(4)
「明日は全国各地で気温が上昇し、猛暑となるでしょう──」
ラジオのアナウンサーが淡々と伝える天気予報をBGMにしながら、蓮斗は昼食用にとくすねてきたマフィンとコーヒーをちびちび飲み、一息ついていた。
彼は今朝はやくから談話室の机を独占すると、屋敷の書庫から引っ張り出してきた書物のたぐいを片っ端から読みこむ作業に徹している。そのため机の上は、山積みにされた文献やプリントアウトされた論文などで埋め尽くされた状態だ。ちなみにこれらは彼の課題となっている、レポート作成のための史料である。その傍らにはノートパソコンが今かと出番を待ちわびており、昼飯を食べ終えたら彼はそれに文字を打ち込んでいくつもりをしていた。
残りひと口となったマフィンのかけらを、蓮斗はコーヒーと共にいっきに流し込む。その勢いのまま、彼の指は素早くキーボードの上へと乗せられた。
真っ白な画面に一文字目のアルファベットが忽然と姿をあらわす。と、その時だった。
突如、ゴォーン、という耳障りな音が、蓮斗の耳をおおきく震わせた。蓮斗にはそれが長い地鳴りのように聞こえたし、あるいは、大晦日に聞く除夜の鐘のようにも思えた。蓮斗のうちなる煩悩が、ひとつ、ふたつと、取り除かれていく。そんなイメージが思いおこされる。
だから彼はすぐには結びつかなかったのだ。それがこの屋敷のチャイムの音であると。
鐘は依然、屋敷中を駆け巡っている。
蓮斗はしかたなく立ち上がると、「おーい、誰かいねぇのー?」と、階下に向かって声を上げた。けれど、その声に応えてくれる者は誰も現れない。
蓮斗は諦めると、足早に階段を降りていく。相変わらず屋敷内はひっそりとしていたが、鐘の名残だけが蓮斗の耳を今もうるさく木霊させていた。
玄関ホールに着き、重苦しい扉に手をかける。すぐさまむわっとした空気が彼の肌にまとわりつく。
やっぱ居留守使えばよかったな。
今の自分の行動を、蓮斗は早くも後悔した。しかし、応対してしまったのだから仕方ない。蓮斗が「どちら様?」と目を細めて訊くと、その相手はよく通る声で、ある人物の名を口にした。
「こちらに三崎群青はおりますか?」
予想外の問いかけだったので、蓮斗の対応は一瞬遅れた。おおかた屋敷の住人である紅子の知り合いか、配達業者だろうと思っていたからだ。今までこの屋敷に、住人の知り合いがやって来たことはほとんどない。紅子の取り巻きである男たちを除いて、住人たちは誰が決めたわけでもなく、この場所に他人を連れてくることは、みんな消極的だったからだ。その筆頭だと思っていた群青の知り合いが訪れてくるなんて、蓮斗はとても意外に思った。
ようやく外の光に目が慣れてきて、蓮斗は訪問者の顔をじっくりと観察することができた。
人懐こそうな顔立ちで、蓮斗よりはすこし歳が上に見える、それでも年齢不詳は否めない、都会育ちを思わせる男だった。パリッとしたスーツを着ているのでビジネスマンだろうと思うのだが、就職活動中の若者と言われても不思議はない。それとひとつ不可解なことに、蓮斗は彼とは全くの初対面であるはずなのに、なぜかこの訪問者に既視感を覚えずにはいられなかった。
確実に初めて会う人間だ。もう一度しっかりと顔を眺めて、蓮斗はその認識を強固にした。
蓮斗の記憶力は良いほうである。顔や名前を覚えることも早いほうだ。
それなのになぜ、初対面の男に対してこうして初めて会った気がしないのか。
この時の蓮斗はその違和感を不審に思えど、それを追求するほどの関心までは薄かった。だから、蓮斗はこの訪問者にとやかく疑問を持つことはすぐにやめた。そんなことよりも早く戻って書きかけのレポートを終わらせてしまいたかった、というのが彼の本音である。
「群青さんなら留守みたいだけど。用があるなら伝えておきましょうか?」
ようやく口を開いた蓮斗の言葉に、訪問者は一度真顔になった。一瞬で顔の表情を落としてしまったのかと思えるほど、終始口元に笑みを浮かべていたのが、すうっと冷たさを帯びていくのがわかる。その表情の変化になんとも言えない気味の悪さを感じて、蓮斗は直感的に、関わりたくない、と感じた。
いまだ訪問者が黙ったままでいるので、蓮斗がもう一度問いかけようとした時だ。
それより早く訪問者の口が動いて、とても感じの良い声が、蓮斗の前に静かに落ちてきた。男の顔は再び微笑みを貼りつけるのに成功していた。
「では、彼に雨柳が来たとお伝えください。それで彼なら分かると思いますので」
「はぁ、アメギさんですね」
「ええ、ではよろしくお願いします」
突然失礼しました、と頭を下げると、訪問者はそそくさと去って行く。
蓮斗は今ひとつ妙な気分で、彼の後ろ姿を最後まで見送った。
結局、既視感の原因は蓮斗の頭の片隅にくすぶったままで、思い出すことはなかった。
その夜、夕飯の席で一緒になった群青に、さっそく訪問者が来たことを蓮斗は伝えた。
「本当に雨柳と言ったの?」
「はい、それだけ言えば分かるって言ってましたけど、どういう知り合いなんですか?」
醤油タレが十分にしみ込んだ竜田揚げを頬張りながら、蓮斗が普段より狼狽えた様子をみせた群青にむかって問いかける。
「兄さん?」
群青のとなりで、翠が不思議そうな眼差しを捧げている。
その視線に気づいた群青は、すぐに表情を穏やかにした。
翠を安心させるみたいに、いつもの涼しげな顔をした青年へと戻っていく。
彼の整った顔が、もう一度蓮斗の目を熱心に見つめた。
「蓮斗、彼が言ったのは本当にそれだけなんだね? 他には何もなかったんだね?」
「ほんとにそれだけっすよ。どうしたんすか、いつもの群青さんらしくない」
蓮斗が指摘すると、群青は、あぁ、と小さく息を吐いた。
冷静さにおいては住人の中では群青が一番であるとの印象が強かったが、今の彼はどこか上の空で動揺を隠しきれてもいなかった。
この人も、立派に人間だったんだな。
蓮斗はひそかに驚きながら、つやつやとした白米を口に運んでいく。
蓮斗のイメージする群青は、何をするのもソツがなく、気配りができて、その上顔も良い、あらかじめプログラムされたロボットのように、欠点の見当たらない人だ。くわえて群青と会話するときは、感心するほど彼の感情の起伏がみられないので、この人が悲しんだり怒ったりする姿も、なかなか想像できないものがあった。それに蓮斗自身、群青のそんな姿を一生見ることはないと思っていたので、その衝撃はいくぶん大きかった。
謎の昂揚感に自分は支配されつつあると、彼の意識はたしかに認識していた。
しかし蓮斗の興味はそのすぐ後、別のものへとすり替えられていくことになる。
関心が長くつづかないのは、彼の長所でもあり短所のひとつだ。良くいえば、切り替えが早い。悪くいえば、飽きやすい。
そのため、蓮斗の群青にたいする分析と謎の訪問者への追求は、容易く打ち切られることになった。彼がそれともう一度向き合うことは、余程のことでなければ、思い出すのも難しいだろう。
群青がこの時何を思い、訪問者の報告を伝えた蓮斗、あるいは、心配な目を向けている妹の翠をみていたのか、永遠に誰も知ることはないのだ。
ちなみに次に蓮斗が興味を向けたものだが、屋敷の料理人によって運ばれてきた、肉のかたまりにである。
蓮斗の食へのこだわりは本来皆無に等しいのだが、屋敷で食事をとるようになってからは、ここでの食事が唯一何度も食べたいと思えるものになっていた。端的に言えば、蓮斗は屋敷の料理番が作る料理のファンなのである。よそでは美味いも不味いも、腹に入れられればそれでいいと考える蓮斗だが、屋敷の料理人が腕を奮ったものに対しては、並々ならぬ愛情を持って、彼はそれを食すことができた。
先ほどまで山盛りにつまれていた竜田揚げをいくつも腹のなかに放り込んだというのに、香ばしいデミグラスソースがかけられた熱々のハンバーグを見れば、蓮斗の胃袋は速やかに隙間をつくり始める。じゅうじゅうと音が鳴る鉄板にどっかりと鎮座するハンバーグに、彼は早速慎重にナイフを入れていく。たちまち肉の旨みが溢れだし、それを一滴でも流すまいと、蓮斗はすばやくそれを口の中へとお迎えした。肉の味とソースの味を交互に堪能し、蓮斗は心底幸福感で満たされていく。
「紫紺さん!! これもさいっこうにうまいっす!!」
厨房へ消えていった料理人に、最大限の賛辞を送る。
奥から「そりゃ良かったよ」と気の抜けた返事が聞こえてきて、蓮斗はさらに叫んだ。
「オレ、紫紺さんとならまじで結婚できますよ! 毎日この料理食べられるんだからな〜!」
そして蓮斗はもうひとくち、大きな口を開けて、ハンバーグを胃袋に納める。
蓮斗のほっぺはずいぶん前に落ちきってしまい、もはや拾えそうもないくらいである。
弛緩しきった顔でいると、奥から紫紺が嫌そうな顔で「俺はごめんだけどな」と再び姿を現した。
蓮斗のご機嫌は最高潮になり、料理人、もとい糺紫紺への賛辞を惜しみなくした。
「いや〜、まじで真剣に考えてみないっすか? オレ紫紺さんの料理以外考えられないっすよ」
「お前がここを出るまではいいけどな。いつまでもしょーもないことほざいてないで、食べることに集中しろ」
「かぁ〜、つれないな〜。紫紺さんが一生独り身でありますように。この料理が決して、誰かひとりに独占されることがありませんように」
「勝手なこと願ってんじゃねーよ。女の子がこの俺をほっとくわけねーだろ」
「いや、紫紺さんて実のところ押しに弱いじゃないすか。オレ、いつか騙されないかって心配してんですよ」
「余計なお世話だよ」
「それか本気になった人には自分から逃げそうだしさ〜。紫紺さんって見るからに不憫キャラなんですよね。オレはこれでも紫紺さんの幸せを心から願ってるんですよ。だからオレにしません? 毎日メシ食わしてくださいよ〜」
「実際毎日食ってんだろうが、おまえは。これ以上ぐだぐだ言ってっと、今日の食器洗い手伝わせるぞ」
「も〜、素直じゃないな〜。そんなにふたりきりになりたいならはやくそう言ってくださいよ〜。今晩部屋行きます」
「調子にのんな! お前の食後のデザートはナシだナシ!」
「え? 梨ですか? オレ梨だいすきっす!」
「バッカ。な、し、だよ! お預けだ」
「え、そ、それだけは!! もう何も言わないすから! オレが毎日どれだけ楽しみにしてると思ってるんすかー!」
「やかましいっ。す〜いちゃん! そろそろ食後のデザートでも食べない?」
結局あの後、紫紺に食器洗いを強制され、デザートも取り上げられた蓮斗は、悲壮な面持ちで自室へ引っ込む羽目になった。調子の良い蓮斗自身が招いた結果であるのだが、一度調子づくとなかなかそれを自分で止められないのも、彼の性分である。
うまそうだったな、あのシフォンケーキ……。
翠に振る舞われていた紅茶のシフォンケーキを思い出し、食べられなかった悔しさでまた悲しくなってくる。
蓮斗が己の性格を呪うのはこれで何度目だろうか。
そのままベッドに横になると、蓮斗はおおきなため息をついた。
食べたかったな、ケーキ……。
無念の思いでこのまま意識を手放そうとした時、控えめなノック音が蓮斗の睡眠を阻止した。「だれ」と訊くと、意外な人物からの返事が返ってくる。
「あの、ごめんなさい、翠です。少しいいですか?」
声に蓮斗は飛び上がると、急いで自室の扉を開けた。
「どうしたの?」
その時の蓮斗の頭上には、いくつもの疑問符が浮かんでいたのにちがいない。
それくらい蓮斗と彼女の交流は、蓮斗が彼女に不審者呼ばわりされたあの日を最後に途絶えていた。つまり初対面から今まで、ふたりは直接やり取りする機会なく過ごしてきたのだった。
おとなしく、兄の群青を絶対とする、素朴な少女。
蓮斗の彼女に対する印象は、専らそんなところだ。
大勢の仲間と一緒にいるよりは、ひとりでいたいと願うタイプの人間だろう。いっけん影がうすいと評価されるかもしれないが、彼女はむしろ大勢のなかでは浮いてしまいそうな雰囲気を持っていた。彼女がひとりでいるとき、その落ち着き方はとても高校生とは思えぬほど、大人びた空気をまとうのだ。しかしそれが時に、内気や引っ込み思案といった弱々しい印象に見えてしまうのも、現に多々みられることだった。彼女は不安定で、それが魅力のひとつといっていいかもしれない。その不安定さは、恐らく過去の記憶がないことにも、起因しているのだろう。
目の前にいる少女に、蓮斗は怪訝さを隠しきれずも、彼女からのアクションがあるのをじっと待った。
「あの、これ良かったら」
少女がおずおずと差し出すのは、蓮斗が先ほどまで渇望してやまないものだった。
「これ、くれるの?」
訳がわからないまま、少女が頷くのを認めると、蓮斗はもう一度念を押されるようにして突き出された皿を自身の手に吸い寄せた。
甘いにおいが、瞬く間に、蓮斗の鼻腔を幸せにする。思わず顔がにやけるのを、蓮斗は止められなかった。そして、気づくと蓮斗は皿を持ったまま、少女の肩を思いきり抱きしめていた。
「ありがと翠ちゃん! めちゃめちゃうれしいよ!」
「ちょっと、離してください!」
翠に激しく抵抗され、蓮斗はすぐに正気に戻る。危うく皿を落としそうになり、それだけは死守しなければと、彼女から身を引いた。
途端にばつが悪くなって、翠に平謝りする。
「ごめんごめん。ケーキもらえたのうれしくて感動してさ。ほんとありがとう、翠ちゃん」
蓮斗が落ち着いたので、翠はほっとしたようだった。しかし、翠の用事はただ蓮斗にケーキを渡すことだけではなかったらしい。彼女は未だ蓮斗の部屋の前から立ち去ろうとせず、なぜか口ごもった様子で蓮斗に訴えを再開したのだ。
「いえ、それは良かったんですけど、あの」
そのあとの言葉をなかなか続けない彼女に、蓮斗の疑問は増すばかりだ。
なぜそんなに用件を焦らすのか。オレにケーキを届ける以外の用件ってなんだ?
彼女との接点は皆無なのに、彼女の願いを推測するなんて、今の蓮斗にはとうてい無理な相談だった。
とうとう翠は下を向き、蓮斗も彼女の言葉を待っているのがいよいよ難しくなってくる。
蓮斗がこのままでは埒があかないと、群青を呼びに行こう、と彼女に声をかけた時、その名前にいち早く反応した翠がようやく本題を口にした。
「あの、教えてほしいことがあるんです。今日来たっていう、兄さんの知り合いの人」
「え?」
「どんな人だったんですか? 兄さんにどんな用事で」
「ストップストップ──! オレはただ応対しただけだから。さっきもキミのお兄さんに言ったけど、オレは何もわからないし、あれ以上のことを聞かれてもムリ」
矢継ぎ早な質問にまた襲われると感じた蓮斗は、つい荒い口調になって返してしまった。しかし、その後でやはり彼は後悔する。
翠の顔がみるみるうちに沈んでいくのがわかったからだ。蓮斗はまるで自分が悪者にでもなったような気分で、居心地が悪くなる。
思いがけずケーキが手に入って喜んだのもつかの間。蓮斗の心は天国と地獄の両方を体験した。
気まずい沈黙が流れるなか、そのうち俯いていた翠がそれを断ち切るようにちいさな声で、「ごめんなさい」と呟いた。そして蓮斗に背を向け、「おやすみなさい」の声を残して行こうとする。
その瞬間、蓮斗は少女の肩をとっさにつかみ、彼女を引き止めていた。少女の面食らった顔が、蓮斗の瞳に映る。
さっきよりもこっちの顔でいてくれた方が断然いい。
蓮斗はひとり納得して、次には彼女にこう提案していた。
「良かったらちょっと話さない? 一緒にケーキ食べよう」




