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モザイクロス  作者: アサオ
第一話 翡翠の庭
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(2)

 私に両親はいない。物心つく前には母が亡くなり、それからしばらくして父もあとを追うみたいに亡くなったそうだ。そうだ、と曖昧なのは、これらは全て父の秘書だった朱さんに聞かされた話だからである。思えば朱さんがいなければ、私がこの屋敷に住むきっかけとなった兄の存在も、私は一生知ることはなかっただろう。

 私が記憶を無くしたのは、十六を迎えようとしたある時だった。元から病弱だった私は幼い頃から家と病院を行き来するのが当たり前の生活を送っており、学校にも滅多に通えず、一日を寝て過ごす時間のほうが長かったらしい。そしてその運命の日、私はついに寝たきりの状態となってしまったのだ。朱さんによれば、それから丸一年を意識のない昏睡状態で過ごしたという。

 その一年の間、私はどの医師たちからも、今後回復する見込みの無いことを口ぐちに告げられ、私の数少ない親戚たちをおおいに困惑させた。回復する可能性は少ないと判断されても、確実とはいえないのなら目覚める可能性はあるのだ。そうなると、こんなに手間のかかる私をわざわざ引き取ってやろうと思う者が現れるはずもなく、私は病院のベッドの上でただ眠り続けるしかなかった。

 ところがある日、私はなんの前触れもなく目を覚ましたのである。そして、長い月日を眠りつづけた代償にか、目覚める前の記憶をすっかり無くしていたのだった。

 この話を聞いた時、一番に衝撃を受けた。自分がそのような状況にあったことがとても信じられなかった。何も覚えていないことが無性に歯痒く、怖かった。

 そしてそんな私を唯一見放さないでいてくれたのが、血縁関係もない、他人同然の朱さんだった。私になにかあった時は君が力になってくれ、と生前の父が彼に頼んでいたそうだ。

 朱さんの話ではどうやら私は社長令嬢であるらしかった。仕事柄、病弱な私にかまってやれなかったことを、生前の父はひどく後悔していたという。母が亡くなった時でさえ、父は仕事一筋で私を相手にしなかったというのだ。それをずっと悔やんでいた、と。

 遺言書にはそれの他に、自身が一番大事であったろう会社の経営権を私へ譲ること、さらに父が所有していた邸宅の一つを私に与えると書き残されていた。そして呆気なく逝ったそうである。

 この話を聞いた時、父は最期まで私のことなど考えてはいなかったように思う。それを残されたところで、身体の弱かった幼い私がどう管理していけばよいのか。後悔したと告げる父の優しさなど微塵も感じられず、しかしそれを今更悲しいとも怒ろうとも思えず、私はただ事実としてそれを受け止めた。

 しかし、父が一世一代の思いで残したであろう財産も、今ではもう無い。父の死後、会社の経営は朱さんが指揮していたらしいが上手くいかず、会社は多額の負債を抱えることになった。その折、会社の経営権を持つ私は深い眠りの底にいた。朱さんは私のためにも、なんとかして父の会社を守り通す義務があった。そのために彼が下した決断が、父が私のためにと残した邸宅を売ることだったのである。彼はひとりで随分と悩んだ。しかし、結局寝たきりだった私に了承を得ることなどできず、目覚める見込みもなかった私に家を残すくらいならばと、彼は父の遺言に背いたのだ。

 しかし、その邸宅を売ったお金で負債は無くなり、父の会社はどうにか難を逃れることができた。だが、この一難が去った後も新たな難は次々と降りかかり、彼の奮闘もむなしく父の会社は呆気なく倒産してしまったというが。

 この時、私の財産は尽き果てた。朱さんはその事態にも酷くショックを受け、それからは尚更目覚めぬ私の世話を何年かかっても続けようと、決意を固めてくれたらしい。まさかそのすぐ後に私が目を覚まし、記憶まで失っている状態になるとは、さすがの彼も想像しなかっただろうが。

 それにしても記憶がないというのはとても奇妙で、面倒なことだ。なにかを思い出そうとしても、頭の一部がむず痒くなるだけで疲弊を伴う作業である。それに私は記憶がなくなったとはいっても、母が亡くなったことについては朧げながら記憶していた。当時はそれで随分と泣き、そのせいで体調を崩し、何日も寝込んでいたように思う。とても優しく、大好きな母だった。そんな母がもうこの世にいないことがどうしても受け入れられず、息をするのもしんどくて、私はこの時生きていくことの残酷さを知った。それ程母の死には印象があるのに、不思議なことに父の死についてはさっぱりと記憶が抜け落ちてしまっていた。父がなぜ亡くなったのか、私は知らない。朱さんの話では、母を亡くしたショックで精神を病んでしまったというが、父がそれほどまでに母を愛していたという印象が、幼い頃の記憶を頼りにしてもどうしても浮かんでこない。遺言にしたってそうだ。私はその遺言書をこの目で見たことがあるのか──。

 どうやら私の記憶の欠落は、寝たきりになる数年前のことが大部分で、まだ幼い頃に母と出かけた植物園だとか、学校に通えない私のために家まで来てくれた家庭教師の先生だとか、そういうことは覚えていた。そして記憶の整理を進めていくうち、自分の中の矛盾が正しいのかそうでないのかがだんだんと解らなくなってきてしまい、ひとまず父の死の真相については朱さんに聞かされたことを信じることで、なんとか自分を納得させようとした。

 やがて記憶がない状態の生活にも慣れてきた頃、朱さんはまたしても私にとんでもない爆弾を落としてくることになる。

 私に兄がいるなんて、十七年間──寝たきり状態だった期間も含めて──生きてきて、寝耳に水の情報だった。

 彼の話はこの一点に限り、到底信じるわけにはいかなかった。私の頼りない記憶を遡っていっても、兄がいた光景なんて全く身に覚えがなかったからだ。けれども、今まで面倒をみてくれた朱さんを疑うことも私には同様にできなかった。

 今にして思えば、朱さんが兄の話を持ち出したのはやけに唐突だった気がする。退院してすっかり良くなった──今まで病弱だったことが嘘みたいに──私は、彼が用意してくれたホテルで生活していた。父の会社が倒産したといっても、朱さんはとても優秀な人だ。すぐに新しい勤め先を見つけ、私一人を養うぐらいは十分すぎるほどに稼ぐ能力が彼にはあった。そうして私はひと月ぐらいホテル暮らしを送り、そんなある日、彼に唐突に告げられたのである。

 長い間音沙汰のなかった私の兄から連絡があった。彼から言伝を頼まれている。一度彼の住む屋敷に行ってみて、可能ならその屋敷で暮らしてはどうか、と。

 この話を聞かされた時、当たり前だが私はまた随分と戸惑った。それまでは朱さんこそを兄のように思い始めていた矢先のことだったからだ。しかし結局私はこの話を了承した。兄のことを全く覚えていないのは記憶障害のせいだと、ひとまず解釈して。

 朱さんも最初こそ複雑な心境でいてくれたようだが、私の決断に反対まではしなかった。彼のそんな反応が私にはとても嬉しかったが、それ以上に今後もずっと彼の世話になるというのはやはり申し訳なかったし、なによりその兄という人のもとで暮らせば、お金の心配に悩まされることはないというのが、最大の決め手だった。兄を名乗る人物の話によれば、私の今後の生活費等は全て援助してくれるらしい。やはり血の繋がらない人にお金を出してもらうことは気が引けるのだ。朱さんは私にとって恩人であるからこそ、私が彼の人生の重荷になることは躊躇われた。その点、身内からの援助であれば、なんとかまだ自分の心とも折り合いをつけていくことができる。

 屋敷に行く前日、荷物をスーツケースにまとめていると、朱さんからある物を渡された。それは一通の手紙だった。

「翠さんのお兄さんから」

 短く告げると、彼はすぐに部屋を出ていってしまった。

 その途端、この部屋で一人でいることを初めて私は恐ろしく感じた。しばらくの間、その場に立ち尽くして、その真っ白な紙封筒にまるで呪いをかけられたように動けなくなる。ここへ来て、現実と向き合うことの恐ろしさを私はまざまざと実感したのだ。今まで兄とのやり取りはすべて、朱さんが仲介に入って行われていた。私自身が直接連絡を取り合ったことなどない。それが今になってどうして?

 私は恐る恐る封筒の糊の部分に手をかける。すると、案の定中には紙切れと一枚の写真が入っていた。私は思わず凝視した。その写真には私と、恐らくこの手紙の主が写っていたからだ。

 何にも染まることを許さない鮮やかな黒髪、生きているのか心配になるほど血の気のない肌、よく通った鼻筋に目元の涼しい、暗い群青色した瞳。

 儚げで、華やかな青年の隣に、彼とは比べるまでもなく地味な私が懸命に着飾った姿で並んで立っている。

 次に私は素早く手紙に目を通した。丁寧に書かれた文字は、この人の性格をそのまま表しているかのようだった。

『こんにちは、翠。

 私は群青(ぐんじょう)と言います。君の兄です。いきなり兄だと言われても、君には信じ難いかな。誰だってそう思うのが普通の反応です。まして、君には過去の記憶がないのだから。

 それでも君が屋敷へ来てくれると知って、私は本当に嬉しい。今は不安な気持ちばかりさせているだろうが、これだけは信じてほしい。

 私は君の味方で、家族です。翠に会えることをとても楽しみにしています。  群青』

 読み終えて、気づくと紙切れの上のインクが滲んでいた。私は思わず深く瞬きする。そして、もう一度写真の中の二人をよく見た。

「ぐん、じょう……兄さん」

 小さく呟くと妙にしっくりきて、私は味を占めたようにぽつりぽつりと彼の名をくり返し呟いていた。そして、その手紙を何度も何度も目で追った。

 私はこの瞬間、兄の話を信じたのだと思う。何故だかはわからない。ただこの人は、私の兄で、私の家族なんだと直感したからだ。理屈など関係ない。

 私がこの人と家族であるかもしれないという事実が、その時はただ堪らなく嬉しかったのだ。

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