Anger
「お帰りなさいませ、ロールシャッハ様」
深々と頭を下げるフロントの女に右手を上げたまま、ロールシャッハはゆっくりとした足取りでエレベーターへと向かう。
鏡の様な床と絢爛なシャンデリア、ウェルカム・ドリンク・サービスなどには目もくれず、彼は腕組をすると首を軽く回した。
小気味良い音と共に彼はスマートフォンに目をやる。通知を告げる端末には有木と合流したというフロイトの無機質なメッセージが映し出されていた。
ピン、という音の後にクリーム色の扉が開く。乗り込むロールシャッハを確認するとエレベーターボーイは軽く会釈をした後に21階のボタンを押す。
振動すら感じず黄昏が迫ってくる秋葉原歩行者天国を目下に見ながらエレベーターは昇っていく。ふとその窓から目を外し、彼は『鏡で』自分の髪の分け目を確認しつつ口を開いた。
「おい貴様」
エレベータボーイが振り向く。柔和な笑みだった。
「貴様、異世界という事象を信じるか」
突然の摩訶不思議な質問にも、彼は怪訝そうにするでも無く、ただ少し困った様な顔をして眉をハの字にして答えた。
「お伽噺の類かと。ひょっとして『眼』のお話で?」
無言を肯定と受け取ったエレベータボーイは困った様に整った眉をさらに下げて、白い手袋の指先で頬を掻いた。
12階を刻んだ針は止まる事も遅れる事もせず最上階を目指す。
「異世界という物があるのでしたら、行ってみたいとは思いますが」
「それは興味か、それとも非日常への渇望か?」
彼は進みゆく針を見つめながら「後者でしょうね」と小さく答えた。
それから何か面白い事でも考え付いたかの様に、ともすれば思い出し笑いの様に笑うと目を細めて言った。
「ここはある種の欲望の街でもありますから。アニメや漫画の世界に行ってみたいというのは真っ当な考えなのでは」
「くだらん」
ロールシャッハは一蹴する。エレベーターボーイは別段気を悪くした素振りも見せず、ただ小さく笑っただけだった。
「異世界など、ただの精神的弱者の、現実逃避手段に過ぎない。娯楽を娯楽として取る事が出来ぬから、こういった噂が立つのだ」
エレベータボーイは帽子の鍔を少しばかり下げて恥ずかしそうに「仰る通りです」とだけ答えた。
「しかし、まあ」
針は最上階の21を指し止まる。
赤い絨毯の上に一歩踏み出したロールシャッハはエレベーターボーイを横目に見て口を開く。
不思議そうな顔をする彼に、ひらひらと手を振りながらロールシャッハは薄く笑った。
「そんな物無くとも、案外非日常とは転がっているのだ」
消毒液の薄い香りが部屋を包む。
ロールシャッハは窓の外に広がるトーキョーの景色を見ながらマントを丁寧に掛け、コーヒーメーカーを作動させ、ソファに深々と腰かけた。母親の様に背中から抱き締めるソファの感触に満足しながら、彼はパソコンの電源を点ける。
僅かな起動音の後に、ファンの音、それからハードディスクが唸る音がして、32インチのモニターに壁紙が映し出される。
出来上がったコーヒーを味わいながら、いわゆるコスプレイヤーとのツーショット写真の壁紙を埋め尽くす様に並べられたアイコンの中から、ウェブサイトにアクセスするそれをクリックする。
短い読み込みの後に彼のパソコンは世界に繋がり、ありとあらゆる情報を吐き出す端末としてせっせと働き出した。
「写真、目、異世界」
目的の物は直ぐに現れた。
およそ五千ヒットの中の最上位、検索語句に対してトップに躍り出たウェブサイトをクリックすると、画面はあっという間に黒く染まった。
写真、それから掲示板のみの簡素なウェブサイトではあったが、アクセスカウンターの数字はロールシャッハが更新する度にその数を増やし続けている。
No,898 7/28 18:22:38
名前『銀色の名無しさん』
どうしよう。ただの噂だと思ったけど撮れちまったよ、オレ死ぬのかな…異世界に行くならハーレムチートで最強になりたい…
No,899 7/28 18:24:55
名前『銀色の名無しさん』
ていうか今度テレビで特集するな、まあ関西の深夜ローカルだけど
No,900 7/28 18:25:22
名前『銀色の名無しさん』
誰か0時に試した奴居ないのか?報告ねーぞ
No,901 7/28 18:26:08
名前『銀色の名無しさん』
しかし気持ち悪いよな、なんか見られてる気がする
No,902 7/28 18:33:18
名前『銀色の名無しさん』
※898
キモオタの妄想丸出しコメは便所でやって、どうぞ
No,903 7/28 18:35:46
名前『銀色の名無しさん』
ていうか報告あったって全部嘘っぱちくせーじゃん。怖くて試してないだけだろ
「盛況だな」
ロールシャッハは口の両端を上げる。更新する度に掲示板の書き込みは増え続け、NEWマークの付いた写真が幾つも追加されていた。
No,908 7/28 18:37:11
名前『銀色の名無しさん』
有名になりだしたら急に嘘っぽいのが確かに増えた。写真もほとんどつくりもんだろ、体験談も全部バラバラだし
No,909 7/28 18:38:55
名前『銀色の名無しさん』
オンリーマイチューブに上がってた0時にやってみた動画もうそくせーのばっか
ロールシャッハの指がキーボードを叩く。
タイピングという舞踏はリズム良く、それでいながらも力強い音楽を奏で、文字が打ち込まれて行く。
その音が部屋に響く度、更新を告げる砂時計がマウスポインタの横に出現する度に、言い様の無い高揚感が彼を支配し、込み上げる笑いをゆっくり噛み砕きながら彼は自信満々にエンターキーを叩いた。
No,918 7/28 18:44:44
名前『最強無敵ヴァンピール』
情けない貴様らに変わって我輩が、今日の0時に試してやろう。異世界なぞ無い事を我輩が証明してやるわ
No,919 7/28 18:45:13
名前『銀色の名無しさん』
あんま写真見ない方がいいんじゃね、アステカの祭壇みたいな、ホンモノが混じってる気がする
No,920 7/28 18:47:33
名前『銀色の名無しさん』
異世界とか行ってみて―
No,921 7/28 18:53:01
名前『銀色の名無しさん』
※909
あれSNSで嘘だってネタバレしてる
「何…だ、これは」
ロールシャッハは頭を振り、コーヒーのカップを震える手で掴みながら口元へと運ぶ。いつもより深い苦みに今更気が付き、思わず顔をしかめた。
だが、それからはたと何かに気づき、高らかに笑う。
笑いながらもタイピングは続き、前髪を人差し指で払うと流れる様にエンターキーへと落とされる。
No,930 7/28 19:11:44
名前『最強無敵ヴァンピール』
どうした人間共、三百年足らずで傲慢さを取り戻したか。我輩の足に藻屑の様に纏わり付いても、もう遅いのだぞ?
No,931 7/28 19:13:21
名前『銀色の名無しさん』
巨乳で無表情で大食いでツンデレのロボットガールと出会えます様に巨乳で無表情で大食いでツンデレのロボットガールと出会えます様に生殖機能付きであります様に
No,932 7/28 19:18:25
名前『銀色の名無しさん』
フォトショで作れるのばっか
No,933 7/28 19:22:44
名前『最強無敵ヴァンピール』
貴様らはこの天啓記されし羊皮紙にも等しい書き込みが見えぬとほざくか?それとも崇高なる我が意思の前には、やはり人間は本能的に双眸を閉じてしまうのか
No,934 7/28 19:28:38
名前『銀色の名無しさん』
お金欲しい
No,935 7/28 19:32:11
名前『銀色の名無しさん』
お嬢様でヤンデレもしくはツンデレで爆乳で処女が異世界で許嫁になりますようにもしくはボクっ娘で心に深い闇を抱えた低身長爆乳な美少女と結婚できます様にゴブリンを一瞬で塵に出来る魔法が取得できます様に
No,936 7/28 19:38:54
名前『銀色の名無しさん』
※935
お前昨日もついさっきもそんなこと書いてたろ
「何故だ、何故だ何故だ何故だッ!!」
画面と接吻を交わす程の距離でロールシャッハは歯を食いしばる。犬歯の様な鋭い歯が唇に刺さり薄く血が流れた。
「これがニッポンジン、とりわけトーキョージンの十八番『スルー』という技法…ッ」
掲示板には書き込みが増えるが、彼に対する返信の書き込みは一件も無い。
「侮っていた、侮っていたぞッ!無関心が引き起こす圧倒的な虚脱感、虚無感ッ!」
カップを持つ右手がわなわなと震える。パソコンが上げるファンの音だけが響いていた。
「あろうことか、この、我輩をッ!」
手袋に包まれた左手がモニターの上部を掴む。カチカチと音を立てる歯を見せながら、ゆっくりと低い声で続けた。
「この、アレキサンダー・オズ・ロールシャッハを『スルー』するなど、断じて、許さん」
No,959 7/28 19:45:39
名前『銀色の名無しさん』
ドラゴン族の超絶美少女とドワーフ族のお姉ちゃんキャラとエルフ族の巨乳の妹キャラに愛されます様にブサメンの筈が何故かイケメン(他称)になってます様に無職だけど経営センスが芽生えます様に師匠っぽいキャラがめっちゃ美人のもふもふできる狐っ子であります様に
「黙れ」
No,961 7/28 19:47:38
名前『銀色の名無しさん』
こんな世界に生きるくらいなら、まあ異世界の方が良いわな
「黙れ、黙れ」
No,963 7/28 19:48:14
名前『銀色の名無しさん』
猫耳ツインテと結婚できます様に勿論語尾は~にゃであります様に目が覚めたら赤ん坊になっています様になんか知らないけど俺マンセーされます様に
「黙れ黙れ黙れ黙れッ!」
ついに彼の手の中で、カップは永眠した。
「傲慢でッ!」
ロールシャッハの放った黄金の右はコーヒーを纏いながらモニターを貫通する。『ビョァッ!』という短い悲鳴を上げたモニターは煙を上げながら絶命した。
「卑しくッ!」
それでも彼は止まらない。腕をそのまま引き抜き、ケーブルを無理やり引きちぎる。
ウシガエルの悲鳴の様なモノがモニターから響いたが、彼の耳に届く事は無い。
「匿名という皮を被ったッ!」
そのままモニターの両端を掴み、これ見よがしに高い天井へと放り投げる。
「狐めッ!」
したたかに落下してくるモニターにロールシャッハの、世界を掴む左アッパーが炸裂する。
モニターはトランポリンで跳ねたかの様に今一度、機械が軋み崩壊する音を立てながら天井へと叩きつけられる。
哀れ。飛散したモニターはもはや何を映し出す事もせず、天に召される。
パラパラとモニターだったはずの破片か、それとも天井の破片はそれこそ落ち葉、雪の様にロールシャッハへと降り注いだ。
しばらくアッパーの姿勢で静止していたロールシャッハは目を見開くと、強い口調で叫ぶ。
「証明しよう、人間共、貴様らの渇望する異世界の有無を、この、我輩がッ!」
それから彼はポケットからスマートフォンを取り出す。
五十音順に並んでいるはずの電話帳、その一番上に何故か君臨している電話番号を無表情でタップする。
『旦那様、申し訳ございません。ただ今戻ります』
呼び出し音が鳴る前に、フロイトの声がした。
彼はやはり姿勢を変えずに、何時もと変わらぬ口調でフロイトに返した。
「帰りにモニターを買って来い。なるべく丈夫な物をな」