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記憶と妖精~偽りの瞳~  作者: 夜寧歌羽
第一章 港町の宿屋
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第九話 悲劇の断片

 まだ机に頭が届かなかった頃。まだ世の中の仕組みをよく理解していなかった頃。私は、目の前に座る大きな女性の顔を見上げて尋ねた。


「ねえねえ、おかーさん。おとーさんは、いつ帰ってくるの?」

「……ごめんね、レイラ。お父さんは、お父さんはね、もう……」


 そう言って女性は、優しく私を抱え上げた。そして、力強く抱きしめてくれる。柔らかい大人の胸が顔いっぱいを覆い尽し、私から呼吸の自由を奪う。


「む、ぐ、むぐー!」

「あっ、ご、ごめんなさい、レイラ。大丈夫?」

「ぷはー! く、くるしいよぉ~、おかーさん」

「ごめんね。本当に、ごめんね……私が、しっかりしないといけないのに……」


 彼女は必死に嗚咽を押し殺しているようだった。でも、その理由を理解するほどの知識を持たない私はただ、どうして?と問い続けることしかできない。


「どうして泣いてるの? どこかいたいの?」

「そういう訳じゃ、ないのよ……ごめんね、心配、させちゃって……」

「ほんとーに? げんき、出してね?」


 温かみのある笑顔を咲かせた彼女は、私を再び腕の中に引き寄せ、大丈夫よ、と優しく囁く。彼女の固く閉じられた瞼の奥から、熱い涙が止めどなく溢れ出す。


 女性の名がした涙が顎の先から零れ落ちた瞬間。世界が、変わった。


 私の周りは、炎に包まれていた。

 毎日大切に使っていた家具は跡形もなく、お気に入りだったベッドも、可愛いお洋服も、手作りの置物も、それらに詰まっていた大切な思い出も……何もかもが炎に飲み込まれ、踏みにじられていた。

 目の前に立つ見知らぬ男達が、私を見て何事か言い争っている。頑丈そうな鉄の甲冑に身を包み、手には血にまみれた剣。男の足元には、生まれた時から一緒にいる女の子の無残な亡骸が――。


「……ぁ、あぁ」


 目を背けたくても、できない。視線が動かせない。信じたくなかった。これが、現実だなんて。

 私の腕の中で、小さな赤ん坊が泣いている。その声が気に入らなかったのか、男の一人がこちらを向いた。玄関先に倒れていたさっきの女性が必死に泣きつくが、男はそれを振りほどいて、私から赤ん坊を奪い去ろうとした。


「あ……だ、め……っ」


 抵抗しようとするが、非力な私では屈強な男に敵うはずもなかった。男は私から引ったくった赤ん坊を地面に叩き付け、そのか弱い体を、まだ小さな頭を、何度も何度も踏み付けた。

 水の詰まった柔らかい何かが潰れるような、嫌な音。女の人の悲鳴が木霊する。

 そして男が足を上げると、そこには大きな血溜まりが――。


「あ、あ、ああ……」


 いや、やだ、そんな……。

 気持ちの悪い臭いが強くなる。お腹の中で、何かが蠢く感覚。気持ち悪い。凄まじい吐き気がする。

 男の不気味な視線が私を捉える。その行動で直感した。次にこうなるのは、私だ。

 逃げなくちゃいけない。本能的にそう思った。なのに、体が動かない。足の、全身の震えが止まらない。生温かい液体が内股を伝う感覚があったけれど、今はそれどころではなかった。お腹の真ん中が痺れたような感じがして、喉元まで何かが昇ってくる。

 怖い。男の手に握られた剣が、とてつもなく怖い。

 男は後ずさりする私に近付き、長く伸ばした銀の髪を、千切れんばかりに引っ張ってくる。頭を襲う強烈な痛み。涙が溢れる。こんな乱暴なことをされたのは、それが初めてだった。


「い、いや……いやっ……!」


 痛いよぉ、お願い、やめてぇっ!

 何を言っても、男は髪を放してくれない。何とか暴れようとするが、その途端、思いっきり頬を殴られた。口の中が切れ、血の味が滲む。その痛みに体を動かせなくなり、私はまた、涙を零すことしかできなくなる。


「うっ、ううっ……」


 体が痛い。想像を絶する苦痛に息が詰まる。

 なんで? どうして? どうして私が、こんな目に合わなくちゃいけないの? 私は悪くない。私は、何も悪くないのに……。

 生まれて初めて振るわれた圧倒的な暴力に、呻き声と嗚咽が漏れる。霞む視界の向こうには、突き付けられたナイフの刃。すがるように視線を上げると、男の口元は醜く歪んでいた。男がこれから何をしようとしているのか、嫌でもわかってしまった。


「あ、あ、い、や……」


 凄まじい悪寒が背筋に走る。顎の筋肉が痙攣して、歯がガチガチと鳴っている。逃げようともがいていた腕から力が抜けた。言葉では表しきれないほどの恐怖が、私の体を彫像のように固めてしまっていた。

 や、めて……い、や、いや……!!


「に、げて、レイラ……!」


 誰かの必死の訴えが耳に届いた瞬間、左の瞳に、キラリと光る鋭いナイフの先端が――。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「――っ!!」


 目が覚めた途端、私は声にならない悲鳴を上げて、まるで何かから逃げるように飛び起きた。

 ここは、フェニさんの宿屋。アドレさんとカイさんと一緒に、ここ一ヶ月間ずっと使っている部屋だ。


「はぁ、はぁっ……」


 息が、苦しい。胸の奥が痛い。心臓の鼓動が、いつもより大きく感じられる。

 どうしてこんなに息を切らしているのか、自分でもわからない。前髪の先から滴る汗が、固く握りしめられた手の甲に落ちる。服も布団も、汗でぐっしょりと濡れていた。

 顔にへばり付いていた前髪を軽く払い、部屋の中をそれとなく見回す。なぜかはわからないが、どうしてもそうせずにはいられなかった。

 部屋はとても静かだった。窓の外から差し込む光が、私の寝ていたベッドを明るく照らしている。眠る前と何ら変わりはない。ただ、隣のベッドはやはり空っぽだった。二人は今日も庭で稽古をしているのだろう。どこからともなく、剣と剣を打ち付ける印象的な音が響いてくる。

 いつも通りの、爽やかな朝。そう思うと、全身から力が抜けた。今自分がここいることに、なぜかとても安心した。


「ふぅ……はぁ」


 ……夢を、見ていた気がする。なんだかとても大切で、とても、おぞましい夢。だけど、どうしてだろう。凄く悲しくて、苦しくて、辛かったことだけは覚えているのに、それ以外のことがよく思い出せなかった。

 ――に、げて、レイラ……!

 脳裏に蘇る誰かの声。間違いじゃない。確かに名前を呼ばれていた。あの、私の名前を……でも、いったい、誰に?

 頭を抱えて、分厚い靄に包まれた夢の内容を思い出そうとする。

 その時。


「いたっ!」


 左の目に、ズキッという鋭い痛み。そして一瞬、視界にザザッとノイズのようなものが走った。

 弾かれたように左目を押さえる。痛みはほんの一瞬だけだった。けれど鈍い違和感は長々と尾を引き、中々収まってくれない。

 な、何が、どうして、急に目が……。


「う、うぅ……」


 まるで眼球を貫かれた・・・・・・・かのような、一瞬の激痛。背筋に寒気が走り、冷や汗が噴き出る。

 なんで急にこんな痛みが。それも、どうして左目だけに……。

 今の今まで見ていた夢と、何か関係があるのだろうか。訳もわからず目を押さえ続けていると、不意に、痛みとは違う何かを感じた。震える手の平に伝わる頬の冷たさと、その表面の、温かい何か。


「……あ、え?」


 自分が涙を流していたことに、その時初めて気付いた。

 なん、で? 私、どうして、泣いて……?

 涙が出るほど痛かった訳ではない。何か悲しいことがあった訳でもない。なのに、なぜ……私はそんなに、悲しい夢を見ていたのだろうか。

 涙の理由もわからないまま、私はひたすら、溢れ出るそれを拭い続けていた。


  ◇  ◇  ◇  ◇


「あら? どうしたのレイラちゃん。目なんか押さえて」


 結局、その原因不明の鈍痛はしばらく待っても治らなかった。左目を押さえたまま一階に降りると、そんな私の姿を認めたフェニさんが、心配そうに尋ねてきた。


「その、朝起きたら、なんか痛くて……」

「痛いって、左目が? 大丈夫か、レイラ。知らないうちにゴミが入ったとか……」


 鍛錬を終えていたアドレさんにも心配されるが、残念ながら、心当たりはない。昨日何かあった訳でもないし、顔に何かがぶつかったとか、目の中に何かが入り込んできたりもしていない。少なくとも、覚えている限りでは。


「わかり、ません。でも……。夢を、見ていたような気がするんです」

「夢? どんな」


 首を傾げたアドレさんに、関係あるかわからないですけど、と前置きして、


「それが、よく覚えていないんです。とっても怖い夢だったことだけは、覚えているんですけど……」

「怖い夢?」

「はい……」


 頷くと、彼は眉根を潜めて腕を組んだ。こんなに奇妙な夢を見ることは、これまで一度もなかった。


「怖いって、いったいどんな? ……あ、って言っても、覚えてないんだったな。すまん」

「いえ、そんな……自分でも、不思議なんです。なんだか、ちょっとだけ懐かしい・・・・ような、でも、凄く怖い。そんな気持ちだけが残っていて」

「懐かしい? ……ふむ、なるほど。夢、か……」


 そう小声で呟くと、アドレさんは軽く目を閉じて何やら考え込んだ。私の説明に、何か思うところでもあったのだろうか。とりあえず、しばらくそっとしておこう。

 でも、本当に不思議だ。ただの夢を、ここまで怖いと思うなんて。これまでもお仕事の夢とか、海の夢とかは何回か見たことがあるけれど、どれも曖昧で、漠然とした印象しかなかった。でも、今日は違う。はっきりと怖い。恐ろしい。そしてそれが、また別の恐怖にも繋がってくる。

 記憶に残らないほど強烈な夢を見ていたというのなら、私はいったい、どれほど恐ろしい夢を見ていたというのだろう?


「まあでも、詳しいことを覚えていないのなら、そのまま忘れちゃうのも一つの選択よ。辛くても、そのほうが幸せなこともあるんだから」

「はい……そう、ですね」


 フェニさんに励まされて、つい俯いていた顔を上げる。確かに、そうかもしれない。他のことだって気にしなければ忘れていくのだから、この夢のことも、あまり気にしないようにしよう。


「それより、本当に目は大丈夫なの?」

「あ、はい。大丈夫、です。ちょっと変な感じがするだけですので」


 こうやって話をしているうちにも、痛みは少し軽くなってきている。もう押さえていなくても大丈夫だ。それより、気になることが一つ。いつもならアドレさんと一緒にいるあの人の姿が、今日は見当たらない。


「ところであの、アドレさん。カイさんはどうしたんですか? 今日はまだ見かけませんが……」


 気になって聞いてみると、頭を上げたアドレさんは肩をすくめて言った。


「ん、さあ。まだ庭じゃないか? あいつ、今日はなんか気合入ってたからな。少し自主練してるのかもしれん。熱心だよなぁ。あ、お前はあの馬鹿みたいに無理するなよ。あんまり痛いようなら、病院に連れてってやるから」


 病院というのは、この町の中心部にある施設のことだ。病気になったり、怪我をしたりした時には、絶対と言っていいほど行くことになる。私はまだお世話になったことはないけれど、以前アドレさんとお出かけした時に、場所だけ教えてもらっていた。

 わざわざお金のかかるお医者さんに治してもらえという彼に、私は心配ないと手を振って、


「そんな、大袈裟ですよ。一応、今日はお休みですし、じっとしてればそのうち治りますって。ね、フェニさん」

「そうよ。レイラちゃんは今日お休み。私が子供をこき使うような鬼に見えるっているの?」

「あー、はいはい。わかったわかった。でも、母は時として鬼になるんじゃないのか? ほら、俺みたいな奴を相手にする時とか」

「それは、そうかもね。よくわかってるじゃない」

「……ふふっ」


 その自分をだしにした冗談につい笑みを零して、場の雰囲気が少し和む。二人から視線を向けられて恥ずかしくなったけど、朝から険悪な感じにならなくて、ちょっとホッとした。こんな気持ちのいい朝から、ギスギスした空気なんて吸いたくない。

 夢のことは気がかりだけど、こうしてこの人達と一緒にいると、そんなことも忘れてしまいそうになる。

 ……うん。今日も普段通り、良い一日になりそう。

 そう、思った矢先だ。


「……あら?」


 お店の外に目を向けたフェニさんが首を傾げた。


「……? どうかしました?」

「いえ、その、外の様子が……」


 彼女がこんな反応をするなんて珍しい。疑問に思った私が、首を捻りつつ振り返る。すると突然、見知らぬ男の人がお店に飛び込んできた。扉の鈴が激しく鳴り、朝ご飯を食べていたお客さんの視線もそちらに集まる。

 ひどく慌てた様子の男性は、今にも倒れそうに肩で息をしながら、


「大変だ! 海から魔物の大群が……っ!!」


 その突拍子もない言葉に、一瞬静まり帰る店内。


「……マモノ?」


 ……って、何のこと?

 呆然とその言葉を繰り返す者。私と同じように首を傾げる者。眉根を潜めて、なぜか表情を堅くする者。唐突過ぎる出来事に、誰一人として動けない。

 ……そういえば一度、フィキさんの口からその言葉を聞いたような気がする。確か、雨の日に魔物がなんとかっていう話で……。

 あの時どんなことを話していたのか思い出そうとしているうちに、戸惑っていた視線が、扉の向こうの騒がしさに吸い込まれる。目の前を通る大きな道が人で溢れて、フェニさんの言った通り、なんだかいつもの賑わいとは様子が違うような……?

 次々と浮かぶ疑問。いったい何が起こっているのだろう。そんな私の混乱を、さらに酷くするような出来事が起こった。


「魔物だと……おい! 何してる。早く逃げろ!」


 男の言葉を深刻に受け止めたアドレさんが、大きな声で避難を促す。その一声で、お店の中は騒然となった。現状を把握した人々が次々と席を立ち、出口に殺到し始める。少し遅れて、フェニさんも声を上げた。


「なんてこと。みんな避難を! 早く!」


 そう叫ぶ彼女の表情は、いつになく険しかった。


「さ、あなたも逃げるのよ、レイラちゃん」

「え……? な、なんで……?」


 この混乱の中で、私だけが未だ状況が飲み込めず、何もできずにいた。なんでみんながこんなに慌てているのか、わからない。

 逃げろってどういうこと? 外で何が起こっているの?


「いいから、早く行きなさい!」


 これまで聞いたことのないフェニさんの大声に、今度こそ体がビクリと反応する。でも、それだけだった。まだ頭が混乱から抜け出せなくて、私の体はすっかり固まってしまっていた。

 い、行けって言われても、ど、どこに行けばいいの? 私、ど、どうすればいいの……?

 咄嗟に動けなかった私を助けてくれたのは、意外な人だった。


「……来い」

「え、あ……」


 いつの間にか近くに来ていたカイさんが、私の手を掴んで引っ張る。


「戦える奴は、戦えない人を守れ!」


 アドレさんが叫び、剣を手に店を飛び出す。私とカイさんは彼の後ろに続いて、沢山の人に押し潰されながらも、なんとかお店を出た。

 外は、さらに酷かった。昨日まで平和だった町の大通りは、我先にと逃げ惑う人々で溢れ、大人の怒号、子供の泣き声、そして、誰のものともわからぬ悲鳴で満たされていた。


「こっちだ! 逃げろ!」

「急いで! 魔物がもうすぐそこまで来てる!」


 どうして、こんな。いったい、何が……。

 振り返ったアドレさんは、人の波に流されてしまわないよう、私の肩を強く掴んで言った。


「いいかレイラ。このまま町の人達に続いて、安全な所に行くんだ」

「え、で、でも、アドレさんは……」

「俺のことは気にするな。自分のことだけ考えればいい。今はとにかく逃げろ。ほら早く」


 急かすように背中を叩かれる。そして、カイさんが私の目をまっすぐ見て・・・・・・・・・・


「……逃げろ」


 彼が私のことを正面からきちんと見てくれたのは、それが初めてだった。

 そのひと言を最後に、彼は私の手を離した。訳もわからないまま人の波に流され、二人の姿が段々見えなくなってしまう。


「か、カイさん! アドレさん!」

「お前はそのまま行け! 行くんだ!」


 顔だけ振り返ったアドレさんはそう叫ぶと、私に背を向け、人の流れとは反対方向に向かっていった。

 そんな、置いてかないで、私も……。

 独りぼっちになるのが怖くて付いていこうとするが、次々と溢れてくる人の波に押されて、私の意思とは反対に、体は徐々に流されてしまう。頭の中には、アドレさんの言葉が反響するように残っていた。早く逃げろ、安全な所に行くんだ、と。

 その意味が段々飲み込めてきた私は、奥歯を噛み締めて、心の中で答える。

 ……わかり、ました。アドレさん。何が何だかわからないけど、とにかく言われた通り、安全な所に行かなくちゃ。

 流れに抗うのをやめて、体の向きを変えようとする。でも、タイミングが悪かったのだろう。自分の足に誰かの足が絡んで、私は地べたに転んでしまった。


「あぅ、いたっ……!」


 こけた拍子に手足を擦りむき、痛い。慌てた誰かに体を踏まれて、また痛い。

 すぐに立ち上がって進もうとするけれど、この混雑ではそれもままならなかった。人混みから逃げるように道の端に寄って、騒ぎが落ち着くまで少し待つ。そんな中、思い出したかのように、また目が痛くなった。


「いっ……!」


 手の届かない眼孔の奥が熱くなり、醜いノイズが世界を歪ませる。今度は中々痛みが引かなかった。すぐ横を走り抜けていく人達は、目を押さえて蹲る私に目もくれない。

 ああ、もう! なんで、こんな時にっ……。

 よりによって今痛くなった左目を恨みながら、痛みが治まるまでしばらく待つ。そしてようやく目の痛みが引いた頃には、周りには誰もいなくなっていた。


「うぅ……」


 あ……そ、そうだ。逃げなくちゃ。

 まだ目は痛むが、自分の身に危険が迫っていることを思い出して、この場から離れようと立ち上がる。けれどその時、私は見てしまった。海の方から現れたそれ・・を。この騒ぎを引き起こした張本人。人々が恐れる『魔物』の姿を。


「ぁ、ひっ……」


 人間の大人よりも遥かに大きな体。人の恐怖を煽るような獰猛な顔と、太い牙が覗く口元。前足に生えた鋭い爪が、硬い石畳を砕く。細長い体を半分引きずるようにして地面を這うその姿を見て、私は、アドレさんが逃げろと叫んだ理由を理解した。

 あれが、魔物。人を襲う、恐ろしい化け物。そうか、だからみんな、危険だって……。

 視界に入るだけでも本能的な恐怖を感じる魔物が一体、濡れた体を引きずってこちらに近付いてくる。

 ……でも、ここからはまだ少し距離がある。今すぐ走って逃げれば、あれに追い付かれる前に逃げることが――。


「きゃぁああ!!」


 悲鳴が聞こえた。思わず体の動きを止めて、慌てて周囲を見回す。

 声の主は、すぐそこにいた。逃げ遅れてしまったのだろうか。近付いてくる魔物の目の前に、尻餅をついたまま動けないでいる、小さな獣人の男の子がいた。


「嘘、そんな……」


 このままでは、あの子が食べられてしまう。

 ――助けなきゃいけない。

 そう思った時には既に、私の体は動いていた。

 自身の安全を捨てて、魔物の前に躍り出る。けれど武器一つ、勇気すら持っていない私には、魔物の相手をするなんて英雄みたいな真似はできない。

 間近で見たその恐ろしい姿に足が竦み、でも、後ろには子供がいるから逃げられない。恐怖と保護の板挟み。そうこうしているうちにも、魔物は口を大きく開けて、私のことを食べようと……。

 もう駄目、食べられる。でも、せめてこの子だけは……!

 庇うように男の子を抱き締める。これから訪れるであろう苦痛を想像して、私は目をギュッと瞑った。背後に近付く生臭い魔物の気配と、近付く誰かの足音。そして――。


「ガッ……!」


 ――痛みはなかった。けれどその代わりに、私は、熱くて鉄臭いものを――知らない人の真っ赤な血を、全身に浴びていた。

 恐る恐る、振り返る。そこには、魔物に肩口を噛まれ、血の飛沫を上げる見知らぬ獣人の男性が……。


「その子を、たの――」

「え……」


 その掠れた声が耳に入ってきた瞬間、彼は私達が見守る中で、魔物に首を噛みちぎられた。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。耳が遠くなり、世界が歪む錯覚。彼の体から吹き出た鮮血が顔にもかかり、半開きだった口の中に入る。

 その嫌な味が、私の意識を引き戻す。


「あ、そん、な……」


 現実離れした臭いが鼻腔を塞ぎ、お腹から何か酸っぱいものが上ってくる。目の前で起こった悲劇に、私はただ、呆然と呟くことしかできなかった。


「お……お父さん!!」


 腕の中で男の子が叫び、手を伸ばす。現実感がない。私はその動きを反射的に抑え、父親の亡骸を貪る魔物から、ジリジリと後ずさった。


「いや! 嫌っ! 離してよ! お父さんが、お父さんがぁ……!」

「駄目、駄目……!」


 私の声は掠れていた。でも、体は動いていた。

 たった今、目の前で、ほんの一メートル先で、大切な父親が食べられているのだ。この子の抱いている感情は、想像することもできない。でも、私がここで手を離したら、この子まで魔物に食べられてしまう。それは、駄目。それじゃあ、お父さんが身を投げ出した意味がない。

 左の視界に、また、ノイズ。でも、そんなことを気にしている暇なんてない。魔物の注意がこちらに移る前に、男の子を抱えるようにして、走り出す。


「やだ、離して! 離してよぉ……!」

「……ごめんなさい、ごめん、なさい……っ!」


 お腹の中の気持ち悪さを我慢し、泣き喚く男の子を抱えながら、私は走った。

 人のいない大通りは寂しくて、お店は仕事が投げ出されたままだった。そんな町の様子を見ると、これが現実ではないように思えてくる。まるで、悪夢を見ているような感覚。現実感がまるでない。何もわからない。わかりたくない。

 ……でも、この体にかかった血は、間違いなく本物だ。恐ろしい魔物が町に攻め込んできたことも、目の前で、人が死んだことも……。


「うぐっ、えぐっ、うえぇぇ……おと、さん……っ」

「はぁ、はぁっ……ぐっ」


 私は、何もできなかった自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ。


 しばらくして、道の先に人の姿が見えてきた。でもそれは、ただ単に逃げる人達の後ろに追い付いたわけではない。そこにいたのは、戦いの準備を進める何十人もの兵士と、彼らの制止を必死に振り解こうとする、一人の女性の姿だった。


「お願い、行かせて! 息子がいないの! 行かせてください!」

「駄目です、奥さん! 落ち着いて。今、逃げ遅れた人の救助を……」


 息を切らした私がその現場に近付いていくと、女性の表情が変わった。それを見て、一人の兵士が何事かとこちらを振り向く。その隙に彼女は兵士の手から逃れ、子供を抱えた私の元へ駆け寄ってきた。


「ああ! トロワ! よかった、無事だったのね……」

「あ、お、おかあ、さん……!」


 私が男の子を女性に渡すと、彼女は子供を強く抱き締め、涙に濡れた子供の頬を拭った。母親の元に戻れて安心したのか、男の子はまた泣き出してしまった。


「よかった……本当によかった……。ありがとう、ありがとうございます、本当に……!」


 涙ぐむ女性にそう何度も頭を下げられたけれど、私は、何の言葉も返せなかった。

 私は、感謝されるようなことは何もしていない。ただ、あの人に、あの人の最期に、その子を頼むと言われたから……。


「君、大丈夫か!? その血は、怪我は……」

「わ、私は、大丈夫、です……」


 私の肩を掴む兵士さんに目を向ける気力もなく、ただ形式的に答える。頭の中には、ついさっき目の前で殺された男性のことが残っていた。

 思い出すだけでも涙が溢れてくるけれど、それでも私は、彼のことを奥さんに伝えなければならない。その責任の重大さに拳を強く握った時、母親が子供に尋ねる声がした。


「と、トロワ、お父さんは? 一緒じゃなかったの?」

「う、あ……お、お父さん、は、お父さんは……っ」


 さっきのことを思い出してしまい、再び動揺する子供。その子に代わって、私のほうから口を開く。


「その子の、お父さんは……その子を、庇って、魔物に……」


 私も、もう限界だった。最低限それだけ伝えると、震える足をなんとか動かし、物陰に隠れて、吐く。

 喉が焼けるように熱く、涙が目に染みる。そしてまた、左目が熱くなる。朝ご飯を食べる前だったからか、出てきたのは酸っぱい胃液だけだった。

 収まる気配のない吐き気に目尻から涙が漏れ出てきた時、突然背中をさすられた。そこで初めて、後ろにさっきの女性がいることに気付いた。


「だい、じょうぶ? ……ありがとう。息子だけでも、助けてくれて」


 汗で冷えた背中に触れる、温かい手の平。

 ……どうしてこの人は、私にこんな優しくするの? この人だって、大切な人を失ったはずなのに……。


「わ、たし……私っ、何も、できなかったんですっ! その子を助けに行ったのに、私……あの人に助けられてなかったら、今頃……」


 本当は、こんなことを言うべきでないとわかっていた。けれど私は我慢できなくて、胸の内を打ち明けていた。

 私があの子を守ろうとして、でも、結局何もできなかったから。私が出しゃばらずに父親に任せておけば、こんな、ことには……。


「ごめんなさい、ごめんなさい。あの人、私のせいでっ……!」

「そんな……そんなこと、言わないで。あなたが自分を責めたって、あの人は帰ってこない。だからそんな、自分のせいにしないで。お願いだから、あの人の死を無駄にしないで!」


 それはとても、強い言葉だった。でもそれは、私のことを思っての言葉だったのかもしれない。彼女に責められているはずなのに、なぜだか慰められているような気がして、さらに涙が止まらなくなる。


「う、あ……ごめん、なさい……」

「もう謝らないで。わかったら、さあ。あなたも早く逃げるのよ」

「私、は……」


 そうして目の前に手を差し出され、顔を上げる。

 ……私は、この手を取ってもいいのだろうか。迷いながら、服の袖で口元を拭う。その時、私が右手に握っていた物が、初めて目に入った。


「あ、れ……」


 それは、いつかフェニさんに返してもらった、私の名前が書かれていた物。誰にも使い道がわからなかった、不思議と私の手に馴染む何かの持ち手。私は、それをいつの間にか取り出し、手に持っていた。

 ……なんで。いつの間にこれを。ずっと、しまっていたはずなのに……。

 そう疑問に思った時、また左目が痛くなる。今回は、これまでの中で一番酷かった。視界の歪みが酷くなり、もう何も見えない。目を開けていられない。まるで壊れた機械のように、左の視界がノイズで満たされる。


「う……!」

「だ、大丈夫!?」


 さっきからなんで、こんな、目が……。


 ――これ、お前にやるよ。


 不意に、声が聞こえた。どこか懐かしいような、ずっと昔から知っているような。確かに聞き覚えのある、誰かの声が。

 これ、って……まさか、私の、記憶?


 ――……別に、いらない。

 ――いいから受け取れって。お前のために創ったんだ。


 頭の中に現れる朧げな映像。誰かが私に、この棒を手渡している場面。これがいつの記憶なのかは、わからない。でも、一つはっきりすることがあった。私はこれの使い方を、知っている。

 そう、だ。これは、私の――。

 今まで感じたことのない何かが、私の心を満たしていた。意識が私のよく知る現実から離れていくような、ふわふわした感覚。なんだかおかしな気持ち。でも、全然嫌ではない。それどころか、逆に――。


「もしかして、どこか怪我でもしてるんじゃ……」

「……大丈夫、です」


 女性が心配そうに介抱してくれるけど、私は彼女の手を借りず、一人で立ち上がった。

 息を整えて、振り返る。そこにあるのは、ついさっき私が逃げてきた道。そのさらに向こうでは、アドレさんやフェニさん達が命を懸けて戦っている。あの恐ろしい魔物の大群から、町を守るために。

 戦うことのできなかった私がそんな所に行っても、何の役にも立たないだろう。命を捨てに行くようなものだ。

 でも……今は、違う。


「どうしたの、あなた。いったい何を……」

「……ごめんなさい。私、行かないと」

「行くって、何言ってるの?」


 困惑する女性。その後ろから、兵士が一人、こちらに近付いてくる気配。中々逃げようとしない私のことを不審に思ったのだろう。彼がこちらに疑わしげな視線を向けているのがわかる。


「君、どうした。ここは危険だ。早く避難するんだ」


 いつもなら、こんなにはっきり背後からの視線を感じることはなんてない。でも、今は全身の感覚が研ぎ澄まされているのか、わざわざ振り返るまでもなくそれがわかった。


「……私にも、できることは、あります」

「ちょっと、あなた!」

「何を考えている!」


 降りかかる二人の言葉に再度ごめんなさいと呟き、今来た道を走り出す。

 左目のノイズは徐々に収まり、少しずついつも通りに――いや、いつも以上に視界の幅が広がっていく。真上や真下、真後ろさえも、三百六十度全方位が見える。それだけではない。分厚い壁や地面の透過、目に見えない範囲の望遠、ミクロな単位までの拡大も思いのままだ。

 それはまるで、望遠鏡と顕微鏡を意識で直接操っているような感覚。でも、不思議と不気味には感じない。むしろ、なぜ今までできなかったのだろうとさえ思う。そう。これが私の、当たり前・・・・なのだ。

 そして、視界をチラつかせるノイズが完全に消え失せ、よりクリアになった左の視界に、『再起動完了』の文字がはっきり見えた。


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