(5)
「入って」
ある部屋の前で足をとめた彼女が、素っ気なく告げた。いつの間にか手首の拘束は解かれている。
イェーナはそれきり無言で私の顔をじっと見つめるや、先に部屋へ入れと顎で使う。彼女の傲慢なその態度に、思わず眉をひそめた。仕方なくドアノブに手をかける。
開けるとかすかに洗剤の匂いが私の鼻腔をくすぐる。そこには三台の洗濯機とアイロン台、奥にはサンルームまでもが完備されている、洗濯専用の部屋であることがわかった。
「早く入ってよ」
扉の一歩前で立ち止まっていた私は、背後からさらに冷ややかな声を浴びる。急いで部屋の奥まで足を踏み入れた。
「今から洗濯するから、手伝って」
「え?」
部屋に入って早々、予期せぬ彼女の要求に驚いた。彼女は依然、眉間に皺を寄せたまま、きつい形相をしている。
「群青はああ言ってたけど、雨降ってたら取り込むのが普通の心理でしょう? あんたは新入りなんだから、担当とか関係なく取り込みなさいよ」
「はぁ」
「もう、歯切れ悪いなぁ! はやくそこの大量の服持って! で、洗濯機いれる!」
「は、はいっ」
彼女が指差す奥のサンルームには、無惨にも濡れたままの服やタオルで床は覆われていた。言われた通り、持てる限りの洗濯物を手に抱え、洗濯機の中へと放り込んでいく。
「まったく気が利かないんだから」
後ろで彼女がぽつりと言葉を落とすのを聞いた。そうまで言われて、さすがに理不尽だと文句を言いたくなった。確かに雨が降り出したのに洗濯物を取り入れなかったことについては多少申し訳なさもあるが、そもそも私はここへ来て日が浅いのだ。どこで洗濯物が干されているかなんて知る由もない。屋敷に来た日、兄さんに洗濯物は浴室の脱衣所にあるボックスに入れておけば、担当の者がしてくれるからと告げられてから、今日まで彼女がその担当だということさえ、私は知らなかったのだから。
「あの、入れたんだけど。もうスイッチ押せばいいかな?」
その苛立ちをグッと押し込んで、せっせと洗剤を入れている彼女に声をかけた。しかし、その後に返ってきたのは大きなため息と、またしても嫌味な小言だった。
「ちょっとそんなことも分かんないわけぇ? 洗剤はこのカップ一杯分入れてからスイッチ押す。今まで家事とかしてこなかったの?」
彼女の物言いにさらに不満が募っていく。しかし、私は黙って洗剤を入れ、ボタンを押した。計二台の洗濯機に水が溜められていく。
「……じゃあ、私はもういい?」
彼女とこれ以上同じ空間にいるのが苦痛で、素っ気なさも隠さずに言った。けれど、部屋から出る間も与えないように、言葉はすぐに返ってきた。しかも、最悪の否定という形で。
「ダメに決まってるじゃん! これからその大量の服、干さなきゃいけないんだよ? 私一人じゃ何分かかるっていうのよ」
その主張にさすがに面食らう。覚えず口からは本音が溢れていた。
「いつも一人で干してるんじゃ」
「……なんか言った?」
「別に」
彼女は私と二人きりになってからもずっと不服そうな顔をしていたが、私がとりあえずこの場から離れないことを感じ取ると、ようやくその表情の警戒を解いたようだった。それからイェーナは着ていたセーラー服を脱ぎはじめ、キャミソール姿となる。その様子をなんとなく見ていたら、思いがけず彼女と目が合ってしまった。
「こっち見ないでよ」
イェーナの紫色と化した唇が言った。
誰が好んで見るものか。
腹の中で呆れながら、私は彼女に背を向けると、サンルームから外の景色を眺めることにした。
雨は依然、降り続いている。どんよりとした雲は、当分晴れる様子はない。
サンルームの外はちょうど屋敷の裏側に面しているのだろうか。
靄がかかって見えにくいが、崖の下に広がる街が確認できる。
晴れた日にはこのすぐ外で、彼女は洗濯物を干しているのだろう。物干し竿の代わりに白いロープが、サンルームを出入りする所に吊るされていた。
「ここ、私が洗濯しやすいように改装してもらったの。それに人ひとり住めそうなくらい広いでしょ?」
振り返ると彼女がグレーのパーカに花柄のショートパンツ姿で、私の隣まで歩み寄って来ていた。その顔にはいくらか温かみが取り戻されつつあり、ほっとする。
並んで、彼女と外の風景を見た。
「前の洗濯ルームがここの半分くらいしかなくて、それに屋敷の外まで運ぶのも大変だったから、よく群青に愚痴こぼしてたんだー。室内でも干せて、屋敷とすぐ出入りできるような洗濯室がいいって。そしたらある日、学校から帰って来ると、このサンルーム付きの部屋ができてたってわけ! もう驚きよ。どんだけ男前なんだっつうの!」
時折白い歯を見せながら、年相応な顔で話す。しかし、その瞳の奥がどこか寂しげに感じられるのは私の気のせいだろうか。
私はこんな風な目をする人がいたのを何故か知っているように思った。
サンルームの窓ガラスには、光の反射で私たちの影も朧げにうつっていた。
私はふと、その中の彼女をぼんやりと見た。ちょうど彼女の口は何かを言おうとしていたところだった。
「あんたはいいよね。あんなお兄ちゃんがいて。あんまり困らせないであげなよ」
「え?」
「さっき、私に嫉妬してたでしょ?」
窓ガラスに見える彼女と視線がしっかりと交わる。彼女の顔は悪戯が成功した子どものように、にやにやとしている。
私は思わず目を逸らした。その指摘が図星だったからだ。
私はどうにかなんでもない顔を作って、彼女と対峙しようとした。けれど私の思いとは裏腹に、先程から驚きと恥ずかしさが忙しなく私の中で主張を繰り返すため、取り繕った顔は簡単に崩れていく。呆気なく彼女に見破られてしまったことが、とても居た堪れなかった。
私にイェーナの姿が見えているのだから、彼女もまた私の顔が見えているに違いない。私の葛藤の一部始終を見られて、ますます情けなくなってくる。私は今すぐにでも、何かで顔を覆ってしまいたかった。
黙り込んだ私に、窓に映るイェーナは細く息を吐きだした。
次に何を言われるのか、私はとっさに身構えてしまう。
彼女はもう笑っていなかった。
ここに来てから今まで見たどんな彼女より、何故か優しい表情で屋敷の外を見つめていた。
「大体、私なんかに嫉妬してどうすんの? 群青が大事なのはあんたなんだから。余計なこと考えてないで、兄ちゃんのためにこれからは側にいてやりなさいよ」
想定外の言葉に、驚きを隠せない。
もはやどちらが年上だろうか。心の中で苦笑した。
彼女は意外と思いやりの強い子なのかもしれない。
私は数分前まで感じていた怨み言を少しだけ取り消した。
それきり彼女は口を閉じ、部屋には再びの静寂が訪れた。
ピィー、という洗濯終了の合図が鳴るまで、私たちはただ降りしきる雨の音だけを聞いていた。
屋敷の広さは想像以上だった。
青年と別れて、再び兄さんと屋敷内を見てまわる。
食堂、厨房、浴室、書庫。どの部屋も訪れるたび、ため息が出た。それらがどれも異常な広さを有していたからだ。
それぞれの部屋の位置確認を済ませると、私は先ほど聞き逃した質問を兄さんにぶつけた。兄さんはすっかり忘れていたようで、思い出したように説明をはじめる。
結論から言えば私の担当は、屋敷の外で見たあの庭の手入れをすることだった。
「あの庭は、まぁ庭って言えるほど整備がされてないわけだけど。今までここにいた住人たちには見向きもされなくてね。みんな関心を持たなかったんだ。だから、庭を整備する担当についたとしても、住人の役に立つという条件は果たされないだろう? それで今まで誰も手をつけなかったんだよ。でも、翠だけはあの庭に関心を持ってくれたようだし、それに今度こそ住人の役にも立てるしね」
「そうなの?」
ふいに目が合い、兄さんがおかしそうに表情を弛める。一拍置いて、言葉がつづけられた。
「翠があの庭を庭らしくしてくれたら、僕は嬉しい」
凛とした声が耳に心地よい。彼の浮かべる微笑はどこまでも美しく、そして切なくも思えた。その表情をされるたび、私はどうしようもなく笑顔で彼に応えてあげたいと思うのだ。
時々兄さんの醸し出す、あの寂しげな雰囲気はなんだろう。それはざわざわと私の心を掻き乱し、不穏な気持ちを呼び起こす。兄さんと話をすると嬉しいのだが、不意にむなしい感情にも襲われる。この気持ちの正体はなんなのだろう。いつか証明される日が来るのだろうか。
「じゃあ私は兄さんのために、あの庭を立派にすればいいね。みんなが関心を示すくらい」
心許ない野望は、兄さんに喜んでもらうための一種の見栄でもあった。
気づくと、屋敷の窓越しに件の庭が見えてくる。
「楽しみだなぁ」
頭上で言葉が落とされた。それが本心なのか、彼の世辞なのかどうかはわからない。けれど、私はこの人を喜ばせるために、屋敷にいる間はあの庭の手入れに勤しむのだろうと思った。口にしてしまった野望を実現するため、この人の期待を裏切らないためにも。
庭は随分と荒れている。低木の隙間からは草が伸び、翡翠のチェアが置かれるタイルの広場に辿りつくまでにも、雑草は容赦なく地面を覆い尽くしている。まるで庭に入る者を拒んでいるかのように。
まずはあの雑草をどうにかしないとね。
いつの間にか私の頭は、すっかりあの庭のことを考えていた。
近い将来、私はあのチェアに座ってお茶でも飲んで寛いでいるだろうか。
そんな場面を想像すると、なんだか自分には到底似つかわしくなくて苦笑いが溢れた。けれど同時にそれはとても贅沢なことでもあるのだと、遠くない未来に次第に胸が踊ってきた。そう考えるとこれから屋敷で生活していく心配も少しは排除されていった。
屋敷での生活はまだ始まったばかりである。兄さんのことも、この屋敷で生活するまだ見ぬ住人たちも、そして失われている私の記憶も、不安の要素は後を絶たない。しかし、私はそれらを抱え、ここで生きていかねばならないのだ。なぜかそういう使命感を感じずにはいられなかった。
崖の上にある屋敷。
ここは差し詰め、私の墓標だろう。
この場所で私は一生涯を過ごすのだと、この時、私は理解した。




