いを浮かべる憎らしい男とこれ以上会話をしたくなくて、私は視線を逸らし、口を閉じた。
「連れない奴。まあいい。別にお前とお喋りするために連れてきたわけじゃねえんだし」
そう言って男は、私の目の前にしゃがみ込んだ。さっきよりも近い位置に顔が来る。鋭い視線。何かされるのではないかという考えが浮かび、怖くなる。
震える私の頬を、ゴツゴツした大きな手が掴んだ。強い力で上を向かされ、逸らしていた視線を無理矢理戻される。それでも私は恐怖を押し隠して、強気に言った。
「んっ、いやっ、触らないでっ!」
「そろそろ黙ってもらおうか。自分の現状を理解しろ。俺はお前を好きに扱うことができる。それを忘れるな」
耳元で囁かれた脅し文句に、背筋にゾクゾクとした寒気が走る。脳裏に嫌な想像が浮かび、悲鳴が喉の奥まで上ってくる。でも、すんでのところでそれを堪えて、暗い色をした男の目だけは見ないように、頑張って目を逸らし続ける。
男は私の顔をしばらく見つめた後、ようやく頬から手を離した。
「ふん。気だけは強いようだな。だが、それがまたいい。……おい、入ってこい」
男が外に向かって怒鳴ると、扉がゆっくりと開かれ、小さな人影が入ってきた。その顔には、見覚えがある。
ベーラちゃん、サス君、イスリゴ君、カトナちゃん、フリック君。私と遊んでいた、あの五人の子供達だ。
「み、みんな……っ!」
どうしてここに、と思うより早く、私は、あの子達なら助けてくれるかもしれないという希望を抱いた。
五人の子供達を従えて、男はしたり顔で言う。
「こいつらから話は聞いているぞ。レイラ、とか言ったか。お前、旅をしてるんだってな」
「な……」
男の言葉に心が揺れる。私の名前を知られた。たったそれだけのことなのに、何か重大な秘密を知られた気持ちになる。
「気の毒に。ここに来なければ、俺に捕まることもなかったのになぁ」
わざとらしい演技だったが、名前を知られたショックで、私は悲鳴を上げそうになっていた。それでも私は強気な態度を保ち、子供達に呼びかけた。
「みんな、目を覚まして! そいつは悪い奴なんだよ! みんなは、騙されてるの。お願い、私の話を聞いて!」
「こいつらに助けを求める気か? 馬鹿だな」
けれど、子供達は私のことなど眼中にない様子で、男の方に手を伸ばしていた。
「ねえ、おにいさん。アレ、アレちょうだい……」
カトナちゃんが苦しそうに表情を歪ませて、男の袖を強く引っ張った。他の子も口の端から涎を垂らしたり、荒い呼吸をしたりして、男のことだけを見ている。まるで、餌を待たされている犬のように。思わず目を逸らしたくなるような姿。
その様子を見て、胸に不安感が広がった。私に痺れ薬を飲ませたあの時と、同じ目だ。
「あん? わかったわかった。ご褒美な。ふん、そろそろ抑えが効かなくなってきたか」
子供達にしつこくせがまれた男は、懐から何か小さな白い粒の入った小瓶を取り出し、その中身を三粒ずつ、子供達の手の平に落とした。
「ほーらガキ共。ご褒美の時間だぞ」
「ぼ、僕にも!」
「早く早く!」
白い粒を受け取った子供達は、たちまち手の平にかぶり付き、ガリガリと音を立てて咀嚼する。そうして粒を飲み込んだ子供達は、どこか遠くを見るように視線を彷徨わせ、緩い笑顔を浮かべながら、その場でフラフラとし始めた。足元がおぼつかず、座り込んでしまった子もいる。
「え、えへへへへ……」
「わあ、や、やったぁ」
その異常な行動を見て、私は気付いた。男が子供達に与えたあれは、数日前にカイが持ってきた白い錠剤と同じ。つまり、麻薬だ。
「そ、それって、まさか、麻薬……」
「ん? なんだお前、知ってたのか? なら、いちいち説明する必要はないな」
そう言うと、男は私の前にしゃがみ込み、カラカラと音を立てる小瓶を見せつけてくる。
「こいつは飲むと良い気持ちになれる薬だ。うちの人気商品でね。こいつらを使って、効き目を確かめてるってわけ」
男の口から語られる真実に、奥歯を噛む。やはり、あの子達は悪いことに利用されていたのだ。
子供達が利用されていたことに気付けなかったことを悔しく思う私に、男は軽い調子で、恐ろしい言葉をかけてきた。
「気になるか? なら、お前にも飲ませてやろう」
「な、い、いらない!」
そんな危ない物を食べるなんて。触れるだけでも嫌なのに。
必死に首を振って拒否すると、男は少し残念そうに目尻を下げて、
「そうか。まだ普通のエルフで効果を試したことがなかったから、ちょうどいい実験台にしようと思ってんだが」
「誰が、あんたの実験台になんか……!」
人を人と思っていない発言に、私はこの男のことがもっと怖くなった。きっと、あの子たちのことも都合のいい実験動物としか思っていないに違いない。身寄りのないのをいいことに、自分の都合のいいように利用して、子供達に麻薬を飲ませて……こいつは、最低の人間だ。
「そうか。まあ、それはそれで問題ない。お前は結構好みの顔だからな。実験台にするのは惜しいと思ってたんだ。それに俺は、相手に何かを強制させるのは好きじゃない」
どこかもったいぶるような口調で、男は言った。
強制させるのは好きじゃない? いいや、この男はあの子達を無理矢理薬の実験台にしたんだ。そんなのは嘘に決まっている。
「な、何を言ってるの。あの子達に無理矢理薬を飲ませておいて、よくもそんな――」
「おいおい、何勘違いしてんだ? 俺はあいつらには、一度も何かを強制したことなんてない。ただ俺は、あいつらに飯を食わせてやる代わりに、薬の実験をさせてもらってるだけなんだから」
さも自分に何の罪もないかのように振る舞う男。だが、その顔には隙のない薄ら笑いがある。
こいつ、わかってやってるんだ。自分の目的のために相手を利用して、いざ何か言われると『利用されるほうが悪い』と言う。そういうタイプの人間なんだ。……最っ低。
「そういう訳で、お前にはもう一つの選択肢を用意してやる」
「選、択肢……?」
その言葉に困惑する私を、男は面白がるような表情で見ていた。そして急に顔を近付け、耳元で囁いた。
「お前、俺の奴隷になれ。そうしたら、薬は使わないでやる」
「な……え?」
も、モノ、だって?
その言葉がいったい何を意味しているのか、私は理解できなかった。眉をひそめて、思わず尋ねる。
「そ、それ、って、どういう……」
「なんだ、わからないのか? 学のない奴だな。奴隷にするって意味だ」
ドレイ……? それもまた、聞いたことのない言葉だった。もうちょっと私にわかる言葉で話してほしい。
なおも首を傾げていると、男は呆れたように溜息を吐き、
「奴隷、つまり所有物になれって言ってるんだ。まあ、そう悪い話じゃないぞ。俺の奴隷になれば、人としての義務から自由になれる。税金とか。まあその代わりに、人としての権利をすべて失うことになるがな」
「え、それって……」
人としての権利。つまり、人権がない存在になれというのか、この男は。
先ほどの言葉の意味を知って、私は背筋がゾクッとした。人権がないということはつまり、私が普段、人として当たり前だと思っている色々なものが、なくなってしまうということ。今まで当たり前だった自由がなくなって、誰かに助けてもらうことも、親切にされることもない。人の形をした物。そういう扱いにされてしまう。
それが分かった途端、たちまち恐怖が頭の中を支配した。必死に首を振って、否定する。
そ、そんなのは、嫌だ。絶対に嫌だ。
「う、嘘。そんなこと、できるわけない」
強がってそう言ったが、声の震えを抑えることができない。
「いいや、そうでもない。確かに、人を奴隷の身分に落とすには特別な魔術がいる。だが、残念だったな。俺はそれを使える。そうすれば、お前は一生、俺の所有物だ」
そう言いながら男は、私の頬に触れた。
「な、やっ……」
そして、頬から首筋、胸へと手を降ろしていく。不快な触り方。こいつは、あの時アケルで私を攫おうとした男達のように、私にいやらしいことをするつもりなのだ。
「んっ、や、やめて……」
「……それなりに大きさはあるか。エルフの体は貧相なのが多いが、まあ、及第点か。……ふん、今のところは、ここまでにしといてやるか。後はお前の選択次第だ。こいつを飲んで、あのガキ共と同じになるか。それとも、俺の所有物になるのか」
薬物中毒になるか、男のモノになるか。絶望的な選択肢。どっちを選んでも、間違いなく悪夢だ。目に溜まった涙が零れないように堪えて、私は唇を噛んだ。
……そんなの、選べるわけない。
「い、嫌。私は、どっちも選ばない」
男の視線に怯えた私には、それだけ言うのが精いっぱいだった。
「ふん、そうか。まあいい。お前が決めるまで待ってやるさ。だが、俺の気が変わらないうちに決めたほうが、身のためだぞ」
そう言って男は、まだフラフラしたままの子供を連れて物置小屋から出て行った。一人残された私は、ただ惨めな思いを噛み締めることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「そうだ。銀髪の、エルフの娘だ。髪は結構長い。左目に紫色の眼帯をしていて、同じような色の上着を着ている。下は、赤柄のスカートだったな。後、茶色のブーツを履いていた。普通に、年頃の女の子だ」
翌朝。フィーンの中心部にある騎士団の詰所。その受付でアドレは、いなくなった弟子の情報を騎士団に提供していた。
あれからひと晩待ったが、レイラは宿に戻ってこなかった。心配で眠れぬ夜を過ごしたアドレは、朝一番で町の騎士団に捜索願を出した。
もしかすると、彼女が無事、どこかで夜を明かしたのかもしれない。そんな可能性も考えたが、最近この町で起こっていることを鑑みると、希望的観測はできない。
アドレは監査騎士という自らの身分は告げずに、レイラの身体的特徴や服装、自分達が旅人であること、レイラがいなくなった直前の状況などを担当の女性騎士に話した。その内容を手元の紙に書き留めていた女性騎士は、ふと手を止めてアドレに尋ねた。
「その娘さんの年齢はわかりますか?」
その質問に、アドレは言葉に詰まった。レイラは記憶喪失。彼女が何歳なのかは、彼女自身にもわからない謎の一つだ。
困ったアドレは振り返って、いつにも増して不機嫌そうな弟子に尋ねた。
「おい、カイ。あいつ、いくつに見える」
「……十三」
師匠の方を見向きもせずに、カイは答えた。口を開くまでに少し時間がかかっていたが、きっぱりとした口調だった。
「わかった。歳は十三歳くらいだ」
「了解致しました。お任せください。連絡先は、お泊まりの宿屋でよろしいですか?」
「ああ。できる限りこちらでも探すようにするが、頼んだ」
情報を紙にまとめた女性に背を向け、役所を後にする二人。外はまだ朝日が昇ったばかりだったが、砂漠のど真ん中なだけあって十分な熱気を感じた。相変わらず、人の姿は少なかった。
二人が行き先を決めずに道を歩いていると、アドレが不意に立ち止まって言った。
「……さてと。まずはどこから行く」
真剣な声。それは、背後のカイに尋ねたのか、単なる自問なのか。
たった今出したばかりの捜索願が騎士団の中で共有されるまで、まだ少し時間がかかる。アドレはそのロスを許す気はないのだろう。それに、ただ黙ってじっとしているというのは、彼の性分に合わない。
アドレの言葉は続く。
「あいつは最近、いつも子供達と遊んでいると言っていたが、それはどこだ」
顎に手を当て、彼女から聞いた話を思い出そうとするアドレ。答えは弟子からもたらされた。
「……町の路地。一週間近く前に行った、湖の近く。白い猫に導かれたと言っていた」
「そうか。あの辺りか……」
カイの言葉を聞いた師は、腕を組んで目を瞑っていた。弟子は、師匠の下す決断を静かに待っている。
「……よし、わかった。あの辺りを重点的に探すぞ」
「……ああ」
「でも、その前にやっぱ飯だな。朝飯食いに行こう」
空腹を訴える師に、カイは呆れ返った。けれど、カイ自身も空腹を感じているのは事実なので、素直に師匠に続いて宿屋に戻った。二人はまだ、彼女が今にも泣きそうな顔で謝りながら戻ってくるという可能性を捨て切れていなかった。
食事をしている間、いつもレイラが座っていた席は空いていた。少し前まではこれが当たり前だったのだが、今となっては、とても虚しく感じられる。彼女が旅の仲間になっておよそ三週間。だが、寝食を共にしていたのは、フェニの宿屋にいた頃からだ。もうそれだけ長い期間一緒にいたのだなと、アドレは内心、時間の流れの早さに驚いていた。
食事を終え、宿を出ていく二人。湖の方へと向かう彼らは、しばらく口を開かなかった。
静かな重みに耐えかねたのか、ふとアドレが口を開いた。
「そういえばあいつ、エルフだったな。さっき聞かれた時は見た目で十三って言ったが、エルフは見た目と年齢が一致しないからな。あいつ、本当は何歳なんだろうな」
「……」
カイは答えない。彼は、仕事以外の無意味な話が基本的に嫌いだった。
「ま、あいつが思い出すのを待つしかないか」
わかりきった結論を出す師匠。そうしている間に、湖の波の音が聞こえる所まできた。恐らくレイラは、この辺りから路地に入っていったはずだ。ここから彼女の痕跡を探して、居場所を見つける。いなくなった飼い猫を探すのと大した違いはない。
「行くぞ。あいつを見つけ出すんだ。どうせ、この入り組んだ路地のどこかで迷子になってるだけだ」
ことの重大さを誤魔化すような楽観的な言葉。そんな師匠のささやかな気遣いを無視して、カイは表通りを外れ、影の多い路地に入っていった。その背中を見ながら、アドレは呟く。
「まったく、世話の焼ける弟子だな」
その言葉は、行方不明になったレイラに向けてのものだったのか。それとも、レイラを見つけ出そうと焦り、躍起になっているカイを指してのことだったのか。
どちらとも取れる言葉を漏らした二人の師匠は、町の暗がりへと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ふ、ん……はぁ、はぁ……」
あの男と子供達がいなくなって、もうどれだけ時間が経ったのだろう。時間の感覚もわからなくなるくらい同じ体勢を取り続けていたせいで、もうお尻が痛い。それに、腕を上げているのも辛くなってきた。
何度も縄を解こうと暴れたからか、腕は疲労で重く、こうして上げているだけでもかなり辛い。でも、疲れに任せて縄に体重をかければ、今度は手首が痛い。手に血が回らなくなってしまう。それを避けるためには、限界を迎えても必死に腕を上げ続けるしかなかった。
そんな救いのない悪循環をずっと続けているせいなのか、思考がまとまらず、ここから逃げ出す算段を考える余裕もなかった。思考を停止している自分に気付いてハッとすることが何度もあった。
ど、どうしよう。このままじゃ、あの男の思惑通りだ。嫌だ、嫌だ。奴隷なんて絶対に嫌。あの薬を飲むのも嫌だ。人間を辞めるなんて、何が何でも嫌だ。
頭を振って、思考をリセット。でも、疲れの抜けない体では、大したことも考えられない。
……会いたい。師匠とカイに、会いたい。そのためには何とかして、早く逃げないといけないのに、縄は全然解けないし、それに……。
「うぅ……」
下腹部に溜まった排泄欲が、私の気持ちを乱していた。
思えば、ここで目が覚めてから、一度もトイレに行っていない。最後に行ったのが昨日子供達と遊ぶ前なので、昨夜は一度も排泄をしていないことになる。時間にして、約半日。もういつ漏らしてしまってもおかしくない。むしろ、よくここまで我慢できたものだ。
やだ……こ、このままじゃ、も、漏れちゃう……。
あらぬ想像に顔が赤くなる。こんなことを考えている場合ではないというのに、溜まったものを出したいという欲求が、私の中でどんどん膨らんでしまう。
うう……うぅうう……。
欲求と恥ずかしさの間を右往左往していると、突然扉が開かれた。突然のことに下腹部から意識が逸れ、またあの男が来たのかと体が強張る。だが、扉の向こうから顔を覗かせた小さな頭には、鼠の耳が生えていた。
「お、おねえちゃん……?」
「あ、さ、サス君!」
あの男ではなかったことに安心すると同時に、なぜ彼だけがここに戻って来たのか、という疑問が沸き上がる。他の子達はどうしているのだろう。あの薬を飲んでいたが、もう大丈夫なのだろうか。
みんなの安否を心配して声をかけようとした時、私は、サス君が何か大きな物を手に持っていることに気付いた。
木でできた、桶のようなもの。どうして、そんなものを持っているのだろう。ここにそれを置きに来たのかと思ったが、そうではなかった。
「ど、どうしたの、それ」
「え、えと、お、おにいさんがね。おねえちゃんのおトイレ、してあげてって……」
「え……お、おトイレって、まさか……」
ぶわっと、顔が熱くなった。あの男に、私の状態を見抜かれていた。
いや、排泄をしなければならないのは生き物として当然のことなのだが、真っ先に浮かんだのはそんな感覚だった。
「え、えっと……わ、私、自分でおトイレするからさ。その、これ、外してくれないかな……」
桶にするというだけでも恥ずかしいのに、縛られた状態のままなんて耐えられない。
駄目かもしれないとも思ったが、わずかな可能性に賭けて縄を解くようお願いする。すると、サス君は血相を変えて後ずさった。
「だ、駄目だよ! そんなことしたら、おにいさんに怒られちゃう……」
「そ、そっか……」
予想通りの答えだった。だが、想像よりもかなり怯えている。もしかすると、あの男に脅されているのかもしれない。そうだとしたら、こちらから無理にお願いするのは酷なことだ。
子供達の助けを借りるのは諦め、自力で何とかしようと心に決める。でも、今はそれより、この子が持ってきた桶、トイレのことが先だ。
うぅ、考えただけで恥ずかしい。あいつ、子供達に私の世話を、しかも男の子にさせるなんて……あの男、私に恥ずかしい思いをさせて、心を折る気なんだ。
でも、今すぐにでも出したい気持ちでいっぱいの状態の私に、選択肢はない。
「え、えっと、こ、ここに置いとくね!」
サス君のほうも恥ずかしく思っていたのか、頬を赤らめた彼は、桶を私のスカートの下に置いて、ササッと部屋の隅に向かった。でも、このままじゃできない。
「ま、待って!」
背中を向けたサス君を呼び止める。サス君は、恐る恐るこちらを振り向いた。
「な、なに? おねえちゃん」
顔を真っ赤にしながら、震える声で、サス君に一つお願いをする。
「あの、サス君。その……ぱ、パンツ、下して、くれないかな……」
「え……?」
子供にこんなことを頼まないといけないなんて、恥ずかしい。もう顔だけじゃなくて、全身が恥で熱い。
けれどサス君は、何を言っているのかわからない、というような表情を浮かべていた。仕方なく、もう一度説明する。
「だ、だから、その、下着、下ろしてくれないと、私、おトイレできないの……うう、もう、こ、こっちきて!」
「あ、うん……」
下着と言ってもわかってくれないので、とりあえずこちらに呼ぶ。もしかして、この子達は下着を履いていないのだろうか。着ている服もボロボロだし、その可能性はあり得る。
「えっと、ね。赤いスカートの中に、その、黒い布があると思うんだけど、それを下に下ろして欲しいの」
「う、うん……」
……ああ。どうして私、この子にこんなことを教えてるんだろう……。
そんなことを考えながら、スカートの中に手を入れたサスくんを見守る。
しゃがみこんだサス君の息遣いがお腹に当たる。相手は子供だが、男の子だ。その好奇心から、恥ずかしいところを触られるのではないか、という羞恥と恐怖で、涙が溢れそうになる。
小さな手が太ももに触った。抑えきれず、少しビクッとする。
変なことを考えちゃ駄目だ。平常心を保たないと。相手は子供なんだから、これくらい、全然、別に、恥ずかしくなんて……。
サス君は、灰色の毛で覆われた耳までも赤く染めて、下着を膝まで下ろしてくれた。肝心な部分を見られたのかどうかは、私にはわからない。
「あ、あり、がとう……」
燃えるような羞恥を全身に感じながら、私はお礼を言った。サス君は言葉も出ない様子で、何度もぶんぶんと頷くと、物陰に隠れた。
そうして私は、用意された桶の中に、溜まっていたものを全部出した。
「う、うぅ……」
目を背けてくれているサス君に感謝して、私は唇を噛みながら、桶に自分の排泄物が落ちていく音を聞く。人前で排泄をしているという恥ずかしさ。そして、排泄が終わっても、汚れた部分を綺麗にはできないという現実。その嫌悪感に、背筋が震えた。最悪だ。まるで悪夢だ。こんな、こんなことって、地獄よりも酷い。
旅の途中、野外ですることになった時も恥ずかしかったけど……こんな、こんなことをする羽目になるなんて、思ってもみなかった。
屈辱に涙がにじむ。人として大切なものが侵害されている。恐ろしい感覚。不意に、あの男が言っていた奴隷という言葉が浮かんだ。きっと奴隷になったら、こういうことを毎日させられる。考えただけでも恥ずかしい。死んでしまいたいくらい。どうして男はみんな、私のことを、こんな風に見て……気持ちが悪い。
奥歯を噛んで、私は名前も知らぬ男を憎んだ。
「お、終わった、よ……」
「う、うん」
声をかけると、サス君は恐る恐るこちらを向いた。そして、もう一度スカートの中に手を入れ、下着を元に戻してくれる。最後にサス君は、私が出した汚い物が入った桶を持って、物置小屋を出ていった。部屋の中に汚物の悪臭が残る。
「う、うぅ……ううう……」
扉が閉まった後、私は、一人恥ずかしさに泣いた。
その後も、子供達は代わる代わる私の元にやってきた。あの男に命じられて、私の世話をするために。
二番目に来たのはベーラちゃん。彼女は、私に痺れ薬を飲ませた時と同じ水筒を持ってきた。そして、ベーラちゃんは複雑な表情をしながら私に水を飲ませ、一度も口を開かないまま小屋を出て行った。
三番目、カトナちゃんが食事を持ってきた。けれど持ってこられたのは、黒い小さなパンが一つだけ。それは歯が割れそうなほど硬く、カビのようなものが表面に生えていた。そんなとても食べ物とは言えないものを、泣きそうな顔をしたカトナちゃんに無理矢理、口いっぱいに押し込まれた。抵抗もできない私は、ただされるがままにそれを咀嚼し、飲み込むことしかできなかった。
その後は、二回目のトイレ。今度はフリック君が桶を持ってきて、私の排泄物を取っていった。まるで、家畜になったような気分。屈辱だ。
それからは特に何事もなく、あの男が来ることもなかった。手首の縄を解くこともできず、ここから脱出する妙案も思い付かない。そんなことを考える余裕すらない。
そのうち私は、気絶するように意識っては手首の痛みに目を覚ます、というループを、何度か繰り返していた。




