(1)
泣いてやるな、と誰かが言った。
その声の主を私は覚えていないのだ。
とてもいとおしい、心地よい声であったのに。その声が私の支えであったのに。
私は何も、覚えていないのだ。
私はあなたを忘れてしまった。
この屋敷に来た日のことを、今でも昨日のことみたいに思い出せる。
あの日、父の会社で秘書をしていた朱さんの車で、私はあの場所までやって来たのだった。
某県の中心地から車で約二時間をかけて着いたこの街は、四方を山に囲まれ、なんとなく圧迫感の強い街だと思ったことをよく覚えている。けれど、街の中心地にある駅前には商店街や大型の商業施設もあって、それなりに都会的な街だとも感心した。
車の窓から見える景色がこれほど新鮮なものに感じられたのは、後にも先にもこの時しかない。
今まで高層ビルが列挙する都心の街並みしか知らなかった私には、今目の前に映る全ての光景が、生まれて初めて見た景色ぐらいに珍しいもので、この一瞬をなるべく忘れないように必死になった記憶がある。この街に来た目的なんて今は忘れて、ただ目の前のことだけを考えていたかっただけなのかもしれないが。
当時の私はとにかく不安定で、信じられるものが何ひとつなかった。自分自身のことですら、私は何も信じられなかった。ただ、私に会いたい、と言ってくれたあの人のことだけを頼りに、私はどうにかここまでやって来たのだ。私のこれからと、過去の私を知るために。
駅からまた半時間ほど車を走らせた所で、ようやく屋敷の概要がはっきりとわかってきた。
随分と街外れまで進んできたようだ。そしてなにより驚かされたのは、やはりあの崖である。道中ずっと車内の窓越しから見上げていたが、屋敷の裏側は断崖絶壁なのだ。
この街の主要道路を通り、市街地を抜ければ、次第に道は山を越えるようにできていた。その山道をしばらく走ると、道なりの途中で右手側に不自然にぽっかりと森に向かって伸びている細い道が現れる。その道を敢えて選び進んでいくと、緩やかな坂道にさしかかる。このような山道でも定期的に整備されているようで、思うほどの揺れは感じられなかった。賑やかだった街並みから一変して、すっかり人気のない森の中を彷徨っている。私は森にどんどん吸い込まれていった。
しばし揺られ、ようやく辿り着いた先が、この崖の上にある屋敷だった。私がこれから生活するところ。あの人がいる場所だ。
「翠さん、荷物はどうされますか?」
車のドアを開けたまま降りずにぼうっとしていると、朱さんの声にハッとした。彼は車のトランクから黒のスーツケースを取り出そうとしていた。
「あ、もらいます」
急いで車から降り、荷物を持とうとすると、微笑みを浮かべた彼に直前で制止され、
「玄関まで運びます」
そう言って、私にくるりと背を向けて、先に玄関の方まで歩いていく。
申し訳ないな。そう思いつつも、彼につづいて私も屋敷へ向かうことにした。
地面に生える緑を踏む。踏みしめた足から包みこまれるような感触が伝わってきて、少しだけほっとする。そして改めて、私はその偉大な屋敷を見上げるのだった。
遠くからでは気づかなかったが、それほど荒れた印象は受けなかった。むしろ逆だ。きちんと手入れがされている。やはり業者か誰かに屋敷の修繕を頼んでいるのだろうか。ふるいけれど、外観はとても立派なものだった。思わず圧倒されるくらいに。
今日からここに住むのか。再び閉じ込めていた不安がむくむくと湧き上がってきた。
暗い気持ちに占領されまいと、屋敷の外観から目を外す。ふと、屋敷から少し離れた場所に、同じ意匠のチェアと丸テーブルが一式、寂しげに置かれてあるのを見つけた。それは見事な翡翠色をしていて、ガラス製だろうか。うっかり腰を下ろせば、脆くも壊れてしまいそうだと思った。辺りはそれらが置かれている以外に何もなく、開けた空間となっている。その周囲を四角い緑の低木が何かを守るみたいに取り囲んでいた。恐らく以前は庭として機能していたのだろう。地面が雑草で覆い尽くされてはいるが、なんとなく花壇と思しきレンガのようなブロックも見える。
「翠さん。どうかしました?」
気づくと朱さんがすぐ隣まで来ていた。スーツケースは玄関の前に、頼りなさげに置かれていた。
「いえ、なんでも。本当にありがとうございました」
私は頭を下げながら、心からの礼をする。
上を向くと、いつも涼しげな笑みを絶やさないでいた彼の顔が、困ったように少しだけ眉尻が下げられていた。彼はしばらくその表情のまま、私の顔をじっと見つめてくる。恐らく私との最後の会話をいつ切り出そうかと迷っているのだ。
朱さんもこんな顔ができるんだな。場違いにもこんな時に彼に対して初めて親近感が湧いたなんて言ったら、彼はどう思うだろうか。思わず吹き出したい気持ちになったが、私はどうにかそれを抑えた。
そんなことを私が考えていた一方で、彼もまた決意を固めたようだった。いつもの笑みを浮かべた彼から、私は言葉を告げられた。
「では、私はここで。これぐらいしか私に出来ることはありませんでしたが。……どうか、お元気で」
朱さんもまた恭しく腰を折る。
この人に会うことはもう一生ないだろう。その時、私の中ではっきりとした確信が芽生えた。何故かはわからない。けれど、どうしても予感せざるをえなかった。無性に心細いような、耐えがたいような、形容し難い感情が、私を何度も貫いていく。関わった期間は短かったはずだ。しかし、今までこの人にしてきてもらったことを考えると、この別れは私にとってひとつの大きな節目みたいなものになるに違いないと感じられた。
たちまちここへ来たことが間違っているのではないかという考えが頭を過る。今日が来るのが半分楽しみで、半分はやはり不安だった。だからといって、この決断を間違っていたと思うような事にはしたくない。そう何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、土壇場になってその意思も挫けそうになる。
私は朱さんをもう一度しっかりと見た。
穏やかな表情。いつもとても紳士だった。この人は私の恩人。
それを思い出すと、再び己を強く奮い立たせることに成功した。
この人にも決して、後悔なんてものを背負わせてはならない。
これまでに幾度も決意してきたことをもう一度改めなおす。
私はできるだけ軽い声になるように努めて、彼への思いを言葉にした。
「私の方こそ、送っていただいて感謝しています。朱さんにはいろいろ迷惑をかけて、すみませんでした。最後までお世話になって、甘えて。
もう全部忘れてください。私もまた一からやり直しますから。本当に、どうもありがとう」
それ以上は互いに言葉を交わすことなく、彼は静かに来た道を戻っていった。彼の車が見えなくなるまで見送って、私はその場に一人になる。私は本当のひとりになる。
一度きつく目蓋を閉じてから、今度こそ私は足を踏み出した。
振り向くことはしない。振り返る過去もない。
私は前だけを見て、進んでいくことを決めた。
屋敷の扉の前で立ち止まり、扉の取っ手に手をかける。ギィーと軋む音を立てながら、扉はゆっくりと開いていく。
この場所で、私は生きていく。
屋敷で生活するようになって、二週間が経った。
ここでの生活は思っていた以上に快適だ。紫紺さんの作る料理はどれも絶品だし、一部折り合いの悪い同居人もいるが、あと残る一年をこの街の高校へ通って卒業することさえできれば、その後は何をするのもこちらの自由。それが私がこの屋敷で生活する上で出された条件だった。
お金の心配をすることもなければ、将来のことに悲観になることもない。そして、なによりこれからは兄さんと一緒に暮らしてゆけるのだから。
「翠、何してるの?」
お気に入りの私の庭で翡翠色のチェアに腰かけていると、兄さんの低く穏やかな声に呼びかけられた。振り向けば、兄さんが屋敷の扉の前に立っている。
「天気が良いから、日向ぼっこ。兄さんもこっちに来たら?」
やや声を張り上げて言う。兄さんは控えめに笑って首を横に振った。
「じきに雨が降るって、天気予報で言ってたよ。翠も屋敷に戻った方がいい」
雨が降るなんて初耳だった。今は雲ひとつない快晴だ。けれど、兄さんが言うからには間違いないのだろう。
私は仕方なく立ち上がると、兄さんの元へ急いで向かった。
「雨なんて本当に降るの?」
半信半疑で問うと、はぐらかすみたいに兄さんが言う。
「さあね。降らないかもしれない」
「えぇー? 兄さん、もしかしてでまかせ?」
兄さんはただ優雅に笑っている。
兄さんのこの笑顔を、私は随分と前に見たことがある気がする。それがいつなのかは思い出せない。そもそもこの人は本当に私の兄なんだろうか。今でもふとした瞬間に疑問は募った。
彼の名前は三崎群青という。私の兄を名乗った人だ。私がこの屋敷で生活するきっかけとなった人。唯一の肉親。しかし私には彼と過ごした記憶は、まだたったの二週間しかない。
今から一年ほど前の病気で記憶の一部を失ってしまっていた私は、彼との記憶をなにひとつ覚えていなかった。そしてこの兄の存在を知らされたのも、屋敷に住むことになる僅か数ヶ月前のことだった。




