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モザイクロス  作者: アサオ
第二話 私の愛しい夢
11/20

(5)

 幼いころから人と会うたびに、言われてきた言葉がある。

「イエナって名前、変わってるよね」

「イエナって珍しい名前だよね」

「変だよね」

 だから、自分の名前がだいきらいだった。

 その決定打となったのが小学二年のとき。好きだった男の子に言われた一言がきっかけだ。

「イエナちゃんって、おかしな名前──」

 案外それにショックを受け、学校に行くのがとても憂鬱になったことがある。

 さらにこの時期、私に追い打ちをかける出来事はつづいた。

 当時、母のお腹には弟たちがいた。その弟たちが産まれたことで、私は家族に学校のことを話す機会を永遠に逃すことになる。何度か話を聞いてもらおうと試みたこともあったのだが、仮にこの話をして、両親にこんなことでと非難されたらと思うと、たちまちその決心は崩れていったし、なにより弟たちの世話に明け暮れる彼らが、自分を迷惑に思うほうが私には耐えられそうもなかったからだ。だから、私はそのことを誰にも言わずに小学生時代を過ごした。

 この頃からだろうか。私は誰かに頼るという行為を、どこか諦めた節がある。嫌なことに直面したとき、それをどうやり過ごせるかは、自分でしか対処できないのだ。それは幼心につよく心に刻まれた。

 けれど、ある日のことだった。

 私が祖母の家に出向いたとき、なにかの拍子に名前をからかわれたことを、祖母に話してしまったのだ。もうこの時には、そのショックからも立ち直り、私が祖母に愚痴ることができたのも、自分のなかでそれが過去の出来事として処理されていたからだろう。

 私は面白半分、怒り半分で祖母に話してきかせた。話し終えたとき、終始黙って聞いてくれていただけの彼女が、ようやく口を開いた。祖母の言葉に、私は思わず目が点になる。

 祖母が静かな声で語ったのは、私の名前の由来についてだった。そしてついでのように、両親の馴れ初め話も語られた。

 私の名前は意外にも、母がつけてくれたものだという。

 両親がまだ大学生で、お互いに面識もなかった頃。ふたりはドイツのある都市で、運命的な出会いを果たした。

 当時、ふたりは別々の大学に在籍していて、この地を訪れていたのは全くの偶然だった。父は留学のため、母は担当のゼミ教授が出席する学会で、教授の補佐役を預かったためだ。この学会でふたりは出会い、互いに一目惚れをしたのだった。やがて意気投合したふたりは、そのうち付き合いを始めた。

 けれどしばらくして、母が先に日本に戻ることになると、ふたりは遠距離恋愛せざるを得なくなった。母は健気に、父の帰国を待ちつづけた。実に二年半。その間、父も変わらず母をずっと想いつづけた。ようやく父の留学期間が終わると、晴れてふたりは結婚する。その一年後に私は産まれたのだ。

 父と母が出会った都市。それが、ドイツにあるイェーナという街だ。

 母は、父と出会えた都市にちなんで、私に名前をつけたのだった。

 この話を祖母から聞かされたとき、私は今まで嫌で嫌でしかたなかった自分の名前が、だいすきになった。この名前を誇りにさえ思った。私は彼らに愛されて、ふたりに縁のある名前までもらって、大事にされているんだ、と祖母がうろたえてしまうぐらいに歓喜した。涙が止まらなかった。

 以来、この名前だけが、私の心の拠り所となっている。

 山田イェーナ。──山田、依絵菜(いえな)

 私は、ふたりの思い出の地から、依絵菜という名前を授かった。今ではこれが私の一番の宝物だ。

 この話を聞いてからというもの、私は自分の呼び名に固執するようになった。

 初対面の人と話すときは、必ず「私のことはイェーナと呼んで」と自分から口にしてしまう。けれど、その呼び名がなかなか定着しないものだからイライラした。どうしても、私はその呼び名で呼んでもらう必要があったのだ。あのふたりに、あの頃を思い出してもらうために。

 両親が出会った都市の名前をもじった、依絵菜(イェーナ)

 それは私の、もうひとつの大事な名前だ。



 帰りのバスを待っていると、ププッと二回、短いクラクションを鳴らされた。

 音のほうに目をやると、ワインレッドの軽自動車が路肩に駐車していて、窓から伸ばされた華奢な腕が優雅な動きで左右に振られている。その腕にはめられた銀のブレスレットが、キラキラと光っているのがみえる。

 女の人が好んで乗りそうな、丸みをおびた車体が特徴的なその車は、あの人が乗るには随分とかわいすぎる車だよなぁ、と見るたびに思う。

 それにしても、彼女がこんな時間に帰ってくるのも珍しい。

 車を見つめてぼんやりしていると、腕はいつの間にか車内に引っ込んでしまっていた。その代わりに、今度は窓からとても整った顔が、ひょっこりと姿を現す。きらりと光る歯を見せて、こちらに感じのよい笑みを向けている。その人が私に向かって、声を張った。

「ハロー、イェーナ!」

 発音のよい声が私の元へ届けられる。

 彼女は自分の乗っている車を親指で指しながら、私にこちらへ来るように合図した。

 どうやら今日は、彼女が屋敷まで連れ帰ってくれるらしい。

 私はちいさく頷いてから、駆け足で車に近づいていった。



「よかった~、アンタたち拾えて。もうバスに乗ってたらどうしようかと思ったわ」

 私が助手席に座るとすぐに、紅子さんが独り言のようにこぼした。何気なく後部座席をみると、そこには同じように学校帰りのあきが行儀正しく座っている。

「今日、なにか用事でもあった?」

 そう問えば、紅子さんは素っ気ない調子で、

「ううん、なにも? ただこの時間帯なら、アンタたち拾って帰れるだろうなぁって。山道、歩かなくて済むでしょ?」

「うん、ありがと。あきもおとなしく乗ったんだ」

 後ろにいるあきを意外に思って、彼に訊く。すると、あきはふてぶてしい表情をつくって、

「乗らないとこの人、正門前で怒鳴りはじめるから」

 あきの言葉に、紅子さんが豪快に笑った。

「あら~あきちゃん、よくわかってんじゃない」

「あきちゃんって呼ぶのはやめてよ」

「どうしてぇ? あきちゃん、かわいいのに。私がそう呼ぶの、どうしてもイヤ?」

 やけにおっとりとした声なのに、語尾だけを強めて話す紅子さんに、あきがたまらずため息をつく。私もつられて苦笑した。

 紅子さんはたぶん、心の底からあきをからかっているんだろうな。

 私相手なら生意気な口をきけるあきでも、紅子さんの前ではそうはいかない。屋敷のみんなはいつの間にか、彼女に逆らってはいけないことを自然と身につけている。

 しばらくして、あきが呆れたようにいった。

「好きに呼べば」

「あきちゃんは良い子ねぇ。そんなあきちゃんに、今日はプレゼント買ってきてあげたから、機嫌直して、ね? もちろん、イェーナの分もあるわよ」

 紅子さんは私のことをきちんと『イェーナ』と呼んでくれる、数少ない人の一人だ。だから私は紅子さんを信頼できる。

 私は嬉しくなってはしゃいだ声をあげた。

「ええっ、なにー? 紅子さんのプレゼントっていっつもセンスいいから楽しみー!」

「ふふ、ありがと」

 紅子さんの切れ長の目が、さらにすうっと細くなって私を見る。その仕草に思わずどきりとした。

 紅子さんの顔は、うっとりするほど妖艶だ。この顔じゃあ、男たちが惚れ込むのも仕方がないと思う。女の私からみても紅子さんはとても素敵だから、できればもう少し、男遊びを控えてくれたらいいのに。

 私が何度いっても、紅子さんがそれをやめてくれる気配は一向にない。

「なによー、イェーナ。人の顔、ジロジロ見ちゃってー」

 視線は前方を向いたままの、紅子さんがいった。私は慌てて、紅子さんから目を逸らす。

 周りの景色はもう、緑が多くなっていた。



「そういえば、最近どうなのガッコウは? 好きな男の子はできた?」

 またしても唐突な紅子さんの声が、車内に響き渡る。

「なに、紅子さん。いきなり」

「あきちゃんは~? 女の子に告白された?」

「……」

「あら、あきちゃん無視するの?」

「……この前されたけど、断ったよ」

「ふうん、さっすが。あきちゃんはクールねぇ」

「もう、だから前みてよ。危ない」

「はいはい。で、イェーナは? どうなの? 彼氏、できた?」

 その問いに一瞬、迷った。だけど、いつものように否定しておく。

「コウコウセーなんてまだガキでしょ。いるわけないじゃん。私、紅子さんみたいになるつもりないから」

「バカねぇ、あたしの場合、向こうから寄ってくるんだから仕方ないじゃない。今日も用事あるっつってんのにしつこいし、あのトロ野郎」

 顔は笑顔のままの紅子さんが、憎しみをこめるような声で呟く。

 紅子さんの会話では、よくトロと呼ばれる人が登場する。なんでも紅子さんにつきまとっている坊ぼんの一人で、紅子さんを振り向かせるために相当な額の金を貢いでいるらしい。その度に紅子さんはトロをあしらっているみたいだけど、何度断ってもトロは諦めず、最近では紅子さんも迷惑しているという。ちなみに紅子さんがその人をトロと呼ぶのは、とにかくやる事すべてのことが「とろい」からだ。

 私は思わず苦笑して、隣を見た。

「まぁたトロさん? トロさんもよく頑張るねー」

「そうよ、誰かどうにかしてほしいわ」

「そのうち屋敷にまで来たりして?」

 ふざけ半分で聞くと、紅子さんは意外にも落胆した声を返してきた。

「そうならないように、どうにかごまかしごまかしでやってるんじゃない。でも、それも時間の問題かもね」

「え」

 紅子さんがここまで気を滅入らせるのも珍しいことだ。

 普段から紅子さんの取り巻き連中が屋敷を訪れることは頻繁にあったが、紅子さんがそれをやめさせるように彼らにいったことはほとんどなかった。だから、私を含めた屋敷のみんなは迷惑しているのだ。いや、声に出して紅子さんに訴えていたのは、私ぐらいのものだけれど。

 しかし、今回は紅子さんも状況が違うらしい。トロさんは私が想像するより、かなり面倒な人なのかもしれない。

「でも、最悪そのトロさんが来たとして、屋敷には群青も紫紺だっているんだし、ふたりに追い払ってもらえばいいじゃん」

「それができたら苦労しないんだけどねぇ。トロ、元柔道部なの。がたい、すごいよ。あの二人、ほっそいからさぁ。心配だよね、怪我でもされたら」

「トロさん、そんなに強いのっ?」

「とろいくせに、体つきだけは一人前なのよ」

 心底うんざりした様子で、紅子さんはまた吐き捨てる。

 行動はのんびりしているのに、その体格だけは紅子さんも認めるほど良いという、紅子さんを大好きなトロさん。

 紅子さんにしてみたら迷惑極まりない人なのかもしれないけど、私は密かにトロさんを見てみたい気がした。純粋な好奇心から。

「今もトロさんに跡つけられてたりして」

「縁起でもないこというじゃありません。本当にそういうこと平気で実行しようとするヤツなんだから」

 苦々しい顔をする紅子さんをみて、私は思わず振り返った。自分で言ったくせに、後続車にトロさんがいたらどうしようという不安に襲われたからだ。

 良かった、私たちの後ろに車は一台もない。

 安堵して、私は前に向き直る。

 私もトロさんに関しては、下手なことは言わないようにしよう。

「まぁ、トロの話なんてどうでもいいの。イェーナもいつまでも男なんかにこだわってないで、早いうちから恋愛経験は積んでおいたほうがいいわよ。男はいつまでたってもガキなんだから、理想を高くしたってしょうがないの。優しくて格好よくて面白い男の子なんて、漫画や小説のなかにしかいないし。いつまでも現実でそんな二次元みたいな男の子がいるって信じてたら、結局男に幻滅させられるのがオチよ? 早いこと誰かを好きになって、失恋でもしなさい」

 紅子さんはときどき、やけに恋愛をしろと口煩く言ってくる時がある。でも、私にはそんな気、更々ない。恋愛したいとは思うけれど、好きでもない男とやる気になんてなれない。紅子さんはああいうけれど、私は現実にそういう男の子がいるってことを信じている。

 優しくて、顔もそこそこ良くて、一緒にいると笑顔になれる、そんな男の子。

 私はそういう人と恋愛をしたい。それを変える気は、これからもない。だから、この話になったときはいつも、

「彼氏ができたら報告するって。今はまだ選んでる途中なの」

 そう言ってやり過ごす。

「そのセリフも、もう何回目かしら?」

 指摘されて一瞬、言葉につまったけれど、それでも私の意思は固い。

「そのうち紅子さんがびっくりするくらい、いい男見つけるから」

 その言葉で紅子さんは、ようやく口を閉ざしてくれた。顔は納得してなかったけど。

 それからの車内は、随分と静かだった。いつの間にか、私たちは屋敷の前に到着していた。

 車から降りて、トランクから紅子さんの荷物を取り出す。

 紅子さん、またよく買ったなぁ。

 トランクにぎゅうぎゅうに詰めこまれた、ブランド物のショッピングバッグ。その量に、呆れを通り越して驚嘆してしまう。

 隣であきが、「買いすぎ」とちいさく呟いた。しかし、運悪くそれを紅子さんに聞かれ、たちまちあきの両腕には、前が見えなくなるほどの荷物が積み上げられてゆく。あきはしゅんとした顔になり、それでも仕方なく、よたよたと屋敷のなかに入っていった。

「じゃあ、イェーナ。トランク、閉めてきてね」

 私のほうに向きを変えて、紅子さんが微笑みかける。あきに持たせた分もそれなりの量があったのに、紅子さんの細い腕には、さらにその倍以上の荷物が抱えられていた。「はーい」と私が返事すると、紅子さんは軽い足取りで、屋敷のなかに消えていった。

 私の手には、革鞄のみだ。あきに申し訳なく思いながら、言われた通り、トランクを閉めようとしたその時だった。空っぽになったトランクのなかに、くしゃくしゃに丸められた紙切れが、端に転がっているのを見つけた。

 レシートだろうか。でも、きれい好きの紅子さんがそんなのを置いておくはずないのに。

 不思議に思いながら手にとり、なんとなくその紙を慎重に広げてみる。すると、そこにはある住所と携帯電話の番号が走り書きされていた。

 思わず首をひねる。誰のものだろう。よくよく見ていくと、目を見張った。

 紅子さんのことだから、てっきり男の人から貰ったものだと思っていた。道を歩いていたら渡された、よく行く店の店員が渡してきた。紅子さんにはそういったことが日常的にある。けれど、紙に書かれていた名前はどう考えても男の人の名前ではなかった。

 若宮さき子。

 知らない名前。聞いたこともない名前。紅子さんとどういった関係があるのかはわからない。けれど、捨てたみたいに放置されていたこの紙切れに書かれている人物のことを、紅子さんが拒絶していることはよくわかった。

 私はとりあえずその紙切れを元に戻して、トランクのなかにそのままにしておいた。捨ててしまおうかと思ったけど、プライバシーにも関わることだしやめておく。なにより、紅子さんに黙って勝手に捨てるのはよくないと思った。

 この紙にある名前の人物は、紅子さんにとって、とても密接な関わりがある人なんじゃないかと直感してしまったから。

「イェーナ、まだー? 扉、しめるわよー?」

 屋敷の中から紅子さんの呼ぶ声がして、思わずびくりとする。

「はーい」

 急いでトランクをしめて、屋敷の玄関を突っきって行く。

 私はまた、この牢獄のような屋敷へ帰ってきた。



 その日の夜、いつもと違う夢をみた。

 それは、とてもとても懐かしい夢だった。

 小学生の私は、台所に立っている。

 母に言いつけられて、玉ねぎを切っている。

 その途中、目がしみてしまい、どうにも涙が止まらなくなった。

 私は作業を中断して、涙がおさまるのを待っていた。そんなときに、私に気づいた母がこちらへやって来たのだ。

 弟たちを部屋に寝かしつけてきたらしい。母は無言のまま私のとなりに立つと、私の代わりに玉ねぎを切りはじめた。私は驚いて、涙でにじむ目を母に向けていた。

 その後、玉ねぎを切り終えた母が、ようやく私のほうをみた。私はなんだか緊張して、なにも口がきけなかった。母の顔を、ただ受け止めているだけだ。

 そうしてお互いの顔を見合わせていると、母が一瞬、ほんの少しだけだけど、顔を歪ませたような気がした。それは泣く寸前の顔だったように思う。けれど、母が泣くはずがない。もしかしたら、母も玉ねぎを切っていて、目がしみただけなのかもしれない。

 私たちはそれから数分、お互いを見たままでいた。しかし、意外なことにその均衡を先に壊したのは母のほうだった。

 私が固まったまま直立していると、突如母のたくましい腕が私の顔へ伸びてきたのだ。私は瞬間、打たれるかもしれない、と固く目を閉じてしまった。けれど、それは杞憂だった。母の手のひらは、私の頬を優しく掠めただけだった。

 私は恐る恐る目を開ける。母はもう、私の眼前にいなかった。後ろを振り向くと、母は弟たちのいる部屋へ入っていくところだった。

 いったい母は何がしたかったんだろうか。不思議に思いつつも、私は母が切ってくれた玉ねぎを鍋へ放り込んだ。そして、気づく。

 母は、私の目元にあった雫を取り除いてくれたのではないか。

 とっさに目元に手をあて、確認する。案の定触った皮膚は乾いていて、私は思わず息をのんだ。

 母が、あの母が──。

 私の喉はたちまち、きりりと痛む。久しぶりに母と会話したような気持ちになった。

 私は料理を再開した。鍋に水と調味料をくわえ、火にかける。だいたい玉ねぎに火が通ったら、卵を落として数分煮込む。卵とじの完成を待つ。母が私にはじめて教えてくれた料理。

 しょうゆとさとうの甘辛いにおいを嗅ぎながら、私は考えていた。

 明日からもまた、私は母とうまくやれるんだ。

 噛みしめるように、念じる。

 大丈夫。きっと、大丈夫。

 私は夢のなかで、泣きながらそれを祈っている。



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