表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
モザイクロス  作者: アサオ
第三話 後悔ならしている
16/20

(5)

 談話室まで来た蓮斗は、素直に自分の後をついてきた翠に、いささか驚いていた。

 確かに断られてもいいと思って告げたわけだが、なぜあんな提案をしてしまったのか、蓮斗は自分でもよくわかっていなかった。兄について必死な彼女に、すこし同情したからかもしれない。

 蓮斗は翠にソファに座るよう促すと、彼女はそれにあっさりと従った。

 翠が座ったのと反対側に蓮斗も腰を下ろし、ケーキの皿をテーブルの上に置く。

 皿にかけられていた透明のフィルムを取り払うと、さらに一段と紅茶の良い香りがふんわりと漂ってきて、蓮斗の心は安らいだ。

 添えられていたフォークで器用にケーキを半分に分け、そのフォークを翠に渡す。

「はい」

 おずおずと受け取った翠は、「あなたの分は?」と怪訝そうな顔をしている。蓮斗は、「オレはこれでいーよ」と笑って、ケーキのもう半分を手でつまんだ。

「でもまさか翠ちゃんから貰えるなんて思ってもみなかったなー」

 蓮斗が大口をあけて、ふわふわの食感を存分に味わう。ひと噛みするたびに紅茶の風味が口いっぱいに広がり、ほどよい甘さに、蓮斗の舌は喜びの声をあげた。

 うまい。蓮斗はそれだけでうっかり泣いてしまいそうな気分になる。

 その蓮斗の様子を、翠は最初は呆気にとられて見ていたのだが、彼の食べっぷりに、気づくと自身もつられてしまい、彼女もひとくち、紅茶のシフォンを口に運んでいた。翠の表情が、自然と柔らかいものになる。そして、同時に彼女は驚いてもいた。

 夕食の席でも同じものを食べた──もちろん、おいしかった──というのに、その時よりも格段においしいと感じるのだ。──おいしい。本当に、おいしい。

 ふたりは今や、シフォンケーキの虜である。そして食べることに夢中になったお陰か、ふたりの間にあった余所余所しさも、徐々に消えようとしていた。その証拠に、食べ終えたあとのふたりは、どちらからともなく会話を弾ませた。

 話題は主に、屋敷の料理人が作る、料理のおいしさについてである。

「ほんとさー、紫紺さん何作らせてもうまいんだよな。和食に、洋食に、中華だろ? イタリアンだってハズレないし。今日の竜田揚げもハンバーグも最高だったよな〜。あとだし巻き玉子! 食ったことある? まじで紫紺さんのだし巻きは一番だぜ。外で食べるのもいーんだけど、やっぱあの人の料理が一番ウマイって思うね」

「本当においしいですよね! 私、あれ好きです。紫紺さんの作るクロワッサン! 紫紺さん、パンも手作りしちゃうんですね。今まで食べたなかであれが一番おいしかったなぁ。ここに来てから食事するのがいつも楽しみなんです、私。だし巻き玉子も絶対おいしいんだろうなぁ。今度リクエストしてみます! なんかそんなこと考えてたらまたお腹へってきちゃいますね」

 翠はお腹を押さえながら、照れたように笑う。

 蓮斗も同じように喉がきゅうと締まり、隙間ができつつある自身の腹を思わず撫でていた。

 その動作を互いに見合って、ふたりはまた大笑いする。

 蓮斗は足を抱えこみ、ソファに寝転ぶような姿勢になって、激しく肩を揺らしている。

 翠も涙目になりながら、いっそう手でつよくお腹を押さえている。翠のほうは途中で何度も笑いをこらえようとしたのだが、それをすればするほど、腹の底から笑いが無限に生まれてくるようで、お腹が痛みを訴えるくらいだった。

 ふと、彼女はこんなに笑ったのはいつ以来だろうと、しみじみ思った。蓮斗は今も顔をくしゃくしゃにして、過呼吸にでもなるんじゃないかというぐらいに、その笑いがおさまる気配はない。

 翠はその様を見て、再び自身に笑いの波が来ることをはっきりと自覚していた。

 人の顔を見ているだけで、こんなにつられて笑ってしまうなんてことは、彼女にとって初めてのことだった。



「翠ちゃんさ、ここに来てどれくらい経った?」

 ようやく互いの笑いがおさまった後、蓮斗は談話室に備え付けられてある小型の冷蔵庫から、ミネラルウォーターとグラスをひとつ取り出し、彼女に訊いた。

 年季の入ったアンティーク家具で統一された談話室の一角には、いかにも現代的と言わんばかりの、最新の冷蔵庫が置かれてある。その一角を見ると、この部屋のインテリアとしては明らかに浮いていて、完全に内装の統一感を破壊していた。しかし、この屋敷では、生活の便利性をとるためにあえて、西欧風の厳かな内観を壊してしまっている部分が多々みられる。例えば、洗濯室がその筆頭である。外から見ると、立派なサンルームが併設されていて、これぞ洋館、という主張を強く発しているのだが、中を覗けば、フローリングの床にドラム式洗濯機が三台並んで、現代的な家の様式とそう変わらないのである。

 そうしたギャップに、蓮斗も最初は驚かされたものだ。それはさながら天守閣の中に、エレベーターが設置されているのを初めて見たときの衝撃と似ていた。

 ちなみにこういうものを進んで用意するのが、住人の一人である御影紅子である。蓮斗ならびに住人の誰もが、逆らえるはずもない相手だ。

 蓮斗はグラスにミネラルウォーターを注ぐと、それを翠に渡した。「ありがとう」と受け取る翠は、次に「二ヶ月くらいですね」と続ける。

「どう、もう慣れた?」

「どうだろう。でも思ったより快適に過ごせてますよ」

「だろうなー。めっちゃ馴染んでるもん」

 蓮斗は微笑んでから、ペットボトルをぐいっと傾ける。

 翠も同じように、グラスに口をつけて、喉を潤した。

 暫しの静寂が、ふたりの間をさ迷うように訪れた。

 この時間も蓮斗はさほど苦ではなかったが、沈黙の支配がこれ以上おおきくなることは避けたかったため、彼は早めに話を切り出すことにした。翠とこんな風に話すチャンスも、滅多にないのだから。

「あのさ、ちょっと昔話するけど聞いてくれる?」

 翠が一度、不思議そうに瞬きをして、それからゆっくりと頷いた。

 肯定してもらえたことで、ひと安心した蓮斗は、一度細く息を吐き出してから、意を決して語りはじめる。

「オレが来た時はさ。なんつーか、旅行で来た宿に泊まってる感覚だったんだよな。だからいつまでたっても余所もんて感じ? 最初のうちは新鮮で居心地いーんだけど、だんだんどっか寛げなくてさ。他人と住んでるってことに慣れてなかったのもあるけど、ストレス溜まって、家賃に惹かれてここに決めたけど、やっぱ失敗したかもって」

 翠は人形のように、黙って蓮斗の話に耳を傾けている。

 彼女が真剣に自分の話を聞いているのだとわかると、蓮斗の心臓は急に活動を忙しくした。蓮斗はなるべく普段通りの声になるように努めて、続きを言う。

「でもまた新しい部屋探すのもかったるいし、そのうち慣れるだろって自分騙してたんだけど、意外とオレ繊細だったみたい」

 なるべく涼しい顔で対峙していたかった蓮斗だが、耐えきれず、顔が苦々しい口元を作ってしまう。まだまだ幼かったかつての自分が思い出され、情けない気持ちと自己嫌悪が蘇ってくる。

「ここで暮らすようになって半年くらい経った頃かな。いきなり朝起きれなくなったんだよ」

 翠が静かに息を吸い込んだのがわかった。

 蓮斗はとっさに目を逸らして、手にあるミネラルウォーターを意味もなく持ち直した。

 彼女の視線は、蓮斗が続きを語るのをまっすぐに見つめている。

「身体がどうしようもなく重くって、ベッドから這い出るのに何時間もかけて身体引きずって、なんとか部屋のトビラを開けるのに成功したんだ。でもその後また気を失って、気づいたら病院のベッドの上。笑うだろ?」

 蓮斗の気持ちを汲み取ってか、翠の口元がわずかに緩められた。彼女のグラスはいつのまにかテーブルの上に場所を移している。

 彼はまた話を再開した。

「オレ自分がこんなに弱いなんて思ってなかったから、驚いたなぁ。結局この環境に馴染めないストレスでそうなったっぽいんだけど、あの時期あんま寝れてなかったし。でさ、その後からここのみんながオレのこと気にかけてくれたりしたんだよな、実は」

「その時にここに居た人って」

「紅子さんだろー。で、紫紺さんに、あきもいたなぁ」

「兄さんは?」

「群青さんはオレが留学するちょっと前だから、この時はまだいなかったな」

「そう──、それで、今はもう平気になったんですか?」

 その言葉に、蓮斗は自信をもって、笑って答えることができた。

「結局さ、オレがこの場所も、人も、信用してなかったからああなったんだよな。ここの人たちに頼ってもいいんだと思ったら、ちょっと軽くなった。それからオレからも関わるようにしたんだ。で、こんな話聞かせて何が言いたかったかってーと、翠ちゃんも兄貴だけじゃなく、ここのみんなに頼っていいってこと!」

 翠の顔の筋肉が、にわかに動きを止めたように表情を作るのをやめてしまう。

「家族みたいに、ってそこまで打ち解けろっていうんじゃないけどさ。案外ここの連中、頼られることキライじゃない人間が多いみたいだから。翠ちゃんみたいな子はきっと、もっとそうしたほうがいーよ」

 蓮斗の言葉が翠の心にどれだけの影響を与えられたのか、彼に推し量ることは難しかった。

 しかし、翠の表情こそ乏しかったが、無言で頷きかえした彼女を見て、蓮斗はたちまち心を安堵させた。途中から説教じみたことを告げている自覚は多分にあったが、ずっと言いたいと思っていたことを口に出せて、蓮斗は胸がスッとする思いだ。けれど、その反面、普段と慣れないことをして、偉そうにお節介を焼いたことが、今になって恥ずかしくも思う。

 蓮斗の心臓がどくどくと早鐘を鳴らしている。それが翠に聞こえやしないかと、ひやひやした。

 彼は思わず手で顔を覆った。

「や、ごめん。何様って思うよな」

 沈黙を作りたくない蓮斗は、苦しまぎれに言葉を絞り出す。

 翠は今どんな顔をしているだろうか。オレのこんな様をどう解釈しているだろう。

 蓮斗はとても気になったが、自分からそれを確かめる余裕は、まだ持てなかった。

 どこかで、ホッホウと囁く声が聞こえてきた。この季節によく耳にする、フクロウの一種である、アオバズクの声だ。

「この鳴き声、前にも聞いたな」

「え?」

 ふと、翠が独り言のように呟いた。

 その時に蓮斗はようやく、彼女の顔を真正面から見ることができた。

 翠はまっくらな窓の外を穏やかな表情で見つめていた。こういう時、彼女はとても老成した人にみえる。

「私も病院のベットの上で、いきなり目を覚ましたことがあるから。目覚めてから、ある期間の記憶がないことがわかって、とても心もとなくて、でもどうすることもできなかった。病院で一人過ごす夜が長くて、はやくここから抜け出したいのに、私には行く場所もわからなくて、なかなか寝られなかった。そんな夜に、よくこの声を聞いたの。昔、田舎の祖父母の家に遊びに行ったときに聞こえた声は、なんだか不気味で怖かったのに、入院中に聞いた声はむしろ、優しかったな」

 翠の声がどこか遠いところで響いているように感じる。

 蓮斗は翠の過去を思いがけず聞けたことに驚き、そして戸惑いを覚えていた。彼女の境遇はなんとなく人から伝え聞いていたが、本人の口から直接語られたものではなかったし、これからもそんな機会はないものだと、蓮斗は思っていたからだ。翠には群青がいるから、彼女の過去に触れることは、なんとなく彼からの許しが必要不可欠なように思われて、憚られたというのもある。

 このきょうだいに初めて会った日から、蓮斗のなかに芽生えた彼らに対する違和感は、日に日に膨れつつあった。彼らと接するたびに、蓮斗はいつも強烈に痛感した。どこがどうおかしいのか指摘しろと言われれば蓮斗にもそれはわからないのだが、ただふたりがきょうだいであるとは、どうしても思えないのだ。

 翠は変わらず、何を考えているのかわからない無表情で、外の暗やみをじっと眺めている。

 ふたりの静寂をかき消すように、アオバズクがまた二声、鳴いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ