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電子の海のロールシャッハ  作者: Kuroya
Alexander・OZ・Rorschach
7/11

Hero

「ダン、ス、あの、あたし」


 耳鳴りが止み、再び鼓膜を揺らしたのはサイレン。再び気が付く世界の赤。

 目の前に現れたロールシャッハと名乗る男―――ヒーロープログラムによって顕現した――はシンデレラの腕を掴むと立ち上がらせる。

 手際よくスカートを叩き土を払ってから、彼はシンデレラの肩を優しく掴み笑い掛けた。そして優しく、それでいて何処か力強い響きで口を開く。


「此処は何処だ小娘」

「はっ?」


 思わず耳鳴りの所為で自身の言語処理能力がオシャカになったのでは、とシンデレラは疑った。しかし彼の真後ろで『ガー、きんきュうジたい発生、ガー』と喚くならずもの達の言葉で、皮肉な事に自身のそれは正常である事を知る。

 彼女はロールシャッハの細い手首を掴むと、サイレンに掻き消されぬ様声を大きくして叫ぶ。


「あなたヒーローでしょ、あたしを連れて逃げてよ!」

「訳の判らん事を言うな。貴様は質問に質問で返せと習ったのか」


―――シンデレラ、やっぱり正規の手順を踏んでいないから。


「良いか小娘、もう一度聞くぞ。此処は、何処だ」


―――バグってんのかこいつ。アタラクシアの情報くらいインストールされている筈だけどな


「何処って、アタラクシアに決まってんじゃん!ちょっと、早くしてよ!」


 集まったならずもの達はカチカチと不快な音を立てながら首を小刻みに振っていた。

 そのならずものの中でもひと際大きい体躯、リーダーと思しきそれが耳の辺りから伸びたアンテナをしきりにこすっていた。

 アンテナの先に付いた丸い小粒の様な球体は赤く点滅していたが、その点滅が徐々に早くなる。『ピ、ガー、ピ、ガー』と一定のリズムでリーダーは繰り返している。

 

「成程、判った。では何故我輩は此処に居る?」

「あなたってホント最高。自分が何者か、判っていないの?」


 ロールシャッハは薄く笑ってシンデレラの頭頂部にチョップを下す。「うぎゃっ!」と悲鳴を上げたシンデレラは頭を抑えながらキッとロールシャッハを睨み付けた。


「何すんのよ!」

「だから、質問に質問で返すな」


―――うわ、この人の言う通りだなって思っちゃうのが怖え

―――確かに質問に質問で返すというのは頭の悪い人の特徴ですよね


「あんたらは黙ってなさい!だから、あなたはヒーローで、あたしを助ける為にここに居るの、呼んだの、あたしが」


 ヒーロー。

 その単語にロールシャッハの目が大きく見開く。それから困った様な顔をして眉間に皺を寄せた。大事な事を思い出す時の様に手を当て、考える。


「まさか…」


 アタラクシア、ヒーロー、『目』、そして『異世界』

 パズルのピースの様に散らばっていたそれらをロールシャッハはようやく重い腰を上げて嵌めていく。

 今自分に何が起こっているのか、それは口に出すまでもない様に思えた。


「夢では無い。あの噂は、本当だったという訳だ」

「何言ってんのよ、早く逃げてってば!」

「我輩に命令するな。人間とはつくづく見た目で判断するしか出来ぬ生き物だな」

「命令って…!あなたはあたしが呼んだの、言うならあたしがマスターなのよ!」

「我輩は『あなた』では無い。アレキサンダー・オズ・ロールシャッハ」


 上手くいかない会話にシンデレラは苛々した様子を見せながら「バグっていうか、エラーじゃない、こんなの」とヘンゼルとグレーテルに語り掛ける。

 幸いならずもの達は突然の事態になす術が無い様で、未だ小刻みに首を揺らすばかりだった。

 

―――俺らに聞くなよ


「じゃあ、ロールシャッハ、早くあたしを連れて逃げて!」

「ロールシャッハ『様』だ」


 声にならない声を上げながらシンデレラは両腕を振り回すが、ロールシャッハはその頭を抑えつけているため当たりはしない。

 しかし、そんな体力ももう使い果たしたのか、へなへなと壁を背に座り込むと膝を抱える。

 

「なんで、なんで言う事を聞いてくれないの、こんなはずじゃ」


―――あーあ、あーあーあー、泣かせちゃいましたよロールシャッハさんとやら

―――女の子を泣かすなんてヒーロー失格だぜ


「む、むむ、我輩は未来から来た猫型ロボットでは無い、そう易々と靡いてたまるか」


 その時、背後にいたならずもののリーダーの声が止む。その代わりに球体が高速点滅となり、その輝きに合わせて他のならずもの達の顔の揺れが大きくなる。

 そして全員が同じ様な動きで右手を斜めに構える。カチカチ、その音と共にリーダーの機械的な声が響く。


『本部認証通過、ひーローを抹殺、しんデれらよリ、ひーロープロぐらむを回収スる』


 シンデレラの顔がみるみる青くなっていく。呼吸が乱れ、噛みしめた唇から赤い血が涙の様に伝って、地面へと落ちる。

 

『作戦開始、本部合図まデ、あと、14秒』

「何が起ころうとしている、抹殺、回収、だと?そこの貴様。もう一度言ってみろ」


 さして焦る様子も無くロールシャッハはゆったりとした動きでならずもの達を観察していた。

 彼らは節々から白い蒸気の様な物を発しながら、姿勢を低くしていく。野性的な、肉食動物が獲物を仕留める時の様な構え。


 それは即ち必殺。強靭な四肢をもって大地を蹴り上げ、その凶刃をいかんなく発揮する為の姿勢。

 

―――こりゃもうだめだな、諦めるしかねーなシンデレラ

―――時間が足りませんでしたね。バグさえ無ければ、あるいは…


 滴り落ちる血と、涙、鼻水、涎。

 およそ体液と呼べる物は全て大地に降り注いでいる。しかし泣こうとも喚こうともならずものが止まらないという事は彼女も良く知っていた。

 

「お願い、助け、て」


 歯を食いしばる。

 ならずものは今にも飛び掛かろうと、その双眸をロールシャッハとシンデレラに向けている。

 どうせ回収されるなら、とヘンゼルとグレーテルを構えてはみるが、照準に対して、ならずものの数は余りに多い。その間も加勢に加勢を重ね、もはやなす術は無い様に思えた。


 だからこそ彼女は、叫ぶ。


「助けて、ヒーロー」



 ならずものの群れが一斉に動き出す。

 ある者はそのまま鋭い右腕を突き出し、またある者は飛蝗の様に跳躍し、上空よりロールシャッハへ飛び掛かる。

 それは一瞬。弱者が強者に殺される、世界の理。

 どうあがいても捻じ曲がる事は無い、絶対の真理。


『ガ、ガガ、ガガガ』


 しかしならずもの達の視線の先にあったモノ。

 それは空間。ただの何も無い、本来ならば内臓だとか血液がバラ撒かれている筈の空間に、ロールシャッハは存在しなかった。


『ガ、ピー、ガピ、ピー』


 180度を網羅する。

 彼らの視界にはロールシャッハどころか、シンデレラの姿も無い。

 小屋の様な建物の窓から怯えながら覗いていた人々でさえ、忽然と姿を消したロールシャッハ達に驚きを隠せずにいた。

 機械が伸縮する様な音を立てて、彼らの瞳は索敵を続ける。

 路地、通路、店の中、ありとあらゆる平行線にはロールシャッハ達の姿は見当たらない。


『ガガガガ、ガピー』


 一体のならずものが声を上げる。

 それに合わせて他のならずもの達も一斉に顔を上げて、その一体が示す先へと目を向ける。


 180度では足りない。ロールシャッハはシンデレラを抱えたまま娼婦館のビルからビルへと跳躍し、ラジオ塔の方へと向かっていたのだ。



「――――跳んでる」


 絵本の中でしか見た事の無いお姫様抱っこ。

 涙を拭き下を向くと、景色は小さくなり、また大きくなる。その度にふわり、身体が宙に浮く感覚が彼女を襲った。

 メーンストリートでは人々が彼女達を見上げ、あんぐりと口を開けている。その様子にシンデレラは思わず可笑しくなり、小さく笑った。

 だがそんなシンデレラを他所に、ロールシャッハは怪訝そうな顔をしながらシンデレラに視線を移す。


「久しぶりにこう跳躍したが、案外身体は鈍らぬモノだ。それより、貴様我輩に何をした。身体が勝手に」

「何って、何も…ただ、助けてって」


―――IDとパスワードの入力を求められなかった代わりに、シンデレラのその一言が、トリガーだったのかも知れねえ。まあよかったじゃねーの


「ならずものが追ってきた!」


 彼らが屋根から屋根、屋上から屋上を伝う様にならずもの達もまたその軌跡を辿る様にして追いかけてきていた。それだけでは無く、メーンストリートでも彼らに平行する形でならずもの達が顔を彼らに向けたまま走っていた。


「速い、これではいずれ追いつかれるのが関の山だろう。少し眠ってもらうか」

「駄目、そんな事したら今よりもっと状況は悪化するに決まってる!」


 ロールシャッハは否定も肯定もせず速度を上げる。

 足が着いてから跳躍までの秒数を、そして滞空時間を短くする。

 レンガ造りのラジオ塔が眼前まで迫る。広場では人々がまだ頭を抱えて蹲っていた。

 空から見下ろした街は広場を中心に四方に分かれていた。それだけを確認するとロールシャッハは一旦広場へ着地する。

 

「奴らはなんだ、アンドロイドか」

「ならずものよ、サイボーグ。ラプンツェルの」


 人々は口々に「シンデレラだ」などと叫ぶ。どよめきはロールシャッハ達を中心に波紋の様に広がったが、広場でバチバチと電気を帯びた右腕で粛清をしていたならずものがその電気を一層大きくさせると、彼らはまた悲鳴を上げて頭を抱え、平伏していた。


「シンデレラッなんとかしろよッ!」

「そうだ、ならずものをぶっ殺せ!お前のせいでこうなってんだ!」


 頭を抱えつつ騒めく人々を一瞥すると、ロールシャッハは気にも留めず街灯に向けて跳躍する。

 狭い足場を伝いながら人混みを避け、ようやく人混みが途切れると路地の前に着地し、肉、魚、電子品などと書かれた錆びたり、古ぼけた如何わしい看板が幾つも掲げられた雑居ビルが立ち並ぶ路地へと駆けて行く。

 店の中で突然の出来事に驚きの声を上げる人々を後目に振り返ると、路地の入口で何体かのならずもの同士が衝突しクラッシュする様子が飛び込んできた。小さく笑ったロールシャッハは手近な看板の縁に手を掛けると、再び雑居ビルの屋上へと飛び出す。

 光線を描いていたライトは緊急事態を告げるようにくるくると円を描いていたが、それらは一斉に何かを探すような動きに変わっていた。


「なんで笑ってんの!」


 サイレンが一段と大きくなる。叫ぶシンデレラの一声でロールシャッハははたと自分の口に手を当てる。

 

「ハハハハッ、実に久方ぶりだ、この様な、逃走劇など」


 四方は電子防壁により囲まれている。ロールシャッハの見つめる先にはその電子防壁に合わせてずらりと並んだ工場。

 もうすぐ街は途切れ、高速道路の様な物が歪に畝っている。工場まで続くそれらを確認すると、ロールシャッハは笑いながら速度を上げていく。


「むう、見つかった様だな」


 ライトがロールシャッハ達を照らす。それと同時に後ろの方から『ガガピー、ガガピー!』という声と共にならずものと、そのリーダーが屋上を伝って追いかけて来るのが見えた。


「ねえロールシャッハ、工場に逃げよう。あそこなら身を隠す所もあるだろうし」


 街が途切れる。

 高速道路のインターチェンジの様な建物の屋根に降り立ったロールシャッハは、跳躍してくるならずもの達の方へ振り向く。それからシンデレラを降ろし、襟を正す。


「何やってんのよ、まさか戦う気じゃないでしょ?!」

「奴らから逃げる事は『ほぼ』不可能だ。それは貴様とて判らぬ筈はあるまい」

「そりゃ、難しい、けど」


 ロールシャッハ達が見下ろす形で、ならずもの達が着地する。


「ならばまずは言葉で理解してもらう」

「はぁ?無理に決まってんじゃん!人間じゃないんだよ、サイボーグだよ?!」


 シンデレラはロールシャッハのマントの裾を掴み「速く逃げよう、ねえってばあ」と懇願していたが、彼はびくともしない。


―――全ての命令に従う訳では無いようですね


 彼はシンデレラを手で制すと、屋根から降り立つ。そしてオペラ座に降り立ったかの有名な怪人の様に両手を広げ、彼はならずものに歩み出す。

 それからロールシャッハは右手を胸に当て、舞台役者の様に高らかに声を上げた。


「我が名はアレキサンダー・オズ・ロールシャッハ。そこな異形なる者共よ、我輩こそ貴様らと同じく異形の身。なれば無駄な血は流さないのが利巧とは思わぬか」

「あたし、初めて見たかも、ならずものに語り掛ける人…」


―――言葉は銃より強しってか?そんな訳あるか


「我輩こそ異形の頂点、ヴァンパイア。貴様らが今すぐ追跡を止めると言うのならばサイボーグと言えど命までは奪わん。望むのならば我輩の眷属にしてやっても良いのだぞ」

「えっ、あいつヴァンパイアなの?」


―――ヴァンパイア。血を吸う鬼、通称吸血鬼と呼ばれる者ですね。旧世界では伝説上の存在だと記載されています

―――なんかあいつって天然っぽいよな。ならずものが言葉を理解するかよ


 カチカチ、カチカチ。

 ならずもの達は頭を震わせ、その音を増大させていく。サイレンの音が小さくなっていった。


「え?」


―――まさか、いやそんなはずないだろ


「そう。それでいい。何時の世も我輩に最終的に平伏す事になるのだ。どれ、友好の握手とでも行こうじゃないか」


 カチカチカチカチカチカチカチ。

 その音の間に、何か奇妙な音が混ざり込んでくる。


『ハ、ハハ、ハハハ』


 頭をただ振っているのではない。


「わらって、る…?」

『ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ』


―――あ、こいつは不味い。ロールシャッハを引かせろ


「ハハハ、こやつらめ。それ程我輩と友好を結び生を約束されるのが嬉しいか。おいどうだ小娘、こいつらは我輩に対して早くも首を垂れて来たではないか」


 腰を折り、ならずもの達は今もなお笑い続ける。

 ロールシャッハとならずものの距離は、もう腕を伸ばせば届く距離。だからこそ、シンデレラが叫ぶ事よりも、ならずものが動く方が早かったのである。


「ロールシャッハ、逃げて!」





 ロールシャッハの胸を貫く、体躯の大きいならずものの右手。

 針の様なそれは確かにロールシャッハの胸の中心―――鳩尾の辺り―――に突き刺さり、彼の白いYシャツの様な服を、スーツを赤黒く染めていく。

 視線だけを己に開いた穴へと向けた彼の視線は、高くなる。

 

「ロールシャッハ!」


 彼の身体は宙へ浮く。ゆっくりと体重が掛かり、めりめりと肉を掻き分ける音、骨が広がり砕ける音と共にロールシャッハの身体へと針は深く、深く突き刺さっていく。

 悲鳴を上げる事も無くロールシャッハは腕をだらりと下げ吐血する。ならずものの顔が赤く染まった。

 それだけでは無い。周りのならずもの達もロールシャッハの身体という身体に右手の針を突き刺していく。

 首、腕、足、腹、頭。

 おおよそ致死量という広義な言葉を使うならば、その量などとうに越えているだろう。ならずもの達が抜き差しする度に血液は赤ワインをグラスに注ぐ様に流れ、広がっていく。


「そん、な」


―――逃げましょう。シンデレラさえ生きていれば、まだ可能性はあるのではないですか?


 立ち上がる事も出来ず、ただシンデレラは茫然自失して座り込んでしまう。

 ヘンゼルやグレーテルが何か言っているが、彼女の頭はその言葉を認識しようとはしなかった。

 ただ目下で繰り広げられる魔女狩りの様な惨殺を、ただ見つめる事しか出来なかったのである。


『ガピー、絶命を確認シた』


 体躯の大きいならずもののリーダーはそう告げると右腕を振るう。

 ロールシャッハの身体は内臓と思しきモノや血液とは違う、何処となく黄色みを帯びた液体をも撒き散らしながらただゴミの様に地面を転がっていった。

 勢いは止まらず、ガードレールの様な灰色の壁にぶつかるとその動きを止め、仰向けの状態でそのまま倒れ伏しているばかりだった。


 ぬらりとした液体が月光に妖しく、鈍く光る。

 ならずもの達は視線をシンデレラへと向け、ゆっくりと歩み寄る。


 ぐわんぐわんと視界は揺れ、胃の奥から酸っぱい汁がこみ上げてくる感覚を噛み殺す。

 ガチガチという音が頭の中で鳴り響き、それが自分自身の歯が打ち鳴らされる音であるとシンデレラが気が付いた時には、体躯の大きいならずものがインターチェンジの屋根、眼前へと降り立っていた。


―――あーあ、本日二度目の万事休すか、これならあいつに使われる方が良かったな

―――お兄ちゃんそんな事言っちゃダメ。私達だってまたあの箱の中に逆戻りじゃないの


 叫べば


 あのヴァンパイアが起き上がるかも知れない、先程の様に助けてくれるかもしれない。

 そう思うシンデレラであったが、叫んだと、口に出した筈だと思った言葉は「ううぅぁ」という赤子の悲鳴の様なそれにすり替わる。


「ひっ…ひぃっひぃっ」


 座り込んだまま後ずさりするも、背中に当たる硬い感触がその絶望を増幅させる。

 もう一体のならずものがカチカチと音を出す。


「うぁ、あっ、あぁ、あっ」

『抹殺目標絶命、回収目標を確認。これよリ連行スる』


 ならずものの左腕が伸びる。鎌の様だった左腕は煙を吐きながら変形し、人間のそれとなった。

 首元を掴まれたシンデレラの足が離れる。バタバタと暴れる度に、ヘンゼルとグレーテルを繋ぐ鎖だけが虚しく音を立てた。


「いっ…いや、だッ」


 気絶させるつもりなのだろうか、ならずものの手に力が籠る。

 バタ足の様に暴れていた彼女の足はやがてゆっくりと力が抜けていき、左腕を叩いていた手も、だらりと垂れさがる。



 戻りたくない



 視界の端から黒が迫る。酸素が足りなくなり警鐘を鳴らす脳に比べて、彼女の心臓は驚くほど静かだった。

 意識を手放せば、終わり。そう彼女自身判ってはいたが、もうそれも限界に近い。


 ついに彼女は更に増した締め付けにより、諦める。手放さんとしていた意識がすくい上げた水の様に掌から零れていく感覚。

 目を閉じている訳では無いのに暗くなっていく視界。半分程雲で隠れていた月はようやくその姿を現し、世界を、シンデレラを照らしていく。

 


 きれい


 

 そう心の中で呟いたシンデレラは、その意識を手放す



 事をせず。






「いやはや情けない」


 ならずものの手が離れる。

 一気に吸い込んだ空気が彼女の全身を駆け巡る。静かだった心臓は廃棄処理間近のポンプの様に歪に鼓動を繰り返しながら肺とタッグを組み、全身に血液を送る。

 それと同時に肺が軋み、シンデレラは思わず地面に両手を着いて胃液を吐き下した。

 溜まった水が流れの悪い排水溝に呑み込まれていく様な、ウシガエルの様な声が喉から溢れ、渇望した空気を取り込もうと彼女はまた一段、また一段と肩を大きく上下させる。


―――落ち着けシンデレラ、ゆっくりだ、ゆっくり息をしろ


 幾分クリアに聞こえるヘンゼルの指示通り彼女は胸に手を当て、出来る限りゆっくり呼吸をする。

 夢から覚めた様な覚醒していく感覚が彼女の頭を揺さぶる。酷く醜かった呼吸音もやがて落ち着き、彼女は最後に咳き込んだ。


―――ロールシャッハさん、生きてますね。データベースには、不死である記載は無かったのですが

―――どうだいシンデレラ、死の淵からの帰還は。まあ殺すつもりは無かったと思うけど


 大分落ち着いた呼吸をしながらシンデレラはただ一言「癖になるわね」とだけ呟いて口元を拭うと、ロールシャッハの方を見た。

 ならずもの達も頭を小刻みに揺らしながらロールシャッハの方を凝視する。



「死ぬのは二百年ぶりだ。長らく忘れていたよ」


 ロールシャッハは天を仰ぎながらそう口を動かした。

 それから仰向けのまま彼はマントを掴んで両腕を広げる。すると彼の身体は軽々と持ち上がり、着地する。


 四方に飛び散った内臓に百足の様な足が生え、それぞれがロールシャッハの元へ素早い動きで集まっていく。それらはロールシャッハの身体の中心にある傷口に入り込み『ピギーッ!』と声を上げ、彼の腹や首の皮を膨らませながら元の場所、あるべき場所へと戻っていく。

 

―――なん、だアレ


 両腕を広げたままのロールシャッハの元へ、今度は影が集まっていく。

 もやの様に影達は、ずもも、とまるで蠅の大群の様な形を成し、彼の傷口という傷口へ入り込み、そして傷を塞いでいく。

 服の傷すら跡形も無く消え去り、ついにはシンデレラの元へ現れた時と同じ様に小奇麗な恰好へと戻ってしまった。

 最後に彼は仰向けに転倒し足をジタバタとさせる小さめの内臓を掴むと、呑み込み、片方の鼻へ指を当てる。鼻をかむ様にして空気を出すと、赤くぬらりとした血の塊が鼻から飛び出した。


『抹殺対象健在、再ビ任務を遂行する』


 ならずもの達が構える。

 ロールシャッハはマントを掴んでいた手を離し、掌を上へと向ける。


「何時の世も、暴力。血で血を洗わねばならぬとは、難儀な物よ」


―――化けモンだぜ、あいつ


「ロール、シャッハ」


 メリメリとロールシャッハの白い手袋が破ける。

 その手は肌色のそれでは無く、黄土色に近い皮膚。

 長く伸びた指、鋭利な爪。おおよそ人間と呼べる造形では無い。

 

「貴様らがそのつもりならば」


 月光がロールシャッハの顔を照らす。

 爛々と輝く赤い瞳。鋭利な牙が煌めく。

 それからロールシャッハは顔を少し下げ、にんまりと笑うと厳かに告げる。



「是非も、無い」

 

 


 

 


 



 


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