もぬけの城
私は小説家だ。それも、売れない方の。
その日は寝ずに仕上げた原稿を手に、出版社を訪れていた。我が子の様な原稿を、担当の人に手渡し反応を伺っている。
担当は原稿に数枚目を通すと、半分も読み終える事なく原稿を閉じてしまった。
「ど、どうですか?」
そう恐る恐る尋ねると、担当は薄く長い息を吐き、少し間を空けてから口を開いた。
「悪くはないんですがね……」
「では! ぜひ、続きを読んで」
「ただね」
私の言葉を止め、担当は続ける。
「面白くもない」
はっきりと聞こえた冷たい言葉に、私の表情も熱を失っていくのが分かった。
「面白くない、ですか?」
「そうですね。少なくともうちではこういうの、要らないです」
そう言うと、原稿を片手で返してきた。
その原稿は私の自信作だった。何度も何度も構想を練り直し、書き直し、いくら読み返しても納得がいく出来だった。
その原稿が半分も読まれず、挙句面白くないと言われる始末。当然納得がいくはずもなく、担当に食い下がろうとするが……。
「それじゃ、お疲れ様でした」
私の気持ちを知ってか知らずか。担当は話しを打ち切り、背を向けてしまった。
その日の晩、私は荒れていた。
我が子の様だった原稿も、床で散り散りになっている。その中の一枚を手に取り、飲めない酒をあおりながら読んでみると、主人公が己の信念を貫き、理不尽と戦っている場面が浮かんできた。
その後に待ち受ける佳境を思うと心が弾み、弾んだ分だけ叩きつけられる。この作品は、面白くないと言われたのだ。
きっと私はもう、戦えないだろう。この主人公の様に、疑う事も無く前を向く自信は、すっかり消え失せてしまったようだ。
次から次へと湧き上がるどうにも出来ない感情達を、どこか深い所へ押し戻すように、次から次へと酒を飲み込んでいった。
どの位酒を飲み、どの位の時間が過ぎたのだろうか。私は夢か現実かも分からない場所で、不思議な光景を見ていた。
そこには、どこか似合わない小奇麗な格好で、品の有る大勢の人に囲まれた自分の姿があった。その背には大きな文字で賞の名が書かれており、これが授賞式なのだと理解する。
それはずっと夢見た光景だった。最高の評価、最高の栄誉、そして最高の甘美だった。
だからこそ、私は分かってしまう。
これが夢なのだと。
目が覚めた時、まず激しい頭痛を覚えた。
飲み過ぎたのか、寝過ぎたのか、またはその両方かも知れない。
とにかくまずは起き上がらねばと思い、机に張り付いた身体を剥がそうとする。
すると、妙なものが目に飛び込んできた。
それは綺麗に整えられた原稿だった。
初めは出版社に持ち込んだ原稿かと思ったが、そちらは床に散らばったままだ。
ではこれは一体何なのか。試しに一番上の原稿を読むと、確かに私の字で書かれてはいるが、私にはそれを書いた覚えが全く無い。
しばらく思考を巡らせたが、原稿の正体は分からないままだ。いっそ妖精か何かが、夜な夜な送り届けてくれたと言う方が納得する。
しかし、そんな事はあり得ない。おかしな考えに笑いが漏れた。
結局、その原稿をどうやって書いたのか思い出す事は出来なかったけれど、こうして原稿がある限り私はまだ戦う意思があるという事なのだろう。そう思う事にした。
大きく腕を伸ばし仰け反ると、原稿を確認すべく再び机に張り付いた。
数日後、私はまたあの出版社に来ていた。
担当は前と同じ人だったが、向こうは私を覚えていなかったようだ。
しかし一つだけ前と異なる事がある、私は今奥の席へと案内されていたのだ。周りに人はおらず、担当はというと離れた場所で原稿に目を通している。
その原稿は本当に妖精が運んだものだったのかもしれない。あの日から何度も確認をしたが、誤字はおろか、矛盾やおかしな表現さえ見つからず、結局そのままの姿で持ち込むことにしたのだ。
ただ面白いかどうかは、これから決まる。
秒針が進むのは、こんなにも遅かっただろうか。そうぼんやり時計を眺めていると、背後から担当の声がした。
「お待たせしました」
担当は原稿を両手で持ち、そっと机に置くと向かいに座って私を見つめた。
「編集長の許可が降りましたよ」
突然発せられたその言葉は意味が分からず、一番確かめたい事を聞いてみた。
「面白かったですか?」
「えぇ、面白いですね。何より斬新です」
その言葉は望んでいたものだったが、いざ耳にするとどう返していいか分からず、次の言葉に詰まってしまった。
しばらくしてようやく発したその言葉は、さぞかし素っ頓狂に聞こえた事だろう。
「私は一体どうなるのでしょう?」
「……そうですね。うちで出している雑誌の方で、まずは連載を持ってもらいます」
「連載、ですか?」
こうして私の連載が決まった。
あの冷たかった担当が、その時は天使のように見えた。
しかし、天使はすぐ悪魔に変わった。
「先生困りますよ! あと一日、つまり明日ですからね。必ず仕上げて下さいよ!」
担当の刺々しい言葉はここ一週間、電話越しに毎日届けられた。
最初はくすぐったく思えた先生という言葉も、今ではすっかり私の名前だ。
担当が言う明日とは、締め切りの事だ。
私はその日までに、先日持ち込んだ原稿を連載用に書き直す様に求められた。
しかしその新しい原稿は、今に至って真っ白のままだった。
書けないのだ。どう書いていいのかさえ、見当もつかずに居る。
私が書こうとしている原稿は、当の私が一番理解出来ていないのかもしれない。
あの原稿は一体どうやって書いたのだろう。何を思い、筆を走らせたのだろう。
何度頭を抱えても、思い出す事が出来ない。
今日に限って活発な秒針が、私を自暴自棄にさせたのかもしれない。
私は酒に手を出した。
目が覚めると、原稿が仕上がっていた。
「冷や冷やしましたよ先生。いやしかし、今となってはどうでも良い事です。僕は確信しましたよ、この連載はうまくいきます!」
その日の担当は機嫌が良く、心なしか饒舌に思えた。
「ね、先生。あの続きはどうなるんです?」
子供っぽく訪ねてくる担当に、私は本心を伝えてみる。
「分かりません」
担当が絶賛する新しい原稿は、やはり書いた覚えがないものだった。書いた覚えがないので、続きが分かるはずもない。
つまりそれは本来、連載が続けられる状態ではない事を意味していた。
事実その後何度も原稿に向き合うが、一行さえも書けた試しがない。
そして再び締め切りが近づき、担当が騒がしくなってくると、私は酒に手を出した。
するとやはり、原稿が仕上がっていた。
しばらくして、担当から小さな賞を取ったとの知らせが入った。
夢に一歩近づいた筈だが、私は喜べなかった。賞を得た作品は、一体誰の作品なのだろう。そう考えずには居られなかった。
しかし私が書いている事に違いはないようで、当然の様に締め切りが訪れ、その度に酒を飲み原稿を仕上げていった。
勿論何度も何度も、酒の力を借りずに書こうとした。しかし、書けなかった。
そんな悩みも世間には関係なく、その作品は大きな評判を受けていった。
それはまるで着々と築かれていく、大きな城を見ている様だった。その城の主には、約束された未来が待っている。そしてその主とは、間違いなく私の事なのだ。
しかし、そこに私は居るのだろうか。
いつも夢見た光景がある。それは最高の評価、最高の栄誉、そして最高の甘美だった。
そして今、目の前には酒がある。
これを飲めば、その夢が叶うだろう。
だが私はためらっていた。
電話が鳴っている、恐らく担当だろう。
時計の針の音もする、恐らくもう時間なのだろう。
私はゆっくりと手を伸ばした。
私は将来を約束された、有名な小説家だ。
その日は寝ずに仕上げた原稿を手に、出版社を訪れていた。我が子の様な原稿を、担当の人に手渡し反応を伺っている。
担当は原稿に数枚目を通すと、半分も読み終える事なく原稿を閉じてしまった。
「どうですか?」
そう尋ねると、担当は堪え切れず笑い声を漏らした。
「突然、新作を書かせてくれと言うので期待してみれば……なんですかこれは」
その原稿は私の自信作だった。何度も何度も構想を練り直し、書き直し、いくら読み返しても納得がいく出来だった。
「面白くないですか?」
「いやはや、相当酷いですよ。先生、お酒でも飲んで書かれたんですか?」
担当の言葉に、私も思わず吹き出した。
「いいえ、飲んでませんよ」