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モザイクロス  作者: アサオ
第一話 翡翠の庭
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(3)

「あ、雨……さっきまであんなに晴れてたのに」

 窓の外を眺めていると、いつの間にか上空は重々しい雲に覆われていた。ぼつぼつと音を立て、乾いた地面に染みが作られていく。礫のような雨が、襲いかからんばかりに目の前の窓を打ちつけてくる。

 兄さんの言う通りになったな。内心面白くないと悪態をついてその当人を横目で見れば、談話室のソファに深々と腰をかけ、スラリと長い足を持て余すように組んでなにかの書物に目を通していた。兄さんがまた一枚、新たなページを捲るところだ。

 美しい。そのなんでもない動作にどうしてこんなにも心惹かれてしまうのだろう。

 兄さんの美しさに思わず嫉妬した。女の私でさえ持ち合わせていない、しなやかさや儚さといったものが兄さんにはある。

 屋敷に来てから見る兄さんは、なにをするのも完璧な人だった。まるで「兄さん」という役を与えられた役者が演技をしているように、その動作には一切の無駄がない。

 この人を狼狽させる人間が、果たしてこの世にはいるんだろうか。

 そんなことを考えて、しかしその考えは無意味だと思い知る。兄さんの慌てる様など、いくら想像を巡らせても思い浮かぶはずがない。私はただ眉間に皺を寄せて、彼を見つめるばかりである。

「翠、どうかした?」

 ふいに問われてびくりとした。兄さんの群青色した瞳とぶつかる。

「ううん、兄さんの言う通り、雨降ってきたなぁって」

「ああ、だから言っただろう? 僕は嘘は言わないよ」

 兄さんは柔らかく微笑むと、再び手元の書物に視線を落とした。

「そうね」

 屋敷に降り注ぐ恵みの雨。ざざざという音を屋敷内に妖しく響かせている。

 この雨が全て洗い流してくれるだろうか。私が忘れていた兄さんとの時間(きおく)を、少しでも取り戻してはくれるだろうか。

 私もまた、激しく打ちつける窓の外に視線を戻した。



 扉を開けると、目の前にはあの写真の人物が立っていた。私は思わず硬直する。ここへ来る前からそれなりに覚悟はしていたつもりだが、写真など宛にはならない。

 前に立つ青年を見て、私は声を失ってしまった。彼の持つ雰囲気に圧倒されてしまう。

 この人は本当にこの世に存在する人間だろうか。陳腐にもそんな考えが脳裏を過る。なにかの神か、それとも悪魔の使いのように、この人はどこか浮世離れしていた。しかし、確かに目の前には私の兄だと名乗る人物がこうして存在しているのだ。その事を改めて心に刻む。私が今まで生きて見てきた誰より、青年の顔は美しい。

 私は神様を呪った。今ここで、彼の前に間抜けな顔を晒すことしかできない自分が情けなくなる。

 今からでも引き返して、朱さんの世話になろうか。それほど、この人の前では己が惨めに思えてしようがないのだ。彼の視界に私が入ることさえ、おこがましく思える。

「今日からお世話になります、翠です。……兄さん、ですか?」

 気後れしながら、しかし、己を奮い立たせて彼に問うた。彼の表情が一瞬暗い影を帯びたような気もしたが、やがてその低音を私の耳に届けてくれる。

「よく、来てくれたね、翠。僕は群青。手紙は見てくれたのかな? 僕が君の兄です」

 優美に微笑んで、私の元へと一歩近づく。私の顔も自然と上を向く形になる。その瞬間、囚われた。

 兄さんは私よりうんと背が高かった。兄さんの顔を見上げていると、首の後ろの方が痛くなってくる。けれど、私は目を離すことなどできないのだ。叶うのならばずっとその瞳に映っていたい。そんな欲を生じさせる瞳だと思う。名前の通り彼の群青色したそれに、私はすっかり目を奪われてしまっていた。

「荷物は僕が持つから。今日は遠くから疲れたろう? 部屋に案内するから、ついておいで」

 黙り込む私に声をかけて、兄さんは私の持っていたスーツケースをあっさり奪うと、私から背を向けて前方の階段をのぼっていく。

 そこで初めて屋敷の内部に目を止めた。兄さんが死角になっていて気づかなかったが、玄関を入るとすぐ目の前には、上階へとつづく吹き抜けの階段がある。その木造の階段には玄関ホールの床と同様に、鮮やかな紅紫の絨毯が敷かれている。その上に立つ兄さんは素晴らしく絵になった。

「翠、こっちだよ」

 茫然としていた私は、兄さんの呼びかけでようやく意識を取り戻した。蒸気させた頬を咄嗟に両手で隠し、急いで目の前の階段を駆け上がる。

「ここが翠の部屋」

 案内された部屋は、白を基調としたモダンな造りの部屋だった。ベッドにテーブル、ソファ、クロゼットなど、生活に必要なものが全て揃えられている。その中でも特に目を惹いたのが、翡翠の色をした美しいチェアだ。それは窓際に面した部屋の角に置かれており、屋敷の外で見かけたあのチェアとよく似ていた。

「あのイス……翡翠色の」

 気づくと口を開いていた。

「ああ、庭にあったものを一脚移動したんだ。翠なら気に入るんじゃないかと思って」

 兄さんは私の肩に手を置くと、促すようにそのチェアを指差した。私は魅せられたように一歩また一歩とそれに近づいていく。気づけば夢中になってそのチェアをくまなく観察していた。

 本当にガラス製である。動物の足のように湾曲したガブリオールレッグの脚で支えられ、氷の彫刻のように溶けてなくなってしまうのではと思うほど、透き通る(みどり)。我慢できなくなっておもむろに触れてみると、ひんやりとした冷たさが手に伝わってくる。

「座ってみたら?」

 振り返ると兄さんが可笑しそうに笑みを浮かべている。

「でも、座ったら壊れない?」

 我ながら素っ頓狂な質問だと思った。しかし、心配なのだ。万が一、こんなに高そうなチェアに座って壊れでもしたら──。

「大丈夫だよ。座ってごらん」

 兄さんは私の心配など気にもかけないで、あっけらかんと言い放つ。私はその言葉になくなく覚悟を決め、チェアの前に立つとゆっくり体重をかけていった。

 その時、──バリン!

 大きな音と共に、私は盛大に尻餅をついた。やはり、無理だった。床には私と、ガラスの残骸──、とはならなかった。

 私はまだしっかりと翡翠色のチェアに腰を落ち着かせている。ひとまず胸を撫で下ろした。

「ほら、言っただろ?」

「……うん、意外と丈夫なんだね」

「気に入ってくれた?」

「うん。ありがとう……群青、兄さん」

 兄さん。改めてその名を呼ぶととても不思議な感じがした。なぜだか胸に詰まって、どこか気恥ずかしい。

 兄さんはというと、その表情が変わることはなく、屋敷に来てからずっと見ている上品な微笑を張りつけたままでいる。

「良かった。この屋敷の外にある庭のチェアも翠のものだから、好きに使うといい」

「いいの? でもどうして? あんなに高そうなイスなのに」

「ここへ来てくれたお礼だよ」

 私は途端に嬉しくなった。このチェアが私のものだなんて、夢みたいだ。

「ありがとう、兄さん」

 ここへ来て初めて、心から笑った気がする。私は立ち上がり、もう一度翡翠のチェアに目をやった。

「その代わり、ひとつだけ条件があるんだ」

「条件?」

 唐突に兄さんは告げた。振り向いて、兄さんの眼差しを受けとめる。

「そう。翠にはこれから一年間、高校へ通ってもらう」

「え?」

 すぐにはその意味が分からなかった。

 高等学校。義務教育が終了すれば、大多数の人間が選ぶ進路。

 私は高校はおろか、中学でさえまともに通ったことはないはずだ。在籍はしていても、学校で授業を受けた記憶は皆無に等しい。しかし、記憶のない数年前がちょうど中学の期間とかぶるため、断定はできないのだが。

 それでも私が学校というものに、馴染みがないことは確かだった。

「翠は高校へ、というか学校自体あまり通ったことがないよね?」

「多分、小学校低学年くらいまでしか。最近のことは記憶がないからなんともいえないけど」

「そうだね。翠は本当なら今頃高校へ通って、同世代の子たちと勉強したり遊んだり、もしかしたら恋愛だってしてたかもしれない。でも、翠は身体が弱くて今までその経験ができなかった。翠が問題なく高校へ通えていたら、今年で高校三年生。せっかく元気になれたのに、屋敷でただ過ごすのも億劫だろう? そこで卒業までの一年間、翠には今までできなかった高校生活を送ってほしいんだ。それが兄として、今僕が翠にしてやれる最良のことだと思ってね。随分長いこと、翠とは音沙汰がなかったから」

 兄さんは憂いを帯びた表情で、私を見つめた。確かに私も順当に高校へ通っていれば、今年で三年目を迎えているはずだ。高校生活最後の年。

 けれど今更高校へ通って青春ごっこをする気など、私には微塵もなかった。そんなことをするくらいならば、兄さんと一日中過ごして、兄さんを知ることに時間を費やす方がどれほど有効的だろうか。

「でも兄さん。今から高校へ通ったって勉強についていけないよ。それに友達だって、こんな中途半端な時期に来た子を相手になんてしないでしょう?」

「それでも、高校へ通う意味はあると思うよ。大丈夫。翠は元々賢い子だったから、勉強にもすぐに慣れるよ。分からないことがあったら僕が教えることもできるし。それに学校へは配慮してもらえるよう頼んであるから」

「でも」

「翠、これはお願いだよ。頼む。あと一年だけでいい。きちんと通って、卒業してほしい。それからは何をしてくれても構わない。翠の面倒は一生僕がみるから、お金の心配もしなくていい。翠の自由に……好きに生きてくれればいいから」

「兄さん」

 そうまで言われて拒否することは、さすがに心苦しいものがあった。先ほどとはうってかわり、真剣な眼差しで私を刺してくる。

 ずるい。こんなの卑怯だ。

「……わかった。わかったわ、兄さん」

 結局私は彼の言葉に折れざるをえなかった。

「ありがとう、翠。早速だけど、来週から通ってもらうよ?」

「……はい」

 面倒なことになった。まさか今頃になって高校へ通う羽目になるとは。

 重い鎧を着せられた武士のように、私の心もまた鬱々とした気持ちに支配されていた。兄さんの方は元通り、満足気に顔を弛緩させ飄々としている。しかし、兄さんのその顔を見ていると、次第にそれまでの億劫な気持ちは一気に吹き飛んでしまうのだった。

 兄さんの喜ぶさまを見るのが、私は嬉しいのだなぁと気づいた。

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