第十三話 白の導き
翌日。私は誰かに肩を揺すられて目を覚ました。
「起きろ、レイラ。朝だぞ」
「う、ううん……アドレ、さん?」
耳元からの呼びかけに薄っすら目を開けるが、暗くて呼びかける彼の姿がよく見えない。なんとなく、窓らしき明るい方を見やる。だが、空はまだ黒と青の境界辺りで、太陽の気配すら感じられなかった。
「むぅ……まだ、暗いじゃないですか……」
夜明けまで後一時間、といったところだろうか。夜が明けていないので、まだ夜のうちのはずだ。
「馬鹿、今は師匠だろ。ほら、朝の修行の時間だ。準備しろ」
寒さに布団を被ろうとするが阻まれて、ペチペチ頬を叩かれる。早くしろと急かされた私は、仕方なくベッドから這い出た。
大きめの欠伸をしながら、着替えをしようと服に手をかける。その時、自分が寝巻ではなく、いつも通りの格好をしていることに気付いた。
あ……そっか。昨日は確か、宿に戻ってご飯を食べた後、旅の疲れがどっと押し寄せて、あっという間に眠ってしまったんだった。だから昨日は、寝巻に着替えていない。眼帯も付けたままだ。
ただ、靴だけは律儀にも脱いでいたので、足を通して慣れない部屋を後にする。
「ん、ししょー……どこ、行くんですか?」
気を抜くとすぐに閉じようとする瞼を擦りながら、目の前ではためく服の裾を掴んで問いかける。
旅の最中は四六時中気を張っていたので、寝起きはいつも迅速だった。だが一度安全な町に入ってしまうと、いつまでも睡眠を貪りたくなってしまう。無理矢理起こされたこの状況では、なおさらだ。
「すぐそこだ。体を動かせる場所まで行く。いいから付いて来い」
彼の返答はそれだけだった。
それから私達は宿を出て、昨日も通った町の入り口近くまでやってきた。師匠達が向かったのは、建物も何もない空き地。昨日は気にも留めなかった場所だ。
そこまで来ると、流石に眠気は薄れていた。体を動かしたおかげだろう。寝起きよりも意識が少しだけはっきりしている。そうして暗さに慣れた目を瞬かせた時、今まで自分が付き従っていた人物を見て、私は、残りの眠気が吹き飛ぶほど驚いた。
「……ぅえっ! わわっ、か、カイさん!?」
私が掴んでいた服はなんと、カイさんのものだったのだ。背格好が似てるわけでもないのに、暗さと思い込みのせいで間違えてしまったようだ。
「す、すみませんカイさん! その、私、寝ぼけてたみたいで……」
「……別に」
慌てて謝る私に、カイさんは気にするでもなくそう言った。
カイさん相手に、子供っぽく甘えていたことが恥ずかしい。そして、彼がそんな私のことを拒まなかったことが、少しだけ嬉しい。
と、そこで思い出した。昨日、カイさんに……じゃなくて、カイに、敬語を使うなと言われたことを。今、思わずさん付けで呼んでしまったけど……だ、大丈夫、かな。
怒られるのではないかとビクビクしていると、空き地の真ん中に立った師匠が言った。
「ようやく起きたようだな。なら、ほら。準備運動しとけ」
「え? あ、えっと、準備って……」
これから何が始まるのかも教えてもらっていないのに、何の準備をしろというのだろう。
戸惑う私を差し置いて、彼は背中の剣をこれ見よがしに地面に突き刺す。
「決まってるだろ。鍛錬だよ」
「たんれん……」
そう言われて、私はようやく、こんな朝早くに起こされた理由がわかった。アドレさんに師事して一週間。やっと私も、あの剣の修行をすることになるのだ。
そうか。ついに……。
二人の修行を最初に見た時、訳もわからず抱いた憧れ。それに参加できるのかと思うと、それだけでやる気が湧き出てくる。
「わ、わかりました」
「おう。まずは軽く体を動かして、寝起きの体をほぐしておけよ」
「はい!」
元気よく返事をすると、私は早速体を動かし始めた。屈伸したり、ふくらはぎや太ももの筋肉を伸ばしたり。上半身も忘れずに。腕を伸ばして、腰、肩、首をグルグル回す。
空き地の端っこでは、上着を脱いだカイが腹筋や腕立て伏せなどの筋トレに励んでいた。普段の彼からは想像できないが、筋肉の盛り上がりが凄かった。
着痩せって、こういうことを言うのかな……。
なんだか恥ずかしくなってきたので、目を逸らす。
「手首と足首も忘れるな。捻りやすいからな」
「あ、はい。えっと、こんな感じかな……」
色々と効率的な運動方法を師匠に教えてもらいながら、準備運動を進める。徐々に体が温まってくると、体の準備だけじゃなくて、心の準備も整いつつあることに気付いた。
……うん、いい感じに落ち着いてきた。これくらいでもういいかな。
「終わったか?」
「はい」
準備を終えた私の前に、師匠が立つ。彼の背後から登るオレンジ色の朝日が、その屈強な肉体をさらに引き立てている。少し離れた所で素振りをしていた彼は、既に戦の顔になっていた。
睨んではいないが、こちらを牽制するような表情。これが修行だとわかっていても気圧されてしまうような、恐ろしさにも似た感覚を抱く。そのいつもとは違う雰囲気に、私は思わず確認を取った。
「えっと、私と師匠がお手合わせする、ということでいいんですよね?」
「ああ、もちろんだ。あいつとやらせてもいいが、お前の力量を測るためにも、まずは俺が相手してやる」
そう言って彼は、鞘に入ったままの剣先をこちらに向けてくる。そんな状態で剣を振るのはあまり良くないと聞いたことがあるが、大丈夫なのだろうか。……まあ、師匠がやっているのなら、多分大丈夫なのだろう。
「じゃ、始めるとするか」
「はい。お願いします」
緊張しつつもしっかり頷きを返し、私は持ち手だけの武器を取り出した。
ふぅ、と息を整えてから引き金を引く。瞬間、キラキラした光の粒子が形を成し、剣が現れる。先日と同じように、急激な重さの変化を感じた。でもそれは、思っていたのと少し違った。
腕の位置を保てない。突然現れた質量と腕への負担に、思わず剣先を地面に落としてしまう。
「おっ、と……」
心構えはしていたはずだが、上手く力が入らなかったのだろう。最初はそう思って、剣を握る両手に力を込める。けれど、落とした剣先は地面にくっついたまま、ビクともしない。
「あ、あれ? お、おかしいな……」
段々、手が痛くなってくる。力を入れ続けている筋肉が震えて、握っている持ち手が汗で滑る。焦りの気持ちが強くなる。信じられなかった。この剣がこんなに重かったなんて。
おかしい。一週間前は、あんなに軽々と振り回すことができていたのに……。
師匠との鍛錬を始められないまま、しばらく自分の剣と格闘する。
「おいおいどうした。やらないのか?」
待ちくたびれた師匠から、挑発するような言葉が投げられる。
「う、重っ……え、えっと、あの……」
全身に冷や汗を掻きながら、私はついに、助けを求めるように師匠を見た。
「も、持てない……」
「は? なんだって?」
「持てない、んです。この、剣、重すぎて……」
「持てないって、お前、そんな馬鹿みたいな話あるか」
その頃には、腕の震えが足にまで伝わり、膝が少しずつ下がっていた。自分でも情けないほどに、もうすっかり涙目、涙声になっている。
あれだけやる気があったのに、自分の武器を持てないなんて……。こんなに恥ずかしいことはない。そうは思ったけれど、これは流石に、無理だ。もはや鍛錬どころじゃない。
「ほ、本当に持てないんですっ。その、た、助けて……」
恥を忍んで助けを乞うと、彼は素っ頓狂な声を漏らし、そして呆れたように構えを解いた。
「お前なぁ、あの時アケルで、百体以上の魔物をバッタバッタ斬り倒してたじゃないか」
愚痴を零しつつも剣を下ろし、こちらに近付いてくる師匠。彼はなおも苦戦する私の隣に立って、私の両手ごと剣を掴んだ。そして師匠は、信じられないくらい重たいこの剣を、いとも簡単に持ち上げてしまった。
「あ、わっ」
「なんだ、俺のと同じくらいか。これくらい片手でも十分じゃないか」
師匠の手が離れると、また剣が地面に落ちる。そこから一ミリも持ち上げられない私を見て、師匠は重たく溜息を吐いた。
「はぁ……もういい。やめだやめだ」
そして、自分の剣を背中に引っ掛ける。
「お前、あれだな。その剣を持つ前に、体力作りしないといかんな。それが持てるだけの筋肉を付けなきゃ話にならん」
「うぅ、はい……」
本当に情けない話だが、師匠の言うことはもっともだ。剣を消して袋にしまう。もう重さは感じないというのに、両手はまだ震えていた。
そんなこんなで、師匠とのお手合わせは流れた。けれどその代わり、その後の鍛錬はとてつもないことになった。
具体的に何回とは指示されず、腕が上がらなくなるまで腕立て伏せをさせられたり、お腹が痛くなるまで腹筋をさせられたり、スクワットをさせられたり。そのせいで足や腕の筋肉が悲鳴を上げる中、町の外周を走ってこいと言われた時は、殺す気なんじゃないかと思ったくらいだ。
でも、そんな過酷極まりない修行にも、私の心と体はなんとか耐え抜き、シャツが透けるほど汗だくになりながら、宿への帰還を果たした。
「あぁー……うっ、気持ち悪い……」
お腹の中がグルグル回るような感覚。口元を押さえた手がいつもより白っぽい。全身を襲う倦怠感と痺れ、寒気、そして目眩。筋肉痛の予兆のようなものを全身に感じつつ、私は食堂の椅子に座った。上着を背もたれに引っかけて、机に突っ伏す。昨日とは違う意味で、死にそうだった。
まだ何も食べていないのに、お腹から何かが出てきそう。急に激しく動いたからなのか、肉体が運動に対して拒絶反応を示しているのだ。
「この程度でへばるなんて情けねぇな。こんなのまだまだ序の口だぞ」
薄情な師匠は、掠れた呼吸する私に労いの言葉すらかけてくれない。頑張ったなのひと言があれば、少しは元気が出そうなものなのに、彼はこれくらいできて当然だと言う。剣を持つことすらできなかった私は、今意識を保っているだけで精いっぱいなのに。
いつもこれより激しい鍛錬をしている二人のことが、段々化け物のように見えてきた。本当に恐ろしい。二人が砂漠越えで平気な顔をしていたことにも、納得できるくらいに。
「うぇ、うっぷ……し、師匠とカイはよく、こんなこと、続けられますね……」
「大したことじゃない。趣味みたいなもんだ」
こんなことを趣味にできるなんて、二人はやっぱり恐ろしいと思う。
胸の中で、心臓がこれまでにない速度で激しく動いている。吐き気を抱えたこの状態では、朝食もままならないだろう。ようやく食事にありつけるというのに、もったいない。
仕方なく、師匠達が朝食を口に入れるのを眺めながら、今日の鍛錬を反芻する。今はそれくらいしかできることがない。
私は、二人と比べるとまだまだだ。体が限界を迎えるまで運動したといっても、腹筋は一十回もできなかったし、スクワットは二十三回しかできなかった。腕立て伏せに至っては、たった五回で限界だ。確かに、辛かった。でも、自分の今の力を把握できたのは、一つの進歩だと思う。前向きに考えないとやっていけない。
……でも今は、とりあえず、休みたい……。
それから、私のお腹の虫が鳴り出して、まともに物を食べられるようになるまで、三十分くらいかかった。
◇ ◇ ◇ ◇
激しい運動による体の不調も落ち着いて、いつもの調子が戻ってきた頃。私達は今日も、フィーンの町を散策していた。
「う、足が痛い……」
体調は元に戻ったけれど、朝の鍛錬でいじめぬかれた足は重く、そのせいで、どうしても二人より歩みが遅くなる。まだ宿を出たばかりだというのに、付いていくだけで大変だ。
「なんだ、まだ言ってるのか」
「し、仕方ないじゃないですか。あんなに運動したんですから……」
反論しながらも足を動かし、なんとか置いて行かれないように頑張る。疲れているからといって、二人に迷惑をかけるわけにはいかない。
今日は昨日のようにあてもなくフラフラするのではなく、ちゃんとした目的地があった。それは、この町の北端に位置するあの大きな湖、ヨエフ湖だ。
ヨエフ湖は町の象徴的存在であり、経済に大きく関わる住民の生活基盤である。大量に蓄えられた水源は人々の生活用水として使われているし、農業や牧畜にも利用されている。驚くほど透き通ったその水は、国中どこを探しても見られないほどの美しさらしい。
そんな他では見られない綺麗な湖を拝みに行く、というのも今日の目的の一つらしいが、もちろんそれだけではない。私達が湖へ向かっている一番の理由は、湖付近にある、とある施設を訪問することだった。
その施設は、湖と町との境目に建てられている。そこでは日々、専門の調査員が湖の水質や水温などを調べており、この町の生命線を維持し続けている。今日は、その調査結果を教えてもらいに行くのだ。
と言っても、実際に施設に行くのは師匠一人で十分らしい。だから、私とカイの二人は今日も、町の散策を命じられていた。
昨日は遠目でしか見えなかった湖を間近で見られる、という興奮を胸の内に秘めながら進む道中。不意に師匠が口を開いた。
「あ、そうだ。知ってるか、レイラ。あの月に関する沢山のお伽話」
「えっ? あ、はい。確か、フェニさんから、色々聞きました」
これからの仕事とはまったく関係ない話題に戸惑うが、とりあえず、聞かれたことに答えた。
もう二週間も前のことだっただろうか。フェニさんからお仕事の合間に聞いた話の内容を思い出す。
曰く、あの大きな月には、神様が住んでいるのだという。神様は、この世界のすべてを意のままに操る力を持ち、私達下々の生き物を愛している。その愛ゆえに、私達に時折祝福をもたらすのだそうだ。それは数年間続く豊作の恵みだったり、はたまた未曾有の災害であったり。神様の気まぐれで、その祝福は幸にも不幸にもなる。
神に関する逸話もいくつか聞いた。神様が我々生き物を作ったのだとか、妖精を僕として従えているだとか。その中の一つに、私の種族『エルフ』の出自に関するお話もあった。人間と妖精が結婚したという、あの話だ。
そのことを師匠に話すと、彼は鼻を鳴らして言った。
「ふうん、神秘的な話ばっかりだな」
「そうですか? フェニさんがそういう話好きみたいで、沢山教えてくれたんですよ」
彼女から熱心に聞かされてはいたが、私は神様とか妖精とかの存在を、あまり信じていない。その根拠は自分でもよくわからないのだけれど、そういった神秘的な存在は、人が勝手に作り出したものだという印象があったからだ。都合の良いことも悪いこともすべてを神のせいにして、考えるのを放棄している。それはただのご都合主義ではないか。
要するに神とは、今ある知識では説明できない事柄を解明する――したように見せる――ための道具に過ぎない。なぜと聞かれると答えられないが、とにかく私は、神様という存在のことをそんな風に思っているのだ。
けれど、これを口に出すと怒られてしまいそうなので、静かに胸にしまっておく。これは少々過激な発言と捉えられるかもしれない。
「そうなのか。じゃあ折角だ。俺からも一つ、豆知識を教えてやろう」
「豆知識、ですか」
もったいぶった口調で師匠は言った。師匠からなら、もっと現実的なことを教えてくれそうだ。
「あの月はな、いつも北にあるんだ。だから自分の現在位置を知りたければ、あの月を探すのが一番手っ取り早い」
「北……そう、なんですか。あっちが北」
屋根の上にチラリと見える月の頭。そちらに顔を向けながら、声に出して繰り返す。方角の話は初めて聞いた。
「あ、東西南北はわかるか? 月のある北を向いて、右が東、左が西な。で、後ろが南」
「はい。それは多分、大丈夫です」
今まで方位など気にしたこともなかったが、一応知っている。雲は西から東に向かって流れ、逆に太陽は東から登って西に沈む。普段は意識しなくてもいいけれど、旅をするには便利な知識だ。
それに、ここには月という大きな基準があるので、どこにいても自分のいる場所がわかる。なんて便利なお月様なのだろう。綺麗なだけではなく、目印にもなるなんて。まあ、これだけ大きければ、目印になるのは必然だろう。
「そうか。なら、もう俺の出番はあんまりないな。あ、それはそうと、そろそろ湖が見えてくるぞ。運が良ければ、逆さまの月が見られるかもな」
「逆さまの月?」
それがいったい何のことを指しているのかわからなくて、首を傾げる。けれどその意味を聞く前に、私は答えを知ることになった。
不意に土気色した建物が消え、視界が開ける。それと入れ替わるように、強い反射光が目に飛び込んでくる。
「うっ……」
その眩しさに目が慣れてくると、澄んだ水色が、目の前に広がっていることに気付いた。
私達が目指していた場所、ヨエフ湖に到着したのだ。
その水は師匠から聞いていた通り、透き通るような明るい空色だった。湖と地面の境界線に波が打ち付け、周辺に建物はまったくない。そして、風に波打つ水面には、いつもと逆さまのお月様の姿が揺らいでいた。
「わぁ……!」
「どうだ。近くで見るとまた圧巻だろう」
砂漠の真ん中とは思えないその光景に、私はアケルで見た海のことを思い出していた。もちろん、あの大海原とは違って潮の匂いはしないし、対岸も見える。けれどこれは紛れもなく、心に衝撃を与えるほどの絶景だった。
「凄い、です。こんな、こんなに大きかったんですね、ヨエフ湖って……」
「ああ。だが忘れるなよ。俺達は、これを眺めるために来たんじゃないからな。とりあえず、俺は行くぞ」
「え? あ、そっか」
そう言えば、そうだった。
目的を思い出した私に構わず、師匠はついさっき通り過ぎたばかりの、湖に一番近い背の高い建物に向かって行った。その玄関の前で立ち止まった彼は、扉をノックする前に一度振り向いて、
「じゃ、俺はここに用事があるから。お前らはまた、適当に町の様子でも見てろ」
「は、はい」
師匠が建物に入っていくと、私達はその場に残された。静まり返った世界の中に、波の音だけが心地よく響く。
さてと。私達の仕事はここからだ。
「えっと、じゃあ、私達も行こっか……って、あれ」
仕事にやる気を出して振り返ると、そこにカイの姿はなかった。湖のほとりには、私一人しかいない。
「え、ど、どこ行って……」
慌てて周囲を見回すと、さっき通ってきた町の方に、一人建物の影に消えていくカイの背中を見つけた。どうやら彼は、師匠が何か言う前に、既にこの場を離れていたようだ。私と違って、湖などには興味がなかったのだろうか。とにかく、行動が早すぎる。
えぇ……置いていかれちゃった。今日は私一人で散歩するしかないのか……。
一応、付いていこうと思えばまだ追い付ける。けれど、こうして距離を置かれているということは多分、カイは今日、一人でいたいのだろう。……もしくは、やはり嫌われているのか。
幸いというか、私にはこの目があるので、初めての場所でも迷子になる心配はない。でもやっぱり、一人だと心細いな……。
「はぁ……」
まあ、いつも誰かの後ろに付いてばかりだし、たまには自分のペースで歩いてみるのも、いいかな。
少し寂しい思いをしながらも、私は一人、町の中へ戻っていった。
町を歩いてみて気付いたのは、この辺りも人が少ないということだった。あれだけ水の豊富な湖の近くだから、町の中心部並みに賑わっていると思ったのだが、拍子抜けした。何か理由があるのかと思い、目に付いたお店に入って話を聞いてみる。
「えっと、あの、すみません。この辺りって、いつもこんなに人少ないんですか?」
「え? ああ、まあね」
いきなり変な質問をしてきた私を不審に思ったのか、店員さんはそれだけ言うと、興味を失ったように仕事に戻った。邪魔をしてしまったことを申し訳なく思い、すぐにその場を離れる。
流石にちょっと、ぶしつけだったよね。今度はもう少し上手くやろう。
反省しながらお店を出て、改めて町の様子に目を向ける。その時。大きな道の反対側から、小さな白猫がこちらをジッと見つめていることに気付いた。
……あれ? あの猫、昨日も見たような……。
「……あっ」
猫は私と目が合うと、フイッと背を向けて路地の暗がりに消えた。音もなく揺れる尻尾に『来い』と言われているような気がして、私は無意識のうちに、一歩踏み出していた。
ふと我に返って踏み留まり、考える。本当に、あの猫に付いていっても良いのか。罠なんじゃないのか。というかそもそも、猫が人を誘うなんてことがあり得るのか?
そうやって私が迷っていると、路地の中から急かすようにひと声、
「にゃーん」
……うぅ、仕方ない。こういう裏道にいい思い出はないけど、とりあえず、行ってみよう。もし危険だと思ったら、すぐに師匠の所に戻ればいい。私ならそれができる。
そう考えて、私は猫の導きに従い、路地に入った。
裏路地の中は狭く、昼間だというのに少し冷たかった。一応、人が一人通ることのできるスペースはあったが、所々に放置された何かの木箱が邪魔をして、中々思うように進めない。朝の稽古で体が疲れているせいでもあるだろう。それでも頑張って、諦めずに付いていく。あの猫が私に何を伝えようとしているのか、知りたいと思ったから。
でも、
「あれ、え? ま、待ってよ、ちょっと」
何度目かの角を曲がると、その先にあの猫の背中はなかった。慌てて次の角まで走るが、そこには今までとほとんど変わらない光景があるだけ。猫の姿はどこにもない。義眼を使って探してみても駄目だった。どこか建物の中に隠れたわけでもなく、まるで最初から存在しなかったかのように、白猫の影は消えてしまった。
あれ、おかしいな。さっきの角を曲がって行ったところまでは、確かに見ていたんだけど……。
思わず立ち止まって、首を捻る。結局、あの猫は何がしたかったのだろう。誘われていると思ったあれは、単に私の勘違いだったのかな。
そう考えていた時、ふと、どこからか人の話し声が聞こえた。この近くからだ。建物の壁に反響して聞き取り辛いが、高い声がよく通っている。
ん……誰だろう、こんな所で。
気になって、声の元を探して歩き回る。その場所を見つけるまでは、そう時間はかからなかった。
明るい太陽の光が差し込む、建物ひとつ分の空き地。薄暗かった裏道とは違って、そこには砂漠の熱気が感じられる。その乾いた暑さから隠れるように、暗がりの中に彼らはいた。
建物の影の中に、身を寄せ合った小さな人影が五つ。子供のようだ。五人の子供は何やら楽しそうにお喋りをして、時折笑い声を上げたり大袈裟な相槌を打ったりしている。
……子供? どうして、こんな場所に子供だけでいるのだろう。親はどうしたのだろうか。
「あ、あのー」
気になって声をかけると、五人の子供は慌てて押し黙って、それから、私のことをジッと見てきた。
小さな五つの顔に注目される。子供達のお喋りを邪魔してしまったせいで、少し気まずい空気になる。
「……お姉さん、誰?」
一番近くにいた男の子が、強めな口調で言った。何と答えていいかわからず、一瞬言葉に詰まる。
「えっ、と……私、レイラって、いうの」
とりあえず、名前を教える。そして子供達を怖がらせないように、ここにいる理由も付け足す。
「その、私、適当にお散歩してたら、ここに来たんだけど……」
「迷子なの?」
道に迷ったと思ったのか、すかさず別の子が聞いてくる。
「ま、迷子じゃないよ。帰り道はわかってるから」
半分嘘だった。義眼を使えば帰る場所はわかるけれど、そのための道まではわからない。でも私は、子供相手に強がってそう言った。
「ふーん……」
私の答えを聞くと、子供達はこちらに注目しながら、仲間内でヒソヒソと話し始めた。急に現れた私のことについて、話し合っているのだろう。怪しい眼帯とかエルフさんだとかいう言葉が、ここまではっきり聞こえてくる。
よく見てみると、子供達の種族はまちまちだった。人間、竜人、翼人、犬の獣人、馬っぽい獣人。師匠が言っていた通り、この町でエルフを見るのは珍しいのだろう。耳と眼帯に視線が集まっていることを感じて、気恥ずかしくなる。
そんな風に怪しまれるのは仕方ないのだが、いつまでも子供達の反応を窺っていては埒が明かない。そう思って、今度はこちらから話しかける。
「あのー、君達は、ここで何してるの? どうして、こんな所にいるの?」
私の問いかけに、子供達は一度顔を見合わせてから、こちらを見て言った。
「あたしたち、ここで遊んでるの」
「お父さんとお母さんは?」
尋ねると、五人は揃って首を振って、
「いないよ」
と言った。子供達の表情は、心なしか少し暗いように見えた。
「あ……そう、なんだ……」
聞いてはいけないことを聞いてしまった。そう思った時には、もう遅い。
……嫌な気持ちに、させてしまっただろうか。
それでもなんとか明るい話題に持って行こうと、今度は私のほうから情報を出す。幸いにも、私にはこの話に関連する身の上話がある。
「……じゃあその、一緒、だね。私もね、いないんだ。お父さんと、お母さん」
「え、そうなの?」
その言葉に、子供達は興味を持ったように私の顔を見た。
「うん、そうだよ」
その声が思ったよりも暗く沈んでいるのに気付いて、私は驚いた。
言葉に出したことで、改めて自覚する寂しさ。ここにきて、自分が記憶喪失であるということを思い出す。ここ数日は思い出すこともなかったが、心の中には、深い孤独感が染み付いていたのだ。
そのことに気付くと、体の奥が冷たくなるのを感じた。それを面に出さないように、唇をギュッと結んで視線を落とす。子供達の前で、私が暗い顔を見せるわけにはいかない。
そんな私に親近感を覚えたのか、五人はゆっくり影の中から出てきた。先頭に立った犬の獣人の女の子が尋ねてくる。
「寂しいの? おねえちゃん」
「えっ? ……うん。寂しいよ。君達は、寂しくないの?」
正面に来た子供達に目線を合わせ、質問を返す。すると、子供達はそれぞれ隣の子と手を繋いで、元気よく言った。
「みんながいるから、寂しくないよ!」
その思っていたよりも明るい返事に驚く。
……強い子達だな。なんだか、こっちまで元気になってくる。
「でも、なんか、ずっと一緒だから、ずっと遊んでるとちょっとつまんないかな……」
端っこの男の子が言った。隣の子がその子の脇を小突くが、もう遅い。あー、と同意する声が上がる。そして何かを思い出したように、何人かが目を伏せた。それ以外の子達も、どこか暗い表情になる。さっきはみんながいるから寂しくないと言っていたが、本当は違ったのだろうか。
「そう、なんだ……」
そんな子供達のことを、可哀想に思ったのだろうか。私は無意識のうちに、こんなことを口走っていた。
「……ねえ。よかったら、お姉ちゃんと一緒に遊ぶ?」
俯いた子が顔を上げる。その子は少し間を置いて、恐る恐る訪ねてきた。
「……いいの?」
「うん、いいよ。その、そっちが嫌じゃなかったら、だけど……」
私の言葉を聞いた五人の子供達は、たちまち人懐っこい笑顔をパァーッと咲かせた。釣られてこちらも微笑む。その時私は、どこか心温まるような、今までにない不思議な感覚を抱いていた。




