(1)
月のきれいな晩だった。時刻は夜の十一時をちょうどまわったところであった。
屋敷は静まり返っている。物音ひとつしない。外で鳴く虫の声すら、住人たちには届いていないようだ。それほど静かな夜だった。屋敷は静けさで満ちていた。
屋敷の住人たちはといえば、すでに各々の部屋で寛いでいる者が多かった。もう寝てしまった者もいるのだろうか。貸部屋としているのは五部屋あったが、今はそのうちの二部屋にだけ灯りがついている。
屋敷は依然として静かだった。しかし、この後、静寂を保っていた屋敷は一変して、たいへんな喧騒に包まれることになる。そして、その原因をつくるが屋敷の住人のひとりである御影紅子ということを、他の住人たちはまだ知らない。
御影紅子が帰ってきたのは、それから一時間後のことだった。彼女は愛車のアルトを屋敷の前に停めると、ひとつおおきなため息を落とした。
紅子はこの時、とても苛立っていた。今のいままで一緒にいた男に対してだ。その男は最近毎日のように紅子の周りを嗅ぎまわっており、紅子が連絡先を教えていないのにもかかわらず、どこからかそれを入手してきては何度も連絡を寄越してきたり、紅子が行きつけの店に顔を出せば、偶然だという顔をして一緒に食事をとろうとしたり、もはやストーカーと訴えられても文句をいえない行動ばかりしていた。
そんな男に紅子はもう怒りを通り越して、心底げんなりした。彼女は必死にその男から逃れようとするのだが、男のほうが渋とく、無視することもできない。
今日も紅子は仕事の取材で舞台鑑賞をしてきたのだが、紅子が指定の席につくと、その男は待っていたとばかりに彼女の隣の席を陣取っていた。「やぁ、奇遇だね。今日も君はうつくしい」
さすがの紅子もこれにはたまらなくなり、ろくに頭に入らなかった舞台の終演後、紅子は男にはっきりと忠告をくれてやるのだ。これ以上つきまとうと、出るとこ出るぞ、と。
しかし、そんな脅しも男には全く通じない。男は紅子の気も知らずに延々と紅子への愛を語らい、紅子を離しまいとする。紅子はその間ずっと男のくだらない言葉を聞き流していたが、そんな彼女の様子にすら、男は気づいていないようだった。なんという苦行だろう、と紅子は思った。
紅子が男に抵抗することおよそ三時間。もはや我慢の限界となった紅子は、隙をみて手っ取り早く男のオトコを華麗に蹴りあげ、自由を取り戻すことに成功した。こうみえて紅子は武道に秀でているのだ。やろうと思えば簡単に殺れた。しかし、紅子もこんな男のために無駄な労力を使うのはごめんだった。
ともかく、そんな思いでようやく屋敷へ帰ってきた紅子であったが、彼女の精神は随分と消耗しきっていた。疲労が頂点にあった。だけれど、今日の男の仕打ちを思い出すと、紅子は疲労よりもだんだんと怒りがせり上がってきて、まだあの男に振り回されている自分自身にも腹が立ってくるのだった。こんな思いを抱えたまま一日を終えることを、彼女は拒んだ。(日付の上ではとっくに一日は終わってしまっていたのだが。)
紅子はどうすればこの気持ちが晴れてくれるのか、しばし考えた。薄暗い車内で。
この怒りから目を逸らす方法。
大笑いがしたい。それとも、泣こうか? いや、それは自分らしくない。
紅子は頭のなかで自問自答する。
そして、ようやくある答えを見つけだした。紅子の口許が、思わずにやりとなる。
次の瞬間、紅子は勢いよく車のドアを開け閉め、派手な音を鳴らしながら、屋敷の扉に体当たりした。ギイギイいいながら、屋敷が少しだけ口をあける。そのわずかな隙間から、紅子は猫のような身のこなしで中へと滑り込む。そして、彼女は中央の階段を嵐のような騒がしさで駆け上がっていった。
屋敷の静寂がたちまち崩れた。発生した嵐は、もはや誰にも止めることなどできない。
紅子は二階にあがると、自分の部屋を素通りして、なぜか他の住人たちの部屋の前に立った。そして次に彼女は躊躇いもせず、その扉を順に激しく叩いていった。
ドンドンドンッ。ドンドンドンッ。叩きながら、紅子は声を張りあげた。
「みんなー、起きてー! 起きなさーい!」
紅子の怒鳴り声に、住人たちは何事かと、渋々顔を覗かせる。「どうしたの、紅子さん」と純粋に驚いている様子のイェーナと、「今度はまた何をしでかす気かな」と呆れた眼差しを向けている群青。
中には必死に目をこすりながら、紅子を見上げる者もいた。
あきは寝ていたのだろうな、と紅子は思った。だけど、明日もどうせ休みだし、夜更かししても問題なしね、とすぐに沸いて出た罪悪感を彼女は消した。
「あれ、あいつは? まだ寝てるの?」
紅子はもう一人、住人が姿を現さないことを訝しく思った。
「紫紺ならまだ帰っていないみたいだよ」
紅子が誰のことをいっているのか、気づいた群青が彼女に返す。
「はぁ? なにあのオッサン、まだ帰ってないの? なんて使えないヤツ」
「紅子さん、確かに紫紺はオッサンだけど、言い過ぎ」
すかさずイェーナが紅子を宥めた。
「そんなことより、この騒ぎはなに? 私もう寝ようと思ってたのに」
それからイェーナは欠伸をしながらいった。
「そう、だよ。ぼく、もう、寝て、いい?」
意識は半分飛んでいる状態のあきが、途切れとぎれの言葉を落とす。
住人たちはそろって紅子の言葉を待った。
紅子は住人たちの顔を一度見回すと、目を爛々と輝かせながら、とびきりの笑顔を浮かべた。そんな紅子に、一部の住人が嫌な予感を感じたのはいうまでもない。
深夜十二時と二分。紅子の軽やかな声が、屋敷全体を震わせる。
「今から怖い話しましょ!」
群青はため息を吐きたい気分だった。しかし、彼はなんとかそれを殺していた。ある人物にそのことを悟られてはまずいからだ。
屋敷の二階にある談話室には、住人たち――ひとりを除いて――が勢揃いしていた。この状況をつくった張本人である紅子と、紅子の指示に嫌な顔をせず付き合おうとしているイェーナ、気を抜けばすぐに夢のなかにいけるだろうあきに、しょうがなく紅子の戯言に付き合うことを決めた群青の四人である。
四人は談話室の中央にあるテーブルを囲み、ソファに腰をおろしていた。テーブルの上に置かれた一対の燭台が、四人の顔を不気味に照らしている。
群青に「電気を消して」と指示したのは紅子だった。怖い話をするからには、雰囲気だけでも彼女は楽しみたいらしい。その口ぶりから、紅子は怖い話自体にはあまり期待していないことが窺えた。彼女はなにかの憂さ晴らしがしたいのだろう、と群青はすぐに察した。
ともかく、群青は紅子にいわれたことを実行するため、他の住人たちが談話室を目指すなか、まずろうそくと燭台を取りに食堂へ向かった。怖い話をするなら、ろうそくの灯りがそれらしさを演出するだろうと彼は考えたからだ。まさか紅子も真っ暗闇のなかで怪談を披露するとは思っていないだろう。
群青が再び談話室にもどってくると、三人はふたり掛けのソファに並んで座っていた。紅子とイェーナの間に、眠そうな顔をしたあきがちょこんと身をちいさくしている。
はやくこれを終わらせて、あきを解放してやらないとな。
群青はあきを不憫に思い、急いで準備に取りかかった。彼は持ってきた燭台にろうそくを立て、火をつけると電気を消して、ひとり用のソファに腰を落ちつけた。
準備は整った。あとは紅子が適当に仕切ってくれるだろうと、群青はまたため息が出そうになるのを静かに呑み込んでその時を待った。
ぼんやりとした灯りに、部屋が揺らされている。鈍いオレンジ色の光が、四人の顔を撫でている。
あきはさらなる眠気に襲われた。いつ意識がなくなってもおかしくない。次第に、こくり、こくり、と頭が上下する。すると、彼は右隣にいるイェーナに脇腹をこづかれた。ハッとして、背筋を伸ばす。どうやらもう一人の彼女には、気づかれていないようだ。あきは重い目蓋を懸命に持ち上げて、こづかれた方とは反対側に目をやった。
すると、紅子があきの顔を見下ろしていた。まるで貴族の肖像画を見ているような、口の端を僅かにあげただけの微笑を紅子は浮かべている。
あきはその微笑を見た途端、ありありと目が冴えていくのを感じた。あきはちいさく、ふう、と息を吐くと――本当は、はぁ、と言いたかったができなかった――、もう一度ろうそくの灯りに視線を戻した。彼の眠気はもう当分は襲ってこないだろう。
イェーナはあきがなんとか眠気を克服してくれてよかった、と前のふたりとは違う意味で、安堵の息を吐いた。
今日のような紅子の戯言は、今に始まったわけではない。イェーナが屋敷に来てからというもの、三ヵ月に一回はその時に屋敷にいる全員を巻き込んで、みんなが紅子に振り回されるということは定番であった。
この紅子の振る舞いを、中には面倒だと思っている住人もいるだろう。しかし、イェーナは逆で、紅子の突発的な戯言は、ある種のイベントのように思え、悪い気はしなかった。むしろ、それを楽しみに感じているところがあった。この屋敷で楽しいことといったら、それくらいなものだ。しかし、実をいうとイェーナは、紅子のこの無茶ぶりに翻弄される群青や、今日は不在の紫紺のようすを見るのが楽しみなだけなのである。
談話室は完璧にそれらしく仕上がっていた。群青の持ってきたろうそくが、部屋に怪しい雰囲気をもたらしている。
刹那の静寂のなか、ようやく紅子が口を開いた。気味の悪い部屋の雰囲気とは対照的に、彼女の声は明るく、はしゃいだものだ。彼女が、「一人ずつ順番に自分の知ってる怖い話をして、四人が話おわったらお開きね」と説明している。イェーナは静かに頷いていた。そして、イェーナは順番は誰からになるだろうと考えた。しかし、彼女の疑問はすぐに解消される。紅子の弾んだ声が、最初の話し手を告げたからだ。
「じゃあ、トップバッターは群青ね! おもいっきり怖いのよろしく!」
群青がまさかという顔で目を見開かせるのを、イェーナは見逃さなかった。




