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記憶と妖精~偽りの瞳~  作者: 夜寧歌羽
第一章 港町の宿屋
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第十一話 眼帯の少女

 ――ザアザアという、海独特の静かな波音。外から入り込んでくる平和な町の喧騒。窓辺に張られた白いレースのカーテンが穏やかに揺れ、潮の香りのする風が部屋に吹き込む。

 それは、私がこの町に来て最初に目が覚めた時のことを思い出させる、どこか懐かしい光景だった。


「……はぁ」


 外の世界から聞こえる忙しそうな――しかしどこか楽しげな――声の数々。私とは離れた所で交わされるその言葉につい溜息を漏らして、何重にも巻かれた白い包帯と、硬いギプスに固定された腕を見やる。

 ……もう、そんなに痛くないんだけどな。

 そのまま視線を下半身に向けると、白い毛布の上からでも、右足だけ異様に太いのが見て取れた。動かせない右腕と同じように、包帯とギプスの分だけ大きく膨らんでいるのだ。

 これのせいで、私はここしばらくの間、まともに立つこともできていなかった。でもお医者さんには、しばらくはこのままにしておくように、と強く言い付けられてしまっている。そのせいで私は、もうとっくに動けるのに、このベッドの上から一歩も動けないでいた。


「むぅ……」


 無理矢理にでも外したいけど、それをすると絶対に怒られるよね……。

 体を少しだけもじもじ動かしてみて、はぁ、と再度溜息を吐く。ギプスのことを諦めた私は、もう一度、窓の外に見える海に視線を向けた。

 アケルが魔物の大群に襲われてから、三日。あの時、突然の大怪我に意識を失った私は、その二日後――つい昨日、目を覚ましたばかりだった。


「……暇」


 あまりに暇なので、あの日以来使えるようになった不思議な左目を使い、病院の外を覗き見する。この普段とは違う視界にも、特殊な操作にも、もうだいぶ慣れていた。

 建物を透かして、見たい部分を拡大。そうするだけで、直接は見えない町の様子、襲撃後の現実が浮かび上がってくる。

 町はまだ、酷い有様だった、道の端には魔物の死体が転がり、破壊されてしまったいくつかの建物も、まだ瓦礫が散乱したまま片付けもできていない。家を失った人々は、役場近くの避難所で生活している。

 ここまでの被害を被った町を、また立て直すのは大変だ。それでも、町の人達は全然諦めてなどいなかった。

 有り余るほど大量にある魔物の死体を、バラバラにしてお肉に加工。魔物の肉は腐りにくいらしく、簡単に加工するだけ保存食になる。それを周囲の町に売り出し、復興のための資金に変える。そのお金を使って、壊された建物を直す。修復のしようもないほどの物は、また新しく作る。そうして町は、少しずつ元通りになっていく。

 ただ一つ、あの戦いで死んでいった人々の命を除いて。

 今回の惨事による死者は、三十六人という記録が出ていた。行方不明者はもっと多い。それは真っ先に襲われた漁師の一人だったり、逃げ遅れた一家族だったり。戦った騎士の中にも数名の犠牲が出た。彼らの葬儀は、今日の午前に行われた。その様子も、私はここから見ていた。

 彼らのためにも、この町を早く復興させて、より良い場所にしなければならない。残されたアケルの人々はみんな、そんな決意を胸に抱いて、一刻も早い町の復興のために頑張っていた。


 それから、もう一つ。大量の魔物がこの町に攻め入ってきた理由についても、私の耳に入っている。

 今回の事件を引き起こしたのはやはり、最後に姿を現したあのドラゴンだった。

 突如海の中から出現し、私の攻撃でどこかに飛び去って行った竜。……あれには個人的に、色々思うところがある。

 専門家の意見によると、にわかには信じ難いことだが、あの生ける災害はずっと昔――恐らくは何千年も前――から、このアケル近海で眠っていたのだという。その眠りはまだ千年以上続くと思われていたが、なぜかあの竜は、急に活動を再開した。突然目覚めた原因はまだわかっていないが……そのドラゴンの目覚めが、魔物達を刺激したことは間違いない。

 目覚めたドラゴンの放つ強烈な気配に、臆病な魔物達は恐怖し、一心不乱にその場を離れようとした。そして運悪く、その群れの一部がアケルの港に上陸。そうして、多くの悲劇が起こった。

 ことの顛末は、大体こんな感じだ。すべてが終わった後になってみると、最近の漁獲量が異常に増減していたり、魔物の目撃例が増加していたりと、その予兆は各所に見られていたそうだ。

 しかし、まさかこの穏やかな海の中で、あんな巨大な怪物が目覚めようとしていることなど、いったい誰に予測できるだろう? 結局のところ、あれは津波や地震のような自然災害と変わりはない。ドラゴンという生ける伝説が引き起こした、魔物災害。そういう風に扱われるだろう。

 ――と、物思いにふけっていた私の耳に、扉の開く音が聞こえた。


「ようレイラ。来てやったぞ。元気にしてるか?」

「あ、アドレさん」


 待ちわびた声に顔を向けると、そこには見知った二人――アドレさんとカイさんの姿があった。

 先頭で入ってきたアドレさんは面会者用の簡易椅子に腰を下ろし、カイさんはいつもの通り、私から少し距離を置く。壁に背を預けて腕を組む彼は、やはりいつも通り、私から頑なに視線を逸らしている。

 ……カイさん、結局またこんな関係に戻っちゃったな。あの時は少しだけ、心を開いてくれたかと思ったのに。

 私がそんなことを考えていると、アドレさんは背中の剣を下ろし、まず私に頭を下げた。


「昨日は、すまなかったな。お前の無事を祝うより先に、叱っちまって。ずっと目を覚まさないんじゃないかと不安で……心配、だったんだ。だから、つい口が出ちまった」

「あ、いや、そんな、謝らなくても。私も、相当な無茶をしたことは自覚してますし……」


 そう言って、彼に頭を上げてもらう。アドレさんは悪くない。謝らなくちゃいけないのは、いつも私のほうなのだ。


「いや、本当にすまない。他の奴のことも合わせて謝る。あの時はみんな、怒ってばかりだったから……」

「それは、まあ、そうでしたね……」


 その言葉の通り、昨日は、本当に大変だった。目が覚めて早々、アドレさんには怒鳴られるし、フェニさんにも叱られるし、フィキさんには泣かれるし。それに……。


「でもまさか、カイさんにあんなことされるなんて、思ってもみませんでした」


 ずっと私を避けていたあのカイさんにも、物凄い剣幕で胸倉を掴まれて、もう少しで怪我が一つ増えるところだった。

 ――命を無駄にする気かっ!

 カイさんはそう言って私を叱った。馬鹿な真似をした私が怒られるのは当然のこと。でも、彼にそこまで心配されていたことが、本当に意外だった。


「そうだなぁ。ありゃ俺も驚いた。あいつのあんな顔を見たのはしばらくぶりだ」


 そうして私達がカイさんの方を見やると、彼はプイと顔まで背けてしまった。滅多に見せない感情的な行動をネタにされたことが、気に食わないのだろう。いつにも増して不機嫌そうだ。


「素直じゃねぇなー。まあ、俺は別にいいけどさ」


 そんな彼の子供っぽい仕草に、アドレさんが軽口を言う。その微笑ましい光景に、もうすっかりいつもの平穏が戻ってきたことを実感する。だからこそ、その日常を一時的に壊してしまったことに、罪悪感を覚えてしまう。

 ……この二人にもあの家族にも、本当に大きな迷惑をかけてしまった。言うまでもなく、これまでで一番の大迷惑だ。けれど、こんな時に不謹慎かもしれないけれど、みんなが私のことをそれほどまでに心配してくれていたことが、凄く嬉しかった。


「……それより、今日はどうしたんだ、レイラ」

「え?」


 そう言って、突然話題を変えるアドレさん。私、何かおかしなことでも言ったかな?


「いやな、今日はやけに明るいじゃないか。なんか嬉しいことでもあったのか?」

「嬉しいこと、ですか? あー、まあ、ちょっと……」


 まあ、確かにちょっとした嬉しいことはあったけど……素直に喜んでいいのかどうか、微妙なところだ。

 言葉を濁しつつ窓際に目を向けると、つられて彼もそちらを見やり、そして、何かに気付いて首を傾げた。


「ん、あれ、ここに花なんてあったか? 昨日来た時は、何もなかったと思うが……」

「はい。これ、さっきお見舞いに来てくれた人が持ってきてくれたんです。子供を助けてくれたお礼にって」

「子供を助けた? ……ああ、そういや昨日言ってたな。魔物に食われそうだった子供を助けたって」

「ええ、そうです。その子とその母親が、取ってきてくれました」


 ほんの一時間くらい前のことだ。私があの時助けた子供とその母親が、私に改めてお礼を言いたいと、二人揃ってこの病室を訪れた。その時にお礼として持ってきてくれたのが、この花だった。

 ……本当は、母親がお金を渡そうとしてきたのだけれど、私はそれを断った。そのお金は、あの家族が生活していくための大切な資金のはずだから。でも、二人がどうしても何か形ある物を渡したいと言うので、なんでもいいから、花を取ってきてもらうことにしたのだ。折角花瓶が置いてあるのに、空っぽなのが寂しかったから。

 そうして花瓶に生けられたこの花は奇しくも、私がこの町で目が覚めた時、フィキさんの部屋で見たあの花と一緒だった。


「そう、だったのか。よかったな」

「はい」


 小さく風に揺れるその花を眺めながら、彼の言葉に頷く。

 花には、怪我の治りが早くなるなんて効果はない。けれど、そこに小さな自然があるだけで、私の気持ちは随分安らいだ。やはり自分は自然が好きなエルフなのだなと、心の中で再確認する。


「……やっぱり、私ってエルフなんですね」

「あっはっは。おいおい、今更何言ってんだよ、レイラ。当たり前じゃないか、そんなこと。生まれた時から決まってることだぞ?」


 そんな思いがつい言葉に出て、アドレさんに笑われてしまう。つられるように、私も小さく笑う。確かにこれは、実におかしい言葉だった。私がエルフで、人間よりも耳が長いことは、自分が生きていることと同じくらい当然なのに。

 ……そうだ。私はもう、とっくに受け入れていたのだ。自分がエルフであることも、自分が単なる女の子であることも。


「あーあ、久しぶりにこんな笑った。にしても、お前もついにそんなことを言い出すようになったか。退屈すぎて、ちょっと変になっちまったか?」

「えっ、あ、その……そう、かもしれませんね。ここから一歩も動けませんし、やることもなくて暇ですし、それに……」


 重たくて固いギプスをコツコツ叩く。私が退屈していた一番の原因だ。


「これ、凄く邪魔なんです。早く外して欲しいんですけど……アドレさんからも、お医者さんに言ってくださいよ」


 足も固定されているせいで立って歩くこともできないし、利き腕が使えないから、ご飯を食べるのだってひと苦労。これを付けられただけで、簡単なことが一気に大変になった。

 ……ああ、ご飯といえば、ここで出される料理にも不満がある。ここの食事、私が今まで食べていたご飯と比べると、あんまり美味しくなかった。怪我や健康のことを考えているのはわかっているんだけど、味は薄いし、量は微妙だし……はぁ、早くフェニさんの宿に戻って、あの人の作るご飯が食べたいなぁ。


「まあまあ、そう言うなって。しょうがねぇだろ。腕と脚に穴が開いて、骨も砕けてたんだぜ? しばらくは絶対安静だ」

「むぅ、アドレさんまでそんなことを……」


 もう怪我なんて治ってるのに……。

 左目を使って、分厚いギプスの中を覗き見る。腕にあった傷は完全の塞がり、骨や血管も、すべて元通りになっている。気を失うほどの大怪我をしてから、まだ三日しか経っていないというのが嘘みたいだ。まあでも、早く治るに越したことはない。こんなに早く治る原因がわからないけれど、治ったことは素直に喜ばなければ。

 私がそうやって怪我の度合いを見ていると、アドレさんが声を上げた。


「ん? お前、その目……」

「……はい?」


 どうやら、私が左目を使っていることに気付いたようだ。


「……本当、なんだな。左目が機械仕掛けだってこと」

「あ……はい」


 やっぱりまだ、信じられてなかったのかな。確認してくるアドレさんに頷いてみせる。この左目のことも、昨日のうちに全部話していた。

 もう既に色んなことに利用しているが、これを使えば、どんな物でもでも見ることができた。遠くの物も小さな物も、分厚い壁の向こうや、現在の情景から浮かび上がる過去も。それから、条件さえ揃えば、未来予測だって可能だった。

 そして、私がそれらの機能を使っている時、瞳にわずかな違和感が現れるらしい。アドレさんはそれに気付いて、私が何をしているのか勘付いたようだ。


「これは、一種の機械、なんです。生身じゃない、機械の瞳。義眼、っていうんでしたっけ、こういうの」


 目元に手を当てた私の言葉に、彼は頷いて答えた。


「ああ。確かに、病気や戦いで目玉を失った奴のために、代わりの目玉を作って入れることはある。だが……正直、まだ信じられん。まさかお前のその小さな頭ん中に、そんな機械が入ってたなんてな。しかも、魔法ではなく全部機械仕掛けときた。ほんと、馬鹿馬鹿しい話だよ」


 そう言って、アドレさんは大きな溜息を吐いた。彼の言いたいことはわかる。義眼が入っている本人だって、あの日まで何の違和感も抱かなかったのだ。まだ自分でも信じられていない部分があるのだから、他の人が信じられないのも当然だろう。


「もしかして、お前がオッドアイなのも、その目が原因なのか?」

「あ、それは……どう、なんでしょう……」


 単純に考えれば、そんな気もするけれど……この二つの関連については、何もわからない。もちろん、ずっと考えてはいる。でも、これに関する記憶がまったくない以上、他のことと同じように、今はまだ何も言えなかった。

 ……そもそも、私がいつ義眼になったのかもわからないのだ。それより以前のことなんて、わかるはずもない。だってこれは、生まれた時から決まっていることではないのだから。


「あー、そうか……すまんな、変なこと聞いて」

「いえ……」


 つい俯いた私に、彼はそう謝ってくる。それから、励ますように笑顔を向けて、


「まあ、いつも言ってるが、そう難しく考えるなよ。記憶はいつか必ず戻る。だから、気長に……っていう言葉はあんまり使いたくないが、待つことも大事だぞ」

「そう、ですね……はい」


 明るく話すアドレさんにつられて、こちらも顔を上げる。彼の言葉はいつも無責任だけど、その時の私に必要なことを的確に教えてくれる。私は、彼のそんなところが好きだった。

 そうして話がひと段落付いた時、何の脈絡もなくアドレさんが呟いた。


「……でも、よかった。お前の怪我も順調に良くなってるみたいだし、そんな便利な目があるんなら、俺達も心配ごとを残さずに出発できる」

「……え?」


 あまりに唐突なその言葉に、それまで和やかだった雰囲気が急に冷える。

 出発、って……どういうこと?


「も、もしかして、お二人、この町、出て行っちゃうんですか?」


 一方的に告げられた話に、思わず確認を取る。私はきっと、嘘だと言って欲しかったのだろう。けれど、彼はそんな私の期待を裏切って、首を縦に振った。


「ああ。急な話ですまんな。もう少ししたら、俺達はこの町を出る」

「そんな……どうして、こんな大変な時に……」

「まあ、事情は色々あるんだが……一番大きいのはやっぱり、この騒動のことだな」


 そう言って彼は、窓の外の喧騒に目を向けた。町を守ったアドレさん達も、あの事件の後片付けをずっと手伝っていた。でも、自分達がするべきことは、もっと他にあるのだと言う。


「できるだけ早く、このことを伝えなければならない相手がいる。でも、アケルの奴らはみんな、復興で忙しいだろ? だから、本来はよそ者の俺達が適任って訳さ。それにあれだ。あんまり長居すると、愛着が湧いて離れられなくなっちまうからな。居座るのは長くても一ヶ月って、前々から決めてたんだ」

「そんな……それは、昨日言ってた干し肉を売る人達に任せればいいじゃないですか。何も、アドレさんまで行かなくても……」


 適当な理由を付けて引き留めようとするけれど、彼は聞き入れてくれそうになかった。言葉通り、ずっと前から心に決めていたのだろう。彼の表情は、いつにも増して悲しそうだった。


「すまないな、レイラ。本当はお前の記憶が戻るまで、きちんと面倒見てやりたかったんだが……こればかりは、駄目なんだ」


 そう言ってアドレさんは、私の頭に手を乗せる。病室の端にいるカイさんも、心なしかいつもより気迫が弱い。彼もまた、申し訳なく思っているのだろう。

 や、やめてよ。そんなことされたら、私……。


「心配するな。後のことは、フェニが面倒見てくれるから。お前はあいつのこと、気に入ってるんだろ? あいつからも好かれてるし、もう完璧な家族じゃないか」

「そんな……無責任、ですよ……私のことを拾ったくせに、後のこと全部フェニさんに任せて、置いて、行くなんて……」


 涙を堪える私を、彼は何も言わずに撫でた。優しい手つき。でも、今までとは違って、少し距離を置いているような気がする撫で方だった。

 グッと奥歯を噛み締め、目を閉じる。嫌だった。彼らと離れ離れになることが。何も恩を返せないまま、ただ一方的に与えられるだけなのが。

 だから私は決心して、前々から考えていた一つの考えを、彼に話すことにした。


「アドレさん……お願いです。私も、連れて行ってください」

「は……?」


 私の言葉に、彼は一瞬間の抜けた声を出して、


「おいおい、そりゃ無理だ。いくらなんでも、お前を連れて行くことなんて――」


 首を振るアドレさんに被せるように、私は強引に話を続ける。


「私、決めたんです。記憶を取り戻すために、ここを出て旅をしようって」

「旅……? なんだよ急に。どうしてそんなことを……」


 このアケルで過ごした一ヶ月で、私は気付いた。特に何事もなく平和に日々を過ごしているだけじゃ、記憶は戻らない。私が何かを思い出したのは、魔物が襲ってきたあの時。目の前で悲惨な事件が起こって、自分の生命が危険に晒されるような場合だけだ。

 だから、そう。過去を思い出すにはきっと、何か大きな刺激が必要なのだ。目の前で人が死んだり、沢山の魔物を殺したり。私の心を抉るような、強烈な刺激が。

 だから、この町を出て旅をすれば、毎日が新しいことの連続で、それが良い刺激になると思った。旅に対する憧れ、というのもあるだろう。危険に満ちた日々になるかどうかはわからないけれど、少なくとも、何か新しい発見があるはずだ。それに……。


「……町を襲ったあのドラゴン。あれを見てから、私、ずっと何かが引っかってるんです。なんだか、あれに関するとても大切なことが、頭のどこかにあるような気がして……」

「大切なことって……」


 反復して呟いたアドレさんは、困惑した表情のまま振り向いて、カイさんと顔を見合わせる。無言で意見を求められたカイさんは口を開かなかったが、厳しい表情で、静かに首を横に振った。


「……ああ、そうだな。悪いが、駄目だ。あれの調査も俺達の仕事だが、だからこそ逆に、お前を連れて行くわけにはいかない」


 ……ここまで言っても、駄目なのか。アドレさんもカイさんも、私のことを甘く見すぎている。私の決意は、この人達が思っているほど弱くはない。


「……じゃあ、いいです。私一人でも行きます。止めても駄目ですよ。もう怪我も治って、好きに動けるんですから」


 私は、過去を取り戻したいんだ。そのためなら、どんな危険にだって飛び込む覚悟がある。こんなギプス程度じゃ、この私は止められない。

 強い意志を持って、アドレさんのことを見つめる。いつもなら、恥ずかしさに負けてこちらから目を逸らしてしまうが……そんなことは、意識しない。大事なのは、恥を捨てられるほどの強い気持ちだ。

 そのまま、数秒、数分。静かな時間が続く。潮騒がやけに大きく聞こえる。

 ――本気の思いが伝わったのか、彼は諦めたように大きな溜息を吐いた。


「……レイラ。お前、本当に、いいんだな」

「……おい、師匠」


 ついに口を出したカイさんを手で制して、彼は続ける。


「俺は、厳しいぞ」

「はい、知ってます。毎日、見てましたから」


 朝のアドレさんはいつも、魔物のごとく恐ろしい。でもあれくらい、あのドラゴンに比べれば軽いものだ。


「……後悔しても知らないぞ」

「はい、大丈夫です。……私、自分が誰なのかを知るまでは、絶対に諦めませんから」


 自分の記憶のことだ。どんなことがあっても乗り越えてみせるし、途中で投げ出すなんて、あり得ない。

 私の瞳に宿る覚悟をもう一度確かめて、彼は、深く頷いた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「レイラちゃん……本当に、行くのね?」

「はい。……ごめんなさい。もう、決めたんです」


 念を押して確かめてくるフェニさんに、頭を下げて謝る。そして私が顔を上げるより前に、彼女はそんな私のことを、強く抱き締めた。


「絶対に無理しちゃ駄目よ? 嫌になったら、すぐここに戻ってきてもいいからね?」

「……はい。ありがとう、ございます」


 フェニさんの温かさに包まれながら、なだめるように優しく背中を叩かれる。まるで、自分が本当に彼女の子供になったみたい。心の中から不安が消えて、気持ちが安らぐ。自分がとても大切にされていることを感じて、このまま離れたくないとさえ思ってしまう。でも……これは、自分で決めたことだ。

 この温かな感覚を体に刻み込んで、私は名残惜しくフェニさんから離れた。


「あーあ。レイラちゃんがいなくなっちゃうと、やっぱり寂しくなるな……」

「フィキさん……」


 悲しそうな顔の彼女とも、抱き締め合う。彼女と一緒に過ごした日々のことは、色々な意味で衝撃的で、色々な意味で忘れられそうにない。


「また帰ってきてね。私達、いつでも歓迎するから」

「はい……」


 そうして私は、町の跡片付けで忙しい中集まってくれた家族の面々と、それぞれハグをした。


「おうおう、やっぱお前小さいな……。じゃあな、レイラ。まだ全然話もできてないが……今度来た時は、俺が海に連れてってやるよ」

「家族にはなれなかったけど、僕達も君のことを応援してるから」

「ギーケイさん、ゲーニィさん……本当に、ありがとう、ございました」


 記憶がなくて右も左もわからなかった私を、今日までずっと支えてくれたシーリング家の人達。引き取ってもらう話はなくなってしまったけれど、それでも、もう既に家族のような関係になっていた。

 ……結局、この人達には色々してもらってばかりで、あまり恩返しらしい恩返しもできなかった。沢山の迷惑をかけたし、お仕事だって、一ヶ月もしないうちに辞めることになってしまったし……本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でも、それ以上に感謝している。


「おーい、レイラ。そろそろ」

「あ、はい」


 背後から呼びかけてくるアドレさんに、私は振り返って答える。もう行かなくちゃいけない。


「じゃあ……また絶対に、帰ってきますから」


 四人に向き直って、最後にそう約束する。


「ええ、待ってるわ」

「またな」

「またね、レイラちゃん」

「君のことは、ずっと忘れないよ」


 ……うん。絶対に、忘れるものか。

 そうして私は、私の旅立ちを祝福してくれた人達のことを、心に刻みつけた。


 出発の準備を進めていたアドレさんの元に行くと、彼は地面に置いてあった鞄を指差して、


「これ、お前の荷物な。部屋に置いてあったお前の着替えと、小道具と、水筒とかが入ってる」

「は、はい」


 頷いて、鞄の肩紐をたすき掛けにする。ここから持っていく物は最低限にまで抑えたので、私の荷物はかなり軽く済んだ。これなら、ずっと歩いていてもそんなに負担にならないだろう。私の武器が小さくなることも、荷物の量を減らすのに役立ってくれた。その分二人よりは圧倒的に負担が少ない。


「っと、そうだ。ここを出る前に、お前に渡す物があるんだ」

「渡す物?」


 肩にかけた紐の長さを調整していると、彼はそう言って、ポケットから小さな紙袋を取り出した。


「えっと、これは……?」


 とりあえず、差し出されるままそれを受け取る。結構、軽い。何が入っているのだろう。私が首を傾げていると、彼は無言で開けるように促してくる。

 何だろう。まだ何か、準備する物があったのかな……?

 疑問に思いながら袋を開けて、中身を取り出す。中に入っていたのは、細く長い紐と、それに繋がる深紫色をした手の平サイズの小さな布――片目を隠すための、眼帯だった。


「え、これ、って……」


 その意外な贈り物に、思わず彼の顔を見やる。すると、アドレさんは肩をすくめて、


「ほらお前、いつもその目のこと気にしてただろ? 俺達と一緒に来るんなら、先々で驚かれるのはわかりきってるからな。あんまり気になるんなら、それで隠しちまえばいい」


 そう言って彼は、驚いて声も出せない私の目元をそっと撫でた。

 そんな、アドレさんが、私のために……。


「あ、ありがとうございます!」


 お礼を言って、早速左目に付ける。頭の後ろで結ぶと、視界が半分真っ暗になった。けれど義眼の透過機能を使えば、見える景色は元通りになる。

 ……うん。大丈夫。ちゃんと見える。後は眼帯の違和感にさえ慣れれば、これまでとまったく変わらなくなるはずだ。


「……よし。ど、どう、ですか?」

「うん。思った通り、似合ってるぞ」

「え、あ、ありがとう、ございます……」


 ……やっぱりこの人に褒められると、ちょっと恥ずかしい。顔に上る熱を感じて視線を逸らす。そんな私にアドレさんは言った。


「うんうん、似合ってる。これでもう、誰かさんに気味悪がられることもないな」

「そ、そう、ですね……」


 眼帯を付けている人もあんまりいないと思うのだけれど……オッドアイを晒して嫌な思いをするくらいなら、こっちのほうがましだ。それに、折角アドレさんがくれたのだ。使わないなんて選択肢はない。


「……ありがとうございます、本当に。大切に使いますね」

「そうか。お前が喜んでくれたんなら、俺も嬉しい」


 そして私は、大きな荷物を持ったアドレさん――師匠の隣に立つ。師匠を挟んで反対側には、いつも通り無感情なカイさん。これから私は、彼の後輩という位置付けになる。そのことには少し不安を覚えるけれど……まあ、これから色々頑張っていけば、大丈夫だよね。

 振り返ると、シーリング家の人達が手を振っていた。それに負けないように、私も大きく手を振り返す。


「皆さん……本当に、ありがとうございました!!」


 最後に大きな声で感謝の言葉を叫び、私は、記憶を失ってからの一ヶ月を過ごした初めての場所、広大な海と共に生きる港町、アケルを後にした。


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