ある男の最期
揺れる電車の窓の外に、強烈な光を放つ高層ビルの群れが見える。夜空の星が見えなくなるほどの明るさ。既に見慣れた夜の町だ。
あのビルのどれかが俺の職場だった。そして俺は今日の仕事を終え、帰路についているところだった。
「ん、ふぁ……っと」
何度目かの欠伸をなんとか噛み殺した時、タイミング悪く車両の揺れが激しくなった。つり革を握る手に力を込める。電車はカーブに差し掛かったところで、外の景色も移り変わっていた。
手に持っていたスマホに目を戻した時、不意に画面上の時刻表示が目に入った。二十時を過ぎたあたり。なるほど、欠伸も出る訳だ。しかしそれでも、ここ数週間の中では早いほうだった。
しばらくして、目的の駅への到着を告げるアナウンスが社内に流れた。覚えのある電車の揺れ方。俺は再び出かかった欠伸をかみしめながらスマホをポケットに収め、鞄を肩にかけ直した。
自宅への帰り道はいつも暗い。まだ夕暮れの時間に通っていたような時期もあったが、ここしばらくは仕事が忙しく、会社帰りに夕焼けを拝むことはなかった。
「はぁ……」
立ち並ぶ家々の明かりを頼りに、ビニール袋を片手に人気のない道を歩く。
今日の夕食は、スーパーで残っていた安売りの弁当。自分で料理をしたいという思いもあったが、最近は帰りが遅いので作る時間がない。でも、それは言い訳だ。やりたいと思いつつもやりたくないと思って、自炊をサボっているだけ。それを咎めてくれる人がいないから、ずっと自分に甘えている。昔は俺にも、このサボり気質を注意してくれる人がいた。
「……はぁ」
嫌なことを思い出してしまった。良い思い出ばかりだけど、思い出したくないこと。あの眩しいほど輝いていた日々のこと。
……やめよう。こんなことを考えても、時間の無駄だ。
アパートは、もう目と鼻の先だった。
脱いだ靴をそのままに、俺は重たい足を引きずるようにして自宅の居間へと帰り着いた。
スーツの上着を脱いだ後、俺は半ば習慣的にテレビのリモコンに手を伸ばした。テレビの中では、見慣れない気象予報士が天気図を示していた。
『明日の天気は曇りのち雨。折り畳み傘があると安心できる天気となるでしょう。ただ、風はそこまで強くならない見通しですので、寒さはあまり感じないかもしれません。この雨が上がると、ようやく春の訪れを感じられると思われます。続いて東北地方では――』
春……そうか。今年もまた、春が来るのか。
春と聞いて最初に思い浮かぶのは、桜。そして桜と言えば、俺の中では入学の印象が最も強い。大学に入学した時は、運よく桜が咲いていた。そしてその翌年、彼女と出会った時も、あのキャンパスの桜はちょうど満開だった。今でもはっきりと覚えている。そう、あいつは、ピンクの花びらが舞う桜の木の下で、俺とはほとんど初対面のくせに、いきなり――。
『こんばんは。今日のニュースです。本日行われたアメリカ大統領との会談で――』
いつの間にか、天気予報は終わっていた。続いて始まったニュースに構わず、俺はテレビの電源を切った。いつもならニュースは流しておくのだが、今日はなんとなく、そんな気分にはなれなかった。
真っ黒な画面に自分の虚しさを投影しながら食事を済まし、シャワーを浴びる。寝巻に着替えて時計を見ると、短針は十の数字よりも少し手前にあった。
いつも寝ている時間まで、まだ一時間も余裕がある。今日、いつもより早く残業が終わったのは気のせいではなかったようだ。
久々に確保できた貴重な時間を何に使おうかと考えていると、ふとある物が目に留まった。DVDプレーヤーの横に置かれた、埃を被った一世代前のテレビゲーム機。彼女との思い出とセーブデータの詰まった、大切な一品。
……そう言えば、最近やってないな。
大学へ通っていた頃は毎日のように彼女と遊んでいた対戦ゲームのことを思い出し、少しくらいなら、と電源ボタンへ手が伸びる。だが俺の指は、ボタンに触れたところで止まった。
「……麻美」
脳裏に蘇る明るい笑顔。何気ない言葉の数々。常に充実していたように思えた日々。そして、忘れられない、彼女との最期のやり取り。
――明日の、日が昇る前に着く予定。
そう、か。わかった。じゃあ俺、迎えに行くから。日が昇る前に。
うん。またね――。
「……くそっ」
棚の上に置いた彼女の遺影。その笑顔が悲しそうに歪んでいるような気がして、俺はいたたまれなくなって視線を外した。
あの日から、三年が経った。彼女のいない人生は、俺にとって苦痛以外の何物でもなかった。
……明日も、仕事だ。早く寝よう。
その日、結局俺はいつもより早い時間に布団を被って、眠りに落ちたのだった。