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モザイクロス  作者: アサオ
第一話 翡翠の庭
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(4)

 降りはじめた雨の匂いが、私は苦手だ。

 鼻の奥がつんとなる、あの独特のアスファルトの匂い。その匂いを嗅ぐと、私はいつも堪らない不安に襲われる。

 雨は本格化し、屋敷内にはゴウゴウという地響きのような音を響かせるまでにもなっていた。

 私は窓の外を見るのをやめ、兄さんの向かいのソファに座って、用意されていた焼き菓子に舌鼓を打つ。なんとも優雅な午後である。

 しかし、しばらくすると、どこからか雨とはまた違ったかすかな音が、こちらに近づいてくることに気づいた。パタパタと聞こえるそれは、私たちの寛ぐ部屋の前でその音をとめた。まもなくドンという荒々しい声をあげ、談話室の扉が開かれる。

 扉を注視すると、そこには顔をしかめた少女が、腰に手を当て、仁王立ちとなっていた。彼女の着るセーラー服が、細い身体に張りついている。

 今にも誰かを射殺すような双眸をして、つかつかとこちらまで歩み寄る。彼女の艶やかな黒髪からぽつりと雫が垂れた。

 そして、少女は沈黙を破った。その鈴のような声で、私の鼓膜を揺らした。

「ちょっと、群青! そんで新入りのあんた! なーんでこんなに雨降ってんのに、洗濯物取り込んでくれなかったのよ! もう、せっかく乾いてたのにびしょ濡れじゃない!」

 容姿からは想像できないほど、迫力のある声だった。その華奢な身体から吐き出されているとは到底思えるはずのない。

 その凄まじさに私はすっかり怖じけづいて、自然と彼女から目を逸らしてしまっていた。代わりに口を開いたのは兄さんだった。

「どうしてって言われても、それはイエナの担当だろう? 勝手に取り込んで雑に扱っても文句言うし。それがわかってるから放置しといたんだよ」

 兄さんは淡々とした口調で彼女に告げる。

「もー、そうだけど! そうなんだけどっ! ああもう! 雨が降るってわかってたのに軒下に干さなかった自分が悔しいのよ! すっかり忘れてたわ」

 彼女は私たちの当てつけというよりか、自分の失敗にこそ腹を立てているようだった。地団駄を踏んで、天井を仰ぐ。

「起こったことは仕方がないよ。イエナも早くその服、着替えた方がいい。風邪引くよ?」

「……わかってる。それから群青? 何度も言うけど、私はイエナじゃなくて、イェーナ!」

 彼女の不満が部屋一面に轟いた。兄さんは相変わらず涼しい顔を崩さない。

 私はちらと彼女の方を盗み見た。

 顔は整っている方だと思う。決して美人と断定するわけではないが、大多数の人間からは好まれる顔立ちだろう。標準よりは少し痩せ型の体型で、腰まである髪を豊かになびかせ、口は悪いがよく通る声で快活に話す。私より一つ年下の女の子、イェーナ。

 改めて私とは正反対の性格だなと思った。

 気づくと、兄さんは観念したように目を細めて、彼女の要望に応えていた。

「はいはい、イェーナ」

「ったく、群青は。今日は二人だけ? 他のみんなは?」

「みんな出掛けたよ。紫紺(しこん)も今夜は遅くなるらしいから、昨日の残り物を食べるようにって」

「あんのエロ年増~っ! 自分の担当のくせに手抜いてんじゃないわよ」

「でも、紅子(こうこ)みたいに誰かをここへ連れ込むよりはマシだと思うけどね」

「まぁ……ね。紅子さんもあれさえなければ良い人なのに」

「イエナはずっとこだわってるね。紅子のハーレムはもう直らないよ」

「……だ~か~ら~、イェーナって言ってるでしょお〜っ」

 彼女は一度兄さんをきつく睨んだが、次には諦めたのか、その強張った顔をすこし弛めてうすく笑った。そうすると、忽ちあどけなさが顔一面に広がり、この子本来の素顔を垣間見た気がした。

 彼女はまた口を開く。

「もういいや。……紅子さんも、早く誰かひとりの人を相手してほしいよ」

「そうだね」

 そこで会話はひとまず終了した。私はただふたりのやり取りを黙って聞いていた。

 こうして見ると、彼女の方が兄さんの妹のようにみえてくる。彼女の方が兄さんのことをよく知っているように思えて、私の居場所はここにはないのかもしれないと、そんな思いが小さく胸の中に燻ってくる。この屋敷に住む彼らの方が、兄さんと過ごした時間は長いのだ。私はたかだか二週間。それどころか、兄さんの存在を知ってまだ半年にも満たない。

 そんな考えに思考が囚われていくと、二人の顔を直視することも疎ましくなってきた。

「翠? どうした? 気分でも悪い?」

 気づけば私の隣には床に膝をついた兄さんがいて、私の顔を覗き込んでいた。私は爪先に視線を集めたまま、「うん」とおざなりな返事をする。

「部屋に戻る?」

 なにも返すことができず、黙り込む。

 自分が情けない。兄さんが困惑しているのだということだけは、すぐ理解できた。

 沈黙が部屋に充満していく。

 気まずい。どこかへ逃げ出したい。と、そう思った瞬間だった。

「ちょっと来て」

 キビキビとした声が、私の腕を強く掴んだ。忽ちその手に引っ張られて、私の腰は持ち上がり、両足が自然と動き出す。

「群青、この子借りる」

 彼女が兄さんに向かってそう言ったのが分かったのは、談話室の外へ出てからだ。私の身体は彼女に支配されたみたいに、私の意志より彼女の行動に従順だった。

 強引に連れ出されて、私は何をされるのか。

 兄さんのことが気がかりで、とっくに閉まった談話室の扉を見てばかりいた。

 あの扉の向こうで、兄さんは私のことをどんな風に見ているだろう。私とこの子、どちらを気にかけるだろうか。

 しばらくの間、私は逃れる術もなく、ただ彼女の進む方向へ忙しなく足を動かした。

 もう扉を見るのはやめていた。

 彼女のうつくしい黒髪が、目の前で揺れている。

 今度はそれをただ呆然と眺めるばかりだった。



 少しだけ、屋敷について話そうか。

 私が高校へ通うことを承諾して、上機嫌の兄さんが言った。

「夕飯にはまだ早いし、翠がよければ屋敷の中も案内するよ。それとも今日はもう休む?」

「大丈夫。私も早くここに慣れたいから」

 そうか。兄さんは頷くと、部屋の扉の前に立つ。

「じゃあ、行こうか」

 一度部屋を出て、長い廊下に放り出されると、そら恐ろしい気持ちになった。

 窓の外を見ると、眼下には壮観な街が見渡せる。ちょうどこの廊下は、屋敷の反対側に位置しているようだ。

 景色の眺めは良い。四方を山に囲まれているせいで、建物が箱詰めされたように埋まっている感じがする。この街は窮屈で、なんら特徴のない街のひとつだと思えた。しかし、それもこの屋敷の存在を知れば、不思議と街の印象は華やぐのだ。

 街のシンボルである荘厳な屋敷。崖の上から街を見下ろしている冷徹な屋敷。けれど、決して街と交わることはないであろう廃れた屋敷。

 この屋敷はどこまでも街とは隔離された、聖域だとでもいうような土地の印象が、ここへ来た当初から消えることはなかった。

 私は屋敷の雰囲気に、すっかり押し潰されそうになっていた。

 並んで、紅紫の絨毯を踏む。

 部屋に面した廊下を歩くと、何メートルか進むごとにまた新たな扉が現れる。

 二階は専ら客室として使用されるのだろう、普段は空き室同然の部屋が。そんなことを思っていた。次に兄さんの話を聞くまでは。

「翠にはまだ言ってなかったんだけど、この屋敷には僕の他にあと五人の住人が生活してるんだ。この廊下に面する部屋はそれぞれその彼らのだよ」

 言葉に私は目を見開く。てっきり兄さんと二人で暮らしていくのだと思い込んでいた。忽ち鳩尾を掴まれたように鬱屈とした気分が、するりと私の中へ入って居を定めようとする。

「その人たちって、兄さんの友達?」

 咄嗟に問いかけていた。

「いいや。ただの同居人だよ。今でいうルームシェアみたいなものかな?」

 兄さんがハハっと乾いた笑いを溢す。

「その中には翠と同年代の女の子もいるから、仲良くなれるといいけど」

「兄さん、今まで女の子と住んでたの!」

 その衝撃はここへ来て一番のものだった。私はさらに目を丸くした。

 兄さんは苦笑を浮かべて話をつづける。

「その言い方は心苦しいなぁ。元はこの屋敷は賃貸みたいなものなんだよ。でもこの屋敷を見て、誰もそんなこと想像しないだろう? だから部屋に空きが出ると不動産会社に格安で募集をかけてもらって、運よく紹介された人たちだけが、ここで生活してるってわけさ。街の人たちはこの屋敷は貴族の別荘だとか噂してるみたいだけど、実体はただの集合住宅みたいなもんなんだよ」

 聞きながら、私たちは一階へとつづく階段を下りる。

 まさかここが賃貸だったとは。

「ここって家賃いくらぐらいなの?」

「あまり言いたくはないけど、一ヶ月三万円てとこかな? 風呂とかキッチンは共同だし。その代わり、ここへ住むにはある条件をクリアしないと住めないんだけどね」

 その含んだ笑みが兄さんを一層妖艶にみせた。私はつづけて問う。

「なんなの?」

「そうだな。簡単に言うと、屋敷で生活を共にする住人の役に立つようなことをする、ってことかな」

「……え、どういう意味?」

 言葉の意味が咀嚼できず、私は首をかしげた。兄さんは顎に手を当て、考え込む仕草をする。

「例えば、翠は料理は得意?」

「……あんまりやらないかなぁ」

「じゃあもしここで一人で暮らすとなると、大変じゃない?」

「そうだけど……でも、なんとかなるでしょ?」

 肩をすくめて、兄さんを見る。

「なんとかはなると思うよ。でも同じ家に住む人のなかに料理を作る担当の者がいたなら、嬉しくない?」

「それは……有り難いけど」

 再び玄関ホールへと戻ってきた。

 私は兄さんの後につづいて、一階スペースへと足を踏み入れる。

「さっきここには翠と同年代の子が住んでるって言ったろう? その子たちの中にも自炊が苦手な子もいる。どうせキッチンは共同で使うしかないんだから、住人の中で料理を作る担当の者を決めておけば、その子たちは毎日頭を悩ませなくてすむ。苦手な子にとっては、そういう存在は役に立つといえるだろ? そういう風に、ここに住む人間は、なにか住人のために貢献できる役割を持たなければならないんだ」

「……なるほど」

 聞き終えて、ようやく納得した。確かに私みたいに料理ができない者にとっては、それは諸手を挙げて感謝することだろう。

「じゃあ、この屋敷に住んでる人は、なにかしらの役割を担ってるってことね。兄さんは何をするの?」

「僕はみんなの退屈を晴らすために音楽を奏でるよ」

 些か意外な気もしたが、兄さんならばどんな楽器を操っても大層絵になることだろう。

 次に私は自分のことについて思案した。私はいったいここでどんな役に立てるだろうか。人に貢献できるような、そんな特技めいたことは残念ながら持ち合わせていない。

「実は翠の役割はもう決めてあるんだ」

 無言になった私を案じてか、落ち着いた低音が頭上に降ってくる。私は隣を見上げた。

「なに?」

「それは」

「あんれ~? 群青、だれそのこ。おお、お前にもようやく春が来たか!」

 耳にしばらく張りつくような、艷のある声だった。兄さんの言葉はその声に吸いとられた。

 振り返ると、兄さんは怪訝そうな顔をその人物に向けている。

「違うよ、紫紺(しこん)。お前こそ今日は遅くなるって言ってなかったか」

「そんなおっかない顔すんなよ~。その予定だったけど、面倒なったんで早々に切り上げてきた」

 言い終わると紫紺と呼ばれた男性は、私の顔をまじまじと見つめてきた。私はいたたまれなくなって、その顔から視線を逸らす。

「な~んだ。群青が珍しく女の子連れてると思ったのに。……例の妹ちゃん?」

「そうだよ。妹の、翠」

 頭上で二人の会話がやり取りされる。視線を彼らへ戻すと、彼はもう兄さんと対峙していた。

「なるほどねぇ。どうも、俺、(ただす)紫紺。よろしくね、翠ちゃん」

 その時になって初めて、私は彼の全体像を捉えた。

 人懐こい笑みを浮かべて、少し猫背気味で立つ。瞬間、兄さんとは違う気の妖艶さを持ち合わせている人種なのだとわかった。兄さんには微塵も感ぜられない、人間の生々しさがこの人には溢れている。それがこの人を魅力にみせる要因の一つなのだとわかった。

 塗り潰した黒の髪に、見事に染められた紫色が一筋。ゆるくパーマがかけられているそれが、彼のトレードマークなのだろう。しかし、どこか危うい印象を覗かせるのは、彼の肌が白く健康的ではないからだ。

 兄さんといい、目の前の彼といい、この屋敷に住む人間はどうしてこうも私を気落ちさせるのか。女である私の存在意義が失われてしまうではないか。

 そう悪態をついてみたいが、その言葉は呑み込んで、私は彼に応えてみせた。

「初めまして、今日からお世話になります。翠です。よろしくお願いします」

 定型文のような文言を並べ、頭を下げる。すると、頭に違和感を感じて眉を寄せた。彼の大きな手が私の髪を優しく掻いていた。

「いろいろ大変だったんでしょ? そんな固くならないで、ここじゃあ適当に過ごせばいいから」

 なぜだか無性に胸が締めつけられる。その言葉は私を動揺させるのに十分な効果を孕んでいた。

 やがて、彼は手を離して告げる。

「腹が減ったら、俺んとこ来ればいい。めちゃくちゃうまい飯食わせてやるから」

 白い歯を覗かせ、整った顔をくしゃくしゃにしている。この人は生来心の温かい人間なのだろう。しかし、その外見と醸し出す雰囲気が、彼からその温かみを一切排除させているのだ。

 紫紺と名乗る青年は、そして私たちの元から去っていった。

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