(1)
駅前にあるチェーン店の牛丼屋で、赤来蓮斗は昼食をすませたところだった。
このあとの蓮斗に急ぐ用事は全くないのだが、彼の癖で盛大にかきこまれた牛丼は、五分もかからず彼の胃のなかへ姿を消していく。
ものを味わうということを、蓮斗は昔からしない。与えられたものはなんであれ食べるし、実際、本人も苦なく食べてしまえた。食べ物の好き嫌いのないことが、蓮斗の一番の長所である。だがそれは、単に彼が味覚バカだということを証明しているだけなのかもしれないが。
その証拠に、満腹感をいまひとつ感じられなかった蓮斗は、備えつけられていた紅生姜のつぼに目をつけると、すぐさまそれを口の中へと放りこんでゆく。ひとたび咀嚼すれば、たちまち甘辛さで舌がしびれてくるだろうに、彼は渋い顔のひとつもみせない。やがて、つぼの中にこんもりと盛られていた紅生姜は、その半分以上を牛丼同様に彼の胃のなかへ納められてしまった。
蓮斗にとって食べるという行為は、コップに並々と注がれた水をひと息に飲み干すのと同じくらい、味わいがいのないものなのだ。
ぐふっと満足げにげっぷを出した蓮斗は、会計をすませて店を出た。
ジリジリと肌を焦がす太陽を眩しく見つめながら、蓮斗はこの街に戻ってきたことを感慨深く思う。
この街は、どちらかといえば栄えているほうだろう。ひとの出入りも程よく、数年前に駅前が整備されたこともあって、徐々にあたらしい人がこの土地へ入ってくるようになった。
駅の東側は、居酒屋やファミリーレストランといった全国チェーンの飲食店、本屋、24時間経営のコンビニ、薬局、100円ショップなどが並び、駅からすこし歩いた西側には、大型スーパーもある。この近所に住んでしまえばまず間違いなく、ものに困ることはないだろう。そのため駅前にあるアパートや下宿マンションなどは、いつも空きがない状態だ。家賃も県内でいえば、比較的にリーズナブルな値段設定のため、電車の騒音さえ気にしなければ、この辺りの貸家で快適に過ごせる。
蓮斗も最初はこの駅周辺で、家探しをしたものだった。
栄えているとはいえ、昼すぎの駅前通りは案外人の姿がまばらである。蓮斗と同じくらいの大学生かフリーターかといった若者や、ずいぶん前に定年を迎えただろうお年寄りたちが通りを行き来しているだけである。時々、ママチャリに乗った中年の主婦の姿もみられたが、彼女たちはここを通って、駅向こうの大型スーパーへ向かうのだろうか。
平和だなぁ。
蓮斗は目の前の日常をぼんやりと眺めながら、しみじみとそう思った。
彼がこの街に帰ってくるのは、実に半年ぶりのことである。
これから帰るあの場所に、なにか変化はあったろうか。俺のいない間に。
しかし季節が変わり、住人たちが変われども、あの屋敷だけは依然としてそのままなのだろうな、と蓮斗は考えを改めた。あの古びた屋敷だけはどこか現実と隔離した場所で、ひとり時間を謳歌しているのだろう。
恐ろしいほどの迫力と、厳然とした佇まいで君臨しつづける、彼の現住居であるその屋敷は、街外れの崖の上に建っている。
街の人々の中にはこの屋敷はもう廃墟で、人が住んでいないと思っている者も大勢いる。そのため、夜に灯りがともっている屋敷を見ると、あそこは幽霊屋敷だと騒ぎたてる者が後を立たないのだった。
そんな物騒な噂のある屋敷に蓮斗が招かれたのは、暖かな日差しがぽかぽかと気持ちのよい、春の日のことだ。
彼は、大学一年目は実家から通っていたのだが、思うところあって家を出ようと思い、部屋探しにと不動産会社を渡り歩いているときに、掘り出しもの物件として紹介されたのがあの屋敷だった。
家賃、月一万円。水道代、電気代といった光熱費等がすべて家賃に含まれているという、なんとも破格な値段設定の物件だった。
だが蓮斗は最初、そんなおいしい話があるはずないと、その屋敷を紹介してきた不動産会社のオヤジに迫った。すると、彼の懸念した通り、そのオヤジの口からはある条件が提示されるのだった。
それは、屋敷では他の住人との共同生活であること。そしてもうひとつ、屋敷で生活するにあたって、他の住人に感謝されるような役割を持たなければならない、というものであった。不動産屋の話によれば、感謝されるような役割とは、家事に関することであったり、娯楽に関することであったり、簡単にいえば小学生の時に一人ずつ役割当番を決めたような何かの係を、この屋敷では持たなければならないらしいのだ。
そんなに気にするもんじゃない、役割も適当なものでいいんだよ。
かるい口調で薦めるオヤジに、蓮斗は訝しく思いながらも、結局合意した。他人と共同生活とはいえ、月一万円で住めるというのは学生なら一番の魅力だろう。それに今どきシェアハウスもなかなか楽しそうだ、と彼は考えたからだ。
そうして蓮斗は大学一年目を終えた春、寂れた屋敷へやって来た。ちなみに蓮斗が選んだ役割は「屋敷の掃除」であったが、彼はこの時の選択をあとになって激しく悔やむことになる。
蓮斗が屋敷にたどり着いたとき、屋敷のその広さに驚いたのはいうまでもない。そして彼は次の瞬間、思い出すのだ。自分が選んでしまった役割を。このどでかい屋敷をこれから一人で掃除していかなければならないのかと思うと、彼はひどく目眩がした。
何がテキトーでいいだよ、あのオヤジ……。
蓮斗が屋敷へ来て最初に発した言葉だ。
せめて、俺が掃除っつったときに止めてくれてもよかったじゃねぇか。
次に湧くのはオヤジの言葉に乗せられ、適当に役割を選んでしまった自分への悪態である。
蓮斗はこの時ほど、ものごとをよく考えもせず決めるものじゃない、と思ったことはない。
駅前のロータリーでバスの時刻表を確認すると、次のバスは一時間後であることがわかった。
蓮斗は考えた末、もうひとつ先のバス停まで、時間をつぶしがてら歩こうと決めた。蓮斗の乗ろうとしているバスが次に停車するのは、小学校にほど近いバス停である。
ひょっとしたら屋敷に着く前に、あいつと鉢合わせることになるかもしれないな。
ある人物を想像しながら、蓮斗の足はゆっくりと次の目的地へ向かいはじめるのだった。
日陰を選んで歩いていても、吹く風はちっとも爽やかじゃない。
もうすっかり真上に到達しようとする太陽は、蓮斗の身体を容赦なく焦がした。
彼は先ほど己の下した決定が失敗だったということを、さっそく痛感していた。この街に帰ってきた懐かしさより、自分の身体を労るほうを優先したほうが良かったかもしれない。
顎までしたたり落ちてくる汗を拭いながら、蓮斗は弱々しく頭上の太陽を睨んでみる。しかしそんな彼の抵抗も虚しく、気温はまだまだ上昇しそうだ。
ようやくバス停が見えてきた。途中、自販機で買った炭酸飲料をゴクゴクと飲みながら、蓮斗はバス停のそばにあるベンチへ急いだ。着くなりどさっと腰をおろす蓮斗は、炭酸飲料の残りもすぐに飲み干してしまう。幸いベンチは木の陰になっており、蓮斗にとってここはオアシスのように感じられた。
暑さにげんなりしながらも、彼はバスがやって来るのを今かいまかと待った。しかし、時間になってもバスは一向に来ない。一、二分の遅れなら蓮斗も気にしないが、もう十分以上は待たされている。蓮斗は次第に苛立ちを隠せなくなり、口からも悪態がこぼれ出てきた。この暑さも、蓮斗の苛立ちを加速させていった原因のひとつだ。
蓮斗は仕方なく立ち上がると、もう一度時刻表を確認してみた。平日の11時の項目は、52と表記されている。自分の腕時計をみると、とっくに正午は過ぎていた。
やっぱりバスが遅れてるんじゃないか!
蓮斗は盛大に舌をうつと、バスが来る方向を憎々しげに見つめた。しかし、何台かの普通車が通りすぎていくだけで、バスが現れる気配は皆無である。
たまらず、はぁ、と彼の口から重いため息が落ちていく。
蓮斗は視線を再び時刻表へと戻してみた。次の発車時刻を知るためにとった行動だったが、それで彼はあることに気づかされるのだ。
乗る予定だった52分のバスには、数字の斜め上に米印がつけられていた。注釈をみると、学休日運休、と書かれている。
瞬間、蓮斗は今日の日付を思い出す。すっかり忘れていたが、今はもう夏休みにはいっていてもおかしくない時期だ。そしてただでさえ、ここは小学生にしか利用されないバス停だった。その小学校が休みの日に、バスが来るはずがない。
蓮斗はうっかりしていた。自分の間抜け具合に心底呆れる。先ほどまで腹を立てていた自分を思い出すと、無性に恥ずかしくなった。
「歩くか……また、次のバス停まで」
沈んだ気持ちを引きずりながら、蓮斗はベンチに置いていたリュックを肩にかけ、しぶしぶ歩き出す。今さらになって駅前で暇をつぶしておかなかった自分を、本当に殴りたくなった。
蓮斗はいつもこうだ。なるべく後悔しないよう行動しようと思うのに、気づくと毎回後悔するほうを選択してしまっている。その選択は今回のような些細なことに変わりないが、蓮斗は後悔するたびに、次こそはそうならないようにしようと、きつく心に誓うのだ。しかし、悲しいことに数日すればその心がけは、彼の中から薄れてきてしまうのだった。蓮斗はこの小さな後悔を何度重ねてきたかしれない。
蓮斗は背中を丸くしながら、ただ自分の影だけをみて歩きつづけた。久しぶりに戻ってきたこの街の風景を懐かしむ余裕など、彼にはもうない。むしろ忌々しくさえ思い始めている。
何事も予定通りにいかない時はある。ちょっとした好奇心で動いたことで、どれだけ緻密に練られた計画も一瞬で破綻してしまえることもある。
蓮斗はこの時、思いもしなかった。この先の屋敷で、最もおおきな後悔を経験することを。
太陽の熱気が、徐々に蓮斗の体力を奪っていく。
朦朧とした意識のなかで蓮斗がどうにか意識を保っていられたのは、彼が屋敷から去る前に屋敷の書庫で見つけた、あの本のことを考えていたからだ。
見た目は普通の文庫本なのだが、表紙や背表紙にタイトルなどが一切なく、作者も不明の代物である。目次欄には十本のタイトルが並んでいて、読み進めていくと、それはジャンルや形式は問わない形で書かれた短編集であることがわかった。
ホラーめいたショートショートに、コミカルな日常を書いたエッセイ、叙情的でうつくしい詩、現代もののミステリ小説──。
一作者によって書かれたのか、それとも複数の人間の手によって編まれたのか、それはわからない。けれど、奇妙なことにこの十編の話には共通してあるモノが登場するのだった。
それが恐らく、蓮斗も住み慣れた、あの崖の上の屋敷である。
ある時は話の舞台として、ある時は話のモチーフとして、物語のなかで例の屋敷は現れた。現実と同様に、異様な存在感をまとって。
蓮斗は読み終えて、これはいったいどういう目的で作られたものなのか、はかり兼ねた。
屋敷の書庫にあったのだから、これは屋敷の所有物に間違いはない。
それだけははっきりとわかっているのに、内容を知ればしるほど、彼はこの短編集の存在を屋敷の誰かに打ち明けるべきかどうか躊躇われた。特に十話目を読んで以降は、その気持ちが強くなった。なんとなくそっとしておいた方がいい気がしたのだ。しかし、こんなにネタになる話を誰かに言わないでいるのも勿体ない。
蓮斗のなかの好奇心が、いつか誰かに知らせる必要があるのではないかと思っていたのだが、彼はその直後、海外留学のために一度屋敷を去ることになり、打ち明ける機会を完全に逃してしまって、今に至る。
そしてこの日、半年の留学を終え、蓮斗は戻ってきたというわけだ。
無断で屋敷から持ち去ってしまった、あのタイトルのない本と一緒に。




