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モザイクロス  作者: アサオ
第二話 私の愛しい夢
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(2)

 午前六時一五分。

 壁にかけられた食堂の振り子時計が、その時刻を指している。振り子が左右に振れるたびに、小さく、ぼん、ぼん、という鈍い音が鳴る。

 食堂にはまだ誰の姿もない。なんだか手持ち無沙汰だったので、私はその振り子が振れるのをしばらくの間眺めていた。

 大きなダイニングテーブルのまわりには、椅子が八脚、添うようにして並べられてある。私はなるべく中央よりの席を選んで、朝ごはんが準備されるのを待っていた。となりの厨房からは、かちゃかちゃと食器の鳴る音やフライパンの上で何かを焼く音が、忙しなく聞こえている。ここにも当分、静寂は現れない。私はひそかに胸を撫でおろした。

 この屋敷に住む者は、大抵がこの食堂で食事をとる。けれど食べる時間帯は、みんな別々なことが多い。それでも屋敷の料理人がご飯をつくる時間帯はだいたい決まっているので、予定のない者はその時間帯に合わせてここに足を運ぶようになっている。私のように平日は学校へ行かなけらばならない者は、だいたい六時半から七時半の間に朝食をとる。それに合わせて料理人も準備してくれるため、この時間帯は比較的、屋敷のみんなが集まりやすい時間帯にもなるのだ。そろそろ誰かが起きてきても、おかしくない。

「おはよう、イエナ」

 振り子時計から視線を外し、声のした方へ顔を向けた。

 食堂の入り口を見ると、そこに群青が立っていた。

 相変わらず、血の気のない、陶器のような白さの肌にどきりとする。けれど、すぐに彼に呼ばれた自分の名前を思い出して、私は眉間にしわを寄せた。

「群青はさぁ、私の名前きちんと覚えてる?」

 これでもかというほどに口角を上げてみせて彼に問う。すると、群青は花のように笑いながら、「もちろん」と答えた。私のななめ前の椅子に腰かけて、さらに言葉を続けた。

「山田、イェーナさん。まだイエナって呼ばれるのは嫌?」

「イヤに決まってるじゃない! 私は、自分の名前が気に入ってるの。好きなの。だからきちんとそう呼んでって何度も言ってるでしょう?」

「はいはい。今度からは気をつけるよ」

 そう言って守った試しなんてないくせに。瞬時に心のなかで悪態をついた。

 この人は屋敷に来て、まだ日の浅い人間だ。それなのに彼はもうこの屋敷に馴染んでしまっている。群青がどうしてこんな場所へ来たのか見当もつかないが、彼は多分なにか秘密を隠しているような気がする。これは私の直感だけれど、彼はその秘密を隠すためにこの屋敷へ来たのではないだろうか。全ては憶測に過ぎないが、私はそう踏んでいる。

 彼だけではない。この屋敷にいる者は、なにか過去に縛られている者が多い気がした。同じ穴の狢、か。だからといって、それが的を射ているとも思っていないが、私の直感はそれなりに当たるのだ。

「そうだ、僕の妹が今度ここへ来ること、もう話したかな?」

 唐突に群青が声を上げた。私はつい無愛想になって返す。

「したした」

「そうかぁ。来月か再来月にはこっちに来られると思うから、仲良くしてやってね」

「まだまだ先じゃない。群青の妹って、どうせまたお人形さんみたいな子なんでしょ? 私、自信ないよ」

「そう言わずに、ね。生まれつき身体の弱い子で、外で誰かと遊ぶ経験もあまりない子だったから、イエナみたいな元気な子と仲良くなってもらいたいんだ」

「いつもやかましくて悪かったわね。だいたいその子、私より歳上でしょ?」

「僕は溌剌としたイエナが好きだよ。そうじゃなきゃイエナじゃないでしょう。そうだね。イエナのひとつ上かな? イエナならきっと、仲良くやれると思うから」

 当たり前のように愛称で呼ばれて──私は認めてないけどね!──思わず目眩がした。というより、呆れた。この男は涼しい顔をして、人の懐に入り込むのがとても上手だ。人にされて嫌だと思うことも、群青にかかれば大抵の人間はみんな許してしまうだろう。このルックスと、嫌みを感じさせない、この言動で。

 彼はどこまでも紳士だ。たとえ歳下だろうと、もちろん歳上であっても、相手に気遣いを忘れない。相手に嫌に思われない、適度な距離感を群青は常に心得ている。群青は誰の言葉に対しても、絶対に否定をしない。会話はすべて肯定的だ。どこまでも相手に合わせる。だけど、意見を全く言わないわけでもない。反論するときは、相手の言い分に肯定を示してから、自分の考えをまるで提案するみたいに告げる。押し付けるでもない。ただ、こういう考えもあるよ、といった具合の主張のなさ。群青は時として、まるで実体の伴わない言葉を使う。だから、人は彼に甘えられる。都合の良いことも悪いことも、どんなことでも肯定して話を進めてくれる彼は、こちらに傷つく時間すら与えない。たとえ批判されていたとしても、群青の言葉には一切の棘を含まないからだ。

 群青は呆れるほどに、優しい。でも、そんな群青を、時々ひどく残酷だとも思う。

 にこにこと笑みを絶やさない彼に、私はいくらか観念したようにこぼした。

「まぁ、実際会ってみないとわかんないけど。……どんな子なの?」

「うん、とても頭の賢い子だよ。それに少し負けん気が強いかな。あと──」

 この人も身内のことを口にするときは、こんなに生き生きとした表情をするんだな。

 普段は作り物のように生身を感じさせない印象があった彼に、今は生きている者の生々しさを感じる。私も彼と変わらない、血の通った人間なのだということを思い出させる。

 意外だな。この人はあまり人に執着するようなタイプに見えないのに。

 家族のことを多弁に話す群青は、いつもとは別人のように思えた。

「あれぇ……まだご飯、できてないの?」

 その時、また声がした。語気に不満を孕んで、すこし舌ったらずな、声変わり前の少年の声。

「おはよう、あき」

「おはよー」

 群青に続いて、私も声をかける。

 あきはあくびを噛みころしながら、のそりと群青のとなりの席についた。あきはまだ覚醒していないのか、先ほどから何度も重たそうなまぶたを持ち上げては落としてを繰り返している。

 栗色をした彼の髪は、見事なまでの寝癖で仕上がっていた。まるで今しがた爆発にでも巻きこまれたような頭をしている。もとより彼の髪質は天然のパーマをあてているものらしいが、今はそれに拍車をかけて、ひどい仕上がりとなっている。

「今日は随分と早起きだね?」

 あきの跳ねた前髪に触れながら、優しい口調の群青が聞いた。あきは片方の目を擦りながら、たどたどしい声で答えた。

「今日……日直……だから、うさぎに餌……やりに行かないと」

 あきが素直に日直の仕事をするために、早く起きだしてきたのかと思うと、驚いた。この子は、そういうことをすぐに面倒がる性分だし、何かの世話を焼くことも、きっと得意ではないはずだ。恐らく今日はこの子の気まぐれなのだろう。

 白坂(しらさか)あきは、また大きな口を開けて、目に涙をいっぱいに溜めた。

 この屋敷で一番の歳下である彼は、私の次にこの屋敷で住むようになった。あきがここを初めて訪れた日、対応したのが私だ。真っ黒なスーツを着た男の人にここまで連れてこられたあきは、子どもなのに、まるで小さな大人のようにみえた。その男の人は、あきのことを「坊っちゃん」と呼び、あきはその男の人を、顎で使えるような雰囲気があった。あきらかに、あきの方の立場が上だということを匂わせていた。

 坊っちゃん、と呼ばれたあきが何者なのかを私は知らない。あきは自分のことを、なにも語りたがらない。それはなにもあきにだけ例外なことではないけれど。

 考えるまでもなく、私たちはみんな赤の他人なのだった。偶然に同じ場所で生活しているだけで、接点なんてどこにもない。馴れ合うことも必要とされない。

 でも、まだ小学生のあきにだって、ここへ来なければならなかった理由がある。彼にだって秘密がある。私もあきも、それは同じ。恐らくは、群青も。

「おー、今日はえらく人が多いなぁ」

 声とともに、芳ばしいにおいが鼻先を掠めた。厨房からようやく顔を出した料理人が、いささか目を見開いた様子でこちらを見ていた。

「もうっ、待ちくたびれたよ!」

 私の洩らした不満に、次に彼は白い歯をみせて応える。「まぁ、そう言うなよ」言いながら、糺紫紺(ただすしこん)が人数分のランチョンマットを私たちの前に置いていく。

「お前も今食べんの?」

 群青の前にもそれを敷いてから、紫紺は尋ねた。群青は曖昧に笑って、「コーヒーだけ頂こうかな」と返す。紫紺は、また厨房の方へと引っこんでいった。

「群青は食べないなら、どうしてもう降りてきたの?」

 あきが、自分の前に置かれた汚れのない、まっしろな布を見つめて言う。

「たまには僕も、あきやイエナと朝食が食べたくてね。僕の代わりに、あきがたくさん食べるといいよ」

「ふうん、でも僕は群青の分もなんて絶対に食べないよ」

 あきの眠気はすっかり吹き飛んだようだった。口調に普段の生意気さが現れはじめている。

 両手に料理をのせたトレイを持つ、紫紺が戻ってきた。紫紺はまず、飲み物をのせた方をテーブルの上に置くと、もう片方のトレイの上にあった料理を、私とあきのもとに配膳してくれた。置かれたプレートは、中央をななめに仕切られている。右の部屋には茶色の焼き目のついたトーストが、左の部屋には月のような黄身が鮮やかな目玉焼き、ごろごろとおおぶりなジャガイモの目立つポテトサラダ、人参とツナをごまドレッシングで和えたサラダが、盛りつけられている。

 目にした瞬間、たまらず私の喉もくうと唸った。特に今日のサラダで使われている、ごまのドレッシング。紫紺お手製のそれが、私はたまらなく好きだ。そして飲み物には温かいカフェオレを渡してくれて、群青の前には要望通り、湯気のたつコーヒーが置かれた。

「んじゃ、俺の役目はここまでな。さぁて、一眠りしてくるか~。暇なら群青、おまえ食器でも洗っとけ」

 からかうようにそう言って、私たちの料理人はくるりと背を向ける。

 彼の顔が見えなくなる直前、一筋の紫の束が艶かしく揺れた。あきとは対照的に、こちらは人工的に髪にパーマがかけられている。しかしそれも、ゆるくウェーブがかかっているだけで、そろそろクセがとけてしまいそうだ。そうなっているのに、紫紺の髪はいつまでも、あの絶妙なゆるさのウェーブを崩さなかった。紫紺はもう一年は、クセのほどけかかったパーマの髪を保ったままでいる。彼の性質を現したみたいに、ふわふわと浮くような、あちらこちらへ流されるような、真っ黒の髪。そのなかで異色な、紫色のメッシュ。

「いただきます」

 そう言って、群青がコーヒーカップに口をつける。あきも同様の言葉を呟いて、トーストに齧りついていた。私もならって、手を合わせた。

「いただきます」

 こうしていると、いつかの昔を思い出した。今みたいに食卓で、おいしい料理を囲んで、両親と弟たちと笑って、食事をした。あの時のことが鮮やかに蘇ってきた。みんな、元気にしてるだろうか。

 と、次の瞬間、私は目のまえが闇で覆われていくような錯覚に息をのんだ。どうしよう、と思う。はやく浮上しないと、私は戻ってこられなくなるかもしれない。それでは駄目だ。わかっているのに、私の意に反して、身体は正直だった。たちまち腕が重くなり、胸の前に合わせていた手が、だらりとテーブルの上に着地する。みるみるうちに、顔が引きつっていく。

 しっかりしろ! 寸前のところで、私は自分を叱咤した。こんなところで、みんながいる前で、醜態を晒すわけにはいかない。奥歯を噛みしめ、どうにか自分を取り戻そうと努める。私はとっさに目の前に広げられていた料理を見た。そして、次にそれに勢いよく食らいついた。猛獣のような荒々しさでトーストに齧りつき、カフェオレでそれを一気に流し込む。目玉焼きを飲むようにして食べて、サラダもすするようにして食べた。一瞬だった。あきは食事に集中していたけれど、食べ終わった瞬間、群青の方と目があってしまった。彼がなんとも呆気にとられたような顔をしていて、私の背筋が凍りつく。やってしまった、と思った。けれど、それでも私は努めて何気ない風を装って、その場で微笑んでみせた。そして独り言をいうみたいに、だけど、彼の耳まで届くように意識して告げた。

「もう、紫紺が遅いせいで、私もはやく食べないと学校に遅れるじゃない。まだ洗濯物も干し終わってないのに」

 だめ押しでさらに盛大なため息をついてみせる。そして、残りのカフェオレを喉に流しこんだ。

 これでうまくいっただろうか。私は群青を一瞥した。

「大丈夫かい? よかったら僕も手伝うよ、洗濯。いつもあの量は大変だろうなって思ってたんだ」

 群青の言葉に、全身の力が抜けたようにほっとする。私はちいさく首を振って、

「大丈夫。それより群青って洗濯とかしたことあるの?」

「ないけど、だいたいわかるよ。干すだけでしょ?」

「洗濯もまともにしたことない坊っちゃんに、私は任せられませんー! 屋敷に来るまではどうしてたわけ?」

「うーん、いつもクリーニング業者にしてもらってたなぁ」

 顎に手を当てて、群青はのんきな口調でそうこぼす。私はこういう時、この人が良いところの育ちであることを実感する。

「贅沢者」

 心の底からそう吐いて、私は椅子から立ち上がった。自分の食べた皿を片づけようとした時、群青がそれを制した。

「いいよ、僕がやっておくから。はやく仕事しておいで」

 聖母のように慈愛のある笑みを向けられて、思わず胃の腑がきゅうっとなる。

「じゃあ、お願い」

 可愛げもなくそう返すと、逃げるようにして私は食堂を後にした。

 群青の笑顔は、たいていの人間には耐えられないんだからね!

 心のなかで彼をののしる。少しだけ赤みを帯びた頬を、私は無視して歩いた。




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