(3)
急いで胃にものを詰め込んだせいで、脇腹がきりきりと痛かった。
手に持つバスタオルを、一度パンっとはたいて皺をのばす。その時、まだかすかに冬の冷気をまとった風が、私のすぐそばを駆けぬけていった。
目の前に張ってあるロープに、私はバスタオルをかける。私の髪とバスタオルが、同じ風によってはらはらと揺れている。
空は雲一つない快晴だった。柔らかい日差しが肩にふり注ぎ、襟のところをほんのりと熱くする。それはもうすぐ春が来ることを私に実感させた。
屋敷の前に広がる森の緑と、上空の澄みきった薄い青。それを眺めていると、一枚の絵画に対峙しているようだった。そしてその青の下に、まるで蜘蛛の巣を張ったみたいな、何本もある白いロープ。そのロープにはさまざまな衣類が干されていて、魚が泳ぐみたいにシャツやタオルが優雅になびいている。仄かにかおる石鹸のにおいが、この辺り一帯を満たしていた。私はそのにおいを肺にいっぱいに取り込み、そしてすぐに息を吐きだす。相変わらず、脇腹はきりきりと痛い。
今日の分の洗濯物を干しおえて、私はすぐに自室へと引き返した。教科書やらをいっぱいに詰め込んだ革鞄を肩にかけ、ローファーへと履き替える。時刻は午前七時四十五分。急がなければバスを逃してしまう。
駆け足で屋敷を出る。重々しい玄関の扉を体当たりするように押し開けて、ポーチの下を足早に駆けた。屋敷の周囲を囲む壮大な森には、一ヶ所だけ不自然に口をあけたような空間がある。その中に私は飛び込んでいった。
舗装されていない道は走ると、常に砂ぼこりが舞う。せっかく磨いておいたローファーがもう汚れたと思うと、切なかった。けれど、ここで優雅に歩いている時間はない。私の通う高校行きのバスが発車されるまで、あと数分しかなかった。それを逃せば、今日の遅刻は決定的だ。
バス停はこの森の中道を下った、すぐのところにある。どうして屋敷へつながる道の前に都合よくバス停が設置されているのかといえば、それも時の権力者がどうにかしてここに設置したのだとしかいえない。
屋敷へつづく森の道は、随分と街の外れだ。主要道路から外れるこの場所は、街と街をつなぐ道として存在しているだけで、周囲に建物や施設はほとんど存在しない。そんな辺境の場所にぽつんとあるバス停は、屋敷の利用者のためだけに設置された印象がある。実際に私がバスを利用するとき、人は誰も乗っていないし乗ってもこない。このバスの利用者は私と小学生のあきぐらいだ。毎日貸し切り状態のバスは、いつ廃止されてもおかしくないのに、毎日一時間に一本の運行を守って、街の中心地にある駅までの道を走行している。それに私たちが利用しない昼間の時間帯も、無人のまま走っているらしい。これではまるで幽霊バスと変わらない。それとも私が知らないだけで、本当は他にも利用者がいるというのだろうか。
とはいえ、利用者の少ないことは確かだった。それでバス会社の経営が成り立つのか、甚だ疑問だが、それでも私はこのバスに乗って、街の中心地にある高校へと通っている。
森を抜けると、降りかかる日差しがやけに眩しかった。
どうやら遅刻はしないですみそうだ。
太陽に目を細めて、呼吸を整える。
足元を見ると、やはりローファーの先が白く砂ぼこりを被っていた。
帰ったら、また磨かないとなぁ。思っていると、バス停の前に誰かの姿があることに気づいた。
その人物を確認して、あれ、と思う。
確か彼は今日は日直で、うさぎの餌やりに行くと話していたのではなかったか。この時間帯に通学していては、学校に到着するのもギリギリだろう。まさか──。
太陽の光を受けて、あきの色素の薄い茶髪が余計に光沢を放っていた。あれは地毛らしいけど、学校側からは注意されないんだろうか。私が気にしなくてもいいことを、つい心配してしまう。
小さいあきにはバランスが悪く、そもそもそれ自体が不釣り合いにもみえる、黒のランドセルを背負って、あきは姿勢を正して立っていた。近くに誰も人はいないのに、気を抜く気配を一向にみせない。
見た目は子どもなくせに、ときどきやけに所作が大人びてみえる、あき。
実際に屋敷にいる時のあきは、あまり笑わない子どもだった。とにかくドライで、今時といえば今時なんだろうが、私にしてみればかわいくないガキだった。
でも、一度だけ、あきが満面の笑みを浮かべているのを私は見たことがある。
その日はあきの小学校の運動会で、昼食に各自がお弁当を持参しなければならないのに、あきはそれを持っていくのをすっかり忘れてしまっていた。
お弁当はすでに紫紺が用意していて、普段のあきにはそんな習慣がないから、彼はついうっかり忘れてしまったのだろう。そのお弁当を届けるために遣わされたのが、私だった。正直、小学校に行くことには若干の抵抗があったけれど、お弁当がなくて困るあきを想像したら、なんだか放ってもおけなかった。私は急いで後を追いかけて、小学校へ向かった。
到着すると、賑やかな音に出迎えられる。ピストルの音に、運動会ではお馴染みの『天国と地獄』が鳴っていた。そして、人々の歓声。普段は閉ざされている門から、堂々と足を踏み入れ、喧騒のなかに私も溶け込んだ。
グラウンドのほうに向かい、あきの姿を探す。あきのクラスは私も知らなかったけど、生徒は生徒で固まって一角にいるに違いない。そう当たりをつけて、私は小学生たちが群がる場所を探した。時間がかかるだろうなと思っていたけど、あきは案外簡単に見つけることができた。
学年ごとに屋根つきのテントが設営され、その下に長椅子がいくつか設置されてある。そのテントの前と後ろには四角い札がつるされていて、そこに学年が記載されていた。「四年生」と書かれた札のテント。
あきは中央の長椅子に腰かけて、まわりの友達と話をしていた。
あきは、一言でいえば、とてもはしゃいでいるように見えた。
屋敷では見たことのない、子どもらしい笑顔。顔の一切の筋肉の緊張をとき、しまりのない笑みを顔に浮かべている。
あの子もこんな顔ができたんだ。
素直に驚いていると、すぐに腕には鳥肌が立った。
確かに、あきは笑顔だった。
それも楽しくてどうしようもなく、仕方がないといった類の表情だった。
けれど、私はわかってしまう。
あきの笑顔の裏に、透けてみえるものがある。
あきと同じように楽しげにはしゃいでいる、他の児童とあきとでは、明らかにその温度に違いがあった。
あきの笑顔はどうしようもなく、作り物めいてみえた。
あんた、そんなキャラじゃないでしょ?
彼を見て、一番に思ったことだ。まわりの児童と一緒になって、子どもらしくはしゃいでみせるあき。屋敷では見せない、あきの笑顔。いったいどちらが本物のあの子なんだろうか。
別人のようなあの子はここにも居場所を作らないんだと、唐突に悟った。むしろ、屋敷よりこの場所の方が、あきは嫌悪しているように感じた。
どうしてぼくがこんな場所にいなくちゃならないの?
あどけない笑みを浮かべて、彼がそれを切に訴えているような気もして、私は静かに目を伏せた。
あの子は恐らく、ここにいる誰よりも聡い。だけど、自分は子どもだから、子どもらしくいようと振る舞うのだろう。一般の人に不自然に思われないように、子どもを演じる。その結果があの気味の悪いぐらいの、笑顔。あきが口を開くたび、普段よりもまたさらにトーンの高い声が排出される。舌足らずで、たよりない、そんな調子。
見事だな、と思った。余所行きとそうでない顔。母が電話に出るとき、身内と他人とでは声色をまるで変えて話すように、あきも屋敷とここでは表情も声の調子もすべて変えてしまうのだ。恐らく屋敷にいるときのあきの方が、まだ素のあきに近いのだろう。あきの笑顔はかわいいけれど、空々しくて、見ているに耐えられなかった。
私はあきのために持ってきたお弁当をあきには直接渡さないで、近くを通りがかった小学校の教師にそれを預けた。私は結局あきには一言もかけず、その場から立ち去った。頭上ではずっと、華やかなクラシックのメロディーが流れていた。
まっすぐに立つあきの背中に声をかけると、すぐに気だるい瞳とぶつかった。あきは「なに」と小さく呟く。
「あんた、今日はうさぎの餌やりに行くんじゃなかった? そのために早く起きたんじゃないの? この時間じゃ、もう学校に着くのギリギリでしょ」
矢継ぎ早に言うと、あきは表情をいくらか曇らせた。でも、すぐに生意気そうな目つきに変わって言う。
「別にいーよ。着いたら、すぐに行くから。教室に行くのが遅くなっても、うさぎの餌やりしてましたって言って逃げるし」
「それ、遅刻する気満々じゃん」
でも、あきの天使のような顔と声で言われたら、担任も許しそうだな。どんな人かは知らないけど。
あきは大人との接し方がとてもうまいと思う。誰に甘えて、誰に気を遣うのか。その距離感をはかるのがとても上手だ。手間のかからないしっかりした子どもと、思わず手を貸してやらないと心配になる子ども。その両方をうまく使い分けているんだろう。あきは相手の出方次第で、いつでも自分のキャラクターを変えてしまえた。屋敷ではさすがに、そうしないみたいだけど。それはただ単に、屋敷でも気を張りつづけているのが面倒なだけなんだろうな、とも思う。
白坂あきは、めんどくさいことを極端に嫌う性格だ。
少しして、バスがやって来た。相変わらず、無人のバス。あきとそれに乗り込んで、私たちはそれぞれの学校を目指す。
しばらく山道がつづいて、景色も退屈な山の緑がつづいた。やがて、街の主要道路に出ると、辺りは水田に囲まれ、その中にぽつぽつと民家も現れる。のどかな風景だ。
完全に山道を過ぎ去ったところで、私はあきに声をかけられた。
「これ、紫紺が渡すの忘れてたって」
そう言って渡されたのは、いつかあきにも届けたことのある、赤と白のチェックの巾着袋だった。その中を確認すれば、馴染みのある弁当箱が入っている。私もすっかり、これのことを忘れていた。
「ありがと。私もうっかりしてた」
「これで借りはチャラだよ」
「へー、覚えてたんだ。前に私がお弁当を届けてあげたこと」
「まぁね」
「ほんとに今日のあきは素直だなぁ」
感心しながら言うと、あきはこちらを見て怪訝そうな顔をした。
「なにが?」
「面倒ごとは嫌いなのに、うさぎの餌やりとかさ。お弁当だって今日は届けてくれるし」
「べつに。うさぎは日直だって言ったよ。それに、紫紺が届けないと夕食抜きだって脅すから」
「それでも、あんたならうまく逃げられたはずでしょ? うさぎだって、一時間目が終わったあとでも十分間に合うだろうし」
「なに、ぼくがせっかく渡してあげたのに文句言うの?」
「言ってないよそんなことは。ただ、驚いてんの。ありがとね」
そう言うと、あきはぷいと顔を窓のほうへと逸らした。窓に反射してみえるあきの顔は、普段通りの無表情だった。私のよく知る、あきの顔だ。
屋敷からの距離が近いのは、高校のほうだ。その次が中学校で、小学校が一番遠い場所にある。駅をこえた、その向こう。ちょうど崖の上にある屋敷の全体が見渡せる場所に、小学校はある。だから、小学生の間では、屋敷の噂話が絶えないと聞く。あきはあの屋敷から通学していることを、同級生に話しているだろうか。私は高校のクラスメイトにそのことを秘密にしているけれど、あきはどうなんだろう。
いつの間にか辺りの風景が、都会の街並みに変わっていた。すっかり住宅地の真ん中をさ迷っている。
『次は──高校前。お降りの方はベルでお知らせください』
突如無機質な女の人のアナウンスが、バス内に鳴り響いた。私の意識もすぐに現実へと変わった。急いでベルを鳴らす。そのすぐ後にバスは停車した。危うく乗り過ごすところだった。
「じゃあね、あき。お弁当、ありがとう」
もう一度あきにお礼を言って、私は足早にバスを降りる。私を降ろしてすぐに、またバスは出発する。振り返ると、あきの顔は見えなかった。あきは私のいるほうとは反対側に、ずっと視線を向けていた。そして、バスは行ってしまった。
バス停の名前が「──高校前」だといっても、バス停の前に高校があるというわけではない。ここからまた十分ほど歩いたところ、奥まった住宅地を少し抜けたあたりに、私の通う高校はある。だから、私があのバスの利用者だということは誰にも知られていないはずだ。──知られてしまったところで、なにもまずいことはないのだけど。
あきから渡されたお弁当を鞄につめて、私はようやく歩き出す。脇腹の痛みはすっかりなくなっていた。




