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モザイクロス  作者: アサオ
第三話 後悔ならしている
14/20

(3)

 面白い文章を読むと、自分が心底つまらない人間だということを突きつけられた気分になる。

 良いものを読んで心は充実してるのに、読後はいつもやるせない。

 あの作者不詳の短編集に初めて触れた時も、蓮斗はそんな風な気持ちになった。

 特に蓮斗の心をつよく掴んだのが、10番目の「回顧録」という話だ。

 快適なバスの揺れに身を任せながら、蓮斗は手に、あの短編集を広げていた。内容はもうすっかり頭の中にあるのに、暇さえあれば彼は「回顧録」を読み返してしまう。

 バスはとっくに市街地を抜け、鬱蒼とした山道を走っている。かつてはただの山だったところを人の力で切り崩してこの道ができたのかと思うと、蓮斗は人間の行動力の偉大さにいつも感嘆する。

 上空をすっぽりと木々に覆われた中を走るバスは、やがてカーブが何度も続く峠道にさしかかっていた。

 蓮斗は本を読むのをやめ、リュックの奥にそれをしまった。

 窓の外に広がる自然に目をとめると、蓮斗の意識はだんだん深い思考の波にのまれていく。

 この世で自分以外に大切だと思える人なんて、これから現れるだろうか。

 頭の中に浮かぶ疑問が、ひそかに蓮斗を追いつめる。

 今も自分のことで精一杯なのに、他人に興味を持って、それから好きになって付き合って、その人とずっと一緒にいたいと思える未来があるなんて、この先信じられるだろうか。恋愛が人生の全てではないとわかっているけれど、他人に好かれない、好かれようともしない自分は、なんて魅力の無い人間だろう。

 これからもずっと、そんな風にしか思えずに、生きていかなければならないことが、蓮斗はすこし疎ましかった。

 物語のなかでは、あの話の主人公のように簡単に大切な人が見つかってしまう。

 そんな風に自分もなれるとは、蓮斗は到底思うことができない。成人を迎えた今となってはもう、そんな夢をみるのもイタいだけだ。

 バスはそろそろ峠を越えようかというところだった。

 蓮斗は降車ベルを鳴らしてリュックを手にすると、バスの前の方まで移動した。ほどなくして、バスがゆっくりと停車する。

 蓮斗が降りると、バスはすっかり無人となる。このバスはそもそもの利用者が少ないのだ。なんならあの屋敷に住む人間のためだけに運行しているといっていい。蓮斗はそのことにうすうす勘づいていたが、なぜ利用者の少ないこの路線が廃止されないままでいるのか、その理由まではわからなかった。

 無人のバスを見送ってから、蓮斗は目の前の道路を車が来ないことを確認して横切っていく。来た道を少し下ると、左手にぽっかりと脇道がみえてくる。車がようやく一台走れるくらいの、狭い山道だ。彼はその道に臆することなく飛びこんでゆく。

 薄暗い山道に落とされる木漏れ日を見つめながら歩く蓮斗は、だんだん自分は胸をワクワクさせていることに気づいた。先ほどの憂鬱さは、とっくに彼の中から消え去っている。

 今の彼の心にあるのは、ただ、またあのどでかい屋敷に住めることを喜ぶ気持ちでいっぱいだ。

 屋敷はもう、蓮斗の目と鼻の先にある。



「変わんねぇなあ、ここは」

 目の前にみえてきた屋敷を見上げて、蓮斗は素直に感心する。

 屋敷は彼が初めて来た時と同じように、やけに緊張感のただよう、近寄りがたいオーラを放っていた。古びた外観は、かつての遺物のようにそこに存在しているだけなのに、訪れた者を萎縮させてしまうくらいの迫力をまざまざと見せつける。

「幽霊屋敷なんていわれるのも納得だよなぁ」

 蓮斗は夜中に帰ってきた時の、屋敷のおどろおどろしさを思い出した。

 日が落ちると電灯も何もないあの細道は、携帯電話のライトで足元を照らして進まなければ、辺りはまったくの闇にのまれてしまう。しかもその細道をびくびくしながら抜けたと思えば、出迎えられるのは、亡霊が住み着いているとでもいうようなこの廃れた屋敷なのである。酒で火照っていた身体なんて、いっぺんに冷えきってしまう。実際に蓮斗もそういう経験を何度かしてきたのだった。

 しかし、蓮斗はそんな威厳ある屋敷が、どこか以前と雰囲気を変えたような気がしてならなかった。その威圧さは失われていないが、ほんのすこし柔らかさが備わったような。

 蓮斗は気のせいかと思ったが、ふと屋敷から目線を下げると、彼の目は屋敷の手前のほうでその動きを止めた。

 彼が以前住んでいた時には見られなかったものが、そこにあったのである。いや、実際には蓮斗も目にしていたのだが、手入れのされていない花壇はあちこちに草が伸び放題で、地面に敷き詰められたタイルも割れてお粗末な有り様だったし、せいぜい庭と呼べる原型を保っていられたのは花壇を囲むようにして四角く整えられた低木が残っていたからで、要は何年も手を加えられたようすのない、可哀想な庭があったのである。

 それが、今は違った。かつての荒廃ぶりが嘘のように、きちんと手入れの行き届いた、美しい庭ができている。

 蓮斗は目を丸くして、その小さな庭に近寄っていった。

 庭の入り口に立つと、まず目に入ってくるのは一脚の翡翠色をしたガラス製のイスと丸テーブルである。こんなものが以前にもここに置かれていたのか、蓮斗の記憶には全く残されていない。次に彼が目にしたのは、低木に沿って半円を描くように配置された、レンガの花壇である。その花壇には、色とりどりの花たちが可憐に咲きほこっていた。

 中央に、白と紫のサルビアが植えられ、その周りには、ニワトリのトサカに似た赤い花のケイトウが敷き詰められている。花壇の両端には白いゴブレット型の鉢が立てられ、そこには夏の代名詞であるヒマワリが、太陽に顔を向けている。ヒマワリといえば、人の背の高さまであるものを想像してしまいがちだが、ここに植えられているのは、せいぜい三十センチほどの小ぶりなものだった。

 蓮斗はたちまち感心した。前までは見ていられないほど滑稽な庭だったのに、見違えるほどである。

 彼はしばらくの間、この小さな庭に意識を奪われていた。花を見ていて、こんなに気分が安らいだことはない。なぜだかこの色彩が、蓮斗の目に焼きついて離れなかった。ずっとこの景色だけを眺めて過ごしていられたら、オレは幸せになれるだろうな。

 蓮斗が庭に見とれたままでいると、彼の背後で砂利が鳴るのが聞こえた。ハッとして振り向くと、そこには一人の少女が立っている。

 素朴な雰囲気を感じさせる少女だ、と蓮斗は思った。

 蓮斗がよく見る大学の女たちは、まるで誰かが大量生産したみたいな、ほとんどが濃いアイラインを引いて、誰かと競いあっているみたいに長いつけまつげをつけ、白い顔の真っ赤な唇に、髪を明るく染めあげている。

 化粧を覚えたら、女はこんなにも変わるのか。

 中高校生の頃、同じ教室で過ごしていた女の子たちを思い出すと、蓮斗は不思議な気持ちがした。あの頃は男も女もそんなに変わらないものだと思えていたからだ。

 髪が短いか長いか、ズボンなのかスカートを履いているのか。スポーツ万能で男より勇ましいと思える女の子はたくさんいたし、家庭的なことが得意な男だってたくさんいた。しかし、たった数ヶ月の間に、女の子たちだけがすっかり変わっていってしまったのである。

 蓮斗は大学に入ってから、その差に愕然としたことをよく覚えている。

 男たちは今までと見知ったような顔のやつばかりなのに、女の子たちに限っては、蓮斗の知る彼女たちの面影がどこにも見当たらなかった。今まで同じ世界に彼女たちと共存していたことが信じられないくらい、同世代の女の子たちはみな、女という生き物になってしまっていた。かつて隣の席にいた彼女たちも、今では立派に女をしているのだろうか。

 目の前に現れた少女は、蓮斗がかつて出会ってきたことのある、まさに彼の女の子というイメージをそのまま体現したような子だった。

 飾りげがなく、化粧をしなくても誰にも責められないでいられたろう、あの頃の女の子たち。どこかほっとさせられ、あどけなさと大人びた表情がくるくると入れかわる、そういう女の子たち。

 この少女からはそういった懐かしさがひしひしと感じられ、蓮斗の心は穏やかになった。しかし反対に、彼女の表情がだんだん険しいものになっていくのがわかると、蓮斗は感傷に浸ることをやめた。彼女からみれば、蓮斗は不審者以外の何者でもないだろう。

 蓮斗は急いで、彼女にかける言葉を探した。よく見ると、彼女の手にはゴム手袋とスコップの入った小さなバケツが提げられている。

 蓮斗は笑顔をつくると、彼女に優しく声をかけた。

「この庭、キミがやったの?」

 質問に、少女の目がわずかに見開かれる。ふたりは威嚇しあう猫のように、数秒間見つめあうこととなった。

 たっぷりの間が置かれたあとで、ようやく少女は頷きを返す。

 蓮斗は無視されなかったことに、ひとまずほっとし、それからもう一度庭のほうへ視線を移した。

「すごいね! びっくりした。前までここ、庭でもなんでもなかったのに。キミもここに住んでるの?」

 なるべく印象の良さそうな笑顔になっていますように、と祈りながら、蓮斗はまた問いかけた。しかし、今度こそ少女は無言のまま、蓮斗と目も合わさない。むしろちらちらと屋敷のほうを気にする素振りを見せはじめている。

 どうやら蓮斗はとっくに彼女から、不審者の烙印を押されてしまったようである。

 その証拠に彼女の足は、じわりじわりとこの場からの後退りを始めている。そして、蓮斗の隙をついた一瞬の間、彼女は屋敷のほうへと全力で駆け出していた。ある言葉を絶叫しながら。

「兄さ──っん!! 助けて! 庭に! 庭に不審者がいるの!!」

 蓮斗は間抜けにもその場でぽかんとした。その声が少女から発されたものだと、彼の脳はすぐに判断できなかったようだ。

 少女は軽い身のこなしで、もう屋敷のなかへ消えていく。それからになって、蓮斗はようやく状況をのみ込めた。

「ちがうっ、不審者じゃねぇよ!!」

 蓮斗も絶叫し、慌てて少女の後を追いかける。

 太陽の熱気が再び彼に猛威をふろうとしていた。引っ込んでいた汗が、彼の額に、鼻の下に、ぽつぽつと浮き上がってくる。

 蓮斗は気づくと呆気なく、我が家に足を踏み入れていた。

 屋敷の中はひんやりとしていて、静けさに満ちている。少女はどこに消えたのだろう。

 誤解を解かなければ、と蓮斗の心は焦る。しかし、蓮斗はこの広い屋敷のどこに彼女が消えたのか、見当もつかない。どこから探っていけばよいのやら、蓮斗がきょろきょろと辺りを見回していると、中央の階段から何者かが降りてくる気配がした。

 涼しい顔をした男が上品な笑みをまとい、蓮斗の顔を見下ろしている。

「不審者っていうから何事かと思ったけど、蓮斗じゃないか。おかえり。いつ戻ってきたの?」

 圧倒的な存在感に、蓮斗は一瞬硬直する。よく見るとその男のうしろには、先ほどの少女が隠れるようにして蓮斗の顔色を窺っていた。

 蓮斗は戸惑ったように、男のほうに言葉を返した。

「兄さんって、もしかして、群青さん?」

 つい調子っぱずれな声になる。

 蓮斗の問いに、群青は一瞬目を丸くしたが、すぐに何のことだか察したようだ。

「あぁ、彼女はそう、僕の妹。今年の春からここで暮らすようになったんだ。蓮斗は初めて会うね」

 そう言って、群青は後ろに潜んでいた少女を前へと促す。

 蓮斗の前に立たされた少女は、未だ抗議するような視線を向けて、兄を見上げている。彼女の口がずっと「不審者じゃないの?」と忙しなく動いているのが、蓮斗は心苦しかった。

「翠、いい加減失礼だろう。蓮斗もここの住人だよ」

「ほんとに? ほんとにそうなの?」

 今まで兄のほうだけに向けられっぱなしだった視線が、突然蓮斗をまっすぐに見た。

 翠と呼ばれた少女は、まだ訝しげに蓮斗を品定めしていたが、少しして、顔を真っ青にすると彼女は勢いよく彼にむかって頭を下げた。

「ごめんなさい! 私てっきり知らない人が迷いこんだのかと」

「あぁ、いいよ。すぐ名乗らなかったオレが悪いし」

 蓮斗は苦笑いして答える。彼女はまだすまなそうに顔の前で手を合わせていた。

 なんとなく気まずい空気に包まれる中、その空気を変えたのは群青だった。

「蓮斗もそう言ってるんだし、翠がいつまでもそんな顔だと、彼も困るよ」

 たしなめるような群青の声に、彼女が反応を示す。すると、暗かった彼女の表情が、みるみるうちに和らいだものに変わっていく。

 翠はもう一度だけ「ごめんなさい」と呟くと、それでこの件を終わらせたようだった。今では、彼女は兄と共にすっきりとした笑みを浮かべている。

 一方、翠の誤解が解けたことに心底安堵していた蓮斗だったが、それよりも目の前の二人がきょうだいであるという事実に、いささか衝撃を受けていた。

 兄の群青と妹の翠。似ているようで、似ていないふたり。

 兄のほうは男の蓮斗からみても美形の類いだが、妹のほうはどちらかといえば地味な顔立ちをしている。けれど、姿勢正しくまっすぐに立つ彼女の姿にはどこか品の良さを感じられ、群青も上品さを固めてできたような人物だったので、蓮斗の浮かんだ違和感はすぐに薄れていった。

 並んで立つふたりに、蓮斗は改めてあいさつし直した。

「群青さん、ただいま。また今日からよろしくお願いしまっす。翠ちゃんだっけ? さっきは驚かせてごめんね。オレもここに住んでたんだ。こないだまで留学してたからいなかったんだけど。オレ、赤来(あかぎ)蓮斗。これからよろしく」

 蓮斗は翠の前に右手を差し出した。一瞬の間の後、彼女もその手を取ると、ふたりはしっかりと握手する。

 その時、蓮斗は何か予感めいたものを直感した。

 オレはこの先、この子をどうしようもなく泣かせてしまう。心から救ってあげたいのに、彼女を救うことができるのはただ一人、彼女から絶大な信頼を寄せている、兄の群青だけなのだと。

 蓮斗はなぜこんなにも不確かな予感に胸を痛める必要があるのか、自分がわからなかった。しかし、彼女の瞳を見ていると、蓮斗はそう思わざるをえなかった。

 彼女から手を放したあとも、その動揺は続いていた。

 蓮斗がそんな気持ちでいることを知りもしないきょうだいは、蓮斗のあいさつを受けた後、今は並んで楽しくおしゃべりしながら、階段をのぼっていく。

 妹に何度も話を振られ、それに笑って返す兄。

 蓮斗にもきょうだいはいるが、自分たちの関係性とはまた異なるものをみているようだった。

 ふたりのうしろ姿に、蓮斗はそれ以上のものを見た気がして、すぐに首を横に振る。これから一緒に生活していくのに、そんな立ち入ったことを考えたくはない。

 そう思うのに、蓮斗はしばらくの間、あのきょうだいのうしろ姿が頭に焼きついて離れなかった。



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