ヒポクラテスの誓い
「ガァ!!」
その長身の男を殴る。怒りと殺気を混ぜたパンチだ。男は頬を歪ませて勢いよく飛ばされる。
思いっきり殴ったのに不思議と拳の痛みはない。むしろもっと殴りたい衝動にかられた。
「うっ・・・ゴホッゴホッ!・・・・狩の邪魔をするとはどこまで無粋な奴だ。その憎たらしい顔を今からでも剥いでやりたいよ。」
「ほざけ、糞が。それよりてめえ、凛に何した?」
あんな無様な姿の凛を見るのは初めてだ。なにかしら不利な状態にされたと観られる。
「なに、ちょっと毒グモの毒も盛っただけさ。とびっきりの毒をな。」
「毒か・・・厄介な物を。」
「けけけ・・・その女はもう助からねぇ。これで俺の復讐も終わった。」
「復讐?」
「ああ、そこで寝てる女は俺のすべてを奪った。名誉、プライド、そして人生もだ。そのためにありとあらゆる技を身に付け、ここ日本まで来たって訳さ。」
「ご苦労なこった。だが、捕まってもらうぞ。」
「けけけ・・・それはゴメンだな。俺はまだ日本に滞在する。用があるなら探しだしてみな。」
フッと蝋燭の灯が消えるように姿をくらます。本当なら追いかけてボコボコにしたいところだが、生憎そんな暇ない。
「ハァ・・・ハァ・・・」
凛は危険な状態だ。呼吸がさっきまで速くなり、額には汗を掻き始めてる。毒が回り始めてる。
「おい!しっかりしろ!」
「ハァ・・・と、斗真。私は・・・」
「大丈夫だ、死なせはしねぇ。それよりこの毒はなんだ?あいつは毒について何か言ってなかったか?」
「た、たしか・・・クロドクシボとか・・言ってました。」
「マジかよ・・・」
クロドクシボグモ
別名、ブラジリアンワンダリングスパイダーとも言われる。名前の通り、ブラジルなどの南米諸国に生息しており、ギネスにも載った世界最強の毒を持つ毒グモだ。
一匹で80人を殺せるほどのクモ故に、アマゾンなどの森林などでは警戒が必要とされ、年間数百人の犠牲者を出している。
その毒グモの猛毒を身体に混入してしまうとは、危篤な事態だ。
すぐに血清を打たなければ凛は死ぬ。だが、本来南米諸国に生息しているクモの血清などがこの国にあるだろうか?
噛まれる被害はいつも南米だ。日本に生息していないクモの血清など持ってても何の役にも立たない。
だが、そんな絶望的状態のなか、一つの得策が思い付いた。
「クソッ・・・あの馬鹿に頼まぁならんのか」
凛をおんぶしながらとある人物の愚痴を溢す。あんな奴に頭下げんのはまっぴらゴメンだが、背に腹はかえられない。凛のために一肌脱いでやるか
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「斗真、凛の具合は・・・?」
「すでに数分は経ってる。ここらが潮時だろう。」
桜花達と合流したのち、庭に備え付けられてる椅子に寝かせてやる。
本当なら部屋で介護したかったのだが、部屋までの距離が長いために急遽ここになった。
さすがに屋敷の保険医でもクロドクシボグモの毒はお手上げで手の施しようがなかった。それに対して俺は心配ない、医者を呼んだと教えた。ヤブ医者みたいな奴だがな。
従者部隊を総動員して毛布やら包帯やらと準備に駆り出してる。暗くなってきたからスポットライトや懐中電灯も用意された。
さ、あとはあいつの到着を待つだけ・・・
「まーくんーーーーーー!!!」
来た。人間戦車が。
遠くから土埃をあげながらこちらへ走ってきてる白衣姿の女。カールの髪を伸ばし、そのたわわな胸をブンブン揺らして走行している。
そして到着するなり俺に抱きついてきた。
「くんくん、やっぱり本物のまーくんだ。おひさー♪」
「ああ、8ヶ月ぶりだな。最後に会ったのはコスタリカの島だったな。あの時は世話になったな。」
「ううん、気にしないで。まーくんのためならどこの国の大統領にも細菌けしかけてやるから。」
この女ならやりかねない。それほど危険な奴だからだ。
「と、斗真、その人は?」
あまりの自由奔放さに桜花や緋鞠らがキョトンと口を開けてしまってる。
「おっと、お前らは初見だな。こいつはセシールだ。以前まで俺の主治医を担当していた。ほら、自己紹介しろ」
「えぇー、誰がこんな人達に自己紹介しなくちゃならないのさ。それに私は今もまーくんの主治医だよ!」
「いいからさっさと挨拶しろ。」
「はいはい・・・、え~、セシール・バルクバウです。名前覚えなくていいよ~、そっちの名前も覚える気ないから。まーくんの婚約し・・・あたっ!?」
「誰が婚約者だ!ただの知り合いだろうが!」
「ひどい!私を部屋に監禁してアンナコトやソンナコトをしたくせに!」
「誤解を招くような言い方すんな!あれは発情したお前から逃れるために部屋に閉じ込めたんだ!おかげで一睡も出来なかったんだぞ!」
「およよ~・・・。」
くそ!だからこいつを呼ぶのは嫌だったんだ!かなりの行儀知らずのアホな上に、だれとも交流しないボッチやろうだからな!
だが、治療技術でセシール・バルクバウの右に出るものはいない。どこぞの天才無免許医師並の腕を持ち、バカ高い治療費を要求する変わり者だ。
特に外科治療を得意とし、治るはずのない皮膚病を治し、他人の臓器をまるでプラモデルのように接着できるほどの天才だ。
しかも、世界中にいる医者を見下し、『自称 医者』呼ばわりするほど性格だ。かなり腹黒い。
現在は世界各地を転々と移動しながら大病院の追っ手をかわしてる。
あちこちの大病院から勧誘が来てるようだ。だが、そんな他人行儀なことはしないので逃げて断ってる。
性格に難はあるが、こいつならクロドクシボグモの毒ぐらい簡単に解毒できるはずだ。
「おい、お前解毒は出来るか?」
「まっかせて!まーくん、何に噛まれたの?オブトサソリ?クロゴケグモ?」
「いいや、クロドクシボグモだ。その毒を含んだ刃物を受けた。あと受けたのは俺じゃない。あいつだ。」
間違いを指摘したら凛を指差す。するとさっきまで天真爛漫だった笑顔は崩れ落ち、修羅の顔になった。
「ふ~ん、あの女か・・・。もしかして、まーくんの大事な人?」
「何を誤解してるか知らんが、それはない。俺の命の恩人の一人だ。頼む、助けてくれ」
誠意を見せるために深々と頭を下げる。口でダメならあとは志だ。これならセシールも心を動かしてくれるだろう。
思いの外、効果は覿面だったようだ。仕方ないな~、と渋々だが了承してくれた。あとで何か対価をやろう。
「さて、解毒解毒っと。」
ゴム手袋をはめるなり懐から手術用器具を取り出した。
「たしかクロドクシボグモの毒はロブストキシンだね。生憎、解毒剤はないんだ。ゴメンねぇ~。」
ヘラヘラしてるがあれがセシールの自流だ。集中してようで集中していないという中途半端さを兼ね備えた手術。普段と同じ人格で手術することでより集中力を高めるのだ。
「ふむふむ、横紋筋融解症からの呼吸困難、筋肉痛っと。あとはCPK (クレアチンキナーゼ)、GOT(アスパラギン酸アミノ転移酵素)、GPT(グルタミン酸オキサロ酢酸トランスアミナーゼ)の低下。いつ毒を盛られたの?」
「たしか数分前だ。」
「ならまだ大丈夫かな?ふふ~ん♪」
それからのセシールの手術は芸術的な代物だった。世界の医者が息を飲むほどの治療は成功し、凛の容態に劇的な回復をもたらした。
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「ぐっすり眠ってるな・・・」
「一応、毒は抜いたから安心していいよ。」
手術してから一時間は経った。もう日は沈み、月明かりが闇夜を映してる。今夜は満月で、雲がないおかげではっきりと映えている。
そんな月明かりに照らされ、その淡い純白を帯びた顔は徐々に明らかになっていく。
戦傷を負いながらも奮闘した凛の横顔はその名の通り凛としてる美しさを保持している。異性だけでなく、同姓から見ても見惚れるだろう。
セシールに言われるがままにベッドに寝かせておく。
セシールによると、毒は全部抜き、侵食の影響はないそうだ。あとは数日の安静と回復を待つだけだと言う。
「また借りが出来たな、今度奢らせてやるよ。」
「いいよ~。金なんていくらでもあるし。それよりも~、ホテルで一泊していかない?快楽の海で泳げるよ~?」
グラマラスな美体をクネクネと振ってなにかとアピールしてくる。誘ってるようだが、凛がこんな状態なのに易々と従うのは不謹慎だ。丁寧にお断りする。
「ウブだな~。まあ、そこが惚れたところなんだけどね。」
このバカは俺に惚れてるなどと言ってる。普段の態度からモロバレだが、本人は否定することはない。しまいにはあの手この手でホテルに連れ込んでナニしようと目論んでいる。だからこいつを呼ぶのは御免だったんだ。
「それより、あんな毒グモの毒なんてどこで手にいれたの?日本には生息してないし、輸入もされてないんでしょ?」
そうだ。まだセシールにはあの男のことを教えてない。もしかしたらなにか知ってるかもしれないと、淡い期待を抱いてのことであった。
「毒を使う暗殺者は知らないか?身長180センチぐらいで痩せてる男だ。」
「ん~、毒ね・・・。知らないな~。」
「そうか、ならいい。」
「じゃ、私は外にいるから。用があるなら呼んでね~。」
そう言うと室外に出ていく。俺はすることは何もないからこいつの介護でもやるか。
「おい、起きてるか?」
「・・・ええ、つい今しがた起きたばかりです。」
どうやら、会話が出来るぐらいまで回復したようだ。ベッドに寝ながらこちらへ話しかけ、談笑する。
「たくっ・・・お前が毒貰ったせいであの馬鹿呼ぶことになったじゃねえか。」
「あの人に礼を言っておいてください。中々の腕でした。」
「当たり前だ。セシールは元マサチューセッツ総合病院の医員だ。まあ、本人は嬉々としていなかったがな。すぐに辞表出して院内を驚かせたもんだ。」
「ふふ、その人が何の因果で世界を転々としているかは個人的には知りたいですが、治療してもらった恩もありますので聞かないでおきます。」
けっこう喋るな。いつも無口で無感情のメイドだったから、こんなに楽しそうに話してるところは見たことない。
目がつり目だから威圧感が放たれている。それゆえに恐がれることもしばしばあった。
そんな奴がこんなに笑顔を見せながら俺に話しかけてる。
奇妙な感覚に囚われながらあることを尋ねる。
「あの男は誰だ?お前と何かの因縁がありそうだが・・・」
凛に毒を盛ったあの男の素性を知りたい。毒を使用し、ここまで凛を苦しめたあの男の素性を。
かなりの腕と読み取っても問題はない。それほど恐々とした男だ。
「あの男の名は・・・ジャスク。私がまだ現役だった頃の宿敵です。当時、私はとある政府機関の刺客として雇われていたときがありました。」
つまりは"蝙蝠"だった頃というわけか。
「明くる日、依頼されたのは外国マフィアの情報収集及び捕縛。しかし、そこで会ったのは・・・」
「ジャスクか?」
その答えに凛はコクリと首を縦に首肯する。そして、立て続けに口を開いた。
「私が政府機関に雇われたように、ジャスクもまたマフィアに護衛として雇われていたようです。彼は十数人を越える部下を引き連れ、私を殺そうとしていました。」
「結果、あいつは負けた」
「はい、勝ったのはいいのですが・・・、騒ぎを聞いたマフィアは国外へ逃亡。私は任務を失敗してしまいました。ですが、これまでの功績を称えられ、なんとか解雇されずには済みました。」
「だが、あの男は生きていたと?」
「殺したはずが生きていたようです。今の彼はすべてを失い、復讐を身に宿す亡霊です。」
「名誉もプライドも誇りさえも失った亡霊・・・」
その言葉を呟いたあと椅子から立ち上がり、扉へと向かう。
目的はあの男だ。仲間に傷を負わせたジャスクをこのまま許すわけねぇ。少しお灸を添えてやろう。
だが、それを勘づいた凛が口で制止をかける。
「どこへ行くんです?」
「・・・ちょっと散歩にな。」
「嘘ですね。まさかあの男のところへ?警告しておきます。貴方でもジャスクに勝てるかどうかはわかりません。特にあの見えない刃物を攻略しなければ・・・」
「見えない刃物?」
「ええ、いきなり服や皮膚が切れました。まるでそこに刃物があるように・・・」
見えない刃物・・・聞いたことがあるな。たしか、最重要監視人物の一人だった気がする。
「こりや、万全の態勢で乗り込むか。」
「やはり・・・行くのですか?」
「まあな。」
「無理ですよ?」
「大丈夫だ。ちょっと亡霊と大人の話し合いをしに行くだけだ。」
「・・・帰って来ますよね?」
「もちろんだ。」
そう言うと俺は、部屋を後にしようとする。去り際に凛を見ると寂しげな表情をしている。
「よせやい、そんな悲しい顔なんて見せるな。女は笑顔が一番なんだから。」